アリオスが事故に遭って病院に運ばれたと、オスカーが連絡を受けたのは翌朝のことだった。
昨夜は、久しぶりにクラブやパブを梯子して朝まで飲んでいたのだ。
日が完全に昇ってからアパルトメントに帰り、シャワーを浴びてすっきりしたところで、ブザーが鳴り響き。
ドアを開けた途端、「何処行ってたんですか!」とレイチェルに怒鳴られた。
話を聞いた時にはオスカーも一瞬蒼白になったが、命に関わるようなことはもちろん、目立った外傷もないと聞いて安心する。
「アンジェがついてるんですけど」というレイチェルの言葉に、ちくっと針が刺さったように胸が痛んだが、それはもう諦めてしまった。アンジェリークを庇ったというのだから、彼女が離れるわけがないのだ。
大した怪我もないというし、いっそのこと、自分が行かなくてもいいのではないかと思いもしたが、入院となれば雑多な手続きも必要だ。フランスからの旅行者に過ぎないアンジェリークにその処理は無理だろうから。そう自分を納得させてオスカーは病院に足を向けた。
病院に着くと、途端に重くなる足取りを自覚する。
病室にはアリオスがいて、そしてその傍らにアンジェリークがいるだろう。
自分は、そこに割ってはいる部外者なのだろうと容易に想像がついた。
わざわざそんな状況の中に足を踏み入れて平気でいられるほど、図太い神経は持ち合わせていない。足が重くなって当然だった。
それでも、一歩ずつ病室は近づき。
「お嬢ちゃん」
こうやって、何気ない風を装っている自分がいる。
「オスカーさん・・・。よかった、連絡ついたんですね」
振り返ったアンジェリークがほっとしたように言った。
アリオスは、眠っているようだった。
「すまなかったな。・・・で?どうなんだ、そのバカの様子は」
まったく、お嬢ちゃんを助けるなら、着地まで決めて見せろってのに。
おどけてそう言うと、アンジェリークがふふ、と笑う。
「外傷はちょっとした打撲とかすり傷程度で・・。ただ、頭を打ってるから、目が醒めたら精密検査をすることになるって。それで問題なければ明日にでも退院できるそうです」
そう言うアンジェリークの目の下に、うっすらと隈ができているの見て取って、オスカーは彼女に休むよう薦めた。
「お嬢ちゃん、ほとんど寝てないんだろう?俺が代わるから、帰って休んだほうがいい」
しかし、彼女は首を振った。
「アリオスの傍についていたいんです・・・。お願いします」
真摯にオスカーを見つめる眸には、一途な気持ちが溢れていて、それがひどく羨ましく思える。
こんな風に、素直に想いを表現したことなどあっただろうか。
それだけで、彼女と自分の差を思い知る。
「そうか・・・。じゃあ、こいつのことはお嬢ちゃんに任せて、俺は手続きして帰ることにしよう。一応、NHSに入ってるからな」
NHSとは"National Health Service"の略で、イギリスの健康保険制度だ。これに加入しているかどうかで、入院費や検査費も雲泥の差がつく。
「あ、それなら確認はして貰いました」
「え?」
「ここに運ばれたとき、NHSに入ってるかって訊かれたんです。わからないって言ったら、名前と住所で検索して確認するからって言われて・・」
「名前って言っても・・」
国家の保険制度に加入する以上、本名で登録されている。アリオスの名前では確認が取れるはずがない。
「レヴィアス、ですよね」
一瞬、呼吸が止まった。
アンジェリークに気づかれる前に、ゆっくりと息を吐き出す。
アリオスが、彼女にその名前を教えた。そのことが示す事実。
このロンドンで、アリオスの本当の名前を知っていたのはただ一人、オスカーだけだったのだ。つい先日までは。
引導を、渡されたかな、とオスカーはぼんやりと思った。
アリオスの中で、アンジェリークはそこまでの存在になったのだ。もう、アリオスの隣り、という位置は譲るべきなのかもしれない。気づかない振りをしてそこにしがみついても虚しいだけだ。
元々、同性、という特異な関係だ。長く続くわけがなかったのだと思う。生まれ持った性癖で同性しか愛せない、というのならともかく、二人とも本来はノーマルな性癖の持ち主だ。戻るべきところへ戻ったのだと、そう思えばいい。
「オスカーさん?」
急に黙り込んだオスカーをアンジェリークが不思議そうに見る。
「いや・・・。アリオスは、君のことをとても・・・大切に思ってるんだな」
わざわざ確認するようにアンジェリークに告げたのは、自分に言い聞かせる為だった。
「そうでしょうか・・・?」
不安そうな彼女に、微笑んで頷いてやる。
不思議と、彼女に対する嫉妬めいた感情はなかった。
勝負になりようがないと、最初から知っていたから。
「ああ。じゃなきゃ、そいつが本当の名前を教えるわけがない」
出逢って、ほんの一週間ちょっとで、本当の名を教えられたアンジェリーク。
自分がその名を知ったのは、出逢いから半年近く経ってからのこと。それも、偶然だった。
それだけで、アリオスの中で占める比重がわかるではないか。
お前は、失くした何かを埋めてくれるものを、見つけたんだな。
アンジェリークの頭越し、目を醒ます気配のない男を見つめて、オスカーは胸の中でそう語り掛けた。
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