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Just For You And Me Now

 
 
 
 しとしとと雨が降る。
細い絹糸のような静かな雨が降る。
森全体をしっとりと濡らし、まるで時が止まったかのように。
まるで、時を止めてしまいたいかのように。
 
 
 
 妖精たちの軽やかな笑い声が漣のように近づいてくる。それは、一人の男がこの場所に近づいてきていることに他ならない。
 アリオスは剣呑な眼で音の近づいてくる方向を一瞥すると、ごろりと横になった。
やがて、漣のような笑い声は少し離れたところでピタッと止まった。森の住人達は決してそこから立ち入ろうとはしない。懸命な判断だ。アリオスはそう思う。自分が彼らの立場でも、やはりそうするだろう。そこまで考えて、すぐに姿を現すであろう唯一の例外の顔が頭に浮かんできたことに舌打ちする。
だが、アリオスが頭の中からその顔を払拭する前に、本物が木々の合間から姿を見せた。
「よう。元気か?」
「…八日前にも同じセリフ聞いたぜ」
「ああ、芸がなかったな。次は別の挨拶をするさ」
天上から射してくる満月の光を背に笑う男の名を、オスカーと言う。この森で唯一人、アリオスとまともに口を利く人物だった。
「オマエ、ほんとに暇なんだな」
アリオスが横になっている場所から少しだけ距離を置いてオスカーが腰掛けると、アリオスは身を起こしながら心底呆れたようにそう声をかける。
「世界を飛び越えて会いに来てやった相手に暇とは失礼な」
「…それが暇だっつってんだろーが」
まともに突っ込む気力も萎えたのか、アリオスは力ない口調でそう言った。
 世界を飛び越えて。
オスカーの言葉に嘘はない。文字通り、オスカーはこの世界を飛び越えてやって来るのだ。南の果ての魔女の森から、この、北の果ての魔王の森へと。ただ、アリオスに会うために、十日と空けず、飽きもせずに。
 誰も止めねぇのか、南の連中は。
オスカーがこうして姿を見せる度にアリオスはそう思う。北と南の森の住人は互いに干渉しないのがこの世界の不文律。南の森の住人であるオスカーがこうも頻繁に北の森へと足を運ぶことは、あまり褒められた行為ではない。しかもオスカーは、易々と世界を飛び越えられるほど、かなり強大な魔力の持ち主だ。
先ほどのニンフ達などは歓迎しているが、この北の森の住人の中にもオスカーの来訪の度に眉を顰める者はいる。当然オスカーの住む南の森の住人とて良い顔をするとは思えない。
だがオスカーは何を気にした風もなく、いつも飄々とアリオスの前に現れるのだった。
「お前、西の砂漠の都の祭り、観た事あるか?」
今夜の話は祭りの見物譚らしい。
 北と南の森の間に広がる世界のあちこちで見聞きした話や、南の森の一風変わった住人たちのこと、何処ぞの名人が作るワインの美味さについてや、名工が作ったという武具の話まで、殆ど聞き流しているアリオスから見ても、驚愕に値するほどオスカーの話題は豊富だった。沈黙が怖いタイプなのかとも思ったが、此処へ来てもただ黙って月を眺めていたりすることもあるのでそういうわけでもないらしい。
 オスカーがアリオスの処へ来るようになってからどれくらいの時が流れたのか、アリオスにもわからない。疾うに百年は過ぎていることは確かだ。
 何の魔力も持たない人間から見れば想像することも困難な程永く長い時間を生きる自分達ではあるが、それでも百年という時間が長い事に変わりはない。
 その長い時間を経て、尚飽きもせず通ってくるオスカーは、アリオスには到底理解不能である。
今でこそ根負けしてこうやって普通に会話を交すようになったが、オスカーが此処へ来るようになった当初、アリオスは「帰れ」としか言わなかった。今でもそう思うことに変わりはないが、以前ほど鬱陶しいと感じることはなくなった。それは良くも悪くも、アリオスの冷たく取り付く島もない態度を全く意に介さなかったオスカーの図太さの勝利と言える。
「アンタ、ほんとに何で此処に来るんだ?」
自分の膝をテーブル代わりにして頬杖をついたアリオスは訊いた。
「帰れ」と言わなくなった代わりに、いつしか習慣のように繰り返されるようになった問い。
 そして返されるのもいつも同じ答え。
「お前が好きだから」
オスカーはいつも笑ってそう答える。
 冗談で返すならもう少し笑える冗談にしやがれ。
そんなことを考えながらアリオスは視線をずらして呟くのだ。いつも通りに。
「…ホントにめでたいヤツ」
 
