記事一覧

Angelique

オスカー受でアリxオスメイン。



眠りの使者 [20010422]
 カティオス。甘えるオスカーと甘やかすカティス。

Love of the Same Race [20010604]
 ヴィエオス。オリヴィエから見たオスカー。二人の間にあるのは同族愛。

望まない者 [20011021]
 アリxオス。突発的にエロが書きたくなって書いた割りに、突入するまでが妙に長い。

霜降ル月ノ或ル日ノ話。 [20011122]
 アリxオス。カラダのオツキアイ先行型の二人が一歩距離を進める気になる話。

アイノコトバ [20011221]
 クラオス。「オスカー苛め隊」献上。大人の艶っぽい雰囲気を目指してみた。目指しただけで終わった。

Searching for... [20020503]
 アリxオス。オス右。同盟発行「OS-MIGI2」参加作品。崩れゆくアルカディアでアリオスを捜すオスカー。

百億の笑顔に隠されたたった1つの涙の雫 [20020506]
 カティオス。「1戦目と2戦目の間で甘々」というリクで書いたもの。

midnight lovers [20020810]
 アリxオス。同名同人誌より再録。いつもと違うシチュエーションで顔を合わせる二人。

Carriage [20021014]
 クラオス。「オスカーをお姫様抱っこするクラヴィス」というリクで書いたもの。

±0 [20021111]
 クラオス。たくさんの小さな不幸とたった1つの大きな幸せでプラマイゼロ。

WILD HEAVEN [20021229]
 アリxオス。同名同人誌より再録。お忍びで降り立った惑星で何故か追われる羽目に陥るオスカー。

終わりの見えている日々だから、まるで終わりなどないかのように時を刻もう。 [20030304]
 カティオス。いつものようにじゃれあって、いつものように別れる二人。

[20030927]
 アリxオス。「メモワール時点でのアリオスの片想い」というリクで書いたもの。

La lune est invité par un piano. [20020810]
 クラオス。黒薔薇同盟発行のアンソロジー「Black Rose2」より再録。耽美系目指して玉砕(泣笑)

Rhythm Red Beat Black [20021229]
 クラオス。黒薔薇同盟発行のアンソロジー「Black Rose3」より再録。パラレルで終末ネタ。

On The Way-Tierkreis- [20031228]
 クラオス。同人誌「russus triangulum」より再録。パラレルでコメディ…を目指したはず、確か(笑)

Just For You And Me Now [20031228]
 アリxオス。同人誌「russus triangulum」より再録。パラレルでシリアスで悲恋。
 
 
 
何でも屋シリーズ
 アリxオスで現代ロンドンが舞台のパラレルシリーズです。
 
A Day In The Life [20020701-20020731]
 同人誌収録の加筆修正版。シリーズメインの長編。アリコレ要素があるのでお嫌いな方は気をつけて。

This Night [20021225]
 二人が出逢う前のそれぞれ一人のクリスマス。すぐ傍ですれ違うのに出逢わない二人。

Twinkle Night [20030815]
 同名同人誌より再録。甘々。二人の無意識の惚気全開。

Happy Happy Greeting [20040101]
 一々面倒なことが好きなオスカーとそれに付き合わされるアリオス。 

Something [20040901]
 折角の現代ロンドン設定なのでビートルズに絡めて。レノン派?マッカートニー派?アリオスの好きな歌。




Just For You And Me Now

 
 
 
 しとしとと雨が降る。
細い絹糸のような静かな雨が降る。
森全体をしっとりと濡らし、まるで時が止まったかのように。
まるで、時を止めてしまいたいかのように。
 
 
 
 妖精たちの軽やかな笑い声が漣のように近づいてくる。それは、一人の男がこの場所に近づいてきていることに他ならない。
 アリオスは剣呑な眼で音の近づいてくる方向を一瞥すると、ごろりと横になった。
やがて、漣のような笑い声は少し離れたところでピタッと止まった。森の住人達は決してそこから立ち入ろうとはしない。懸命な判断だ。アリオスはそう思う。自分が彼らの立場でも、やはりそうするだろう。そこまで考えて、すぐに姿を現すであろう唯一の例外の顔が頭に浮かんできたことに舌打ちする。
だが、アリオスが頭の中からその顔を払拭する前に、本物が木々の合間から姿を見せた。
「よう。元気か?」
「…八日前にも同じセリフ聞いたぜ」
「ああ、芸がなかったな。次は別の挨拶をするさ」
天上から射してくる満月の光を背に笑う男の名を、オスカーと言う。この森で唯一人、アリオスとまともに口を利く人物だった。
「オマエ、ほんとに暇なんだな」
アリオスが横になっている場所から少しだけ距離を置いてオスカーが腰掛けると、アリオスは身を起こしながら心底呆れたようにそう声をかける。
「世界を飛び越えて会いに来てやった相手に暇とは失礼な」
「…それが暇だっつってんだろーが」
まともに突っ込む気力も萎えたのか、アリオスは力ない口調でそう言った。
 世界を飛び越えて。
オスカーの言葉に嘘はない。文字通り、オスカーはこの世界を飛び越えてやって来るのだ。南の果ての魔女の森から、この、北の果ての魔王の森へと。ただ、アリオスに会うために、十日と空けず、飽きもせずに。
 誰も止めねぇのか、南の連中は。
オスカーがこうして姿を見せる度にアリオスはそう思う。北と南の森の住人は互いに干渉しないのがこの世界の不文律。南の森の住人であるオスカーがこうも頻繁に北の森へと足を運ぶことは、あまり褒められた行為ではない。しかもオスカーは、易々と世界を飛び越えられるほど、かなり強大な魔力の持ち主だ。
先ほどのニンフ達などは歓迎しているが、この北の森の住人の中にもオスカーの来訪の度に眉を顰める者はいる。当然オスカーの住む南の森の住人とて良い顔をするとは思えない。
だがオスカーは何を気にした風もなく、いつも飄々とアリオスの前に現れるのだった。
「お前、西の砂漠の都の祭り、観た事あるか?」
今夜の話は祭りの見物譚らしい。
 北と南の森の間に広がる世界のあちこちで見聞きした話や、南の森の一風変わった住人たちのこと、何処ぞの名人が作るワインの美味さについてや、名工が作ったという武具の話まで、殆ど聞き流しているアリオスから見ても、驚愕に値するほどオスカーの話題は豊富だった。沈黙が怖いタイプなのかとも思ったが、此処へ来てもただ黙って月を眺めていたりすることもあるのでそういうわけでもないらしい。
 オスカーがアリオスの処へ来るようになってからどれくらいの時が流れたのか、アリオスにもわからない。疾うに百年は過ぎていることは確かだ。
 何の魔力も持たない人間から見れば想像することも困難な程永く長い時間を生きる自分達ではあるが、それでも百年という時間が長い事に変わりはない。
 その長い時間を経て、尚飽きもせず通ってくるオスカーは、アリオスには到底理解不能である。
今でこそ根負けしてこうやって普通に会話を交すようになったが、オスカーが此処へ来るようになった当初、アリオスは「帰れ」としか言わなかった。今でもそう思うことに変わりはないが、以前ほど鬱陶しいと感じることはなくなった。それは良くも悪くも、アリオスの冷たく取り付く島もない態度を全く意に介さなかったオスカーの図太さの勝利と言える。
「アンタ、ほんとに何で此処に来るんだ?」
自分の膝をテーブル代わりにして頬杖をついたアリオスは訊いた。
「帰れ」と言わなくなった代わりに、いつしか習慣のように繰り返されるようになった問い。
 そして返されるのもいつも同じ答え。
「お前が好きだから」
オスカーはいつも笑ってそう答える。
 冗談で返すならもう少し笑える冗談にしやがれ。
そんなことを考えながらアリオスは視線をずらして呟くのだ。いつも通りに。
「…ホントにめでたいヤツ」
 
 
† † † † †
 
 
 この世界の北の果てには大きな森がありました。
見たこともないような美しい色の花々と、赤く熟れた果物。
枯れることを知らない木々と、尽きることを知らない澄んだ泉。
痩せることを知らない大地と、止まることを知らない清かな風。
楽園という言葉のよく似合うその森は、魔王の森といいました。
 
 
† † † † †
 
 
 世界の北の果てに広がる森を治めるのは、北の魔王。
 世界の南の果てに広がる森を治めるのは、南の魔女。
 二つの森の間に広がるのが、人間の世界。
何の魔力も持たない人間は自分たちの世界の北と南の果てに広がる森の存在すら知らず、森の住人たちはからかい半分で時々人間の世界にちょっかいを出す。森の住人の足跡は、人間の世界で伝説や御伽噺になった。
 無力な人間の世界に本気で関わる事はしてはいけない。
 無力な人間に本気で関わってはいけない。それは暗黙の了解。
何故なら人間は、自分たちに比べて余りに無力で儚い存在だから。森の住人にとっては瞬きほどの時間で、彼らはその生を終えてしまう。生命の長さを弄ること、それは南の魔女や北の魔王の魔力を以てしても不可能な神の領域なのだ。どんなに心を通わせても、確実に別離はやってきて、そして逝く者には深い哀しみと未練を、残される者には耐え難い喪失感を齎す。
 だから決して本気で人間に関わってはいけない。
ただそうすることだけが哀しみを遠ざける。
永い時を生きる森の住人たちの、それは最も破らざるべき禁忌だった。
 
 
 
 北の森の奥では、今日も進展のない会話が続けられていた。
「アンタ、いつまでこんなつまんねぇ遊び続ける気だ?」
「つまらなくはないさ」
呆れた顔を隠そうともしないアリオスと、呆れられることを意に介そうともしないオスカー。
寝台のように平らな、けれど冷たい岩の上に寝転がっているアリオスと、そこからほんの少し離れた所に座っているオスカー。
 ここのところ、以前にも況してオスカーの来訪の回数が増えている為、それは最早普遍的ともいえる構図である。
 元々十日と空けず現れていたが、最近は三日と空けずに通ってきていた。殆ど毎日と言ってもいいだろう。
 相変わらずアリオスはオスカーを邪険に扱っているが、その実、オスカーがそこにいることにすっかり違和感を感じなくなってしまっていることを、本人は意識していない。
 もしくは、無意識にそれを認める事を拒んでいる。
それを認めてしまったら、なし崩しにオスカーの言う事を信じてしまいそうで怖かったのだ。アリオスの思考を支配するのは、潜在的な恐怖だった。
だから意識することを拒否し、アリオスは自身がオスカーのことを邪魔に感じていると思い込む。ふざけた掛け合いじみた会話と、それを構成するアリオスの声や口調は、傍で聞く者がいれば確実にオスカーに気を許しているそれであるとわかるのに。
 そしてそれは、対象であるオスカーにもわかっていることなのに。
「好きな相手の顔を見られる。声を聴ける。どこがつまらない?」
悪戯をする子供じみた笑顔でオスカーがそう言えば、アリオスは相手にするのも馬鹿らしいと片手をひらひらと振ってみせた。
「酷いな。信じてないだろ、お前」
「言っとくが、オマエのそのテの言葉を信じるヤツはこの世の何処にもいねぇと断言できるぜ」
 失礼な、と肩を竦めるオスカーは、それならば、とアリオスに向き直る。
「じゃあ、どうすればお前は俺の言葉を信用するんだ?」
「信じねーよ。アンタが何したところで、信じられるか、そんな言葉」
アリオスの返答は本気でありながら軽口の域を出ない言葉で。
「…お前に触れたいと思っている、と言っても?」
紡がれたオスカーの言葉も、軽口の延長のような響きを持ちながら。
 けれど口にしたのは、触れてはいけない禁忌。
すっと表情を強張らせたアリオスが、立ち上がりオスカーを睨み付けた。
ビリビリと空気が震え、遠くに聞こえていた妖精たちのさざめきもピタリと止まる。
「……消えろ」
低く唸るように言うその姿は、まるで手負いの獣のようで。
座ったまま、オスカーは眸を眇めた。
 手負いの獣。
アリオスを表現するのにこれ程適切なものはないとオスカーは思う。
 傷ついて、威嚇することで周囲を遮断して。
これ以上傷つくことのないように必死になっている。
それが小さな猫ならば、無理に抱きかかえて傷を手当てしてやることも出来るのだが、目の前にいるのは獰猛な肉食獣で、手を出せばこちらの命が危ない。
 本当に、命懸けだな。
オスカーは胸の裡でひっそりと力ない笑みを零す。
「…わかったよ」
飽くまでも軽い態度を崩さずに、オスカーはすっとその場から姿を消した。
 
 
† † † † †
 
 
 遠い昔、北の森の住人が人間の少女と恋に落ちました。
強い魔力を持って生まれた漆黒の髪の森の住人は、人間の命の砂時計の速ささえ変えてみせると信じていました。
神の領域さえ、自らの魔力で凌駕してみせると、彼は儚い人間に生まれた恋人に誓いました。
 そんなことできるはずがない。それは絶対に踏み込めない神の領域だと、森の住人たちは口を揃えて言いましたが、けれどその一方で、彼ならばそれを為し得るかもしれないと淡い期待を抱いていました。
 何故なら、森の住人の破らざるべき禁忌を破った彼は、北の森の魔王だったのです。
 
 
† † † † †
 
 
 あれ以来、オスカーはぴたりと姿を見せなくなった。
オスカーの来訪を歓迎していた妖精たちの漣のような笑い声もあまり聞こえなくなり、アリオスの周りには以前の静けさが戻ってきている。
 そう、以前はこんな風に静かだった。
相変わらず冷たい岩の上に寝転がりながら、アリオスは思い出す。
 あまりに長い間足繁くオスカーが此処へ通い、そしてあの男の持つ華やかな雰囲気に感化されるようにこの森の空気も少し華やいでいたのだと、今更実感した。
 そして、自分もまた、あの男が近くにいることに慣れてしまっていたのだということも気づいてしまった。
 馬鹿馬鹿しい…。
忌々しげにアリオスは舌打ちする。
もう二度と、他者を自らのテリトリーには入れないと誓ったはずなのに、あの冗談しか言わないような男のペースに巻き込まれていたことに愕然とした。
だから、先日の一件は好都合だったのかもしれない。
 オスカーはもう此処へと来ることはないだろう。
何故来るのかと問えば、いつも「お前が好きだから」などと笑えない冗談で誤魔化していたが、どうせ下らない好奇心で通っていたに違いない。誰も傍へ近づくことの出来ない自分の、どこまで近くに迫れるか。そんな好奇心だったのだろうと思った。
 確かにオマエは一番近くまで来たヤツだよ。
自嘲するような笑みを唇に敷いて、アリオスは二度と会うことのないだろう男に語りかける。
 誰もアリオスの傍へは近づこうとしない。それは、アリオス自身が誰も自分の傍へ寄せつけない為にかけた魔術の所為。
そうして、アリオスはここで孤独に時を過ごすことを選んだ。
 他者と関わらないこと。それだけが喪失の痛みを遠ざける。
喪う痛みに比べれば孤独の方が何倍もマシに思えた。だから、今回のこともこれでよかったのだと自身を納得させる。
 オスカーが傍にいることに、もっと慣れてしまわないうちに遠ざけることが出来てよかった、と。
此処がやけに広く感じるのは気の所為に違いないと決め付けて。
 そういえば、燃えるように緋い髪を持っていたあの男は、やはり触れると暖かかったのだろうかと、そんなことをぼんやりと考えながら。
 
 
† † † † †
 
 
 北の魔王は自らの持てる魔力のすべてを使って愛する少女の命の長さを変えようとしました。
けれど魔王の力を以てしても、やはり神の領域に立ち入ることは許されなかったのです。
魔王はそれでもどうにか出来ないものかとあがき続けました。
しかし少女の命の長さを変えることはできず、悲嘆に暮れる魔王に更に追い討ちをかけるかのように、不幸なことに少女の身は重い病に侵されてしまったのです。
少女は儚い命の人間の中に在って、更に儚くその命を終えて逝ってしまったのでした。
残された魔王は、初めて感じるその喪失の痛みと哀しみに、荒れ狂いました。
魔王の嘆きに因って世界は三日三晩嵐が続き、何も知らない人間たちを恐怖に慄かせました。
それでも世界が大洪水に襲われることなく済んだのは、北の魔王の嘆きを憐れんだ南の魔女が、せめて魔王の気の済むまでと、魔女を支える九人の精霊使いを世界各地に遣わして被害を抑えたからでした。
 
 
† † † † †
 
 
 あれ程深い哀しみと、身を切るような痛みを伴った嘆きを他に知らない。
その時のことを思い出して、オスカーはそう思った。
北の魔王の悲恋の結末とその嘆きは、遠く世界を隔てた南の森の住人にも知れることとなった。北の魔王の心情そのままに荒れ狂う嵐に、南の魔女は心を痛め、自らに仕える九人の精霊使いを世界各地へと送り出し、魔王の気が済むまで好きにさせてやる為に、人間の世界への被害を抑えさせた。
 オスカーは、その九人の精霊使いの内の一人である。
ひしひしと肌で感じるその嘆きの深さに、オスカーは見たこともない魔王に同情した。嵐が止み、南の森へと帰還した後も、ずっと魔王のその後のことが気になってしょうがなかった。自分でも不思議に思ったが、気になってしまうのだからそこに理由を求めても無駄だった。
 オスカーが魔王のその後を聞いたのは、それから随分経ってからである。
北と南の森の住人は基本的にお互い干渉しない。それがこの世界の不文律であるが故に、北の森の動向は南の森の住人であるオスカーの許まではなかなか届かないのだ。
 北の魔王は自らに呪いを掛けた。
その話を知ったオスカーは、余りにも孤独で哀しい道を選んだ北の魔王とは、一体どんな男なのかと、自ら北の森へと出向いたのだった。
 
