オスカーは無人と化した街を走り回っていた。
一軒一軒扉を開け、中を確認し、その度に落胆の溜息が口を突く。
そして、落胆の溜息を吐いている自分に気づいて決まり悪そうに笑うのだ。
「何をガッカリしてるんだ、俺は…。いない方がいいじゃないか」
軽く首を振り、また走り出す。
無人と化したはずの、アルカディアを。
エレミアの育成は、間に合わなかった。
誰の所為でもない。アンジェリークは最後まで懸命に努力したし、勿論、それは守護聖や協力者たちにも言えることだった。
ただ、ラ・ガの力は予想以上に強く。
そしてエルダの力は予測以上に衰弱が激しかった。
それだけのことだ。
守護聖が、女王のサクリアを触媒とせずとも自らのサクリアの持つ力を充分に発揮できていればまた、状況も変わっていただろうが、それは考えても仕方のないこと。
消滅が免れないとわかった時点で、直ちにアルカディアの住民たちの移住計画が練られた。女王の力と王立研究院の技術によって一時的に次元回廊を創りだし、それにより全住民を金色の髪の女王の宇宙へと移動させる。言葉にすれば簡単だが、女王の力が次元の狭間の収縮とラ・ガの力の抑制に割かれ、新宇宙の女王であるアンジェリークの力もギリギリまでエレミアの育成に注がれている状態では、予行など出来るわけもなく。それ故に、計画を実行する為に綿密な打ち合わせを繰り返し、最終的に計画はアルカディアの消滅が翌日に迫るという日に実行に移された。
まず、王立研究院の者や協力者たち、守護聖の一部の者が各々先導となり、アルカディアの民を少人数のグループに分けて金色の髪の女王の宇宙へと移動させた後、それを見届けてアンジェリークとレイチェルを新宇宙へと帰す。最後に金髪の女王アンジェリークとロザリア、ジュリアス、クラヴィス、そして護衛の意味も兼ねて残ったオスカーが彼らの宇宙へと戻る。そういう予定だった。
そしてその予定が狂ったのは、最後の瞬間。
いない…。
リュミエールによって先導されたアルカディアの民の最後のグループが次元回廊の光の中に消えた時、オスカーの心に焦りが生まれた。
いないのだ。脱出を果たしたアルカディアの民の中に、いなくてはならないはずの男が。
事前にアルカディアの住民のリストをチェックした時、その中にその男の名前がないことには何の疑問も抱かなかった。転生を果たした男が一切の記憶を失っていることを承知していたからだ。以前の名とは違ってしまっていても不思議はない。
だが、やはりいないのだ。
彼が。アリオスが。
アリオスがアルカディアにいると知ったのは、偶然だった。
土の曜日、何気なく足を向けた約束の地にアリオスがいた。初めは驚愕し、次いでアリオスの記憶が失われていることを知り密かに安堵した。
苦く、切ない、それでいて背徳故の甘さを持った記憶は、自分だけの胸に納めておけばいい。オスカーはそう思っていたから。
あの旅の途中。
アリオスが皇帝だと気づきながら、それでもその手を離せずに関係を持ち続けた。
互いに、二度と触れてはいけないと思いながら、けれど触れずにいられなかった温もり。
その記憶は、転生を果たしたアリオスが持っているべきものではない。そう思った。
以前のように黒い力に操られているわけではないと、すぐにわかったから。あの一件の所為で転生の過程が歪められたことは確かだが、今なら、全くの別人としての新たな生き方ができるはず。
だからこそ、記憶のないアリオスに、オスカーは初めて出逢ったかのような態度を取った。
レヴィアスという本来の名は勿論、アリオスという名も教えなかった。必要以上の会話も避けた。自分の名も、名乗らなかった。
忘れているのなら、忘れたままの方がいい。思い出しても、必ず別れるときが来るのだから。この地を去る前に、最後にちらっと姿を確認できれば、それでいい。
どこか切なく疼く胸の痛みを抱えたまま、オスカーはそう言い聞かせてきたのだ。
この、アルカディア最後の日まで。
だが、移住するはずのアルカディアの民の中にアリオスはいなかった。
ならば、アリオスはまだこの土地にいるということになる。明日、消滅するとわかっているこの土地に。
女王たちと共に次元回廊へと足を踏み入れながら、オスカーは背筋に冷たい汗が流れていくのを自覚した。
しかし、明日消え去るとわかっている土地にわざわざ残る物好きもいないはずだ。きっと、自分が人々の群れの中に見落としたのだろう。
頭を過る嫌な考えを打ち消すようにオスカーは思う。
だが。
だが、もしもアリオスが、この土地の運命を知らずにいたとしたら…?