 
† † † † †
 
 
 この世界の北の果てには大きな森がありました。
見たこともないような美しい色の花々と、赤く熟れた果物。
枯れることを知らない木々と、尽きることを知らない澄んだ泉。
痩せることを知らない大地と、止まることを知らない清かな風。
楽園という言葉のよく似合うその森は、魔王の森といいました。
 
 
† † † † †
 
 
 世界の北の果てに広がる森を治めるのは、北の魔王。
 世界の南の果てに広がる森を治めるのは、南の魔女。
 二つの森の間に広がるのが、人間の世界。
何の魔力も持たない人間は自分たちの世界の北と南の果てに広がる森の存在すら知らず、森の住人たちはからかい半分で時々人間の世界にちょっかいを出す。森の住人の足跡は、人間の世界で伝説や御伽噺になった。
 無力な人間の世界に本気で関わる事はしてはいけない。
 無力な人間に本気で関わってはいけない。それは暗黙の了解。
何故なら人間は、自分たちに比べて余りに無力で儚い存在だから。森の住人にとっては瞬きほどの時間で、彼らはその生を終えてしまう。生命の長さを弄ること、それは南の魔女や北の魔王の魔力を以てしても不可能な神の領域なのだ。どんなに心を通わせても、確実に別離はやってきて、そして逝く者には深い哀しみと未練を、残される者には耐え難い喪失感を齎す。
 だから決して本気で人間に関わってはいけない。
ただそうすることだけが哀しみを遠ざける。
永い時を生きる森の住人たちの、それは最も破らざるべき禁忌だった。
 
 
 
 北の森の奥では、今日も進展のない会話が続けられていた。
「アンタ、いつまでこんなつまんねぇ遊び続ける気だ?」
「つまらなくはないさ」
呆れた顔を隠そうともしないアリオスと、呆れられることを意に介そうともしないオスカー。
寝台のように平らな、けれど冷たい岩の上に寝転がっているアリオスと、そこからほんの少し離れた所に座っているオスカー。
 ここのところ、以前にも況してオスカーの来訪の回数が増えている為、それは最早普遍的ともいえる構図である。
 元々十日と空けず現れていたが、最近は三日と空けずに通ってきていた。殆ど毎日と言ってもいいだろう。
 相変わらずアリオスはオスカーを邪険に扱っているが、その実、オスカーがそこにいることにすっかり違和感を感じなくなってしまっていることを、本人は意識していない。
 もしくは、無意識にそれを認める事を拒んでいる。
それを認めてしまったら、なし崩しにオスカーの言う事を信じてしまいそうで怖かったのだ。アリオスの思考を支配するのは、潜在的な恐怖だった。
だから意識することを拒否し、アリオスは自身がオスカーのことを邪魔に感じていると思い込む。ふざけた掛け合いじみた会話と、それを構成するアリオスの声や口調は、傍で聞く者がいれば確実にオスカーに気を許しているそれであるとわかるのに。
 そしてそれは、対象であるオスカーにもわかっていることなのに。
「好きな相手の顔を見られる。声を聴ける。どこがつまらない?」
悪戯をする子供じみた笑顔でオスカーがそう言えば、アリオスは相手にするのも馬鹿らしいと片手をひらひらと振ってみせた。
「酷いな。信じてないだろ、お前」
「言っとくが、オマエのそのテの言葉を信じるヤツはこの世の何処にもいねぇと断言できるぜ」
 失礼な、と肩を竦めるオスカーは、それならば、とアリオスに向き直る。
「じゃあ、どうすればお前は俺の言葉を信用するんだ?」
「信じねーよ。アンタが何したところで、信じられるか、そんな言葉」
アリオスの返答は本気でありながら軽口の域を出ない言葉で。
「…お前に触れたいと思っている、と言っても?」
紡がれたオスカーの言葉も、軽口の延長のような響きを持ちながら。
 けれど口にしたのは、触れてはいけない禁忌。
すっと表情を強張らせたアリオスが、立ち上がりオスカーを睨み付けた。
ビリビリと空気が震え、遠くに聞こえていた妖精たちのさざめきもピタリと止まる。
「……消えろ」
低く唸るように言うその姿は、まるで手負いの獣のようで。
座ったまま、オスカーは眸を眇めた。
 手負いの獣。
アリオスを表現するのにこれ程適切なものはないとオスカーは思う。
 傷ついて、威嚇することで周囲を遮断して。
これ以上傷つくことのないように必死になっている。
それが小さな猫ならば、無理に抱きかかえて傷を手当てしてやることも出来るのだが、目の前にいるのは獰猛な肉食獣で、手を出せばこちらの命が危ない。
 本当に、命懸けだな。
オスカーは胸の裡でひっそりと力ない笑みを零す。
「…わかったよ」
飽くまでも軽い態度を崩さずに、オスカーはすっとその場から姿を消した。
 