 
† † † † †
 
 
 愛する少女を喪った哀しみに荒れ狂った魔王は、強大な魔力を持ちながら少女の為に何も出来なかった自らを激しく蔑みました。
それと同時に、これから永遠にも思える永い時を生きていく自分を思い、喪失の恐怖に怯えたのです。
森の住人たちの命の長さは、彼らの持つ魔力の強さによって左右されます。
最も強大な魔力を持つ魔王の命は、当然森の住人の誰よりも永いのです。
 もし、この先また魔王に愛しい者ができたとして、たとえそれが魔力を持つ森の住人であったとしても、必ず魔王よりも先に逝ってしまうのです。
そう考えた魔王は、もう二度と誰かに心を許したりしてはならないと思いました。
喪うことへの恐怖が、魔王を支配していたのです。
そして、魔王は自らの魔力のすべてを賭けて、自らに解けることのない呪いを掛けたのでした。
 生きとし生けるすべてのものは、この身に触れると砂となり失せるだろう。
永遠にも思える魔王の命が尽きる時まで続くその呪いを掛け終えたとき、艶やかだった魔王の漆黒の髪は、色が抜け落ち、銀色へと変わっていたのでした。
 
 
† † † † †
 
 
 初めて足を踏み入れた北の森は、オスカーの住む南の森に比べると静かで穏やかな場所だった。見慣れない姿に好奇心旺盛に寄って来る妖精たちと気軽に話しながら、オスカーは森の奥へと足を進めた。森の奥の開けた場所が見えてきた時、それまで明るい笑い声をたてていた妖精たちがぴたっとその動きを止める。その奥へは進んではいけないと制止する妖精たちの言葉で、その奥に目的の男がいるのだとわかった。
大丈夫だと妖精たちに笑って見せ、オスカーは奥へと進む。
 其処にいたのは、銀色の髪に色違いの眸を持った魔王だった。
見慣れない侵入者に、恐ろしいほど冷たく鋭い視線を投げてくる。
呪い以前に、その身に纏う空気だけで他者を寄せ付けようとしない。
 その姿が余りにも寂しくて、哀しいが故に美しくて、オスカーは魔王に恋をした。
魔王は始め、「帰れ」としか言わなかった。それでも諦めずに足繁く北の森へと通った。
南の森の住人にも何度か忠告されたが、オスカーは聞き入れなかった。南の魔女は困った顔をして、「気の済むようにしなさい」と認めてくれた。
 魔王がアリオスという名前を教えてくれたのは、だいぶ経ってからである。
その名前が、魔王が本来生まれ持った名ではないことをオスカーは知っていたが、そんなことは気にならなかった。レヴィアス、という本来の名は、喪った少女の記憶と共に封印してしまいたいのだと容易に察せられたからだ。
 オスカーはアリオスを刺激しないように、とりとめのない話題を提供しながら傍に居続けた。
触れるほど近くはなく、けれど体温を感じないほど遠くもない位置に。
 アリオスは徐々に自分が傍にいることに慣れていった。少しずつ軽口の応酬が増え、それは魔王の心が少しずつ開いていることに他ならなかった。アリオスが喪う恐怖に支配されているが故に、無意識にそれを認めようとしないことも、オスカーは理解していた。
 愛しい者を喪うことは確かに苦痛だが、だからと言って余りにも孤独な道を選んだアリオスに伝えたかった。愛しい者を喪う恐怖に怯えることはないかも知れないが、たった一人で永い時を生きる寂しさは、喪う痛みにも匹敵するのだと。
 「お前が好きだから通うんだ」というオスカーの言葉を、アリオスは冗談としか受け取らなかったが、いつか、それが伝わればいいと思っていた。
 自分でもおかしいんじゃないかって思うくらい、俺はお前が好きなんだぜ?
アリオスが「笑えない冗談を言うな」と言うたび、オスカーは心の裡でそう呟いた。
 だから、自分もいい加減疲れていたのかもしれない、とオスカーは思う。
想いの伝わらない寂しさに、少し疲弊していたのだと。
触れたいのに触れられないもどかしさに、焦っていたのだろうと。
 アリオスを抱き締めて、アリオスに抱き締め返してもらえたなら、どんなにか自分の心は満たされるだろう。
しかし、たとえ魔女に次ぐ強大な魔力の持ち主であるオスカーといえども、魔王が全霊を賭けた呪いに抗うことなどできない。
アリオスに触れたとたん自分は砂と化し、そして風に飛ばされていくだろう。
 それでもきっと、言葉だけではアリオスに届かない。
温もりを拒否し、その実何よりも温もりを欲している、あの孤独な魔王には。
 
 
 
 そこに他人の気配を感じるのは随分久しぶりな気がして、アリオスは躰を起こした。
冷たい岩に腰掛ける自分。そのすぐ傍に立つ男。
「…何しに来た」
「お前に会いに」
 不機嫌な問いかけと、相変わらず笑えない答え。
「オレは会いたくねぇよ。とっとと帰れ」
「それは出来ない相談だな」
「ったく、何でだよ」
「お前が好きだから」
そう言って笑うオスカーは、いつも通り華やかな空気を纏っている。
いつも通り華やかで、けれどどこか疲れた気配が漂っていることに気づき、アリオスは眉を顰めた。
「なんかあったのか?」
「…いや、特には」
 なんだ、心配してくれるのか?ここ暫く来れなかったから寂しかったんだろう。
そんな揶揄の言葉にアリオスは憮然とした表情を隠しもしない。
それが、アリオスの中に自分という存在が定着していることの証のようで、頑張った甲斐があったかな、とオスカーは内心苦笑した。
 南の森を無理矢理出てきた。
オスカーが何をするつもりなのか悟った魔女や仲間の精霊使い達が力づくでも止めようとするのを、オスカーもまた全力で抗って此処まで来たのである。
さすがに、いくら向こうは全力ではないとは言え、自分と同等もしくはそれ以上の魔力を持つ者を複数相手にするのは想像以上に疲れた。
 だが、それでも自分はもう決めてしまったのだ。誰も喜ばないと知っているけれど、後悔はしない。
「アリオス」
呼べば、煩わしげにこちらを向く魔王に、オスカーは華やかに笑って見せる。
「俺が此処へ来るたびに、お前は何で来るんだって訊いたな」
「…今更何言ってやがる。さっきも訊いただろ」
「だから俺も何時だってちゃんと答えてきたろ。お前のことが好きだからだって」
 お前は信じてくれないけどな。
そう言って肩を竦めると、何かを感じたアリオスが探るように見つめてきた。
「…何があった」
「何もないさ。どっちかっていうと、何か起こる、かな」
「…?」
「なあ。お前がもう誰かを喪うのは嫌だって思ってるのは知ってるけどな」
触れられたくない話題を持ち出されたことに、アリオスの眸が怒気を孕むが、それは気にせずオスカーは続ける。
「でも、だからって全部拒んでたって寂しいだけだろう」
「黙れ」
アリオスの持つ空気が鋭さを増す。しかしオスカーは怯まない。
「お前が全身全霊賭けた呪いは解けない。だから誰もお前に触れられない。お前の傍には誰も残らない。でも、お前は言葉だけじゃ信じない」
「…何する気だ」
一歩、オスカーはアリオスに近づいた。意図が読めない、とアリオスの色違いの眸が語るのが可笑しくて、オスカーはくすりと笑みを洩らした。
「俺がいくら好きだと言っても、お前には伝わらない。だから」
アリオスの目の前に跪き、視線を合わせたオスカーは、ふ、と天を見上げた。
 俺の全霊を賭けて、この孤独な魔王の命が尽きる時まで、この地に静かで優しい雨が降り続くように。
降り出した雨はしっとりと重く、風に飛ばされることを防いでくれるだろう。
「やめろ…っ」
オスカーの意図に気づいたアリオスがその身を翻すよりも早く、オスカーは目の前の男を抱き締めた。
「なんだ、意外と暖かかったんだな、お前」
その身に宿る強い魔力のおかげで、普通ならば瞬時に砂と化すだろう躰は、その体温を感じられる猶予をくれた。
「お前が死ぬまで傍にいてやる方法、他に考えつかなかった」
 できれば抱き締めて欲しいんだがな。
からかうような言葉。
アリオスが腕をその躰にまわした刹那、腕の中の躰は砂となって零れ落ちていく。
「…あ…」
言葉にならない声を発し、銀髪の魔王は雨に湿る砂を掻き集めるのだった。
 
 
 
 しとしとと雨が降る。
静かに優しく、銀糸のような雨が今日も魔王の森を濡らしている。
 
 
 

On The Way-Tierkreis-

 
 
 
 その土地は、十三の地域から成り立っている。
大陸のほぼ中央部にミネルウァという標高の高い山岳地帯があり、それを囲むように十二の国がこの大陸に犇めき合っている。
 ティアクライス。
それがこの大陸の名だった。
 
 
 
 代々続く騎士の家に生まれたオスカーにとって、幼少の頃から骨の髄にまで叩き込まれた精神がある。
 「騎士にとって、主は絶対的存在である」
幼い頃から、誰より尊敬する父にそう言われて育ったオスカーは、勿論その教えを胸に騎士としての人生を全うするつもりだった。その生き方こそがオスカーの夢であったと言ってもいい。いや、今でも出来ることならそうして生きたいと思っている。
思っているのだが。
 それは「これぞ」という主を選べてこそ、だ…。
そう悟ったのはいつの頃だったか。たぶん、そんなに昔のことではない。
 オスカーの家は代々続く由緒正しい騎士の家系である。それはつまり、代々続く由緒正しい君主の家に仕えてきたということでもある。探すまでもなく主となるべき人物は決まっており、普通はそれで何の問題もない。何故ならば、騎士の家に生まれたオスカーが立派な騎士となるべく育てられたように、君主の家系に生まれた者もまた立派な君主たるべく育てられるからだ。
 オスカーは由緒正しい騎士の家系に生まれ、騎士として最上級と言っていいだけの資質を持ち、立派な騎士になるべく教育を受け、周囲の期待を裏切ることなく成長した。騎士として完璧な人格者というわけではなく、私生活に於いては寧ろその素行は騎士とは程遠いことが多かったけれど、それでも彼の騎士としての力量は誰一人として疑う余地のない程で、それ故誰もが彼の素行については黙認していた。
即ち、自分には「普通」の枠を食み出る要素などなかったのだとオスカーは信じている。
 すべては、絶対に、完璧に、偏に、この人の所為だ…。
見渡す限りの草原の中の一本道を歩きながら、オスカーは自分の半歩後ろをゆったりと歩く男をちらっと見た。
 腰まで届く漆黒の髪が見ているだけでも鬱陶しい男は、ただ黙って歩いている。紫紺の眸は伏目がちに思慮深く輝いているように見えた。
 …見えるだけだがな。これは絶対、半分寝てるぞ。
オスカーは頭の中でそう呟くと、軽く息を吐く。なんだかんだ言って、他人には到底わからないであろう、この男の状態を的確に把握出来てしまうのが口惜しい。
 まあ、確かに慣れない徒歩の旅じゃ、お疲れだろうとは思うが…。
そう考えて再びちらっと視線をやると、相手は緩慢な動きで視線を上げ、オスカーを見返してきた。
「…何か用か」
低く抑揚のない口調はいつものことだ。漆黒のその姿と相俟って、見ず知らずの人間が聞いたら恐怖に慄きそうだが、付き合いの長いオスカーには何の感慨も湧かない。
「いいえ。慣れない旅路でお疲れではありませんか?」
「疲れたと言ったところでどうかなるものでもあるまい」
「…そりゃ、そーですけどね」
 気遣うだけ無駄だとわかっていても、それでもつい気遣ってしまうのは、それこそオスカーに叩き込まれた騎士の精神故である。
 そうでなければ誰が野郎のことなんぞ気遣うものか。
女性には極限まで甘く、男にはとことん冷たい男、それがオスカーという青年の人間性だった。
「とにかく、この草原を抜ければハマルまですぐの筈です。日が暮れるまでには着きたいんで、お疲れでしょうが我慢してください」
「…オスカー」
「なんでしょう、クラヴィス様」
 漆黒の髪の男の名をクラヴィスという。
由緒正しい騎士の家系であるオスカーの一族が、代々仕えてきた由緒正しい君主の一族の、現当主…のはずである。
 はずである、というのは現時点ではクラヴィスの立場は正式ではなく暫定的当主(正式即位予定)であり、治める筈の領地に当主云々以前の大問題を抱えているからだ。
諸事情により現在のクラヴィスは身分を隠した只の魔道士である。
「気力がない」
「はぁ?」
騎士としての精神を叩き込まれている割に随分なリアクションだが、これもクラヴィスの相手をするうちに身についたものだ。この男相手に真剣に騎士の心得を以って応対しても無駄だとオスカーは既に学習している。なんだかんだ言って付き合いの長いオスカーの中では今や完璧に近い「正しいクラヴィス様対応マニュアル」が出来上がっていた。決して好きで作ったわけではなかったが。
「歩く気力が尽きたと言っている」
「だったら歩く体力は残ってるんでしょう。つべこべ言わずに歩いて下さい」
にべもなく言い放つとオスカーはクラヴィスを振り返ることなく歩いていく。
これでも一応、「ナイト・オブ・ザ・ナイツ」という騎士の最高位の称号を弱冠十八歳の時に授けられた名実共に立派な騎士…のはずなのだが。
 「正しいクラヴィス様対応マニュアル」第二項・日常会話に於いてクラヴィス様の言動は九九パーセント聞き流すべし。
自作マニュアルに忠実に行動するオスカーだった。
が、クラヴィスとて負けてはいない。
何しろクラヴィスには伝家の宝刀があるのだ。
「…オスカー」
その声音は何処までも静かに。草原を渡る風に危うく消されてしまいかねないほどに。
「くだらない事言わずに歩かないと本当に日が暮れてしまいますよ」
振り返りもせずに答える騎士の背中に、伝家の宝刀を抜き放つ。
「私はお前の…何だ?」
瞬間、オスカーの足がぴたっと止まった。まるで凍りついたかのように暫く固まっていた背中が一つ息を吐き出すと、ゆっくりと振り返る。生霊にでもなって出そうな程恨みがましい視線と共に。
「………貴方は、私の、主です。クラヴィス様」
地を這うような低い声。
 こ、こんなくだらないコトでその切り札使うとは…っ!
オスカーの心情はこれに尽きる。しかしどんなにくだらなくても、クラヴィスは自分の主であることに変わり無く、それを翳されてしまえばどうしようもない。
オスカー二二歳。彼は腐っても騎士だった。
 
 
 
