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La lune est invité par un piano.

 
 
 
 たとえば。
たとえば、偶然と偶然が重なったら、それは必然なのだろうか。
それとも、偶然と偶然が重なるという、偶然、なのだろうか。
 
 
 
 深夜の聖地を徘徊するのは、闇の守護聖の日課のようなものだ。まるで自らが司る闇に同化したかのように、音もなく静かに鬱蒼と繁った森を歩く。
 今夜もそうやってクラヴィスは夜の森を歩いていた。
 自分が一体聖地の何処を歩いているのか、正確には把握していない。だが、幼少の頃から過ごしている場所だ、いずれ見知った場所に出るだろう。
 万が一戻れなくなったとしても、それはそれで構わない。
 サクリアという厄介な力がその身に宿る限り、そう簡単に命を落とすことはありえないし、居場所もすぐに特定されてしまうだろう。尤も、その後に洩れなく首座の守護聖のお小言が待っているかと思うと、クラヴィスとしても、あまり迷子になりたいとは思わないが。いくらクラヴィスが光の守護聖のお小言を聞き流すのに慣れているとはいえ。
 満月の光が木々の間から降り注ぐ森を歩いていると、水音が聴こえてきた。せせらぎというにはやや豪快な音であるところからすると、ここは滝が近い場所なのだろう。
 
 
 
 たとえば。
たとえば、偶然と偶然が重なったとして、それを必然と呼ぶのだとしたら。
最初の偶然も、実は必然だった、ということになるのだろうか。
 
 
 
 滝の水音に混じって微かに流れてくる、別の異質な音をクラヴィスの耳は捉えた。
 微かだが、聴こえてくるのは、ピアノのメロディ。
どこか、この近くの邸からだろう。聖殿を中心に囲むように繁った森の多いこの辺りは、聖地の一般人の居住区はなく、点々と守護聖の邸があるだけだが、滝に近いあたり、としか現在地を認識していないクラヴィスには、この近くに誰の邸があるのかなどはわかりようもない。
 そういえば、以前にもこのメロディを聴いたことがある。
あれはいつだったか・・・。そう、やはり今夜のように満月の夜だった。聖地は常春だが、それでも少しだけ夏らしい気のする、湿度の高い夜。繁った森の中に、白いヘリオトロープが群生して、辺りに甘い香りが漂っていた。今も・・・振り返れば白い花が誘うように揺れている。
 一体、誰が弾いているのか。
流れてくるメロディはクラヴィスの知らない曲だったが、美しくどこか哀しげで、聴く者の心に染み渡る。
 以前、このメロディを耳にした時も、クラヴィスは足を止めて暫く聴き入った。ただ美しい曲だと思い、そのままにして歩き去った。
 だが、このメロディを聴くのは今夜が二度目。今夜はもう少し間近で聴いてみるのもいいだろう。奏者の顔を見るのも一興だ。
 クラヴィスは暫く耳を澄ますと、音の聴こえる方へと足を踏み出した。
 
 
 
 たとえば。
たとえば、すべてが必然だったのだとしたら。
それは、運命、と呼べるものなのだろうか。
 
 
 
 繁った森を音のする方向へと歩き始めて少しすると、微かだったピアノの音はだいぶはっきりと聴こえ、代わりに滝の水音が遠のいた。
 クラヴィスは足音もなく音源へと近づいていく。やがて、邸の影が見えた。
(ここは・・・。)
 誰の邸なのかはクラヴィスにもわかった。
今の主になってからは訪れたことのない邸だ。一瞬、このまま踵を返そうかと躊躇するが、恐らくは邸の使用人なのであろう、ピアノの奏者の顔を見るくらい構わないだろうと足を動かし続ける。
 森はそのまま、邸の裏庭へと出て終わった。
 開け放たれたテラスに続く部屋に置かれた一台のグランドピアノ。
 そのピアノの前に座る人物を見て、クラヴィスは足を止めた。
 
 
 
 たとえば。
たとえば、運命と呼ばれるものがあったとして。
それは、突然目の前に現れるものなのだろうか。
 
 
 
