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On The Way-Tierkreis-

 
 
 
 その土地は、十三の地域から成り立っている。
大陸のほぼ中央部にミネルウァという標高の高い山岳地帯があり、それを囲むように十二の国がこの大陸に犇めき合っている。
 ティアクライス。
それがこの大陸の名だった。
 
 
 
 代々続く騎士の家に生まれたオスカーにとって、幼少の頃から骨の髄にまで叩き込まれた精神がある。
 「騎士にとって、主は絶対的存在である」
幼い頃から、誰より尊敬する父にそう言われて育ったオスカーは、勿論その教えを胸に騎士としての人生を全うするつもりだった。その生き方こそがオスカーの夢であったと言ってもいい。いや、今でも出来ることならそうして生きたいと思っている。
思っているのだが。
 それは「これぞ」という主を選べてこそ、だ…。
そう悟ったのはいつの頃だったか。たぶん、そんなに昔のことではない。
 オスカーの家は代々続く由緒正しい騎士の家系である。それはつまり、代々続く由緒正しい君主の家に仕えてきたということでもある。探すまでもなく主となるべき人物は決まっており、普通はそれで何の問題もない。何故ならば、騎士の家に生まれたオスカーが立派な騎士となるべく育てられたように、君主の家系に生まれた者もまた立派な君主たるべく育てられるからだ。
 オスカーは由緒正しい騎士の家系に生まれ、騎士として最上級と言っていいだけの資質を持ち、立派な騎士になるべく教育を受け、周囲の期待を裏切ることなく成長した。騎士として完璧な人格者というわけではなく、私生活に於いては寧ろその素行は騎士とは程遠いことが多かったけれど、それでも彼の騎士としての力量は誰一人として疑う余地のない程で、それ故誰もが彼の素行については黙認していた。
即ち、自分には「普通」の枠を食み出る要素などなかったのだとオスカーは信じている。
 すべては、絶対に、完璧に、偏に、この人の所為だ…。
見渡す限りの草原の中の一本道を歩きながら、オスカーは自分の半歩後ろをゆったりと歩く男をちらっと見た。
 腰まで届く漆黒の髪が見ているだけでも鬱陶しい男は、ただ黙って歩いている。紫紺の眸は伏目がちに思慮深く輝いているように見えた。
 …見えるだけだがな。これは絶対、半分寝てるぞ。
オスカーは頭の中でそう呟くと、軽く息を吐く。なんだかんだ言って、他人には到底わからないであろう、この男の状態を的確に把握出来てしまうのが口惜しい。
 まあ、確かに慣れない徒歩の旅じゃ、お疲れだろうとは思うが…。
そう考えて再びちらっと視線をやると、相手は緩慢な動きで視線を上げ、オスカーを見返してきた。
「…何か用か」
低く抑揚のない口調はいつものことだ。漆黒のその姿と相俟って、見ず知らずの人間が聞いたら恐怖に慄きそうだが、付き合いの長いオスカーには何の感慨も湧かない。
「いいえ。慣れない旅路でお疲れではありませんか?」
「疲れたと言ったところでどうかなるものでもあるまい」
「…そりゃ、そーですけどね」
 気遣うだけ無駄だとわかっていても、それでもつい気遣ってしまうのは、それこそオスカーに叩き込まれた騎士の精神故である。
 そうでなければ誰が野郎のことなんぞ気遣うものか。
女性には極限まで甘く、男にはとことん冷たい男、それがオスカーという青年の人間性だった。
「とにかく、この草原を抜ければハマルまですぐの筈です。日が暮れるまでには着きたいんで、お疲れでしょうが我慢してください」
「…オスカー」
「なんでしょう、クラヴィス様」
 漆黒の髪の男の名をクラヴィスという。
由緒正しい騎士の家系であるオスカーの一族が、代々仕えてきた由緒正しい君主の一族の、現当主…のはずである。
 はずである、というのは現時点ではクラヴィスの立場は正式ではなく暫定的当主(正式即位予定)であり、治める筈の領地に当主云々以前の大問題を抱えているからだ。
諸事情により現在のクラヴィスは身分を隠した只の魔道士である。
「気力がない」
「はぁ?」
騎士としての精神を叩き込まれている割に随分なリアクションだが、これもクラヴィスの相手をするうちに身についたものだ。この男相手に真剣に騎士の心得を以って応対しても無駄だとオスカーは既に学習している。なんだかんだ言って付き合いの長いオスカーの中では今や完璧に近い「正しいクラヴィス様対応マニュアル」が出来上がっていた。決して好きで作ったわけではなかったが。
「歩く気力が尽きたと言っている」
「だったら歩く体力は残ってるんでしょう。つべこべ言わずに歩いて下さい」
にべもなく言い放つとオスカーはクラヴィスを振り返ることなく歩いていく。
これでも一応、「ナイト・オブ・ザ・ナイツ」という騎士の最高位の称号を弱冠十八歳の時に授けられた名実共に立派な騎士…のはずなのだが。
 「正しいクラヴィス様対応マニュアル」第二項・日常会話に於いてクラヴィス様の言動は九九パーセント聞き流すべし。
自作マニュアルに忠実に行動するオスカーだった。
が、クラヴィスとて負けてはいない。
何しろクラヴィスには伝家の宝刀があるのだ。
「…オスカー」
その声音は何処までも静かに。草原を渡る風に危うく消されてしまいかねないほどに。
「くだらない事言わずに歩かないと本当に日が暮れてしまいますよ」
振り返りもせずに答える騎士の背中に、伝家の宝刀を抜き放つ。
「私はお前の…何だ?」
瞬間、オスカーの足がぴたっと止まった。まるで凍りついたかのように暫く固まっていた背中が一つ息を吐き出すと、ゆっくりと振り返る。生霊にでもなって出そうな程恨みがましい視線と共に。
「………貴方は、私の、主です。クラヴィス様」
地を這うような低い声。
 こ、こんなくだらないコトでその切り札使うとは…っ!
オスカーの心情はこれに尽きる。しかしどんなにくだらなくても、クラヴィスは自分の主であることに変わり無く、それを翳されてしまえばどうしようもない。
オスカー二二歳。彼は腐っても騎士だった。
 