 ティアクライスの西部に位置する連邦国家スコルピオン。その中でも南東の隣国ヴァーゲに近いシャウラ領を統治するのがクラヴィスの一族だった。
シャウラ候即位の儀式を終えていないので、クラヴィスは現在暫定的当主ということになる。
ならば身分を隠して旅などしていないで、さっさと即位でもなんでもしてしまえばいい、と思う所だが、そうはいかない事情があった。
シャウラでは一切の生物が活動を停止し、氷の彫像のように動きを止めているのだ。
シャウラの「命の灯」が消えてしまったから。
 「命の灯」とは、文字通り全ての生命活動を司る灯である。
ティアクライスに存在するあらゆる国家・領はそれぞれに魔法結界を持ち、その結界内に存在する命を支えるのが「命の灯」と呼ばれるものだ。高濃度の魔法エネルギーが燃え盛る炎のように揺らめく灯である。それは各国家・領地で絶やすことのないよう大切に受け継がれてきた。大概の場合、それを護り受け継ぐのはその国の王家であったり領主の一族であったりする。君主制を敷いていない国家であれば、教会であったり選出された統治者がそれを受け継ぐ。
灯が尽きれば、その灯の結界内には「黄泉の風」が吹き渡り、すべてのものを凍てつかせてしまうと言われていたが、今までその灯を絶やした国家など例がなく、めでたくシャウラは言い伝えが本当であることをまさしく身を以って証明したことになる。シャウラの民にしてみれば不本意極まりないのであるが。
 そもそも、それほど大切な灯を消してしまったのも、他ならぬクラヴィスその人だった。
何千年と受け継がれる「命の灯」は、時が経つにつれどうしてもその魔法エネルギーの濃度が下がり、放って置けばやがて灯は消えてしまう。それを阻止する為には、そこに高濃度の魔法エネルギーを注ぎ足さなければならない。持続時間と威力と用途が違うだけで、その辺りの事は全く以って普通のランプと変わりないのだ。ただ、エネルギーを注ぎ足すというその行為の困難度は比較にもならないが。
 とにもかくにも、「命の灯」のエネルギーが弱まる時期に在位することになった王や領主は、そのエネルギーを注ぎ足す儀式を行わなければならない。それはハッキリ言って修行に近い。
 ティアクライスの十二の国を、北北東に位置する技術大国ヴィダーから順に時計回りに旅し、それぞれの国のどこかにある聖域で証を手に入れ、大陸の中央部・山岳地帯ミネルウァの聖殿で十二の証を捧げることで新たな命の灯が授けられる…らしい。
らしい、というのは、この儀式が数百年毎にしか行われない為詳しい事が伝わっていないからだ。各地の聖域の場所も、代々統治者に灯とともに受け継がれてきた知識で、他国の聖域の位置など知る由もない。
 「命の灯」のエネルギー濃度が徐々に下がってきたことが確認されると、その代、もしくは次代の当主が旅に出る。灯が消える前に、新たな灯を持ち帰る為に。何処にあるとも知れない物を探しながら大陸を一周するのだ、最低でも一年は見込む。過去の事例では、灯が完全に弱まる前には新たな灯が注ぎ足されていたようだ。だからシャウラでも当然、余裕を持って旅が始まるはずだったのだが。
 次代の当主が無気力・無関心・無感動と三拍子揃ったクラヴィスであったことがシャウラの最大の不幸だった。
地位にも権力にも名誉にも全く興味もなければ、次代シャウラ候としての責任感も皆無。
厭世的で生きる事そのものに今ひとつ執着のないクラヴィスは、当然旅に出ようとはしなかった。クラヴィス付きの騎士であるオスカーを始めとして、周囲の者がいくら言っても一切動こうとしない。これはもう諦めてクラヴィスを廃位して誰か別の者を次代当主として立てるべきか、いやいやしかしそれは…等と議論は長引き、なかなか結論も出ない。いっそのことクラヴィスが無能であれば話は早かったのだが、幸か不幸かクラヴィスは魔道士としては歴代当主の中でも抜きん出た力を有していた為、そういうわけにもいかなかったのである。
 そして、運命の日はやってきた。
事の発端は現シャウラ候であったクラヴィスの祖父(父は幼い頃に亡くなっている)が心労により倒れたことにある。シャウラ候の側近の間では、こうなったら無理矢理クラヴィスを即位させ、責任感の強いお供――都合のいい事に、クラヴィス付きの騎士であり、クラヴィス自身のお気に入りでもあるオスカーという打ってつけの男がいることであるし――をつけて叩き出すしかないという結論に達した。
しかし、一応相手は次代当主。本気で叩き出すわけにもいかないので、エネルギーが弱まり頼りなく揺れる「命の灯」を前に、涙ながらに懇願する作戦に出る事となった。
 それが何よりも間違いだった、とその場に居合わせたオスカーが後にしみじみと語っている。
「命の灯」を前にしての、側近たちの涙ながらの懇願にも全く心動かされた様子のないクラヴィスは踵を返そうとした。それを、側近の魔道士の一人が魔法壁を作って止めようとしたのだ。気持ちは判らないでもなかったが、浅はかとしか言いようのない。よりにもよって、シャウラ、スコルピオンといわず、このティアクライス全土に於いてさえトップクラスに入るだろう魔力の持ち主たるクラヴィスに魔法を仕掛けるなど。
それを見ていたオスカーも思わず「馬鹿、やめとけ」と呟いた程だ。相手が年長で古参の魔道士だったのではっきりとは言わなかったのだが。その後の展開を知っていれば剣を抜いてでも止めたのに、と後悔しても遅い。案の定クラヴィスはその強大な魔力であっさりと魔法壁を砕き…、そしてその時放った魔力の一部が「命の灯」を直撃したのだった。
 
 
 
 どっちにしろ自分は主であるクラヴィスの供として旅をしなければならなかっただろうとは思うものの、故郷があんなことになっていなければもうちょっと道中気が楽だったに違いない。供だって自分一人ではなかっただろうし。
 あの時、瞬時に状況を悟ったクラヴィスは即座にオスカーの腕を掴み空間移動呪文を唱え、次の瞬間には隣りのジュバ領にいた。通常、空間移動では魔法結界を越えられないのだが、クラヴィス程の魔力の持ち主だと多少の無理は利くらしい。
まだ然して時の経っていない過去の出来事を反芻したオスカーは、ほぅ、とそれはそれは重い溜息を吐いた。
「何を深呼吸している」
「深呼吸じゃなくて溜息吐いてるんですよっ」
オスカーに溜息を吐かせる最大にして唯一の原因…否、この場合は既に元凶と言った方が正しいのかもしれないクラヴィスは、相変わらず何を考えているのかわからない表情で緋い髪の騎士を見ている。
「で?歩く気力がない貴方は一体どうしたいんですか?」
 街に着くのは確実に夜になるな、と諦めながらオスカーは訊ねる。
規格外に大きな男二人の旅だ。別段夜になったところで襲われる心配もないし、仮に夜盗に襲撃されても「スコルピオンの黒の魔道士」と称される大魔道士であるクラヴィスと、十八にして「ナイト・オブ・ザ・ナイツ」の称号を得た自分に敵うとも思えない。
とはいえ、ここはティアクライスの北に位置するヴィダー。今はまだ寒さの厳しい季節ではないといえ、夜になれば冷え込む。だからこそ、日が落ちる前にヴィダーの第一都市であるハマルに辿り着きたかったのだが。
「気力がないのだから、気力を補えばよかろう」
まるで他人事のようにクラヴィスは言った。
 「よかろう」ってあんた、だったら自分で補えばいいだろーが。
オスカーの偽らざる心情である。
 光を遮るもののない草原の道の上で、だいぶ西に傾いた太陽がじりじりと二人を照らす。二人の他に通る人影はおらず、まるで広い世界にたった二人だけになってしまったような、そんな心許無さをオスカーは僅かに感じた。
 …いや、いっそ一人になれたらどんなにか。
心許無いのは寂しいからではない。クラヴィスと二人きり、というのが不安感を募らせるのだ。それはオスカーの野生の勘と言ってもいいだろう。
「こういった場合気力を補うのによいものがある」
そう言ったクラヴィスの口調は愉しそうだった。他人には全く判別つかないだろうが、哀しい哉オスカーにはわかってしまった。
 「正しいクラヴィス様対応マニュアル」第三項・クラヴィスが愉しそうな時は自分に不幸が迫っている時と心得るべし。
 絶対、その先を聞きたくない。
オスカーの勘と経験が脳内で点滅信号を発する。
だが伝家の宝刀を翳されたオスカーに耳を塞ぐ権利はなく、クラヴィスはオスカーの様子を気にした風もなく、言葉を続けた。
「元気が出るおまじない、というものだ」
 ああ、神様、どうか私をお助け下さい。
騎士の中の騎士であるはずの彼は他力本願に走った。しかし、普段信じてもいない者をこんな時だけ助けてくれるほど神様はお人好しではなかったらしい。無情にも変人極まりない主から誰が聞いても耳を疑うであろう科白が発せられる。
「お前から私にくちづけを」
「何ふざけた事言ってんですか、あんた」
「くちづけをしろ」と続くはずだったクラヴィスの声は、主に対する騎士の言葉とは到底思えない科白で遮られた。
「…別に、ふざけてなどいないが」
「ふざけてないなら、頭ン中沸いてるんじゃないんですか」
心底呆れた、と言わんばかりの声音でオスカーは答える。そして今度こそ冗談には付き合えないとオスカーは踵を返した。
 だが、敵を甘く見てはいけなかった。
クラヴィスにはまだ伝家の宝刀第二弾が残っていたのである。
伝家の宝刀をそんなに幾つも安易に抜いていいものなのか疑問だが、幸いこの男の宝刀は何度でも使えてお得なタイプらしい。
クラヴィスは呼吸を整えるように息を吸うと、第二弾をオスカーに向かって振り翳した。
「『クラヴィスさまのことがだいすきだから、おれをずっとおそばにおいてください』」
 ドサッガシャッ
夕暮れの草原に派手な音が響いた。
「…器用な真似を」
どうも本気で感心しているらしい主の声がオスカーに掛けられる。
 公人としては騎士の中の騎士と呼ばれて畏敬の念を集め、私人としては端整な容姿と甘い言葉で女性の視線を一身に集める男は、故郷から遠く離れた異国の石ころ一つない路上で、いっそ見事なほど器用にコケていた。
「な、なんてことを…」
顔面を打ったのか、左手で顔の下半分を覆いながら騎士は立ち上がる。
 開いた口が塞がらないとはまさにこのことか。
まだ子供だった時分の話を持ち出され、オスカーは恥ずかしさと呆れが混じった視線をクラヴィスへと向けたのだった。
 
 
 
 誰にでも子供の時分というものは存在する。
どんなに老けていようが、カッコつけていようが、生き物である以上、どんな者にも幼年時代というものはあるのだ。
それは、「ナイト・オブ・ザ・ナイツ」と称される騎士のオスカーにしても同じ事。
突き飛ばせばピーピー泣き…はしなかったものの、眼に涙を浮かべながらも泣くまいと必死になるような、そんな少年時代が確かにあったのだ。
 物心ついた時から騎士としての教育を受け、体躯的にも恵まれていた彼は歳の割りには大人びてはいたが、それでも子供らしいところも多分に残した少年だった。女性相手に気障で甘い科白を吐くその習癖は既にあったが、それすら、言われた女性が「あら、可愛い坊やに嬉しい事を言われたわ」とオスカーに飴玉をくれるような、そんな幼さのある子供だったのである。
シャウラ領の由緒正しい騎士の家に生まれたオスカーは、騎士になることが運命付けられていた。そしてそれと同時に、騎士として仕えるべき主も既に定まっていた。次のシャウラ候になるはずのクラヴィスである。
 幼い頃から主となるべき相手に接する事は、徹底的な忠誠心を植え付けるのにいいからと、オスカーは自分の足で歩けるようになった頃から四歳年上のクラヴィスの遊び相手として城に上がっていた。尤も、クラヴィスの方は多少の子供らしさはあるものの、子供の頃から寡黙で一人でいることを好む少年だったので、始めのうちは遊び相手として宛がわれたオスカーをあまり歓迎していない様子だった。だが、オスカーは聡い子供で、クラヴィスが静かに時間を過ごすことが好きなのだとすぐに察し、無理にクラヴィスを遊びに誘ったり必要以上に話し掛けたりすることはしなかった。幼いながらに「クラヴィス様はお前がお仕えする大切な主だ」という父の言葉を真摯に受け止めていたオスカーは、クラヴィスといるときは黙って本を読んだりしてクラヴィスの傍から離れようとはせず、クラヴィスにしても何も言わずにこちらのことを察してくれる聡い少年が傍にいることにすっかり慣れたのである。まさか成長後にあんな下らない会話を交わすようになるとはその当時を知る者は誰一人として想像出来なかったに違いない。オスカー本人すら、「騙された」と述懐する。とはいえ、寡黙で他者を拒む傾向のあるクラヴィスが自分に対しては心を許しているのだということは、一応、理解しているのだが。
 それは、まだオスカーが十歳にもならない頃だったか。
クラヴィスは幼少の頃から強大な魔力を発現し、魔道士としての才能が申し分ない事は明らかだったが、何せ無気力・無関心・無感動、ついでに無愛想とどう弁護しようにも弁護出来ないほどハッキリ言って可愛げのない少年だったので、次代シャウラ候として擁立することを不安視する声もその頃からちらほらあった。クラヴィス本人は元々自ら望んでその立場にいるわけでもなし、特に何の感慨も持たないどころか、この煩わしい立場を肩代わりしてくれる者がいるなら進んで譲りたかったのだが、その煩い外野の声をある日偶然未だ十に満たない子供のオスカーが耳にしてしまったのはさすがに拙かった。
 小さな時から「クラヴィス様が次のシャウラ候、そしてお前のお仕えすべき主だ」と言われて育った少年にとって、自分の仕える主が当主となることに不安を抱く者がいるというのはやはり衝撃だったらしい。さすがにクラヴィスもなんと言っていいものか困った。
「当主になどなりたくないのだ」と正直なことを話せば、それは「立派な騎士になって主をお守りする」というオスカーの抱く夢を否定することになる。オスカーの中の「主」がシャウラ候という地位だけを指すのならばよかったのだが、既にオスカーの中で次代シャウラ候とクラヴィスはイコールで結ばれてしまっていて、それは容易には覆せそうになかった。それに正直に話すことでオスカーが自分から離れていくのではないかとクラヴィスが危惧したのも事実だ。その頃にはクラヴィスもすっかり傍に四つ年下の少年がいることを当然だと感じるようになっていたのである。
 しかし、客観的に見て自分が当主に向いていないことも事実であるし、主観的に言っても自分はそんなものになりたいとは思っていない。とはいえ現実に、自分の資質を不安視する声はあっても廃位を求める声は今の所挙がっておらず、自分は次代シャウラ候のままだ。この半端な状況をどう言ったらいいものか、大人びているとは言え、その当時まだローティーンだったクラヴィスにはわかりようもなかった。元々寡黙な所為もあったが。
 だが、どうしたものか考えあぐねているクラヴィス少年の隣りで、幼いオスカーもまた幼いなりに色々考えたらしい。彼は酷く真剣な表情でクラヴィスに向き直りこう言ったのだった。
「クラヴィスさまのことがだいすきだから、おれをずっとおそばにおいてください」と。
 
 
 
 なんであんなことを言っちまったんだ俺は…っ!
子供の頃の純粋さが今となっては酷く恨めしい。忘れたわけではなかったが、出来れば忘れたかったことを持ち出されてオスカーは陸に上げられた魚のように口を開閉させる。
「そのように恥ずかしがることもなかろう?あの時はお前の方から顔を…」
「だーっっっ!言うなーっ」
敬語を使うことすら忘れてオスカーはクラヴィスの科白を遮った。
 そうなのだ。恥ずかしいのはあの時の言葉だけではない。
その時自分が取った突拍子もない行動を、オスカーはしっかりと憶えている。
 幼い自分が、自分を凝視する少年のクラヴィスの唇に自らのそれを当てた。
それは一瞬だけの、本当に軽いものだったが、紛れもないくちづけである。
その頃の自分は、女性相手に子供らしからぬ気障な科白を吐く割りに、まだ本当には恋愛なんていうものを理解していなかったのだ。当然といえば当然だが。
その数日前に結婚式を見たことも大きい。新郎新婦が交わすキスを、母は「大好きな人に誓いをたてているのよ」と説明した。確かに子供にする説明としては妥当だったとは思う。思うのだが。
 …せめてそれが異性間でのことだということも言って欲しかったです、母上。
今は遠い故郷で凍りついてしまっている母に向かってオスカーは泣きそうな気分で語りかけた。
「だいたい、男同士でキスなんて、何考えてんですか。悪趣味にも程がありますよ」
「そうか?」
可笑しそうに――この男にしては珍しく誰が見ても可笑しそうに――クラヴィスは言う。
「特別奇異なことをいったつもりはないのだが」
「男にキスしろなんて言う事のどこが奇異じゃないんですか」
腰に手をあてて疲れたように息を吐きながら言い返すオスカーに、あの幼い時の面影は見出せない。年齢差の所為でクラヴィスよりも頭一つ小さかった子供は成長するに連れてクラヴィスと肩を並べる程大きくなった。自分の傍にいるときはあまり話さなかったので知らなかったが、饒舌な男であるらしい。あれ程立派な騎士に憧れていた割りにその素行は騎士とは程遠いことも知っている。そしてそれでありながら、非の打ちどころがない程騎士として完璧な技量と精神を携えていることも。
「ほんとに、ふざけた事してないで歩いて下さい。夜になったら冷えますよ」
 オスカーはわかっていないが、クラヴィスは別に冗談を言っているわけではない。否、勿論「おまじない」は冗談だが、キスを求めたのは多分に本気である。クラヴィスは同性愛者ではなかったが、かといって異性からのキスを欲しいとも思わない。オスカーのキスが欲しかったのだが、どうやらそれはなかなか伝わらないようだ。この伝え方では当然の結果だが。
 だがしかし、クラヴィスはそこで大人しく引き下がるような男でもなかった。
「オスカー」
その声にオスカーの表情がびくっと強張る。
 その声には抗えないのだ。それは紛れもなく自らの主の声。
オスカーは本日何度目かわからない溜息を吐いた。
 まったく、脅迫と変わらんじゃないか。
オスカーはそう思う。そう思っても抗えない。傍に置いて欲しい、傍にいると誓った幼い言葉は騎士として裏切る事の出来ないものだ。
 それに、なぁ…。
内心で苦笑する。振り回されて、下らない事で伝家の宝刀を抜かれて、こんな悪趣味な冗談を強要されて、それでも。
 それでも、クラヴィス様のこと嫌いにはなれないんだからな。
我ながら酔狂なことだと思う。しかし、騎士として定められた主をどうしても好きになれないよりは遥かにマシだろうと考えて、オスカーは勢いよくクラヴィスの方へ歩き出した。
三歩で間合いを詰めると、クラヴィスの唇に思い切り自分のそれを押し付ける。
 ムードも何もあったものじゃないそれは瞬きほどの時間で終わり、手の甲で唇をぐいと拭った騎士は身を翻しながら言った。
「行きますよ」
主に対して不機嫌を隠そうともしないオスカーに、クラヴィスは密かな笑みを漏らして止めていた足を再び動かし始める。
 今日の所は満足な結果だと思うべきだろう。
旅は長い。それでもこの男と一緒にいれば退屈はしない。元々クラヴィスの日常に於いて鮮やかな精彩を持って認識されていたのはオスカーくらいのものだったのだ。旅に出る事で以前よりもずっと長く共にいられるというのは願ってもないことだったかもしれない。
 そうとわかっていれば、早々に旅に出ればよかったか。
「だから旅立てと言ったのに」とシャウラで凍てついた側近たちが涙を流して突っ込みを入れそうなことを考えながら、クラヴィスは前を歩く騎士の後に続いたのだった。
 