 邸の使用人だろうとばかり思っていたピアノの奏者は、クラヴィスにも充分見覚えのある男だった。
 メロディは繰り返し紡がれている。
 鍵盤の上を滑る様に動く指は細く長い。剣を握るよりも、こうやって鍵盤を叩いてるほうがしっくり見えるほど。
 降り注ぐ月光の中、艶やかな緋色の髪が揺れる様は、誰もが見惚れるだろう、と思えるほどには美しい。
 これが、炎の守護聖の姿なのか。
昼の陽光の中、あの厳格な首座の守護聖の脇に控えている姿からは想像もつかないほど、その姿は静かだ。夜の人口の灯りの下、女性を伴っている時のような華やかな空気も、今は鳴りを潜めている。
 やがて、ピアノの音は止んだ。
クラヴィスの視線に気づいていたのか、オスカーがゆっくりと視線をあげる。
「これは随分と珍しいお客だ。」
さすがに、視線の主が闇の守護聖だとは思っていなかったのか、オスカーは僅かに眸を見開いた。
「お前がピアノを弾けるとは思わなかった。」
空気に溶け込んでしまいそうな静かな声で、クラヴィスがそう告げると、オスカーはおどけたように肩を竦めて見せる。
「こういった芸術的なこととは無縁の、武骨な男に見えましたか。」
 まあ、それもそうでしょうね、と呟きながら壁際のカップボードからグラスを二つ取り出し、テラスに置かれたテーブルに置いた。裏庭に佇んだままのクラヴィスにデッキチェアを指差して声をかける。
「どうぞ。貴方と俺なんて、滅多にない取り合わせだ。人知れず酒を酌み交わす、というのも一興かもしれませんよ。」
 森の中に咲いていた、ヘリオトロープの香りがここにまで届いてるように感じた。
 
 
 
 たとえば。
たとえば、目の前に突然、予想だにしない運命、というものをつきつけられたとしたら。
そこから逃れることは叶わないのだろうか。
 
 
 
 「あの曲は、なんというのだ・・・?」
 元々寡黙なクラヴィスと、そのクラヴィスとは個人的な会話など殆ど交わしたことのないオスカーだ。酒を酌み交わす、と言っても、グラスを傾けつつ、ぽつりぽつりと言葉が交わされるにすぎない。二言三言、言葉を交わすとすぐに辺りを静寂が包む。
だが、それは決して居心地の悪いものではなかった。言葉で埋らない静寂は、遠くでザーッと流れる滝の水音とヘリオトロープの甘い香りが埋めてくれた。
「随分前に見た映画のプロローグに流れていた曲でね・・。」
 なんという名前だったか・・・。
そう言って少し遠くを見るように考えこむオスカーに、「わからぬなら、別にかまわぬ」とクラヴィスが告げる。
「お役に立てず申し訳ない。映画のシーンと、それに合ったメロディの美しさの印象が強くてね。タイトルはあまり気にしていなかったんですよ。」
 苦笑してそう言うオスカーは、やはり常日頃の彼とは違って見えた。
「どんな・・。」
「え?」
「どんな映画だったのだ・・?」
 あれ程美しいメロディの似合う映画とは、と興味を抱いたのが半分。そのメロディを人の寝静まった夜中、月光の下で静かに弾いていたオスカーに興味を抱いたのが半分。その興味の下には、この心地よい時間をまだ終わらせたくない、という気持ちが隠れていたのかもしれない。
「大きな運命を背負わされた少年の話でしたよ。」
 グラスに酒を注ぎ足してオスカーが言った。
「何も知らないまま、運命の渦の中に投げ出されて、必死になって戦う少年と、やはり大きな使命を背負った少女の話。映画は、少年の回想を追う形で始まるんですよ。少年は実は誰かの夢の中の存在で、それが実体化しているだけの不安定な存在で。その事実を知らされた彼は、だがまだ自分が大きな運命をも背負っていることを知らない。自分の存在に不安を感じながら、けれど目前に、守ると誓った少女の、死を覚悟した使命の時が迫っていて。彼女を死なせずに済む方法が思い浮かばなくて、それをなんとか先延ばしにしたい一心で回想を始める。そのシーンが映画のプロローグなんですよ。」
 そこに、あのメロディが流れるのだとオスカーは告げた。
「何故でしょうね。もっと感動的な映画も、面白い映画も、何本も見てるはずなのに、とても印象深いんですよ。プロローグで、少年の言うセリフが、何故かとても強く灼きついてる。」
 デッキチェアに背を預けて、夜空に浮かぶ月を眺めながらそう呟くオスカーの横顔を、クラヴィスは静かに見つめる。
「少年は、なんと言うのだ・・・?」
 その問いに、オスカーは一瞬クラヴィスを見つめると、すぐに視線を外して再び満月を仰いだ。
 