 
† † † † †
 
 
 遠い昔、北の森の住人が人間の少女と恋に落ちました。
強い魔力を持って生まれた漆黒の髪の森の住人は、人間の命の砂時計の速ささえ変えてみせると信じていました。
神の領域さえ、自らの魔力で凌駕してみせると、彼は儚い人間に生まれた恋人に誓いました。
 そんなことできるはずがない。それは絶対に踏み込めない神の領域だと、森の住人たちは口を揃えて言いましたが、けれどその一方で、彼ならばそれを為し得るかもしれないと淡い期待を抱いていました。
 何故なら、森の住人の破らざるべき禁忌を破った彼は、北の森の魔王だったのです。
 
 
† † † † †
 
 
 あれ以来、オスカーはぴたりと姿を見せなくなった。
オスカーの来訪を歓迎していた妖精たちの漣のような笑い声もあまり聞こえなくなり、アリオスの周りには以前の静けさが戻ってきている。
 そう、以前はこんな風に静かだった。
相変わらず冷たい岩の上に寝転がりながら、アリオスは思い出す。
 あまりに長い間足繁くオスカーが此処へ通い、そしてあの男の持つ華やかな雰囲気に感化されるようにこの森の空気も少し華やいでいたのだと、今更実感した。
 そして、自分もまた、あの男が近くにいることに慣れてしまっていたのだということも気づいてしまった。
 馬鹿馬鹿しい…。
忌々しげにアリオスは舌打ちする。
もう二度と、他者を自らのテリトリーには入れないと誓ったはずなのに、あの冗談しか言わないような男のペースに巻き込まれていたことに愕然とした。
だから、先日の一件は好都合だったのかもしれない。
 オスカーはもう此処へと来ることはないだろう。
何故来るのかと問えば、いつも「お前が好きだから」などと笑えない冗談で誤魔化していたが、どうせ下らない好奇心で通っていたに違いない。誰も傍へ近づくことの出来ない自分の、どこまで近くに迫れるか。そんな好奇心だったのだろうと思った。
 確かにオマエは一番近くまで来たヤツだよ。
自嘲するような笑みを唇に敷いて、アリオスは二度と会うことのないだろう男に語りかける。
 誰もアリオスの傍へは近づこうとしない。それは、アリオス自身が誰も自分の傍へ寄せつけない為にかけた魔術の所為。
そうして、アリオスはここで孤独に時を過ごすことを選んだ。
 他者と関わらないこと。それだけが喪失の痛みを遠ざける。
喪う痛みに比べれば孤独の方が何倍もマシに思えた。だから、今回のこともこれでよかったのだと自身を納得させる。
 オスカーが傍にいることに、もっと慣れてしまわないうちに遠ざけることが出来てよかった、と。
此処がやけに広く感じるのは気の所為に違いないと決め付けて。
 そういえば、燃えるように緋い髪を持っていたあの男は、やはり触れると暖かかったのだろうかと、そんなことをぼんやりと考えながら。
 