 
 

Rhythm Red Beat Black

 
 
 
 テーブルの上に置かれた一枚のコイン。
「占ってくれないか」
ドサッと腰掛けた男はそう言った。
「面白いことを言う」
「占い師に占ってくれと言うことのどこが面白い?」
空間に渦巻く音に、いまにも掻き消されそうな会話。
 そのクラブには音が溢れていた。クラブの名は、ワールズエンド。
大音量で流れるビート。繰り返す波の如く途切れることのない、憑かれたように踊り、笑い、話す人々の声。
彼らは自分の周りの小さな世界のみを見つめ、フロアの奥にひっそりと佇む占い師になど気づく者はいない。
 占いなど、最早無駄だと誰もが知ってしまっているから。
終末の時は近いと、「コンダクター」が予見したのだ。
「もうすぐ世界が終わるというのに、未来を占ったところでどうにもなるまい?」
占い師は面倒な、とでも言いたげに客を見遣る。
「そう、世界は終わる。だがそれは今すぐじゃない。後一ヵ月あるんだからな。だったら明日のことくらい、占ってもいいだろう?」
客はそう言い、さあ、と占い師を促した。
 
 
 
 
 
 この世界は「コンダクター」によって導かれている。
それがどんな人物なのか、何処に住んでいるのか、極々限られた「スピーカー」の他は誰も知らない。
人々が知っているのは、「予見」という特殊な力を持った者だということだけだ。
その力が血脈によって受け継がれているものなのか、それとも突然発動する能力なのか、それを知る者もいない。
 その「コンダクター」が、近づく世界の終わりを予見した。
その予見が「スピーカー」によって伝えられてから、世界は二種の人に分かれた。
つまり、世界が終わるその日まで頑なに自らの日常を守って暮らしていこうとする者と、日常を放棄して恐怖を振り払うように刹那的な享楽へと走る者と。
 ワールズエンドは、後者が集う巨大なクラブだった。
クラヴィスはワールズエンドの片隅に陣取る占い師である。
「よく当たる」と評判で、つい先日までは水晶球の置かれた小さなテーブルの前には途切れることなく客が座っていたものだ。
だが、それも世界の終わりを知る前までの話。
今はもう、誰もフロアの片隅に座る占い師になど見向きもしない。
 何を占っても、未来はもう決まってしまっているのだから。
それでもクラヴィスはここに座り続けている。彼は、世界の終わりになど興味がない。恐怖もない。ただ、彼は自らの日常を淡々と続けているだけなのだ。ワールズエンドに居ながら、彼は刹那的な享楽とは無縁だった。
 
 
 
 
 
 テーブルの上に今夜も一枚のコインが置かれる。
「・・・またおまえか」
「貴重な客に向かって『また』はないだろう?」
「・・・物好きな男だ」
目の前に座る男を、クラヴィスは以前から知っていた。
 ワールズエンドのキングと称される、オスカーのいう名のこの青年がクラブに姿を見せると、彼の周りには人波が幾重にも出来上がり、それは途切れることを知らない。
尤も、オスカーが自在に気配を殺す術を心得ていて、彼が自分の意思一つで巧みに人の群れの中に姿を消してしまえることを、フロアの片隅からこのクラブを見ていたクラヴィスは知っていた。
現に今も、オスカーがフロアの片隅の占い師の前に座っていることに誰も気づいていない。
「物好きで結構。それを言うなら今更占いなど意味がないって自分で言いながらここに座ってるあんたも充分物好きだ」
肩を竦めてオスカーがそう言うと、クラヴィスもまたフッと笑みを零した。
「・・・確かに、な」
そうして、今夜は何を占うのかと、クラヴィスは水晶球に視線を移したのだった。
 
 
 
 
 
 「コンダクター」の予見した終末が、あと二週間ほどに迫った夜。
何が面白いのかクラヴィスには全くわからなかったが、オスカーの訪問は毎晩続いていた。
 そして、今夜も。
「・・・よく飽きないものだ」
目の前に立った人影に、クラヴィスはそちらを見るでもなく呟いた。
だが、いつも遠慮なくテーブルの前の椅子に腰掛ける男が今夜は座ろうとしない。
訝しんでクラヴィスが見上げれば、オスカーはひょいと肩を竦めて見せる。
「折角だ。酒でも飲まないか?どうせ、俺の他に客なんていないんだ。場所を移しても困らないだろう?」
そう言うオスカーを暫くじっと見つめていたクラヴィスは、やがて音もなく立ち上がった。
 オスカーはクラヴィスをVIPルームに連れてきた。マジックガラスで仕切られたこの部屋は、外から覗くことの叶わない部屋である。
 琥珀の絨毯が敷かれたその部屋は、狂ったように踊り続ける人々がごった返すフロアとは打って変わって静かだった。
フロアに流れる音楽のリズムだけが伝わってくる。
「ワインで構わなかったか?」
「・・ああ」
革張りのソファに深く腰掛け、二人は暫く無言のまま紅玉色の酒を愉しんだ。
「終末ってのは・・・」
二杯目のグラスが空になる頃、オスカーがそう切り出す。
「世界の終わりってのは、どんな感じだと思う?」
「・・・別に」
クラヴィスの答えは短かった。
「別に?」
「終わりなど、何処にでも転がっているだろう」
終わりが死だと言うならば、取り立てて騒ぐほどのことでもないとクラヴィスは思っている。
 全員が死のうと、一人だけ死のうと、自分が死ぬことに変わりない。
 自分が死ぬ時が、自分にとっての世界の終わりなのだ。
「随分あっさりしてるな」
「それほどのことでもあるまい?」
「殆どのヤツらにはそれほどのことがあるから、こうなんだと思わないか?」
オスカーがガラスの向こうを指差す。そこにいるのは、迫り来る終末に怯えて目の前の享楽に必死に縋りつく人々。
「ここにいる者だけが全てでもないだろう」
クラヴィスはそう返した。
ワールズエンドに集う人々とは対極に位置するかのように、日常を守って暮らしている人々も多くいる。
「同じさ」
今度はオスカーが短く答える番だった。
「日常ってヤツに縋って、終わりを考えないようにしてる。このままずっと日常が続いていくと信じ込もうとしてるのさ」
足で軽くリズムを刻みながらそう言いきるオスカーの横顔が酷く醒め切っていて、クラヴィスはほんの僅かに眉根を寄せた。
 この横顔を、フロアの片隅から幾度となく見たことがある。
フロアの壁に凭れて一人踊る人々を眺めている時も、フロアの中央で多くの人々の視線を集めながらビートに身を任せている時も。あまつさえ、バーカウンターのスツールに腰掛けて、親しい友人たちと他愛無い話に興じている時でさえ、オスカーはふとした瞬間に酷く醒め切った横顔を覗かせる。
 それはいつもほんの一瞬で、よほど冷静に観察にしているのでなければ気づかないだろう。
常にフロアの片隅でワールズエンドを見ていたクラヴィスだからこそ気付き得たその横顔。
「おまえの言うとおりなのだとすれば・・・。私も、そしておまえも、その中の一人なのではないか?」
クラヴィスもまた、日常を送る者の一人である。そして、毎夜クラブに現れるオスカーもまた、変わらぬ日常に拘っている者に数えられるはず。
「終末を恐れてない人間は別だろう?」
オスカーはそう言って少し頬を歪めるように笑った。
「あんたがあまりにも普段と変わらずにあそこに座ってたから、興味を持ったんだ」
 あまりにも淡々と、あまりにも静かに。
フロアの片隅の定位置で、何の興味も無さそうにワールズエンドを眺めている占い師。
以前から存在は知っていた。時々視線を感じることもあった。
 知られている。
漠然とそう思っていた。
自分の中の醒め切った部分を、何故だかこの占い師には見透かされてしまっていると感じていた。
「おまえは、何に苛立っている?」
自嘲的にも見える笑みを浮かべるオスカーに、クラヴィスはそう訊ねた。
 唐突な質問だった。
しかし、問われたオスカーにはやはり、という諦めにも似た感慨があるだけだ。
「あんたは本当に優秀な占い師だ」
ほんの二週間前、初めて言葉を交わした相手の心の内を、なんて正確に突いてくるのか。
「なんで・・・。いや、止めておく」
肩を竦めてオスカーが首を振った。
「それよりも。世界が終わる瞬間までここで過ごすつもりか?」
「そう言うおまえも同じではないのか?」
「そうだな・・・。他に行くところもないしな」
その時、すっとクラヴィスの手が伸びてきて、オスカーの前髪を梳いた。
「・・・?」
「見た目よりも・・・柔らかいのだな」
「そんなこと知りたかったのか?」
いささか拍子抜けしたようにオスカーが問い返す。
「おまえは目立つのでな。自然興味も湧く」
 ワールズエンドに来る者の中で、この男ほど視線を惹く者はいない。
色とりどりに光を跳ね返すミラーボールの輝きの下でさえ、尚鮮烈な緋色の髪と。
抑えられた照明の薄暗さの中にあっても、冴え冴えと見る者を射抜く氷色の眸と。
野生の肉食獣を彷彿とさせる、無駄のない、しなやかな躰つきと。
 それは、万事に関心のないクラヴィスにすら、興味を抱かせるほど。
「なんだ、早く言えばよかったのに。・・・ああ」
オスカーは驚いたような、不思議そうな、そんな曖昧な表情を覗かせて僅かに首を傾げた。
「そういえば聞いてなかったな、あんたの名前。俺はオスカー。あんたの名は?」
「・・・クラヴィス」
クラヴィスがそう答えると同時に、オスカーがクラヴィスに躰を寄せる。
「で?他に知りたかったことは?」
悪戯を仕掛けるかのようにオスカーが笑った。
 見る者の背筋をぞくっと粟立たせるような、色香が漂う笑みだった。女のように色を引いているわけでもないのに、その口許は息を呑むほどに艶かしい。
 ワールズエンドのキングが色事に長けることは、クラヴィスも知っている。実際、オスカーが美女の腰を抱き濃厚なキスを交している場面も、何度か見たことがあった。
 その時、自分は何を思ったのだろう?
クラヴィスはそれを思い出す。
 冴え冴えとした氷の眸が甘く煌く様を、もう少し間近で見てみたいと思った。
 華やかな微笑を形作るその唇は、触れると甘いのだろうかと考えもした。
 関わりあいになることなど有り得ないだろうと思っていた。自分から近づいていこうと思ったことはなかったが、触れてみたいとは、思っていた。
「知りたかったのは・・・」
 クラヴィスのすぐ近くで、触れてみたいと思っていた男がこちらを見つめている。
 悪戯めいた笑みは、クラヴィスが何を思っているのか予測がついていると言っているようだ。そして、それを許すと氷色の眸が雄弁に語りかけてくる。
「おまえの唇は、触れると甘いのだろうか」
「確かめてみるか?」
オスカーがそう促す。
「おまえは、同性も相手にするような者には見えなかったが」
ふとした疑問を口にすると、オスカーはくくっと吹きだした。
「勿論。だが、それだけの興味を持てる相手なら、拘りはしないさ」
そのセリフに、クラヴィスはオスカーの躰を抱き寄せる。
まるで、幾度も抱いたことがあるかのように、至極自然な動作で。
「私はおまえにそれだけの興味を抱かれたということか」
「だから言っただろ?興味を持ったんだって」
そう笑う唇を、クラヴィスは自らのそれで塞いだ。
 唇を甘噛みし、やがて薄く開いたその内へと舌を忍ばせる。
何度も角度を変えて合わされる唇の合間に、絡み合う舌が見え隠れして淫猥な音を立てた。
オスカーは自ら着ていたシャツのボタンを外すとクラヴィスの膝を跨ぐ。
マジックガラス越しに入ってくるフロアの色とりどりの照明が、オスカーの躰を彩った。
 しなやかな、野生の獣の躰。
遠くで眺めていた時もそう感じていたが、こうして眼前に晒された裸の上半身の、その美しさにクラヴィスは深い満足感を覚えた。
 飽きもせず口づけを交わしながら、クラヴィスの指がオスカーの首筋から綺麗に浮き出た鎖骨をなぞり、張りのある胸筋と滑らかな肌の感触を愉しんだ後、薄く色づいた胸の突起を摘む。まだ柔らかいそこを、まるで子供が玩具に夢中になるように幾度も摘んだり引っ掻いたりを繰り返すうちに、やがてそこはぷつりと硬く勃ちあがった。触れていない方の突起もまた、刺激された性感に硬さを見せ始めている。
「残念かもしれぬな・・」
ようやく一旦唇を解放したクラヴィスが、オスカーの胸を見てそう呟いた。
「・・な、にが?」
荒くなった息を継ぐせいで不自然な言葉の途切れ方でオスカーがそう尋ねる。
「この明かりでは、色が見えぬ。・・・美しく色づいているだろう、ここが」
「ん・・っ」
言いながらキュッと固くなった突起を弾かれて、オスカーの口から甘い息が洩れた。
 クラブはどこも薄暗い。VIPルームもオレンジ色のライトによって淡く照らされているだけで、本来の色を見ることは叶わない。
「無口な男だと思っていたら、意外と恥ずかしいセリフを真顔で言える男なんだな、クラヴィス」
それでも、そう言って笑うオスカーの氷碧の眸は尚鮮烈に眼に映る。
「別に、思ったことを口にするだけだ・・・」
「まあいいさ。無言でただヤられるよりはいい」
 オスカーがクラヴィスの首元に唇を寄せ、喉のなだらかな隆起を柔らかく愛撫しながらそう言った。
その唇はやがて降りていき、クラヴィスのシャツのボタンを歯で器用に外していく。
「・・・慣れているな」
胸元に暖かい息がかかるくすぐったさに眼を眇めながら、クラヴィスが吐息のように呟いた。
「言っとくが、男相手にこんなことするのは初めてだぜ?・・・だが、どうせヤルならより卑猥な方が興奮するだろう?」
「確かにな・・・」
 クラヴィスの手がオスカーの胸から更に下へと降りていき、ベルトのバックルを外す。ボトムのジッパーを下ろし、アンダーウェアごと、雑に引き摺り下ろした。
「ふ・・・っ」
冷たい手に自身を包まれて、クラヴィスの胸元に寄せたオスカーの唇から溜息とも喘ぎともつかない息が溢れる。
 胸への刺激ですでに勃ち上がりかけていたソレは、クラヴィスの手に包まれて見る見る反応を示していく。
自分だけが愛撫されるのは納得がいかないのか、オスカーもまたクラヴィスの下肢へと手を伸ばし、クラヴィスのそれを愛撫し始めた。
 いつしか、二人の息は熱く荒くなっていき。
だがその息遣いも、蜜を零し始めた欲望を扱く卑猥な音も、マジックガラスの向こうから聞こえてくる激しいビートに掻き消されて。
「もう、いい・・・」
クラヴィスが自らを愛撫するオスカーの手を外させた。
「?」
熱に浮かされたような眸でオスカーがクラヴィスに視線を遣る。
「おまえの乱れる姿で私は充分なのでな・・」
「ぁ・・んっ」
言葉と同時に一際強く扱いてやると、喉が引き攣れたような悲鳴が上がった。
「一度吐き出しておけ・・・」
「勝手なこと・・・ッ」
言うな、と続けようとしたオスカーの声は、空いた手でグイ、と頭を引き寄せられ唇を貪られて消えた。
 洩れ出る声さえも逃さないとでもいうようにきつく舌を絡め、オスカーの口腔を貪るクラヴィスの手が、オスカー自身に更に激しい愛撫を加える。オスカーのソレが零す蜜が滑りとなってクラヴィスの手の動きをスムーズにしていた。
「・・・ッ」
合わさった唇から僅かにくぐもった声が聞こえる。同時に、オスカーはクラヴィスの手に精を放ったが、クラヴィスはオスカーの唇を解放しようとはしなかった。
 息苦しさからオスカーの手がクラヴィスを押し戻そうと動くが、それを、背を強く抱き寄せることで封じると、クラヴィスは滑りを纏った指をオスカーの後孔へと忍ばせる。
固く閉ざされたそこをクラヴィスは少しずつ少しずつ解していった。いっそ、処女を扱うような労りで以て丹念に愛撫する。オスカーの手に刺激され、またその媚態に煽られたクラヴィス自身はこれ以上ない程怒張していたが、事を急いてオスカーの躰を必要以上に傷つけるつもりはなかった。
 これはただの性欲処理ではないのだ。肉の交わりだけが欲しいのではない。
ただ躰を合わせ、快楽を得るのではあれば、相手など幾らでも探せる。何も慣れない同性の躰で性欲を満たす必要などない。現に、ガラス一枚隔てた向こうには、刹那の享楽を貪欲に求める人々が踊り続けている。求めれば、柔らかな躰を提供する女はすぐに見つけられるだろう。
 しかし、二人は二人だからこそ抱き合う気になったのだ。
クラヴィスはオスカーだからこそ触れてみたいと望み、オスカーもまたクラヴィスだからこそその手が自分に触れることを許したのだった。
 やがてクラヴィスの指がオスカーの身の内に沈められた。
「くっ・・ふ・・・んっ」
鼻にかかったような甘い喘ぎがクラヴィスの耳を愉しませる。
 宥めるように決して急くことなく、クラヴィスはオスカーの内部を解していく。指を増やし、同時にもう片方の手でオスカー自身を愛撫することで痛みを和らげてやる。
 オスカーもまた、先ほどクラヴィスによって外された手を再びクラヴィス自身へと添えて刺激を与える。上半身を屈めて、唇でクラヴィスの胸元を愛撫した。
「・・よいか?」
端から合意の上での行為にも関わらず、そう訊ねてくるクラヴィスの妙な律儀さがオスカーには可笑しい。
「はやく、くれ・・・ッ」
だから、耳許で、殊更劣情を刺激するかのように囁くことで答えてやる。
 初めて自分の躰の内に同性を迎え入れる衝撃は、オスカーが予想していたよりは酷くなかった。
それが、丹念に労るように指で解されていたからなのは間違いない。
「ぁ・・・」
怒張したモノを根元まで受け容れて、さすがにすぐに躰を動かすことができずにいるオスカーの息が少し落ち着くのをクラヴィスが静かに待っていると、不意にオスカーの躰がびくっとしなった。
「ん・・ぁ・・っ」
オスカーの躰は小刻みにしなり、内に咥え込んだクラヴィスを締め付ける。それはそのままクラヴィスにも快感となって伝わる。
 最初はオスカーのその変化の原因がわからぬまま、深い快楽に身を委ねていたクラヴィスだが、やがて小刻みに襲う快楽の元に思い当たった。
「あれ、か・・・」
クラヴィスは自分の背後をちらっと見遣った。
 フロアに流れる曲が、変わったのだ。
今までよりも激しい音。その重低音のビートが震動となって二人に熱をもたらしている。
「あぁっ」
クラヴィスはわざとリズムの裏をとってオスカーを突き上げた。
「・・クラ、ヴィス・っ」
「・・すべて、忘れるほどに乱れるがいい」
そう囁いて、クラヴィスはオスカーの胸にひとつ痕を残す。
 残された時間は少ない。
この終末の時に、自暴自棄の享楽ではなく、心を伴う深い快楽に溺れられる相手と出逢えた奇跡を深く強く味わいたい。
そんな想いを胸に、更に強い悦楽を得ようと、二人は行為に没頭した。
 