この土地の人々とあまり交流もなかったようだったし、情報が耳に入り易い、人の多い所へもほとんど行っていないようだった。もし、人の多い所へ出入りしていれば、オスカーの他にも誰かがアリオスを見つけ報告があって然るべきだろう。
それに、やはり次元回廊を通る人々の中にアリオスはいなかった。最後に姿を確認したいと、そう思っていたオスカーが、さり気無く、けれど全神経を集中させてその姿を捜したにも関わらず、見つけられなかったのだ。万が一、オスカーが見逃していたとしても、あの目立つ男が誰の目にも留まらないなどということがあるはずがない。
やはり、アリオスはアルカディアにいる。
そう思った時、オスカーの躰は考えるより先に動いていた。
「オスカー!?」
光の中、閉じようとする次元回廊の扉からひらりと飛び出たオスカーに、ジュリアスが慌てて呼び掛ける。
「申し訳ありません。…でも、俺はまだ行けない」
驚きに目を見開く女王たちに向かって頭を下げる。
「オスカーッ!!」
悲鳴にも似た響きでオスカーを呼ぶ女王の姿が強い光に薄れていく。
閉じかかった次元回廊を急に開くなど、女王の力を以てしても無理な話だった。
突然の出来事に為す術のないまま。
炎の守護聖をアルカディアに残し、次元回廊は光の中に消えた。
「守護聖失格、だな、これじゃ…」
それを見届けてオスカーは自嘲気味に呟く。
自分でも、こんな衝動的な行動を取るだなんて思ってもみなかった。
けれど、仕方がない。抑制しようとする理性を撥ね退けて、心が、躰が、訴えているのだから。
あの男に。アリオスに逢いたい、と。
「後悔するのは趣味じゃないからな」
感情の赴くまま、オスカーはアルカディアの街に向けて走り出した。
強い圧迫感を感じるのは、気のせいではないのだろう。
次元の狭間の収縮を抑えていた女王が去り、収縮のスピードは速まっている。このままいけば、明日を待たずしてアルカディアは消滅するに違いない。
「ったく、何処行ったって言うんだ、あいつは…!」
走り回って乱れた呼吸を整えながら、オスカーは苛々と唇を噛んだ。
街だけでなく、日向の丘や約束の地、エレミアまで捜して回ったにも関わらず、そこに人影を見つけることはできなかった。
「もう、いないのか…?」
もしかしたら、何らかの方法でアリオスはアルカディアを脱出したのかも知れない。
「それならいい…」
どこかで生きていてくれるのなら。
新しい生を全うしてくれるのなら、それでいいと思った。
「お前は、充分苦しんだんだからな…」
記憶を持たないのは、不安だろうとは思うけれど。
それでも、レヴィアスでも、アリオスでもない、全くの別人として新たな道を歩くには丁度いい。
そして。
あの旅の間、二人だけが持っていた秘めやかな記憶は。
自分一人で抱えていく。
「いない相手を捜し回って死ぬ俺は、歴代守護聖一の大馬鹿者だな」
オスカーは殊更軽い口調でそう呟いた。
恐らく、聖地からの助けは間に合わないだろうと思う。
次元の狭間から聖地に向けて次元回廊を開くことはできても、その逆は難しいはずだ。回廊を開く先の座標が不安定で容易には特定できないのだから。
「ここが最後か」
足を止めたオスカーの目の前には、銀の大樹があった。
ざっと辺りを見回してみるが、人影はない。
オスカーはその根元に腰を下ろすと、片膝を抱えるような体勢で俯いた。
「さすがに、ちょっと疲れた…」
呟きながら目を閉じる。うっかりすると眠りの淵に引き摺り込まれそうだ。
それも、いいかもしれない。眠っている間に宇宙の藻屑となるのも。
そんなことを思ううちに、もしかしたら、本当に眠っていたのかもしれない。
気配に聡いはずのオスカーが、近づいてくる気配にも、草を踏みしめる足音にさえ、暫く気づかなかったのだから。
「何してるんだ、アンタ」