 
† † † † †
 
 
 北の魔王は自らの持てる魔力のすべてを使って愛する少女の命の長さを変えようとしました。
けれど魔王の力を以てしても、やはり神の領域に立ち入ることは許されなかったのです。
魔王はそれでもどうにか出来ないものかとあがき続けました。
しかし少女の命の長さを変えることはできず、悲嘆に暮れる魔王に更に追い討ちをかけるかのように、不幸なことに少女の身は重い病に侵されてしまったのです。
少女は儚い命の人間の中に在って、更に儚くその命を終えて逝ってしまったのでした。
残された魔王は、初めて感じるその喪失の痛みと哀しみに、荒れ狂いました。
魔王の嘆きに因って世界は三日三晩嵐が続き、何も知らない人間たちを恐怖に慄かせました。
それでも世界が大洪水に襲われることなく済んだのは、北の魔王の嘆きを憐れんだ南の魔女が、せめて魔王の気の済むまでと、魔女を支える九人の精霊使いを世界各地に遣わして被害を抑えたからでした。
 
 
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 あれ程深い哀しみと、身を切るような痛みを伴った嘆きを他に知らない。
その時のことを思い出して、オスカーはそう思った。
北の魔王の悲恋の結末とその嘆きは、遠く世界を隔てた南の森の住人にも知れることとなった。北の魔王の心情そのままに荒れ狂う嵐に、南の魔女は心を痛め、自らに仕える九人の精霊使いを世界各地へと送り出し、魔王の気が済むまで好きにさせてやる為に、人間の世界への被害を抑えさせた。
 オスカーは、その九人の精霊使いの内の一人である。
ひしひしと肌で感じるその嘆きの深さに、オスカーは見たこともない魔王に同情した。嵐が止み、南の森へと帰還した後も、ずっと魔王のその後のことが気になってしょうがなかった。自分でも不思議に思ったが、気になってしまうのだからそこに理由を求めても無駄だった。
 オスカーが魔王のその後を聞いたのは、それから随分経ってからである。
北と南の森の住人は基本的にお互い干渉しない。それがこの世界の不文律であるが故に、北の森の動向は南の森の住人であるオスカーの許まではなかなか届かないのだ。
 北の魔王は自らに呪いを掛けた。
その話を知ったオスカーは、余りにも孤独で哀しい道を選んだ北の魔王とは、一体どんな男なのかと、自ら北の森へと出向いたのだった。
 
 
† † † † †
 
 
 愛する少女を喪った哀しみに荒れ狂った魔王は、強大な魔力を持ちながら少女の為に何も出来なかった自らを激しく蔑みました。
それと同時に、これから永遠にも思える永い時を生きていく自分を思い、喪失の恐怖に怯えたのです。
森の住人たちの命の長さは、彼らの持つ魔力の強さによって左右されます。
最も強大な魔力を持つ魔王の命は、当然森の住人の誰よりも永いのです。
 もし、この先また魔王に愛しい者ができたとして、たとえそれが魔力を持つ森の住人であったとしても、必ず魔王よりも先に逝ってしまうのです。
そう考えた魔王は、もう二度と誰かに心を許したりしてはならないと思いました。
喪うことへの恐怖が、魔王を支配していたのです。
そして、魔王は自らの魔力のすべてを賭けて、自らに解けることのない呪いを掛けたのでした。
 生きとし生けるすべてのものは、この身に触れると砂となり失せるだろう。
永遠にも思える魔王の命が尽きる時まで続くその呪いを掛け終えたとき、艶やかだった魔王の漆黒の髪は、色が抜け落ち、銀色へと変わっていたのでした。
 
