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A Day In The Life -17th.-




 一見変わりのない日常が過ぎているように見えた。
オスカーは相変わらず料理に凝るし、アリオスは相変わらずそれを呆れて眺めている。ベッドが早い者勝ちなのも変わらない。けれど、ほんの三日前と比べて、明らかに接触が減った。互いに何食わぬ顔で、気づいていない風を装って、たが痛いほど自覚している。
 どちらが変わったのかといえば、それは間違いなくアリオスの方だった。
昨日も夜帰ってきたあと、何か言いた気にオスカーを見ているのに、尋ねれば「いや・・・」と言葉を濁す。はっきり言えばいいものを・・・と思う反面、おそらくアリオス自身にも自分の感情を整理できていないのだろう、と容易に想像がつくのでオスカーも、「ならいいが・・・」と流してやった。
 エリスという女性がアリオスにとってどんな存在なのか、そして恐らくエリスによく似ているのだろうアンジェリーク・コレットという少女がアリオスの中でどういう存在になろうとしているのか、オスカーは知らない。アリオスが話そうとしなければ訊くこともないだろう。
 ただわかるのは、自分たちが砂の城のように不安定な場所に立っているということだけだ。いつ崩れるかも知れない、そんな均衡の上で生活している。
「お前、今日はいるんだろ?」
ソファに寝そべっているアリオスにそう声をかける。
「あぁ。・・・雨ン中出てくのも面倒だしな」
「じゃあ、キッチンにクラブハウスサンド作っておいてやったから、それ食えよな」
「出掛けんのか?」
いつもよりほんの少しだけ畏まった恰好に着替えたオスカーを見て、アリオスが上体を起こして尋ねた。
「ああ。メルに買い物に付き合ってくれって頼まれてな。・・・もうそろそろ来る頃なんだが」
そのセリフを待っていたかのようにブザーが響き渡る。
「随分珍しいヤツと買い物だな・・・」
そういうアリオスに、麻のジャケットに手を通したオスカーが笑った。
 メルとは、このアパルトメントから三分ほどのところに住んでいる少年である。確かトルコの方の出身だと以前聞いたような気もするが、正確なところはよく知らない。元々ソーホーは移民の多い街で、生粋のイギリス人の方が少ないのだ。斯く言う二人もイギリス出身ではない。
「スマイソンとザ・ペン・ショップに行きたいんだそうだ。あの子みたいな子供が一人で入るにはちょっと敷居が高いだろ」
そんなわけで俺が付き添いなのさ、と苦笑しながらオスカーは部屋を出て行った。

 リージェントストリート沿いにあるザ・ペン・ショップはその名が示す通りペンの専門店だ。ショーケースの中に一流メーカーの万年筆やボールペンが並ぶ。そこから三〇〇メートル程離れたニューボンドストリートにあるスマイソンは英国王室御用達の文具店で、高級感溢れる文具が並んでいる。どちらの店も、十代の少年が一人で入るのに躊躇するのは当然だった。
「サラお姉ちゃんと、パスハさんにプレゼントするの」
雨の中、綺麗に包んでもらったプレゼントが濡れないように両手でしっかり抱え込んだメルが嬉しそうに言った。
 サラとは、メルの従姉で雑誌の恋愛相談コーナーをいくつも抱えるロンドンの女性たちの恋愛の神様だ。「イイ女」を具現したような人物で、スーパーモデルに勝るとも劣らないスタイルを誇るエキゾチックな美人である。
 パスハはサラの夫で、ロンドン大学で教鞭をとっている。レイチェルの困った従兄、エルンストと同じチームで研究をしているらしい。冷静で理知的な容姿ながら、きっと、バスケットボールやバレーボールチームから誘いがひっきりなしだったであろうと容易に想像がつくほどの大男だ。なにせ、一九〇センチ弱の身長を誇るオスカーやアリオスが、パスハのことは見上げなければならないのだから。
この夫婦の間にはつい先日ファルウという名の男の子が生まれ、メルと合わせて四人で暮らしている。
 ちょうど夕飯時であるし、と帰り道にあるサイゴンという、ベトナム料理のレストランに入った。勿論オスカーの奢りである。買い物に付き合ってもらった上に奢ってもらうなんて、というメルに、大人の好意は素直に受けとっておくもんだぜ、とオスカーは笑った。
 本当は、アリオスと二人で過ごす時間をほんの少し先延ばしにしたいだけだ。感情の整理がつきかねているアリオスは、不器用さに輪がかかっていて、そ知らぬ顔をしてやるのも骨が折れる。いっそのこと、単刀直入に訊いてしまおうか、などと思えてくるから嫌なのだ。
「ファルウが生まれて、二人にはもっともっと仲良くして欲しいから、これはそのおまじない」
「おまじない?」
出てきた料理を頬張りながら、メルが説明してくれた。
 艶やかに黒く光る漆塗りの柄に、シリアルナンバーが刻印された万年筆はパスハに。
 上質な鞣革の箱に入った、品のいい金の箔押しで装飾されたレターセットはサラに。
二人にとって大切な事柄を伝える為に手紙を出す時にだけ、その万年筆とレターセットを使うこと、二つのアイテムを一緒にはしておかないこと、そしてそれぞれがしまう場所を秘密にすること、この三つを約束して。
 メール全盛の今も、本当に大切な事柄は自筆の手紙であることが基本だから。何か大切な手紙を書かねばならない時、二人が揃っていなくては手紙を書けないように。万年筆だけでも、レターセットだけでも手紙は書けない。二人がそれぞれ自分の万年筆とレターセットを持ち寄って初めて、手紙を出すことが叶うのだ。
「へぇ・・・。素敵なおまじないじゃないか」
そう褒めると、メルは嬉しそうに頷いた。
「でしょう。オスカーさんも、大好きな人に、万年筆かレターセット、プレゼントしてみるといいよ」
「大好きな人、ねぇ・・」
「いないの??ずっと一緒にいたいって思える人。オスカーさん、モテるのに・・」
 その言葉に、オスカーの心臓がきり、と痛んだ。
ほんの数日前だったら、冗談でアリオスに万年筆を贈ったかもしれない。アリオスもきっと、「くだらねぇ」と言いながらどこかにしまっておいたかもしれない。
 しかし、今それをしても、二人の間の空気がさらにぎこちなくなるだけだ。
未来を約束するはずのまじないが、未来を束縛する足枷にしか見えなくなるに違いない。そしてそれは、確実にアリオスの心を追い詰めるだろう。
「いるさ。・・・向こうはどう思ってるのか知らないけどな」
メルに沈黙を不審がられないうちに、肩を竦め、冗談めかして告げる。
「相手の人も、そう思ってるといいね・・」
しんみりと呟いたメルの言葉が、ひどく胸に響いた。



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