 
 
 
 
 情事の後の気怠さのまま、だらりとソファに身を預けているオスカーが宙を見つめたままぽつりと呟いた。
「俺が何に苛立ってるのかって、訊いたな。クラヴィス」
「・・ああ」
すっかり生温くなった酒を口に運びながらクラヴィスは答える。
「・・・なんで、誰も疑わないんだ」
 苛立ちと、哀しみと、諦めと。
醒め切った横顔が意味するものを、クラヴィスは理解した。
「終末を、か」
無言でオスカーは頷く。
「コンダクターの予見は外れることがない。・・・それは歴史が証明している」
 少なくともこの世界の記録が残されている限りは、「コンダクター」の予見によって世界が導かれてきたのは疑いようがない。
「今まで外れなかったからって、次が外れない保証がどこにある?」
 何処で生まれ何処で育ち、どんな生活を送っているのかもわからない。
 その力が血統によって受け継がれているものなのか、それとも偶発的に覚醒する能力なのかもわからない。
 予見とは、何か儀式を行った上でされるものなのか、それともある時突然神の宣旨のように頭に浮かぶものなのかもわからない。
 そんな得体の知れない者の言うことを、人はどうしてそこまで無条件に受け容れられるのか。
 世界が終わる、という究極の予見を提示されて尚、誰もそれに疑問を抱かない。
 誰一人として、「そんなことは嘘だ」と言い出さない。
「世界が終わるんだぜ?こうやって何事もなく暮らしてるこの世界が突然終わるって言われたんだ。信じられないのが当たり前じゃないのか?」
裸の上半身を起こし、オスカーがクラヴィスを見つめる。
その視線を真っ直ぐ受け止めて、クラヴィスは逆に問い返した。
「だがおまえは終末が来ると思っているように見えるが?」
 オスカーの態度は終末が来ることを受け容れている者のそれに見える。にも拘らず、オスカーが何故こんなにも苛立ちを見せるのか、クラヴィスにはわからない。
「・・・ああ。俺は・・」
その後に続いた言葉は、クラヴィスには聞き取れなかった。
 オスカーは息を一つ吐くと、軽く頭を振って立ち上がる。
「無駄だな、こんな話。つまらない話に付き合わせて悪かった」
「構わぬ・・・」
その答えにオスカーは肩を竦めると皺のよったシャツを羽織った。
「スタッフ用のシャワールームがある。使うだろ?」
クラヴィスも頷くと立ち上がった。
 
 
 
 
 
 ワールズエンドの夜は続いた。
 大音量で流れる音楽。リズムを取りながら下らない話に大袈裟に笑い、躰に響くビートに任せて一心不乱に踊り続ける。
 毎夜、オスカーはクラヴィスの許を訪れ、そのまま腰掛ける日もあればVIPルームへと誘う日もあった。
一度VIPルームへと足を踏み入れれば、二人は貪欲に求め合い、夜が明けるまで互いの躰を感じあう。
 オスカーは饒舌な男で、他愛もない話をよくしたが、終末についての話が出ることはなかった。けれど時々、酒を飲みながらあの醒め切った横顔でフロアで踊る人々を眺めていた。
 そして、「コンダクター」が予見した、終末の日。
 ワールズエンドには相変わらず音楽が流れている。激しいリズムとビートのエンドレスリピート。
しかし昨夜までと確実に違うのは、ワールズエンドに集う人の数だ。昨夜までの混雑が嘘のように、今夜はフロアにまばらにしか人がいない。最後の夜を、殆どの人々は愛する者の手をとって震えながら過ごしているのだ。
 その夜もいつもと変わらずフロアの片隅の定位置に座ったクラヴィスは、フロアの向こう、バーカウンターのスツールに目的の人物を見つけて静かに立ち上がる。
スツールに腰掛け、バーテンダーの消えたカウンターでカクテルグラスを回している男は、最後の夜もまた、醒め切った横顔を見せていた。
「オスカー」
クラヴィスが名を呼ぶと、フロアを彷徨っていた視線が引き戻される。
「初めてだな、あんたが自分から来るなんて」
悪戯でも仕掛けたかのように笑うその顔は、いつものまま。
「ワールズエンド最後のオリジナルカクテルさ。名前をつけてくれって頼まれたんでつけてやったんだが、その所為で誰も飲もうとしなかった。バーテンに悪いことしたな」
「なんという名をつけた?」
「タイム・トゥ・カウントダウン」
オスカーは苦笑しながらグラスの中身を煽るとスツールから立ち上がった。
「場所を、移そうか?」
その言葉にクラウィスは黙って頷いた。
 
 
 
 
 
 既に慣れ親しんだ感があるVIPルームに入ると、クラヴィスはオスカーの手を引き寄せ、荒々しく抱き締めた。まるで砂漠の旅人がオアシスを見つけたかのように激しい口づけを施す。
「んっ・・・」
深く口づけながら、オスカーのシャツを引き裂くように乱暴に脱がす。今までの情交に於いて、オスカーがこういった荒々しい行為を演出することはあったが、クラヴィスがここまで能動的に仕掛けてきたことなどない。およそクラヴィスらしくない荒々しさである。
 クラヴィスがようやくオスカーの唇を解放した時には、オスカーの息は完全に上がりきり、力の抜けた躰をクラヴィスに預けていた。
「おまえに、訊きたいことがある・・・」
晒された白い首筋を尖らせた舌でなぞり、クラヴィスはそう切り出す。
「なん、だ・・・?」
荒い息の下、オスカーが自らの首筋に顔を埋める男を見た。
「おまえが見た終末とは・・どんなヴィジョンなのだ?」
 瞬間、オスカーがクラヴィスを引き離すべく腕を突っ張ろうとする。だがクラヴィスはそれを許さなかった。渾身の力でオスカーの躰を抱きすくめる。
「なに、言って・・・っ」
「コンダクターは、おまえなのだろう?」
 それはクラヴィスの確信だった。
最初からそう考えれば、あの醒め切った横顔の理由もすべてが納得がいった。
「コンダクター」の予見を誰も疑わないことに怒りさえ感じていながら、彼自身は予見を信じているという、矛盾。
 「だがおまえは終末が来ると思っているように見えるが?」そう問うたクラヴィスにオスカーが返した言葉。「・・・ああ。俺は・・」激しいビートに掻き消され、クラヴィスの耳まで届かなかった、そこに続いた言葉。声は聞こえなかった。だが、唇の動きは見えた。
 あの時、オスカーはこう言ったのだ。「見てしまったから」と。
 信じているのでも、聞いたのでもない。見た、と彼は言った。
この世界中で、終末を「見て」しまえたのはただ一人、世界の終わりを予見した「コンダクター」のみ。つまり、それを「見てしまった」と言うオスカーこそが、「コンダクター」本人なのだということになる。
「なにバカなことを・・・」
蒼褪めた顔でオスカーが笑おうとする。
「バカなことかどうか、それはおまえが知っている・・・」
 囁く吐息とともにクラヴィスは愛撫を再開した。
オスカーの躰を後ろから抱きかかえる様にソファに座る。首筋から肩口、背中へと唇を滑らせ、冷たい手で胸から脇腹にかけてを柔らかく撫でていく。
先ほどまでの荒々しさとは打って変わった優しい愛撫に、オスカーは知らずほぅ、と息を吐いた。
 それは性感を煽り快楽を得るための行為ではなかった。
 文字通りの、情交。情を交える為の優しい愛撫。
「話すといい・・・。おまえが見たものを」
クラヴィスの声は静かだった。
 オスカーが「コンダクター」本人なのだろうと思ったその日から、クラヴィスの中のオスカーに対する感情は次第に変化していった。
 目を惹く存在への興味から始まったそれは、抗い難い強烈な艶により情欲へと変わり、そしてその内面に思いを馳せたとき、確かな愛しさを伴った。
「・・このちから能力はお袋から継いだんだ」
やがてオスカーの口からクラヴィスの推測を肯定する言葉が吐き出された。
「終末を見たのは、ずっと前だ。この能力は自分でコントロールできるわけじゃない。見たいと思って見えるものでもないし、・・・見たくなくても、勝手に見える」
 あんたみたいに、水晶球でも使うならまだコントロールのしようもあるのにな、とオスカーは苦く笑う。
「そうか・・・」
 確実に迫ってくる終わりを、自分一人の胸の内に抱える日々は、どれだけ孤独だったろうと思う。そして、その予見をいつ明らかにするか、悩んだに違いない。
「真っ白になるぜ?」
クラヴィスの腕に背を預けて、横から窺うようにオスカーが言った。
「それがなんなのかはわからない。ただ、世界は強烈な光に晒されて真っ白になる」
 その光が収まった後、世界がどうなっているのかはオスカーにも見えなかった。それは恐らく、オスカー自身の時も終わってしまうからだろう。
「死体は残るのか・・・それとも、跡形もなくすべてが消え去るのか、俺にはわからない」
 もうすぐ、運命の時が訪れる。
 世界を白く包む光が迫ってくる。
「新たな始まりなのかもしれぬな・・・」
オスカーの耳の後ろにひとつ口づけを落したクラヴィスはそう呟いた。
「始まりか・・・。世界の終わりが、か?」
 世界の終わり、それは確かな予見だった。
光に白く包まれたその光景が終末なのだと、何かがオスカーの脳裏に確かに告げたのだ。
「世界は終わり、そしてまた新たな世界が始まるのかもしれぬ・・・」
「それはどんな世界なんだろうな」
クラヴィスの漆黒の髪を一房指に絡ませて、オスカーは眸を閉じる。
「たとえば。・・『コンダクター』のいない世界」
クラヴィスがそう告げると、オスカーは薄く眼を開けて笑った。クラヴィスが初めて見る、穏やかな横顔だった。
「いいな、それ」
 先を知る者のいない、導く者のいない、混沌とした世界。もう一度、人々が自らの力で以て築き上げていく世界。
 終わりの向こうに、そんな世界が始まればいい。
「一ヶ月前、あんたに声をかけて正解だったな、クラヴィス」
「そうか・・」
「ああ。・・・・・もうすぐだ」
「そうだな・・」
それきり、二人は互いの体温を感じながら沈黙を守った。
 
 
 
 
 
 そうして。
 世界を。人々を。ワールズエンドを。
 強烈な眩い光が、白く染め上げていった。
 
 
 
 
 

La lune est invité par un piano.

 
 
 
 たとえば。
たとえば、偶然と偶然が重なったら、それは必然なのだろうか。
それとも、偶然と偶然が重なるという、偶然、なのだろうか。
 
 
 
 深夜の聖地を徘徊するのは、闇の守護聖の日課のようなものだ。まるで自らが司る闇に同化したかのように、音もなく静かに鬱蒼と繁った森を歩く。
 今夜もそうやってクラヴィスは夜の森を歩いていた。
 自分が一体聖地の何処を歩いているのか、正確には把握していない。だが、幼少の頃から過ごしている場所だ、いずれ見知った場所に出るだろう。
 万が一戻れなくなったとしても、それはそれで構わない。
 サクリアという厄介な力がその身に宿る限り、そう簡単に命を落とすことはありえないし、居場所もすぐに特定されてしまうだろう。尤も、その後に洩れなく首座の守護聖のお小言が待っているかと思うと、クラヴィスとしても、あまり迷子になりたいとは思わないが。いくらクラヴィスが光の守護聖のお小言を聞き流すのに慣れているとはいえ。
 満月の光が木々の間から降り注ぐ森を歩いていると、水音が聴こえてきた。せせらぎというにはやや豪快な音であるところからすると、ここは滝が近い場所なのだろう。
 
 
 
 たとえば。
たとえば、偶然と偶然が重なったとして、それを必然と呼ぶのだとしたら。
最初の偶然も、実は必然だった、ということになるのだろうか。
 
 
 
 滝の水音に混じって微かに流れてくる、別の異質な音をクラヴィスの耳は捉えた。
 微かだが、聴こえてくるのは、ピアノのメロディ。
どこか、この近くの邸からだろう。聖殿を中心に囲むように繁った森の多いこの辺りは、聖地の一般人の居住区はなく、点々と守護聖の邸があるだけだが、滝に近いあたり、としか現在地を認識していないクラヴィスには、この近くに誰の邸があるのかなどはわかりようもない。
 そういえば、以前にもこのメロディを聴いたことがある。
あれはいつだったか・・・。そう、やはり今夜のように満月の夜だった。聖地は常春だが、それでも少しだけ夏らしい気のする、湿度の高い夜。繁った森の中に、白いヘリオトロープが群生して、辺りに甘い香りが漂っていた。今も・・・振り返れば白い花が誘うように揺れている。
 一体、誰が弾いているのか。
流れてくるメロディはクラヴィスの知らない曲だったが、美しくどこか哀しげで、聴く者の心に染み渡る。
 以前、このメロディを耳にした時も、クラヴィスは足を止めて暫く聴き入った。ただ美しい曲だと思い、そのままにして歩き去った。
 だが、このメロディを聴くのは今夜が二度目。今夜はもう少し間近で聴いてみるのもいいだろう。奏者の顔を見るのも一興だ。
 クラヴィスは暫く耳を澄ますと、音の聴こえる方へと足を踏み出した。
 
 
 
 たとえば。
たとえば、すべてが必然だったのだとしたら。
それは、運命、と呼べるものなのだろうか。
 
 
 
 繁った森を音のする方向へと歩き始めて少しすると、微かだったピアノの音はだいぶはっきりと聴こえ、代わりに滝の水音が遠のいた。
 クラヴィスは足音もなく音源へと近づいていく。やがて、邸の影が見えた。
(ここは・・・。)
 誰の邸なのかはクラヴィスにもわかった。
今の主になってからは訪れたことのない邸だ。一瞬、このまま踵を返そうかと躊躇するが、恐らくは邸の使用人なのであろう、ピアノの奏者の顔を見るくらい構わないだろうと足を動かし続ける。
 森はそのまま、邸の裏庭へと出て終わった。
 開け放たれたテラスに続く部屋に置かれた一台のグランドピアノ。
 そのピアノの前に座る人物を見て、クラヴィスは足を止めた。
 
 
 
 たとえば。
たとえば、運命と呼ばれるものがあったとして。
それは、突然目の前に現れるものなのだろうか。
 
 
 