 
† † † † †
 
 
 初めて足を踏み入れた北の森は、オスカーの住む南の森に比べると静かで穏やかな場所だった。見慣れない姿に好奇心旺盛に寄って来る妖精たちと気軽に話しながら、オスカーは森の奥へと足を進めた。森の奥の開けた場所が見えてきた時、それまで明るい笑い声をたてていた妖精たちがぴたっとその動きを止める。その奥へは進んではいけないと制止する妖精たちの言葉で、その奥に目的の男がいるのだとわかった。
大丈夫だと妖精たちに笑って見せ、オスカーは奥へと進む。
 其処にいたのは、銀色の髪に色違いの眸を持った魔王だった。
見慣れない侵入者に、恐ろしいほど冷たく鋭い視線を投げてくる。
呪い以前に、その身に纏う空気だけで他者を寄せ付けようとしない。
 その姿が余りにも寂しくて、哀しいが故に美しくて、オスカーは魔王に恋をした。
魔王は始め、「帰れ」としか言わなかった。それでも諦めずに足繁く北の森へと通った。
南の森の住人にも何度か忠告されたが、オスカーは聞き入れなかった。南の魔女は困った顔をして、「気の済むようにしなさい」と認めてくれた。
 魔王がアリオスという名前を教えてくれたのは、だいぶ経ってからである。
その名前が、魔王が本来生まれ持った名ではないことをオスカーは知っていたが、そんなことは気にならなかった。レヴィアス、という本来の名は、喪った少女の記憶と共に封印してしまいたいのだと容易に察せられたからだ。
 オスカーはアリオスを刺激しないように、とりとめのない話題を提供しながら傍に居続けた。
触れるほど近くはなく、けれど体温を感じないほど遠くもない位置に。
 アリオスは徐々に自分が傍にいることに慣れていった。少しずつ軽口の応酬が増え、それは魔王の心が少しずつ開いていることに他ならなかった。アリオスが喪う恐怖に支配されているが故に、無意識にそれを認めようとしないことも、オスカーは理解していた。
 愛しい者を喪うことは確かに苦痛だが、だからと言って余りにも孤独な道を選んだアリオスに伝えたかった。愛しい者を喪う恐怖に怯えることはないかも知れないが、たった一人で永い時を生きる寂しさは、喪う痛みにも匹敵するのだと。
 「お前が好きだから通うんだ」というオスカーの言葉を、アリオスは冗談としか受け取らなかったが、いつか、それが伝わればいいと思っていた。
 自分でもおかしいんじゃないかって思うくらい、俺はお前が好きなんだぜ?
アリオスが「笑えない冗談を言うな」と言うたび、オスカーは心の裡でそう呟いた。
 だから、自分もいい加減疲れていたのかもしれない、とオスカーは思う。
想いの伝わらない寂しさに、少し疲弊していたのだと。
触れたいのに触れられないもどかしさに、焦っていたのだろうと。
 アリオスを抱き締めて、アリオスに抱き締め返してもらえたなら、どんなにか自分の心は満たされるだろう。
しかし、たとえ魔女に次ぐ強大な魔力の持ち主であるオスカーといえども、魔王が全霊を賭けた呪いに抗うことなどできない。
アリオスに触れたとたん自分は砂と化し、そして風に飛ばされていくだろう。
 それでもきっと、言葉だけではアリオスに届かない。
温もりを拒否し、その実何よりも温もりを欲している、あの孤独な魔王には。
 
 
 