その声に、オスカーの全神経は急激に覚醒した。反射的に顔を上げれば、じっとこちらを見下ろす色違いの眸。
捜していた。見つからないことに落胆しながら、反面見つからないことを祈っていたその相手が、アリオスが、そこに立っていた。
「確か…前に一度会ったよな」
その科白で、アリオスの記憶が失われたままであることが窺い知れる。何を言えばいいのか咄嗟に判断がつきかねて、オスカーはただ目の前の男を見つめた。
「一体どうなってんだ、ここは。住民は皆消えちまうし、異常な圧迫感はあるし。…アンタ、何か知って…、っ?」
尋ねようとした言葉が不自然に途切れた。
オスカーが、くっくっと小さく笑い始めたからだ。
「なんだよ、イカレちまったか?」
呆れたような、困ったような声には答えず、オスカーは片手で自らの顔を覆った。
自分は、何をしようとしていたのだろう。
逢いたいと。衝動に突き動かされるまま、守護聖としての責任を棄て、生命の危険すら顧みずに動いて。
けれど、自分にはこの男に掛ける言葉も、してやれることも、何一つないのだ。
アリオス、と名を呼ぶことさえできない。
ただ、消えゆく大陸と運命を共にするだけ。
「これじゃ…態のいい無理心中だ…」
小さく呟いた言葉は、記憶を失くした男の耳にも届いたようだった。
「…おい」
「なんだ?」
苦い笑みを浮かべたままオスカーが見返せば、男は真剣な表情でオスカーを見つめている。
「アンタ…。オレを知ってるな…?」
金と翠の眸が、相手のどんな些細な反応も見逃すまいとしていた。
「前に一度会ったと、さっきお前自身が言ってたじゃないか」
「そうじゃない」
さり気無く視線を外しながら返された、はぐらかすようなオスカーの答えに、男の眸が僅かに眇められる。
失くした記憶。曖昧な景色。自分の名前すら思い出せない。けれど。
瞼の奥に鮮烈に残っている、色彩がある。
「その髪の色も、眼の色も。綺麗だと…アンタに似合ってると、昔、オレは確かに思った」
「…っ!」
オスカーの眼が見開かれる。
「この前会った時も…。何故か懐かしい気がした」
男は跪き、オスカーと視線を合わせた。
「失くした記憶の中で、オレはオマエを知ってる。オマエもオレを知ってるはずだ。答えろよ。…オレは、誰なんだ?」
拒否も、偽りも許さない強い視線。
その視線に晒されて、オスカーの心の内を駆け巡るのは、葛藤と、そしてそれを上回る歓喜だった。
「言えよ、オレの名前を」
自分の内を巡る歓びに、オスカーは自分が今までどれだけ自分自身に我慢を強いていたのかを知った。
本当は、約束の地で姿を見たその瞬間から、呼びたくてたまらなかったのに。
「…アリ、オス」
丁寧に、甘ささえ乗せて紡がれたその音に、アリオスの中の何かが反応する。
「アリオス…。それが、オレの名前…。オレの…」
憶えている。頭よりも躰が。
自分の名を呼ぶ、この声を。この声で紡がれただけで、信じられない程甘く響いた自分の名前。
そして、まるで封印が解かれたように、溢れ出す記憶。
洪水のように、それは自分の中の空虚を満たしていく。幸せなものよりも、悲しく、苦しいもののほうが多いけれど。
それでも、決して手放したくない記憶。
取り戻した記憶が引き連れてきた感情の命じるままに、アリオスはじっと様子を窺っているオスカーを抱き締めた。
一瞬驚いたように身じろいだオスカーもまた、アリオスの躰に腕をまわす。
永らく欠けていたものがようやく戻ったような、そんな満ち足りた気持ちのままに、そうして暫く互いの体温を感じながら、時間が過ぎていった。
どれくらいそうしていただろうか。
突然、ドン、と大きな力が大地を震わせる。
「…そういや、なんなんだ、コレは」
名残惜しそうに躰を離してアリオスが言った。
状況を全く知らないアリオスに、オスカーは手短にアルカディアの状態を説明すると最後にぽつりと口にする。