 邸の使用人だろうとばかり思っていたピアノの奏者は、クラヴィスにも充分見覚えのある男だった。
 メロディは繰り返し紡がれている。
 鍵盤の上を滑る様に動く指は細く長い。剣を握るよりも、こうやって鍵盤を叩いてるほうがしっくり見えるほど。
 降り注ぐ月光の中、艶やかな緋色の髪が揺れる様は、誰もが見惚れるだろう、と思えるほどには美しい。
 これが、炎の守護聖の姿なのか。
昼の陽光の中、あの厳格な首座の守護聖の脇に控えている姿からは想像もつかないほど、その姿は静かだ。夜の人口の灯りの下、女性を伴っている時のような華やかな空気も、今は鳴りを潜めている。
 やがて、ピアノの音は止んだ。
クラヴィスの視線に気づいていたのか、オスカーがゆっくりと視線をあげる。
「これは随分と珍しいお客だ。」
さすがに、視線の主が闇の守護聖だとは思っていなかったのか、オスカーは僅かに眸を見開いた。
「お前がピアノを弾けるとは思わなかった。」
空気に溶け込んでしまいそうな静かな声で、クラヴィスがそう告げると、オスカーはおどけたように肩を竦めて見せる。
「こういった芸術的なこととは無縁の、武骨な男に見えましたか。」
 まあ、それもそうでしょうね、と呟きながら壁際のカップボードからグラスを二つ取り出し、テラスに置かれたテーブルに置いた。裏庭に佇んだままのクラヴィスにデッキチェアを指差して声をかける。
「どうぞ。貴方と俺なんて、滅多にない取り合わせだ。人知れず酒を酌み交わす、というのも一興かもしれませんよ。」
 森の中に咲いていた、ヘリオトロープの香りがここにまで届いてるように感じた。
 
 
 
 たとえば。
たとえば、目の前に突然、予想だにしない運命、というものをつきつけられたとしたら。
そこから逃れることは叶わないのだろうか。
 
 
 
 「あの曲は、なんというのだ・・・?」
 元々寡黙なクラヴィスと、そのクラヴィスとは個人的な会話など殆ど交わしたことのないオスカーだ。酒を酌み交わす、と言っても、グラスを傾けつつ、ぽつりぽつりと言葉が交わされるにすぎない。二言三言、言葉を交わすとすぐに辺りを静寂が包む。
だが、それは決して居心地の悪いものではなかった。言葉で埋らない静寂は、遠くでザーッと流れる滝の水音とヘリオトロープの甘い香りが埋めてくれた。
「随分前に見た映画のプロローグに流れていた曲でね・・。」
 なんという名前だったか・・・。
そう言って少し遠くを見るように考えこむオスカーに、「わからぬなら、別にかまわぬ」とクラヴィスが告げる。
「お役に立てず申し訳ない。映画のシーンと、それに合ったメロディの美しさの印象が強くてね。タイトルはあまり気にしていなかったんですよ。」
 苦笑してそう言うオスカーは、やはり常日頃の彼とは違って見えた。
「どんな・・。」
「え?」
「どんな映画だったのだ・・?」
 あれ程美しいメロディの似合う映画とは、と興味を抱いたのが半分。そのメロディを人の寝静まった夜中、月光の下で静かに弾いていたオスカーに興味を抱いたのが半分。その興味の下には、この心地よい時間をまだ終わらせたくない、という気持ちが隠れていたのかもしれない。
「大きな運命を背負わされた少年の話でしたよ。」
 グラスに酒を注ぎ足してオスカーが言った。
「何も知らないまま、運命の渦の中に投げ出されて、必死になって戦う少年と、やはり大きな使命を背負った少女の話。映画は、少年の回想を追う形で始まるんですよ。少年は実は誰かの夢の中の存在で、それが実体化しているだけの不安定な存在で。その事実を知らされた彼は、だがまだ自分が大きな運命をも背負っていることを知らない。自分の存在に不安を感じながら、けれど目前に、守ると誓った少女の、死を覚悟した使命の時が迫っていて。彼女を死なせずに済む方法が思い浮かばなくて、それをなんとか先延ばしにしたい一心で回想を始める。そのシーンが映画のプロローグなんですよ。」
 そこに、あのメロディが流れるのだとオスカーは告げた。
「何故でしょうね。もっと感動的な映画も、面白い映画も、何本も見てるはずなのに、とても印象深いんですよ。プロローグで、少年の言うセリフが、何故かとても強く灼きついてる。」
 デッキチェアに背を預けて、夜空に浮かぶ月を眺めながらそう呟くオスカーの横顔を、クラヴィスは静かに見つめる。
「少年は、なんと言うのだ・・・?」
 その問いに、オスカーは一瞬クラヴィスを見つめると、すぐに視線を外して再び満月を仰いだ。
 
 
 
最後かもしれないだろ。だから、全部話しておきたいんだ。
 
 
 
「お前も、誰かに話したいのか・・・?」
クラヴィスがそう問うと、オスカーは困ったように笑って首を振った。
「まさか。そうじゃありません。そうじゃないが・・・。」
「ではなんだ?」
「今夜は随分と積極的ですね。」
オスカーがからかいの言葉を口にする。
 クラヴィスがこうも尋ねるのは珍しいことだった。普段は露程も他人に興味を抱かない男だということは、疎遠だったオスカーも充分承知している事実だ。
「お前が、常らしからぬように、な。」
そう返してやれば、オスカーは黙って両手を軽く挙げて見せた。降参、というのだろう。
「思い出すだけですよ。」
穏やかな声だった。
 優しい光で辺りを照らす満月は、既に天頂を過ぎ、傾き始めている。
「最後かもしれない。いや、最後だと知っていた。だから、すべてを話しておきたいと、そう思った時のことを、ね。」
 結局、誰にも話しませんでしたけど、とオスカーは微かに笑った。
「ちょうど、こんな夜だった。初夏の、少し湿度が高い満月の夜。だから、こんな夜になると、ふっと思い出すんですよ。そうすると、連想ゲームみたいにあの映画のシーンを思い出して、弾きたくなるんです。」
 まさか観客が来るとは思いませんでした。
そう告げるオスカーに、クラヴィスも僅かに笑ってみせる。
「それは済まぬことをした・・・。」
「いいえ。お耳汚しで失礼を致しました。」
 クラヴィスがグラスを置いて立ち上がると、オスカーもデッキチェアから上体を起こした。
「お帰りになりますか?」
「いや・・・。」
その答えに、オスカーが訝しげに首を傾げる。
「思い出すのは・・・。」
「・・?」
 言葉の続きを待つオスカーに、クラヴィスの影が覆い被さった。
 体重を感じさせない、羽のような軽さで降りてきたクラヴィスのくちづけは、まるで、傾き始めた月の光の代わりのように柔らかくオスカーの唇を啄むとすぐに離れる。
「思い出すのは、聖地に来る前の自分、か・・・?」
唇は離れたものの、まだ至近距離にある紫紺の眸が氷碧の眸を覗き込んで尋ねた。
「嫌な人ですね・・。」
 そういうことは、そんな単刀直入に訊くものじゃないですよ、とオスカーが苦笑する。
 不思議だった。
こんなに親しく言葉を交わしたのは、初めてと言っても過言ではないはずなのに、こうして触れ合うことに何の嫌悪も感じない。それどころか、快いとさえ感じている。
 オスカーは凍てついた闇夜の如く何事にも無関心を貫くクラヴィスに反発し、クラヴィスもまた、真夏の陽光の如く容赦なく人を断罪してみせるオスカーを煩く思っていたはずなのに。
 だが、それは互いの一面だけを見ていたに過ぎなかったのだと、二人は既に知っている。
 凍てついた闇夜は、その反面すべてを覆い隠してくれる優しい帷であり。
 真夏の陽光もまた、その反面で周りを照らし暖める静かな灯火でもあった。
「これは、感傷的な俺への慰めですか?」
「いや。」
クラヴィスの体温の低い指先が頬から唇にかけてをなぞるのに任せたままオスカーがそう尋ねると、クラヴィスはフッと笑って首を振った。
「では、なんなのか、はっきりして貰えませんか?」
クラヴィスの手を軽く掴んで止め、オスカーが先程とは逆に、クラヴィスの眸を覗き込む。言葉はきついが、オスカーの眸は笑みを滲ませていた。
「そうだな・・。さしずめ、ピアノの礼、と言ったところか。」
「礼、ね・・・。それならば、ありがたく受け取ることにしましょうか。」
 その言葉を合図に、クラヴィスが再び、月光のように覆い被さった。
 
 
 
 
 
 
 言葉はなかった。
クラヴィスの指が、唇が、肌を擽るたびにオスカーの躰は熱を帯び、甘い吐息を洩らす。その吐息も、すぐにクラヴィスの唇に吸い取られてしまう。
 シャツが肌蹴られ、外気に触れる胸元を、漆黒の絹のような髪が滑るとオスカーの躰がびくん、と跳ねた。
漣のような低い笑い声が耳元を嬲り、オスカーは首を振って逃れようとするが、頬に添えられた冷たい指がそれを許さない。まるで力は込められていないのに。
 初心な生娘のように、躰の反応を隠せないのは何故なのか。
けれど、否応なしに追い詰められていく躰は止めることができず、オスカーはクラヴィスの髪を一房掴んだ。
それに気づいたクラヴィスが、深く唇を合わせる。
 深夜、繁った森に続く裏庭に面したテラスとはいえ、声が洩れれば使用人が起き出す可能性もある。話し声と違って、こんな時に洩れ出る声は自分でも調節するのが難しいものだから。堪えきれない喘ぎを、クラヴィスに口移しで預けた。
 二人分の重みがかかるデッキチェアがギシギシと音を立てる。それに気づいたクラヴィスがオスカーを部屋の中へと促した。
 グランドピアノが置かれているこの部屋は、窓を閉めれば完璧に近い防音を誇る。
 ソファまで行くのももどかしく、二人はピアノを背に抱き合った。冷たいピアノが熱を帯びた躰に心地よい。
 反らした首筋に軽く歯を立てられると、鼻に抜けるような喘ぎが止まらない。クラヴィスの指は胸の飾りを嬲ったあと、すっと脇腹を擽るように下り、既にその手を待ち侘びて蜜を湛えるオスカー自身へと辿り着いた。
途端にびくっとしなる躰を押さえ、クラヴィスはオスカーの躰を反転させる。胸が冷たいグランドピアノに押し付けられる感覚にすら、オスカーの躰は鋭く揺れた。
 
 
 
 窓は閉めきったはずなのに、ヘリオトロープの甘い香りがどこからともなく漂ってくる。それは二人の熱い息遣いと相俟って、室内の空気を濃厚なものへと変えていった。
 熱く荒い息遣いだけで、言葉もなく二人は交わった。
飽きることなく、やがて、月が完全に傾くまで。
 
 
 
 窓に背を預け、眠るオスカーを腕に抱いたまま、クラヴィスはそっと外を振り返った。
 月は白く頼りなげな影となり、眩しい朝日がもうすぐ聖地の空を染めるだろう。
 さて、ここから一体どうやって帰るのか。そんなことを思うのも面倒だ。ピアノに誘われ、疎遠だった男の意外な横顔を見た。熱い躰と甘い声を知った。今は腕に抱いたぬくもりが酷く離し難い。それで充分だった。
 この部屋に日が射し込んでくる頃には、オスカーも目を醒ますだろう。それまではこうしているのも一興。
 一夜の夢と片付けるのか、新たな始まりと受け止めるのか。それは眠る男に委ねればいい。だが、あのメロディはもう一度聴きたい。そんなことを思いながらクラヴィスも眸を閉じた。
 
 
 
 たとえば。
たとえば、それがただの偶然の積み重ねであったとしても。
たとえば、それが運命という名の逃れられない必然の積み重ねであったのだとしても。
 
 
 
 分け合った熱も、交わした言葉も、幻ではない。
その真実さえあれば、それで構わない。
 
 
 
 
 

Something




 サヴィルロウの外れにあるギーブズアンドホークスは二〇〇年以上の歴史を誇るテイラーである。十九世紀半ばから数多くのテイラーが集まる通りとして有名なサヴィルロウの中でも老舗中の老舗と言っていいだろう。スーツだけでなく、シャツ、ネクタイ、傘など紳士用品ならばなんでも揃う。
 その日、オスカーは気に入ったシャツを二枚ほど包んでもらってその老舗テイラーを出た。まだ外は明るい。左腕に填めた銀のデザイナーズウォッチを見ると午後六時を示していた。緯度の高いロンドンはこの時期九時過ぎまで明るいが、ディナーに早過ぎるという時間でもない。ここからソーホーのアパルトメントまでオスカーの足だと二十分強といったところ。帰って夕飯を作れば丁度いい時間になるな、と計算してオスカーは足を右に向けた。
 卵を早く使っちまった方がいいなぁ。…卵尽くしでいくか。
冷蔵庫の中身を思い出しながら、どう考えても二十代前半の青年の思考とは思えない生活感たっぷりの独り言を心の内でぶつぶつと繰り返していると、ふと数メートル先の光景に足が止まった。
 一人の観光客らしき初老の男性がサヴィルロウ三番地に位置するビルの前でただじっとビルの屋上を見上げて立っている。その顔に浮かぶのは、静かな興奮。まるで彼の眼にだけ何か映っているかのように。否、確かに彼は何かを見ているのだ。
それはこの場所で比較的よく見られる光景だった。
 その観光客が何者で、何の為にそこを訪れ、そしてその眼に何を映しているのか。それを知っているオスカーは、しばらくして彼が次に起こすだろう行動が予測できていた。
果たして、予測どおりに彼はバッグからカメラを取り出し、そしてキョロキョロと辺りを見回す。だから、オスカーは止めていた足の動きを再開すると、自分から彼に近づきこう言ったのだった。
「May I help you?」

 …腹減ったな。
夜になるに連れて活気づくソーホーの街並みを見下ろすバルコニーで紫煙を燻らせながら、アリオスはそんなことを思った。遅めの朝食兼昼食を摂ったのが確か正午前だったから、そろそろ空の胃袋が盛大に自己主張し始めても仕方のない頃合である。
何か適当に腹の足しになるようなものはないかと考え、すぐに止めた。何の調理も必要とせずに食べられるものなど、この家のキッチンにあるはずがない。料理に執念を燃やす同居人のおかげで普段から平均レベル以上の食事が出てくる反面、その同居人がいないとまったく機能しないのがこの家のキッチンなのだった。
 そのキッチンの支配者たるオスカーは、昼過ぎに買いたいものがあると言って出掛けて行った。夕飯について特に言及していなかったから、そろそろ帰ってくる頃だろう。
律儀なことに、オスカーは自分一人が夜遅くまで出掛ける際は必ずアリオスの食事について言及していく。言及…というか、何か作り置いていく。何も言わなければ必ず帰ってきて料理し、二人で食事を摂るのだ。子供ではあるまいし、一人で食べるのが寂しいと言うわけでもない。別に何も言わずに遅くまで帰ってこなかった所でアリオスは適当にどこかパブに行って済ませればいいだけの話なのだが。
 面倒見がいいというよりは過保護という言葉がしっくりくる相棒に対する、完全に呆れ雑じりの揶揄も、「お前、一人だと酒しか飲まないじゃないか」という言葉で一刀両断されてしまった。全く以てその通りなので反論の仕様がなかったアリオスは、以来素直に従っている。相変わらず「ソーホーの何でも屋」の力関係は家事能力によって決定づけられているようだった。「胃袋握られてるって哀しいものだね」と二つ隣りの部屋に住む芸術家に可笑しそうに言われたことを思い出すと頭痛がしてくるアリオスである。
 ま、追々帰ってくるだろ。
煙を吐き出しながらそう思い、ふと眼下の通りにアリオスが眼を遣ると。
 …何してんだ?
帰ってくるも何も、キッチンの支配者はアパルトメントの下に立っていた。ただし一人ではなく、アリオスにはてんで見覚えのない初老の男と一緒である。オスカーはそこからソーホースクウェアを突っ切った先を指差し何か言っている。当然五階のバルコニーからでは何を言っているかなど解らないが、男の方が何度も頭を下げているところを見ると、どうやら道案内をしてやっているらしい。
やがて男が先程示された方向へ歩いていくのを見送って、オスカーが視線を感じた、とでも言うように頭上に顔を向けた。お互い視力はいいので五階分の高低差があっても顔の判別は容易につく。
煙草片手に見下ろしているアリオスの表情に空腹感が表れていたのか、眼下で相棒が「悪い」と片手を軽く挙げた。