 
 
最後かもしれないだろ。だから、全部話しておきたいんだ。
 
 
 
「お前も、誰かに話したいのか・・・?」
クラヴィスがそう問うと、オスカーは困ったように笑って首を振った。
「まさか。そうじゃありません。そうじゃないが・・・。」
「ではなんだ?」
「今夜は随分と積極的ですね。」
オスカーがからかいの言葉を口にする。
 クラヴィスがこうも尋ねるのは珍しいことだった。普段は露程も他人に興味を抱かない男だということは、疎遠だったオスカーも充分承知している事実だ。
「お前が、常らしからぬように、な。」
そう返してやれば、オスカーは黙って両手を軽く挙げて見せた。降参、というのだろう。
「思い出すだけですよ。」
穏やかな声だった。
 優しい光で辺りを照らす満月は、既に天頂を過ぎ、傾き始めている。
「最後かもしれない。いや、最後だと知っていた。だから、すべてを話しておきたいと、そう思った時のことを、ね。」
 結局、誰にも話しませんでしたけど、とオスカーは微かに笑った。
「ちょうど、こんな夜だった。初夏の、少し湿度が高い満月の夜。だから、こんな夜になると、ふっと思い出すんですよ。そうすると、連想ゲームみたいにあの映画のシーンを思い出して、弾きたくなるんです。」
 まさか観客が来るとは思いませんでした。
そう告げるオスカーに、クラヴィスも僅かに笑ってみせる。
「それは済まぬことをした・・・。」
「いいえ。お耳汚しで失礼を致しました。」
 クラヴィスがグラスを置いて立ち上がると、オスカーもデッキチェアから上体を起こした。
「お帰りになりますか?」
「いや・・・。」
その答えに、オスカーが訝しげに首を傾げる。
「思い出すのは・・・。」
「・・?」
 言葉の続きを待つオスカーに、クラヴィスの影が覆い被さった。
 体重を感じさせない、羽のような軽さで降りてきたクラヴィスのくちづけは、まるで、傾き始めた月の光の代わりのように柔らかくオスカーの唇を啄むとすぐに離れる。
「思い出すのは、聖地に来る前の自分、か・・・?」
唇は離れたものの、まだ至近距離にある紫紺の眸が氷碧の眸を覗き込んで尋ねた。
「嫌な人ですね・・。」
 そういうことは、そんな単刀直入に訊くものじゃないですよ、とオスカーが苦笑する。
 不思議だった。
こんなに親しく言葉を交わしたのは、初めてと言っても過言ではないはずなのに、こうして触れ合うことに何の嫌悪も感じない。それどころか、快いとさえ感じている。
 オスカーは凍てついた闇夜の如く何事にも無関心を貫くクラヴィスに反発し、クラヴィスもまた、真夏の陽光の如く容赦なく人を断罪してみせるオスカーを煩く思っていたはずなのに。
 だが、それは互いの一面だけを見ていたに過ぎなかったのだと、二人は既に知っている。
 凍てついた闇夜は、その反面すべてを覆い隠してくれる優しい帷であり。
 真夏の陽光もまた、その反面で周りを照らし暖める静かな灯火でもあった。
「これは、感傷的な俺への慰めですか?」
「いや。」
クラヴィスの体温の低い指先が頬から唇にかけてをなぞるのに任せたままオスカーがそう尋ねると、クラヴィスはフッと笑って首を振った。
「では、なんなのか、はっきりして貰えませんか?」
クラヴィスの手を軽く掴んで止め、オスカーが先程とは逆に、クラヴィスの眸を覗き込む。言葉はきついが、オスカーの眸は笑みを滲ませていた。
「そうだな・・。さしずめ、ピアノの礼、と言ったところか。」
「礼、ね・・・。それならば、ありがたく受け取ることにしましょうか。」
 その言葉を合図に、クラヴィスが再び、月光のように覆い被さった。
 