「もうすぐ、次元の狭間が消滅する。この土地も、…この土地にいる、俺たちも」
ようやく、アリオス、と呼べるようになったのに。
それとも、最後にもう一度、抱き締められただけでも、幸せなのだと思うべきなのか。
「待てよ。アンタにしちゃ諦め良すぎだぜ?」
「アリオス?」
オスカーが訝しげに見遣ると、アリオスは何度か手を握ったり開いたりを繰り返して、何かを確かめるように頷いた。
「魔導が、使える」
「なんだって…!?」
取り戻した記憶が鍵となったのか、アリオスの躰には魔導の力までもが蘇っていた。
確かに、魔導の力であれば次元移動も可能だろう。ましてアリオスは元々が強大な魔導の力の持ち主なのだから。
「確かにお前のその力なら次元移動できるだろうが・・・。急激に収縮しているここじゃ、さすがに、何か突破口がないと無理だ」
そして、その突破口が見つからない。
オスカーの言葉に、アリオスが「ちっ」と舌打ちした時だった。
二人の背後にそびえたつ銀の大樹が光り輝いた。
「…なっ!?」
予測外の出来事に二人が振り向いたその先に、光り輝く銀の大樹に重なるように見える人影。
「…エルダ」
オスカーが呆然とその名を口にした。
「誰だ、それは」
状況を呑みこめないアリオスの問いに、オスカーが簡潔に説明する。彼こそが女王や守護聖、協力者たちを呼び寄せた、この地に封印されし者だ、と。
エルダは口を動かしながら二人を指差し、次いで中空を指差した。
「おい、コイツは何言ってるんだ?」
「エルダの声はお嬢ちゃんにしか聴こえないんだ。…?…お嬢ちゃん……もしかして?」
「なんだよ?」
何か思いついたようなオスカーの声に、アリオスが先を促す。
エルダの声を聴くことができたのは、新宇宙の女王、アンジェリークのみ。そして、今朝顔を会わせた時に彼女が言っていた言葉を思い出す。
「もしかして、本当に、時空移動するのか…?」
アンジェリークはエルダの夢を見たと言っていた。育成は間に合わなかったとはいえ、だいぶ力を蓄えることができた。その力を使って少し先の未来へとアルカディアを移動させ、そこで完全に封印を解くとエルダは言った、と。
「コイツがこのアルカディアを時空移動させるついでに、オレたちが次元移動する突破口を開いてくれるって言うのか…?」
アリオスの問い掛けに、エルダは静かに頷いた。
「エルダ、お前の力、本当にそこまでもつのか…?」
時空移動は多大な負担となるはず。そこへ更に、二人だけを別に移動させる道を開くとなれば、その負担は計り知れない。封印が完全には解けていない状態のエルダに果たしてそれが可能なのだろうか。
懸念を示したオスカーを、エルダは静かに指差し、次いで自分を指差した。
「俺がお前に?…そうか、サクリアか!」
強さを司る炎のサクリアでエルダの力を補填してやることで、負荷を軽くしようというのだろう。
この突破口さえ出来れば、後は魔導の力で還るべき宇宙へと戻ることができるはず。
未来へと繋がる道は、できた。
オスカーは、隣りに立つ男を見て言った。
「…戻ろう」
アリオスがニヤリと笑って返す。
「戻ったら、責められるかもしれないぜ?守護聖さんは」
「……いいさ」
逢いたかったのだ。名を呼びたかった。そして、抱き締め、抱き締められたかった。
それが叶った今、どんな叱責も批難も甘んじて受ける。
「ま、オマエの周りのヤツらが何を言おうと、いざとなればオマエを攫ってでも、二度と離してやらねぇよ」
まるで、オスカーの心を見透かしたように。
力強く告げられた言葉は、オスカーの心を暖かく満たす。
「…言ってろ」
照れ隠しのような科白を投げつけて。
オスカーはエルダにサクリアを送るべく、精神を集中する為に目を閉じた。
アルカディアが光の中に包まれた後。
次元の狭間は虚無へと還った。