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A Day In The Life -21th.-




 昼前からオスカーはずっとキッチンに立っていた。
グツグツと煮える、大きな牛肉の塊と数種類の野菜が入った鍋を見つめ、丁寧にアクを取る。時折、鍋を火から降ろすとスープを漉し、再び肉と野菜を入れて煮込み始める。材料の贅沢な使い方といい、手間のかけ方といい、レストランでメニューとして出しても充分通用するだろう。
 手間のかかる料理を、と選んだのだった。
ただひたすら鍋を見つめ、僅かなアクも残さず掬い、火加減に細心の注意を払う。
こうしている間は、余計なことを考えずに済んだ。
 気を抜けば、思い出してしまうから。
「アリオス」と名を口にした時の、アンジェリークの幸せそうな微笑。
「護ってやりたくなる」と言った時の、無意識に浮かべたアリオスの愛しげな笑み。
 アンジェリークはアリオスに恋をしている。きっと、彼女自身もその想いを自覚しているだろう。
 ではアリオスは・・・?
自覚し始めているはずだ。護ってやりたい、そう思う気持ちが何なのか。
 あの男は、本当に鈍いから。
きっと、問えば「妹みたいだ」とでも答えるのだろう。
 自分自身に関することには、本当に鈍い男だから。

 オスカーがようやくコンロの火を完全に止めたのは、既に七時近くになってからだった。
すぐにも崩れそうなほど柔らかくなった肉と野菜、丹念にアクを取り何度も漉して出来上がった澄んだスープをスープボウルに盛り付けてダイニングテーブルに並べると、アリオスがそれを見て言った。
「なんだ、それ」
「ポトフ」
「これを、昼前からずっと作ってたわけか?」
「手間かけた方が美味いんだよ」
「オマエ、ほんとによく凝るよな・・・」
「食いたくないなら、構わんぞ」
「んなこと言ってねぇだろーが。・・・あ。スープだもんな、余ってるよな?」
何かを思いついたようにアリオスが問うので、キッチンの鍋を指差して頷いた。
「配り歩くほどはないけどな」
「何処に配るって言うんだよ。・・・よし」
それだけ言うとアリオスはふいっと部屋を出て行く。それを眺めながら、オスカーは溜息をついた。
 スープ、冷めるぞ。
そんなことを思っていると、すぐにアリオスは帰ってきた。一人の少女を連れて。
「コイツ、今一人なんだとさ。レイチェルが研究室に呼び出されて」
「あの・・・」
アンジェリークが覗うようにこちらを見た。それに微笑を返してやる。どんな時であろうと、心がどんなに冷えていようと、笑みを浮かべることができる自分の習癖が有り難い反面、ひどく恨めしいと思った。
「ようこそ、お嬢ちゃん。お口に合うかわからないが、遠慮せずに食べてくれ」
空いた椅子を引いてアンジェリークを座らせるとカトラリーを用意し、もう一皿スープを盛る。
「よく言うぜ・・。普段は自信たっぷりに『美味いだろ』としか言わねぇ癖して」
「すごい・・。これ、オスカーさんが作ったんですか?」
「手間隙かけた自信作だ」
 どうぞ召し上がれ。
微笑んで見せながら、自分が酷く滑稽な芝居を演じていると思った。
 これで無意識だって言うんだから、お前はほんとに性質の悪い男だな。
「美味しい・・」と笑うアンジェリークに、「コイツ、異様に凝るからな」と返すアリオスを見ながら、オスカーは心の中で呟く。
 自ら此処まで招き入れるほど、アンジェリークはアリオスの心に入ってきているのだ。
この部屋は、二人の領域だったはずなのに。その中にアンジェリークを招き入れたという意味を、この男は意識していないのだろう。
 ほんの一週間前にセイランに指摘されたばかりだというのに、この男は自分のテリトリー意識を認めていないに違いない。この部屋に他人を入れることを不快に感じる、そんな自分を認めていれば、こんな無防備に彼女を此処へ連れてきたりはしなかったはずだ。
 お前は、無意識だからいいだろうさ。
澄んだスープを口に運びながらオスカーは思う。
 何故だろう。あれ程手間をかけて作ったポトフの味がわからない。まるで、幽体離脱でもして、離れたところからこの食卓の風景を見ているようだ。
 アリオスは、無意識の行動だからいい。けれど、アリオスのその、無意識の行動に隠された心の動きがわかってしまうオスカーはどうすればいいというのか。
 勘弁してくれよ、慣れてないんだぞ。
自分自身に向かって冗談めかして呟いてみる。
 恋愛経験は豊富だと自他ともに認めていた。けれど、こんなケースは初めてだ。
相手を突き放すことも、自分から去ることも出来ずに、ただ相手の行動を黙って受け容れるなど。
 いつだって、女性と付き合う時は真摯につきあったけれど、相手が本当に恋に溺れる前に終わらせた。相手を愛しいと思ったことに偽りはなかったが、未練を残すほど深入りはしなかった。それなのに。
 こうやって、引導を渡されるのを待っているのか。
こんなにも息苦しい日々を送りながら。
 それでも、自分から離れていけないなんて、バカだな。
カップボードの磨かれたガラスに映る自分の姿に、オスカーは声に出さずに語り掛けた。



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