 
 
 
 
 
 言葉はなかった。
クラヴィスの指が、唇が、肌を擽るたびにオスカーの躰は熱を帯び、甘い吐息を洩らす。その吐息も、すぐにクラヴィスの唇に吸い取られてしまう。
 シャツが肌蹴られ、外気に触れる胸元を、漆黒の絹のような髪が滑るとオスカーの躰がびくん、と跳ねた。
漣のような低い笑い声が耳元を嬲り、オスカーは首を振って逃れようとするが、頬に添えられた冷たい指がそれを許さない。まるで力は込められていないのに。
 初心な生娘のように、躰の反応を隠せないのは何故なのか。
けれど、否応なしに追い詰められていく躰は止めることができず、オスカーはクラヴィスの髪を一房掴んだ。
それに気づいたクラヴィスが、深く唇を合わせる。
 深夜、繁った森に続く裏庭に面したテラスとはいえ、声が洩れれば使用人が起き出す可能性もある。話し声と違って、こんな時に洩れ出る声は自分でも調節するのが難しいものだから。堪えきれない喘ぎを、クラヴィスに口移しで預けた。
 二人分の重みがかかるデッキチェアがギシギシと音を立てる。それに気づいたクラヴィスがオスカーを部屋の中へと促した。
 グランドピアノが置かれているこの部屋は、窓を閉めれば完璧に近い防音を誇る。
 ソファまで行くのももどかしく、二人はピアノを背に抱き合った。冷たいピアノが熱を帯びた躰に心地よい。
 反らした首筋に軽く歯を立てられると、鼻に抜けるような喘ぎが止まらない。クラヴィスの指は胸の飾りを嬲ったあと、すっと脇腹を擽るように下り、既にその手を待ち侘びて蜜を湛えるオスカー自身へと辿り着いた。
途端にびくっとしなる躰を押さえ、クラヴィスはオスカーの躰を反転させる。胸が冷たいグランドピアノに押し付けられる感覚にすら、オスカーの躰は鋭く揺れた。
 
 
 
 窓は閉めきったはずなのに、ヘリオトロープの甘い香りがどこからともなく漂ってくる。それは二人の熱い息遣いと相俟って、室内の空気を濃厚なものへと変えていった。
 熱く荒い息遣いだけで、言葉もなく二人は交わった。
飽きることなく、やがて、月が完全に傾くまで。
 
 
 
 窓に背を預け、眠るオスカーを腕に抱いたまま、クラヴィスはそっと外を振り返った。
 月は白く頼りなげな影となり、眩しい朝日がもうすぐ聖地の空を染めるだろう。
 さて、ここから一体どうやって帰るのか。そんなことを思うのも面倒だ。ピアノに誘われ、疎遠だった男の意外な横顔を見た。熱い躰と甘い声を知った。今は腕に抱いたぬくもりが酷く離し難い。それで充分だった。
 この部屋に日が射し込んでくる頃には、オスカーも目を醒ますだろう。それまではこうしているのも一興。
 一夜の夢と片付けるのか、新たな始まりと受け止めるのか。それは眠る男に委ねればいい。だが、あのメロディはもう一度聴きたい。そんなことを思いながらクラヴィスも眸を閉じた。
 
 
 
 たとえば。
たとえば、それがただの偶然の積み重ねであったとしても。
たとえば、それが運命という名の逃れられない必然の積み重ねであったのだとしても。
 
 
 
 分け合った熱も、交わした言葉も、幻ではない。
その真実さえあれば、それで構わない。