 そこに他人の気配を感じるのは随分久しぶりな気がして、アリオスは躰を起こした。
冷たい岩に腰掛ける自分。そのすぐ傍に立つ男。
「…何しに来た」
「お前に会いに」
 不機嫌な問いかけと、相変わらず笑えない答え。
「オレは会いたくねぇよ。とっとと帰れ」
「それは出来ない相談だな」
「ったく、何でだよ」
「お前が好きだから」
そう言って笑うオスカーは、いつも通り華やかな空気を纏っている。
いつも通り華やかで、けれどどこか疲れた気配が漂っていることに気づき、アリオスは眉を顰めた。
「なんかあったのか?」
「…いや、特には」
 なんだ、心配してくれるのか?ここ暫く来れなかったから寂しかったんだろう。
そんな揶揄の言葉にアリオスは憮然とした表情を隠しもしない。
それが、アリオスの中に自分という存在が定着していることの証のようで、頑張った甲斐があったかな、とオスカーは内心苦笑した。
 南の森を無理矢理出てきた。
オスカーが何をするつもりなのか悟った魔女や仲間の精霊使い達が力づくでも止めようとするのを、オスカーもまた全力で抗って此処まで来たのである。
さすがに、いくら向こうは全力ではないとは言え、自分と同等もしくはそれ以上の魔力を持つ者を複数相手にするのは想像以上に疲れた。
 だが、それでも自分はもう決めてしまったのだ。誰も喜ばないと知っているけれど、後悔はしない。
「アリオス」
呼べば、煩わしげにこちらを向く魔王に、オスカーは華やかに笑って見せる。
「俺が此処へ来るたびに、お前は何で来るんだって訊いたな」
「…今更何言ってやがる。さっきも訊いただろ」
「だから俺も何時だってちゃんと答えてきたろ。お前のことが好きだからだって」
 お前は信じてくれないけどな。
そう言って肩を竦めると、何かを感じたアリオスが探るように見つめてきた。
「…何があった」
「何もないさ。どっちかっていうと、何か起こる、かな」
「…?」
「なあ。お前がもう誰かを喪うのは嫌だって思ってるのは知ってるけどな」
触れられたくない話題を持ち出されたことに、アリオスの眸が怒気を孕むが、それは気にせずオスカーは続ける。
「でも、だからって全部拒んでたって寂しいだけだろう」
「黙れ」
アリオスの持つ空気が鋭さを増す。しかしオスカーは怯まない。
「お前が全身全霊賭けた呪いは解けない。だから誰もお前に触れられない。お前の傍には誰も残らない。でも、お前は言葉だけじゃ信じない」
「…何する気だ」
一歩、オスカーはアリオスに近づいた。意図が読めない、とアリオスの色違いの眸が語るのが可笑しくて、オスカーはくすりと笑みを洩らした。
「俺がいくら好きだと言っても、お前には伝わらない。だから」
アリオスの目の前に跪き、視線を合わせたオスカーは、ふ、と天を見上げた。
 俺の全霊を賭けて、この孤独な魔王の命が尽きる時まで、この地に静かで優しい雨が降り続くように。
降り出した雨はしっとりと重く、風に飛ばされることを防いでくれるだろう。
「やめろ…っ」
オスカーの意図に気づいたアリオスがその身を翻すよりも早く、オスカーは目の前の男を抱き締めた。
「なんだ、意外と暖かかったんだな、お前」
その身に宿る強い魔力のおかげで、普通ならば瞬時に砂と化すだろう躰は、その体温を感じられる猶予をくれた。
「お前が死ぬまで傍にいてやる方法、他に考えつかなかった」
 できれば抱き締めて欲しいんだがな。
からかうような言葉。
アリオスが腕をその躰にまわした刹那、腕の中の躰は砂となって零れ落ちていく。
「…あ…」
言葉にならない声を発し、銀髪の魔王は雨に湿る砂を掻き集めるのだった。
 
 
 
 しとしとと雨が降る。
静かに優しく、銀糸のような雨が今日も魔王の森を濡らしている。