 部屋へ上がって荷物をソファの上に無造作に置くと、オスカーは寛ぐ事もせずキッチンに向かった。
 なんつーか…。いや、別にいいんだが。
空腹を抱えていたのだから歓迎すべき行動ではあるのだが、これではまるで子供に留守番させていた母親のようで、なんとなく釈然としないものをアリオスが感じていることになど気づくはずもなく、オスカーはてきぱきと調理に取り掛かる。
「悪いな、もう少し早く帰れるはずだったんだが」
 歩くペースを合わせてたんでちょっと時間が掛かっちまった。
片手鍋に水を張り、卵を六つその中に沈めてオスカーはそう説明した。
「オマエが野郎に親切にするなんて珍しいじゃねぇか」
その背中をなんとなく観察しながらアリオスがそう問うと、オスカーは特に否定もせずに肩を竦めて見せる。
「ま、タイミングがよかったってとこだ。旅行の目的が一目で解ったんでな」
「目的?」
「サヴィルロウで突っ立ってたんだよ」
手際よく微塵切りにした玉葱をフライパンで炒める動作を止めることなく、オスカーは一瞬アリオスの方を振り返ってそう言った。
「…ビートルズか」
合点がいった、という態でアリオスが呟く。
 サヴィルロウ三番地。今は持ち主も変わってしまったそのビルは、昔ビートルズの設立した会社、アップル・コープスがあった場所であり、ビートルズが屋上で“ゲットバック”のゲリラ演奏をした場所である。いわば伝説的な場所で、今でも訪れるファンは多い。
「ご名答。それで記念写真を撮って、MPLまでご案内差し上げたわけだ」
上機嫌でゆで卵の殻を向きながらオスカーが顎で先刻道案内した方向を指し示した。
 二人の住むこのアパルトメントのあるソーホースクウェアの、その一番地にはポール・マッカートニーのロンドンの事務所があるのだ。ビートルズのメンバーの中でもポールが一番好きだというその観光客が次はそこを訪ねるつもりだと言うので、どうせ近所だからと案内して来たということらしい。
「マッカートニーが一番好き、ねぇ」
特に何かを思ったわけではなく、ただふとアリオスの口をついた呟きを、耳聡い相棒は聞き逃さなかった。
「なんだ、お前はレノン派か?」
ボールの中で合挽肉と炒めた玉葱、パン粉と溶き卵を混ぜて練りながらオスカーは心底意外そうに訊ねる。
「レノンも何も、ビートルズにそんな大した思い入れなんかねぇよ」
どうでもいい所に引っ掛かるな、と言わんばかりの表情でアリオスがそう返すと、オスカーも「さもありなん」と頷いた。
「だろうな。ちなみに俺はマッカートニーの方が好きだぞ」
 ハロー・グッバイなんて結構好きだ。
ゆで卵を半分に切りながら鼻歌でメロディを辿る。
「訊いてねぇっての」
 元々ビートルズ世代とは程遠い年齢である。音楽史に残るグループだからある程度の曲を知っているに過ぎない。
「ま、確かにアンタはマッカートニーの方が好きそうだな」
フライパンの上で肉が焼ける音に混じって、アリオスがそんな感想を述べた。
 家事の達人であるこの相棒は、家事だけでなく恋愛のエキスパートをも標榜する男で、実際異常にモテる。人目を惹く容姿ながら他人を寄せ付けない雰囲気のアリオスに比べ、全世界の女性の恋人を自認するオスカーは人当たりもいいので当然と言えば当然なのかもしれなかった。
恋愛の駆け引きを心底愉しんでいるらしいこの男は、同じ愛でも哲学的な人類愛を謳うジョン・レノンよりも、恋愛を一種のエンターテイメントとして謳い上げるマッカートニーの方が嗜好に合うことは想像に難くない。
「しみじみ納得してないでフォークの一つも出そうくらいの気遣いはないのか、お前」
両手に皿を持ったオスカーが呆れた顔をしてダイニングテーブルに肘をついて腰掛けているアリオスを見ていた。
「オマエが何作ってるんだか知らねぇのにフォークがいるかなんてわからねぇだろ」
胃袋を握られている割には意外と強気な態度を崩さないのがアリオスという男である。
「…お前、案外屁理屈捏ねる男だな」
「そりゃ誰かの影響だろうな」
表情一つ変えずにアリオスはそう返した。
 ああ言えばこう言う。その見本の様な男と生活を共にしているのだ。多少なりとも影響を受けるのは必至というものだろう。
「…可愛気のないヤツ」
「へぇ、アンタがオレに可愛げを求めてたとは知らなかったぜ」
「誰がそんなもん求めるか」
憮然とした表情で答えたオスカーが皿をテーブルに置き、カトラリーを揃える。そうして、ふと思いついたのか、可愛げの欠片もない相棒に訊いてみた。
「レノン派でもマッカートニー派でもないお前が一番好きな歌は?」
「………」
 その沈黙はオスカーの予測どおりのもので。
別段、本気でアリオスがその問いに答えるとは思っていなかったオスカーは、大して気にした様子もなくテーブルに料理を並べることに意識を切り替える。オーブンからココット皿を取り出し、その出来に満足した時、疾うに完結したと思っていた遣り取りの答えが返って来た。
「…サムシング」
「え?」
 一瞬何のことかわからなかったが、それが先程の問いの答えであるとすぐに思い当たる。
「…ほぉ」
そしてなんでもないことのように相槌を打つと、オスカーはテーブルについた。
 サムシング。
ビートルズのメンバーの中で一番目立たなかったジョージ・ハリスンが作った愛の歌。
愛を哲学にまで高めたレノンと、愛をエンターテイメントに仕立て上げたマッカートニーの歌に彩られたビートルズのナンバーの中で大仰に謳い上げるわけでもなく、ただ「彼女の何気ない仕草で彼女とはもう離れられないと心から思う」と謳う珠玉のバラード。
 そのさり気ない愛の歌を一番好きだという相棒が、何気ない日常をこの男なりに大切に感じているのだろうことを感じ取ってオスカーはくすりと笑みを洩らした。
「よし、食うとするか」
「…なんだ、このメニュー」
「スコッチエッグとほうれん草のココットだ」
 別名・賞味期限が切れる前に卵を使い切ろう大作戦メニューである。
「………」
アリオスの口から隠す気もさらさらないらしい溜息が出た。
「文句があるなら食うな」
「…イタダキマス」
 結局胃袋を握られている方が弱いのもいつものことで。
半ば機械的にフォークを動かすアリオスと、その様子を勝ち誇った顔で見るオスカー。
 さりげない、けれど彼らが愛して止まない日常が、今日も続いている。


Happy Happy Greeting




 ジリリリリリン。
リビングに置かれたやけに古めかしい旧式の電話機が、その姿に似つかわしい古めかしいベルを鳴らす。
ソファに腰掛けて雑誌を読んでいたアリオスは面倒そうに辺りを見回した。
いつもなら愛想のいい声で電話に出るはずの相棒がいつの間にかいない。壁に掛かったこちらは最新式の電波時計を見ると、長針と短針が真上を指して重なっている。電話が鳴っていることよりも、こんな時間に相棒が何も言わずに姿を消していることに眉を顰めながら、アリオスは仕方なく片手を伸ばして受話器を取り上げた。
『すぐ傍にあるんだから、ワンコールで出ろよな。反射神経鈍ってるんじゃないか?』
アリオスが電話に出た途端耳に流れ込んできたのは、先刻まで忙しそうにキッチンに立っていたオスカーの声だった。
「…おかけになった電話は現在使われておりません」
『ここで切ったらお前は二度とメシにありつけないと思え』
「……今度は一体なんだ?」
家事の達人である相棒に胃袋を握られているアリオスは、仕方なく電話機に戻そうとした受話器を耳に当てた。
『バルコニーから下見てみろよ』
「バルコニーってオマエな…」
バルコニーは寝室の外である。アリオスは溜息を吐くと電話機を片手に持ち上げ、バルコニーまで出た。コードレスなどという便利な電話機ではないので、コードがかなり必死に頑張っている。小さなバルコニーから外を眺めるのにはギリギリだ。
 そうして、下を眺めれば、アパルトメントの外で携帯電話を片手にこちらを見上げているオスカーと眼が合う。
『ハッピーニューイヤー』
眼下のオスカーが笑いを滲ませながら口を開くと、耳元にその声が聞こえてくるのが不思議といえば不思議な感覚だった。
「…もしかして、ただそれだけの為に外出たのか、アンタ」
『普通に言うんじゃつまらないだろ』
 つまらないとかいうモンでもないんじゃねぇか?
そうは思ったもののそれを口に出すと確実にまた胃袋の危機に陥るのでアリオスは別のことを口にした。
「気が済んだならとっとと上がって来いよ。寒いだろ」
『お前がそんな優しい言葉かけてくれるとは珍しいな』
「バカ、オレが寒いんだよ」
オスカーのからかうような声音に、間髪入れずに答えたアリオスの言葉は素っ気無い。
尤も、シャツ1枚で真冬の真夜中に外に出ていればこの男でなくとも寒いに決まっている。
『俺だって寒いのは一緒なんだがな』
「知るか。オマエは自分の好きで出てんだろ。…ああ、なんなら」
『…?』
眼下のオスカーが首を軽く傾げたのを見ながらアリオスはまるですぐ隣りで囁くかのように言ってやる。
「戻って来たらオレが暖めてやろうか?」
セクシャルな空気を纏ったアリオスの科白だったが、悲しい哉、タイミングが悪かったと言うべきか。
『ダメだな。お節料理をまだ作り終えてない』
 オマエは何処の専業主婦だ。
アリオスが思わずガックリと突っ込みを入れたくなったのは無理もないだろう。
 先日、久々に食事を共にした日本通のルヴァに日本の年末年始の様子を教えられたオスカーは、その足で日本のお節料理のレシピ本を購入し、日本風の年末年始の過ごし方を実践することにしたらしい。
 実は3時間程前に年越し蕎麦なるものも食べさせられたアリオスである。
「…なんでもいいから、オレはもう中入るぜ」
料理に真剣になっている時のオスカーに逆らうとロクなことがないと体験済みのアリオスは肩を竦めると踵を返そうとした。
『ちょっと待て』
それを電話越しの声が止める。
「ああ?」
仕方なくアリオスがもう一度バルコニーの手摺から下を覗けば。
『…今年もよろしく』
悪戯でも仕掛けたような笑顔と酷く耳に心地いい柔らかい声音。
アリオスは鬱陶しげに前髪を掻き上げてから一つ息を吐くと、相棒を見遣りながら口を開いた。
「…お互いにな」


Twinkle Night




 ドレスアップした紳士淑女がさざめく店内。
レスタースクウェアステーションから歩いて五分ほどのところにあるストリングフェロウズの夜には、酒と香水と音楽、そして囁くような話し声が充満している。
普段はスター御用達のハイクラスなクラブとして心地よいビートの音楽を流しているこの店も、今夜ばかりはカルテットの生演奏が流れるクラシックなパーティースタイルになっていた。
 アリオスはフロアの隅で壁に凭れ、ウェイターの差し出すカクテルグラスを取ると一口で煽った。一瞬で空になったグラスを手近なテーブルに置くと、辺りを見回す。
 先日、依頼を受けてボディガードを務めてやった実業家から、お礼に是非、と言って招待されたパーティーだった。正直、ブラックタイ着用の堅苦しいパーティーなど遠慮したかったのだが、相棒のオスカーに引き摺られて此処にやって来た彼である。
 で、その引き摺ってきた張本人は何処行きやがった…。
アリオスは苛々と髪を掻き上げた。舌打ちの一つもしたいところだが、場所が場所なので仕方なく我慢する。この男でも一応、TPOというものは弁えているのだ。
 しかし、気づけば何処かに姿を眩ましてしまった相棒への苛々は募るばかり。
何処にいても目立つ男なのだが、こうしてフロアを見回してもアリオスには相棒の赤毛を捉えることができない。
 …帰るぞ。
実は、オスカーの姿が見えないと思ったその時から、何度となく「先に帰る」と宣言しているのだ、心の中で。
その割にはこうして何杯もカクテルグラスを煽りながらフロアの隅々にまで視線を走らせている辺り、この男も大概人が好いのかもしれなかった。
「お一人?」
美しい青のフォーマルドレスに身を包んだ女性がアリオスにそう声を掛けてきた。アリオスもまた人目を惹く容姿の持ち主であるから、相棒と逸れてからというもの、時折こうして声を掛けられる。ナイトクラブを貸切で使った身内や友人の招待をメインとしたパーティーで、エスコートが必須ではなかったこともあり、こういったドレスコードの厳しいパーティーとしては比較的気軽に声を掛け易い空気であることも手伝っているのだろう。
「いや、悪い。人捜し中だ」
軽く手を挙げて断りの言葉を口にすると、相手は軽く頷いて立ち去った。さすがにこういったフォーマルなパーティーにいる女性は下手に食い下がったりはしない。これが普通のクラブだと、煩く付き纏う者もいて、アリオスの蔑みに満ちた視線に一刀両断される羽目に陥ったりするのだが。
 人捜し中、とは言ったものの、その相手は一向に見つかりそうも無い。
普段ならば、こういった場であればまず間違いなく人の輪、正確には女性限定の輪の中心でにこやかに愛想を振り撒きながら立っているのだが、幾ら見回しても何処にも人の輪など出来ていなかった。
 …マジで帰るぞ。
一々宣言しなくてはならないものでもないだろうに、アリオスは幾分眼を据わらせながら内心でそう呟く。その癖、宣言に反して中々足は動き出そうとしなかった。
 先刻から散々「帰る」宣言をしている割に、アリオスの思考の中に相棒が自分を置いて先に帰ったのかもしれないという懸念は微塵もない。その点に於いてアリオスは、奇妙なまでに相棒を無意識レベルで信頼しきっているのである。
 アリオスがこういったフォーマルな場を嫌がることをオスカーは百も承知している。
何か他愛もない喧嘩の最中だというのならともかく、嫌がるアリオスを引き摺って来ておいて、オスカーが何も言わずに先に帰ることなど有り得ないのだ。そして、相棒たるオスカーもまた、アリオスが先に帰ってしまうことなどないと確信しているに違いない。そこにはいっそ無防備な程の絶対的な信頼があった。ある意味、その信頼関係こそが二人の基盤とも言えるのかもしれない。
 しれないのだが。
だがしかし、誰にでも忍耐の限界というものもあるのだ。そしてアリオスの忍耐心というものは平均値よりも大分少なかった。喩えるなら、平均値が計量カップ摺り切り一杯とすれば、アリオスは大匙三分の二、といったところか。
 これ以上こんなトコにいられるか。
心の声というよりは、本当に声に出していたかもしれない。とうとうアリオスの足が動いた。…それでも、アリオスの忍耐心の程度をよく知る友人から見れば拍手の一つでも送りたくなる程の忍耐の末だった。
 華やかな正装の紳士淑女の間を縫うようにアリオスは出口に向かって歩き出す。フロアを抜ける直前、仕切りカーテンの合間に隠れた階段が目に入ったのは単なる偶然か、それとも小さな奇蹟だったのか。普段は解放されている二階だが、今夜のフォーマルなパーティーには不必要なスペースとして隠されていたのである。
 アリオスは足を止めて揺れるカーテンの合間に見え隠れする階段をしばらく凝視すると、やがてそこに向かって足を向けた。
 
 
 
 
 
 アリオスのヤツ、苛々してるんだろうなあ…。
その様子が目に浮かぶようでオスカーはクックッと肩を揺らした。灯りもついていないひっそりとした二階にいるのはオスカー一人だけだった。普段はレストランとして使われているそこで、窓際のテーブルに陣取って彼は窓の外を見るともなしに見ている。階下で流れるクラシックと外の通りの喧騒が僅かに伝わってこの空間を満たしていた。
 オスカーが二階に上がってきてから既に一時間近く経っている。
最初からパーティーに来ることを渋っていた相棒は、さぞかし不機嫌になっているに違いない。フロアの隅で苛々しながら、それでもさり気無く自分の姿を捜しているだろう。
 そんなに嫌なら最初から来なきゃいいのにな。
緩めたタイを片手で弄びながらオスカーはそう思う。
「オマエが引き摺って来たんだろーが」と反論するアリオスの声が聞こえてくるようで、オスカーはまた笑った。
 本当に嫌ならば幾らでも抵抗のしようがあるだろうに、不機嫌だ不愉快だ、というオーラを撒き散らしながらも渋々オスカーに付き合うのは、あの無愛想な相棒の甘さに他ならない。自分も身内に甘いだの押しに弱いだのと散々言われているが、あの男もなかなかどうして、自分と張るとオスカーは思っている。
 尤も、その甘さこそがあの傍若無人で無愛想な相棒の、一種の可愛げ、であるのだが。
オスカーの姿が見えなくなった時点でさっさと帰ることだって出来るのに、アリオスはまだ階下にいる。それはオスカーにとって確信を通り越して疑いようのない事実である。
「とはいえ、そろそろ限界だろうがなぁ…」
頬杖をついて呟く。その声は心なしか愉しそうだ。
 アリオスが忍耐心の限界を迎えて一人で帰ろうとすれば、あの男のことだ、カーテンに隠れた階段に気づくだろう。オスカーが先に帰ったなどとは露程にも疑っていない筈だから、きっと階段を登ってくる。不機嫌を絵に描いたような表情をして、鬱陶しげに髪を掻き上げながら。
 まるで悪戯でも仕掛けているかのような気分でオスカーは左腕に填めた時計を見た。
「一時間か…。ま、こんなもんだろうな、あいつの限界は」
「…それはオレのことか?」
予測と寸分違わず不機嫌度一〇〇パーセントの剣呑な声音が背後に響く。
オスカーが殊更ゆっくりとした動作で振り向くと、不機嫌な相棒がタイを緩めながらこちらに歩を進めるところだった。
「よう、遅かったな」
白々しい程の笑顔で迎えてやれば、アリオスは呆れ果てた、と言わんばかりの盛大な溜息を吐いた。
「いい歳して隠れんぼかよ」
「これが隠れんぼなら、お前はかなり出来の悪い鬼だな」
 何せ見つけ出すのに一時間もかかっているのだから。
即答で返されたセリフに、アリオスはジロリとオスカーを一瞥するともう一度溜息を吐く。
「下でお前の好きなレディってのが山程待ってるぜ?何やってんだ、こんなトコで」
「あぁ、レディ達に悪いことしたな。すぐに戻るつもりだったんだが…」
 レディ達が待っている、ということを然も当たり前と言った態で否定しようともしないあたりがオスカーらしい。
 見てみろよ、とオスカーが窓の外を指差した。
椅子に座ったオスカーの後ろから、テーブルに手をついて窓の外を覗き込んでみるが、アリオスにはいつもと変わらぬ夜のロンドンの風景にしか見えない。
「下じゃない、上だ」
オスカーの人差し指がアカデメイアのプラトン宜しく天空を指す。それに合わせてアリオスの視線も上へと動いた。
「…別に何もないじゃねーか」
見えるのは、ビルの合間に広がる夜空だけだ。
「お前は本当に情緒ってものがないな」
「ったく、なんだよ」
ただでさえ悪いアリオスの機嫌が、更に下降路線を辿り始めるのに苦笑いしつつ、オスカーが口を開く。その視線は夜空に向けたままだ。
「珍しく、星が綺麗に見えてるだろ」
「……なんか、ヤバイ酒でも飲んだか?」
瞬時に飛んだオスカーの裏拳は、予測済みだったらしくアリオスの左手に軽く受け止められてしまった。
「だからお前には情緒の欠片もないって言うんだ」
 ロンドンでは、天気さえよければ雲一つない夜空、というものは割とありふれている。だが、そこは大都市ロンドンだ。夜中まで煌々と輝くネオンが邪魔して、星が綺麗に見えることはあまりない。
 ちょっと一服するつもりで二階へ上がって来たオスカーが、窓際の席に陣取って窓の外を見上げると、ネオンに輝きにも消されることなく星が瞬いていた。
 まともに星を見るなんていつ以来だろう。
ふ、とそんな感慨に浸った彼は、相棒への悪戯も兼ねてそこで星を眺めることにしたのだった。
「で?いつまでその甘ったるい情緒に浸ってる気だ?」
「甘ったるいとは心外な。星々のさんざめく広大な空へと思いを馳せるのは、男のロマンだろ」
 アリオスにとっては全く以て取るに足らないことで一々反論してくるのがオスカーという男である。実際のところ、オスカー本人もそこにそれ程確固たる拘りはないのだが、アリオスが余りにも気のなさそうな声と口調で言うものだから、とりあえず反論したくなるのだ。
 アリオスは興味ない、と言いたげに軽く肩を竦めると、窓際のテーブルから離れた。
「どっちでも構わねぇけどな。いつまでも此処にいたって仕方ねぇだろ」
階段まで歩くと振り返ってオスカーにそう声を掛ける。
「そうだなあ」
頷く割に、オスカーは一向にその場から動こうとしない。
「オスカー」
軽い苛立ちを込めてアリオスが名を呼べば、オスカーは無言でアリオスの方に向き直った。
その眸は意味ありげに笑っている。まるでアリオスを試しているかのように。
 どうやら、オスカーをこの場から動かすには何かパスワードが必要らしい。
アリオスには到底理解し難いロマンチックだかヒロイックだかな表現を用いるなら、魔法の呪文、とでも言うべきか。
 オスカーは椅子の背凭れに肘を掛け、寛いだ姿勢でじっとアリオスを見つめている。
ヒントを出す気はさらさらないようだった。薄暗いフロアの中で、その色素の薄い眸だけが挑戦的に煌いている。
 アリオスは軽く息を吐いて髪を乱雑に掻き回すと、緩めたタイを片手でシャツの襟から抜き取り、もう片方の手を申し訳程度にオスカーに向かって差し出して一言告げた。
「帰ろうぜ」

 その五分後。
ストリングフェロウズから「ソーホーの何でも屋」の姿は消えていた。


This Night




 降り出しそうだな・・・。
 広いキャンパスを横切りながら、オスカーは頭上を見上げた。日の暮れかけた、分厚い雲に覆われた空は薄暗く、今にも雨粒が落ちてきそうだ。
「・・今日のこの寒さだと、うまく行けば雪か?」
ロンドンの冬は暖かい。緯度の高さから考えると意外だが、夏冬の気温差はあまり激しくないのだ。最低気温が零度以下になることなどまずない。だから当然、雪も滅多に降らない。
 だが、今夜はもしかしたら雪が降るかもしれない。
キャンパスに人はまばらだ。クリスマス休暇に入っているのだから当然なのだが。
オスカーにしても、休暇明けに提出のレポート資料を借りる為でなければわざわざ大学まで足を運んだりしなかった。
 オスカーの住むアパルトメントは大学に程近い所にある。一度荷物を置き、シャワーを浴びてから、もう少し厚手のコートを羽織って出かけようとオスカーは歩を早めた。
 今夜はケンブリッジサーカスに面したライムライトというクラブでクリスマスパーティーがある。クラブの常連であるオスカーにも勿論声がかかっていた。
 異様に張り切りそうだな、あの極楽鳥。
最近知り合いになった派手好きな友人のことを思い出し、オスカーは肩を竦める。
向こうも今夜のパーティーに来るはずだ。普段からオスカーの感覚では到底理解できない恰好をする男だから、今夜はさぞかし奇抜で派手な恰好で現れるだろう。
 ・・・サングラスかけてくか。
かなり真剣にそんなことを考えて、オスカーは借りてきた数冊の本を抱え直した。
キャンパスを出て、ガヴァーストリートを横切る。行き交う人々はみな、手に何かしら荷物を抱えていた。
それはケーキの箱だったり、花束だったり。大きなクマのぬいぐるみだったり。
 愛しい人と過ごす、クリスマスの夜。
今のオスカーには縁遠いものだ。
一人でロンドンへとやってきた。残念ながら、一緒にクリスマスの夜を過ごすような相手もいない。否、過ごそうと思えば今からでも一緒に過ごしてくれる女性はいるだろうが、そんなその場凌ぎをしたいと思うオスカーではない。
 その時、オスカーの目の前を何か白いものがひらっと落ちていった。
驚いて上を見れば、暗い空からちいさな雪が落ちてくる。
「ほんとに降りだしたな・・」
 こんな綺麗な雪のクリスマスを誰かと二人で過ごすなら、やはり本当に心から愛しいと思った相手と過ごしたい。今は、寂しい同類項たちと騒ぐクリスマスパーティーでいい。
「急ぐか・・」
オスカーはグッジストリートステーションの脇を走り抜けた。



 リージェンツパークをぶらぶらとし、モーニントンクレセントステーションからノーザンラインに乗ったアリオスは、ドアに寄り掛かって、変わり映えのしない外を眺めていた。
地下鉄なのだから外の風景など何も見えないが、車内は車内で家族連れが多く、煩くて敵わなかったのだ。
 そういや、クリスマスだったな・・。
自分にはあまりにも遠くなってしまったイベントなので、すっかり頭から抜け落ちていた。
 ケーキを囲んで談笑するような家族などいない。
アリオスにとって家族とは、記憶から抹消したい存在でしかなかった。
 肩を寄せ合って揺れる蝋燭の灯りを見つめるような恋人もいない。
誰よりも愛しいと思った相手は、二度触れることの叶わない存在になってしまった。
 下らないことではしゃいで夜を明かすような友人もいない。
アリオスは、他人と深く関わることを止めてしまった。誰かに心を許すということに、恐れすら抱いているのかもしれない。
 幸せなヤツらだ・・。
車内の乗客にちらっと視線を遣って、アリオスはそう思った。
 否定する気はない。その幸せがどれほど大切なものなのか、アリオスにもよくわかっている。
 けれど、その幸せがどれほど簡単に、脆く崩れ去ってしまうものなのかも、アリオスはよく知っていた。
 地下鉄がグッジストリートステーションに入る。扉が開くと、アリオスはさっと電車を降りた。
大英博物館の向かいにあるケニルワースというホテルのラウンジで人と会う約束があるのだ。ボディガードの依頼らしい。一駅先のトッテナムコートロードステーションの方が目的地に近いのだが、時間に余裕もあるし、少し歩くのもいいだろう。
 本当は、幸せそうな乗客でいっぱいの電車に、乗っていたくなかっただけなのかもしれないが。
 どうせ、外も同じなのにな。
地上へと上がる階段をゆっくりとした足取りで上りながらそんなことを考える。それでも、閉鎖された空間で一人孤独を噛み締めるよりは幾分マシだろう。
 アリオスが階段を上りきり、地上へと出たそのタイミングを見計らっていたように、何か白いものが空から降ってきた。
「ホワイトクリスマスってヤツか・・・。オレには関係ねぇが」
ポケットから煙草を取り出し、火をつけて呟いた。
それでも、雪は幸せそうな家族連れにも、恋人達にも、そして孤独な自分の上にも白く降り積もる。
 舞い落ちる雪を暫く眺めていたアリオスは、やがて雪の街へと歩き出した。


 
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 昼過ぎから降りだした雪は、どうやらロンドンには珍しく本降りになったようだった。
「ホワイトクリスマスだな。やはりこういう夜は美しく装ったレディと語り明かしたいものなんだが・・」
「なんでもいいから、早くメシにしろっての」
「お前な、何にもしてない癖して態度デカすぎじゃないか?」
「オレはローストチキンが食いたいとも、ブッシュドノエルが食いたいとも言ってねぇよ」
 ダイニングのテーブルには蝋燭が置かれ、こんがりと焼けたローストチキンと、オニオングラタンスープ、シーザーサラダにフランスパン、そしてブッシュドノエルが所狭しと並べられていた。
 全部作りやがった、コイツ・・・。
感心していいのか呆れていいのか、最早アリオスにもわからない。
「食いたくないなら、構わないが?」
オスカーの眼が微妙に据わった。
 食事、延いては家事に関しては絶対にオスカーに逆らってはいけないとわかっていても、思わず口に出しては、毎回オスカーの機嫌を損ねるアリオスである。
「・・・食ベサセテイタダキマス」
それは棒読み以外の何物でもなかったが、オスカーは満足そうに頷いた。
「しかし、ケーキまで作るか?つーか、誰が食うんだよ。オマエだって、甘い物別に好きじゃねぇだろ」
「お前」
オスカーの答えは短い。
「なんでオレがこんな甘ったるいモンを・・」
「意外と嫌いじゃないだろ?」
「・・・」
 嫌いではない・・・らしい。自分でもよくわかっていなかったのだが。勿論、甘いだけの菓子は苦手だったが、甘すぎなければ自分でも驚くほどあっさりと食べられるということに最近気づいた。そして当然、オスカーの作るケーキはそれを考慮してかなり甘さを控えてある。
 だからって、コレ全部を食えってか。
まじまじとブッシュドノエルを凝視するアリオスの様子にオスカーは堪らない、といった態で笑い出した。
「全部食えとは言ってないだろ。俺も食うさ、勿論」
 座れよ、とアリオスを促す。
窓の外には、うっすらと白くなり始めた建物の屋根と、静かに降り続ける雪が見える。
「そういえば、何年か前にも、クリスマスに雪が降ったな」
 あの頃の自分は、まさかこんな風にクリスマスを過ごす相手が出来るなんて思ってもいなかった。
 相手が男ってだけで、完全に予測の範疇外だからな。
ワインのコルクを抜きながら、オスカーは苦笑した。
それでも、あの時のクリスマスよりも、今年のクリスマスの方が幸せだと断言できる。
「そういや、そんな年もあったな・・・」
 その頃の自分は、独りで生きていくと信じていた。幸せなクリスマスなど、二度と過ごすことなどないと思っていた。
 こんな脳天気な会話できるようになるとは思ってなかったぜ。
アリオスは軽く溜息を吐く。
食事一つにこんな応酬を繰り広げることになるなんて、思いもよらなかった。
それでも、今ならば、幸せそうな乗客でいっぱいの電車にも乗っていられる。
「それじゃ、食うとするか。やっぱり、メリークリスマス、かな」
「挨拶なんてどうでもいいじゃねぇか」
「お前な、人が折角ここまで完璧にクリスマスディナーを作ってやったのに、それくらい付き合おうって気は起きんのか」
「あー、わかったわかった。挨拶すりゃいいんだろ、挨拶すりゃ」
 挨拶でもなんでもするから、いい加減食べさせて欲しい、というのがアリオスの心情である。何しろ、夜は腕を揮うからランチは早めにな、というオスカーの所為で、かれこれ八時間は何も食べていないのだ。
「・・・投げやりな言い方だが・・・。ま、お前じゃそれが限界だろうしな」
笑いながらオスカーがグラスを手にする。アリオスもそれに倣った。
 音もしないほど軽くグラスを触れ合わせ。
 幸せな夜と、そしてそれを与えてくれた相手に。
「メリークリスマス」


A Day In The Life -Extra episode.-




 スプリングの効いたベッドは二人分の重みを柔らかく受け止めていた。
シーツはぐちゃぐちゃになっていたが、そんなことに気を使う余裕は今の二人にはない。
「ぁ・・・ンッ」
 オスカーの身の内に、自らの欲望を収めたアリオスが腰を使う。
「も、いい、かげんに・・・・っはぁっ」
「っ・・だめ、だ・・ッ」
 一体、どれほど抱き合っているのか。
夜が更けるのを待ち焦がれていたように抱き合った躰は、その欲望を止めることを知らなかった。
 何度抱いても尽きることのない衝動に任せるまま、アリオスはオスカーの躰を離そうとしない。
切れ切れのセリフで抗議するオスカーもまた、本気でそう思っているわけではなく。
「絡み・・ついて離さな、いのは、オマエの方、だぜ?」
荒い息の中、からかうようにアリオスが告げれば。
「・・どこ、の・・・エロオ、ヤジだ、バカ、やろっ!」
抗議の声とは裏腹に、熱く締め付けてくるのは、紛れもなくオスカーの躰で。
 抱き合うだけが愛情表現ではない。それでも、互いを一番強く熱く感じるには、抱き合うのが一番確実でスピーディーだ。
 半月、触れ合うことのなかった躰と、物理的な距離以上に遠くに離れていた心と。
すべての溝を埋め尽くすように、飽きることなく抱き合うのだ。
「く・・・ッ・・アァッ!」
喉の奥が引き攣るような鋭い声をあげて、オスカーが果てる。一際強くなる内部の締め付けに、アリオスもまた、何度目かわからない欲望を放った。
 オスカーがぐったりとベッドに身を預けると、アリオスが間近でその顔を覗き込む。
欲情に濡れた視線が絡み、その距離を縮めると、深く唇を合わせた。
 何度も角度を変えて唇を合わせ、舌を絡ませて。
濡れたような音とキスの合間の浅い息遣いだけが響く。
 うっとり、という表現がしっくりくるような、そんな満ち足りた気持ちのままキスを交わしていたオスカーだが、未だ自らの躰に収められたままのアリオスのモノが再び硬度を増したのを感じて慌ててアリオスを引き離そうとした。
「ちょっ・・・アリオス!」
 まだヤる気か・・・。
下世話な言い方だが、しかしオスカーの心の声はその一言に尽きる。
「まだ、足りねぇ・・」
少し掠れたような、男臭さを漂わせた声で囁かれると、オスカーの躰も自然と反応しようとした。
 だがしかし。
体力には、限界というものがあるのだ。
はっきり言って、限界点は目前だ。アリオスにしても、かなり疲労しているはず。
「ん・・・ちょ、ちょっと待てって・・・ぁ・・・」
弱々しい制止の声に耳を貸す様子もなく、アリオスがオスカーの掌でオスカーの胸を撫で上げる。オスカーは、疲れ切っていても反応してしまう自分の躰を恨んだ。
 オスカーにしてみても、アリオスの気持ちはわからないでもない。というよりも、気持ちの面だけで言うなら、まだ足りない。もっと、強く抱き合って、溶け合う程に熱を分け合って、深く深くアリオスを受け止めて、満たされたい。
 けれど、哀しい哉、体力の限界は近く。
 そして、明日からはまた、いつどんな依頼が来るかわからない何でも屋の日常生活が待っている。
 このまま朝を迎えたら、確実に夕方まで眠ることになる。シャワーを浴びたいが、そんな体力は残されていないので、汗と体液に塗れたまま、という羽目に陥るのは確実だ。
 それは嫌だ・・・。
頭の隅にかろうじて保っている理性でオスカーはそう思う。
だが、アリオスの手に自身を扱かれれば、ダメだ、と思っていても感じてしまうわけで。
 躰だけではない、心まで満たされるような深い快楽は抗い難く。
自然、抵抗は弱いものとなる。
「ん、くぁ・・な、ダメ、だ・・って・・!」
そんな、切迫感皆無の抗議に、アリオスはオスカーの鎖骨のあたりを強く吸って跡を残してからニヤリと笑った。
「言っただろ。・・離したくないって」
 あれはそーゆー意味だったのか、アリオス~ッ!
呆然自失一歩手前の思考でオスカーはツッコミを入れるが、実際にはそれが声になることはなかった。
口づけてきたアリオスに、抗議の声が吸い取られたからである。
 明日、俺は立ち上がれるんだろうか・・・。
条件反射のようにキスに応えながらそんなことを考えて、オスカーは覚悟を決めてアリオスの躰を抱き締めた。
 なんだかんだ言っても、こうやって、再びアリオスと抱き合えることに泣きたくなるほどの歓びを感じている。
 躰よりも、心が。
 求めれば求めた分だけ、満たされることの歓びと。
 こうやって強く貪欲に、自分が求められているという幸せ。
理性は拒んでいても、本当はオスカーもこの時間を手放したくない。
だから、たまにはこうやって、今この瞬間だけを考えるのもいいだろう。
 きっと目が覚めたら、汗でベトベトして躰中気持ち悪いだろうな、とか。
 シーツは早く洗濯したほうがいいのにな、とか。
頭の片隅をよぎる、そんな諸々の思考には気づかない振りをして。
 もっと深いキスを促すように、オスカーはアリオスの髪に指を差しいれたのだった。



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