 
 
 ティアクライスの西部に位置する連邦国家スコルピオン。その中でも南東の隣国ヴァーゲに近いシャウラ領を統治するのがクラヴィスの一族だった。
シャウラ候即位の儀式を終えていないので、クラヴィスは現在暫定的当主ということになる。
ならば身分を隠して旅などしていないで、さっさと即位でもなんでもしてしまえばいい、と思う所だが、そうはいかない事情があった。
シャウラでは一切の生物が活動を停止し、氷の彫像のように動きを止めているのだ。
シャウラの「命の灯」が消えてしまったから。
 「命の灯」とは、文字通り全ての生命活動を司る灯である。
ティアクライスに存在するあらゆる国家・領はそれぞれに魔法結界を持ち、その結界内に存在する命を支えるのが「命の灯」と呼ばれるものだ。高濃度の魔法エネルギーが燃え盛る炎のように揺らめく灯である。それは各国家・領地で絶やすことのないよう大切に受け継がれてきた。大概の場合、それを護り受け継ぐのはその国の王家であったり領主の一族であったりする。君主制を敷いていない国家であれば、教会であったり選出された統治者がそれを受け継ぐ。
灯が尽きれば、その灯の結界内には「黄泉の風」が吹き渡り、すべてのものを凍てつかせてしまうと言われていたが、今までその灯を絶やした国家など例がなく、めでたくシャウラは言い伝えが本当であることをまさしく身を以って証明したことになる。シャウラの民にしてみれば不本意極まりないのであるが。
 そもそも、それほど大切な灯を消してしまったのも、他ならぬクラヴィスその人だった。
何千年と受け継がれる「命の灯」は、時が経つにつれどうしてもその魔法エネルギーの濃度が下がり、放って置けばやがて灯は消えてしまう。それを阻止する為には、そこに高濃度の魔法エネルギーを注ぎ足さなければならない。持続時間と威力と用途が違うだけで、その辺りの事は全く以って普通のランプと変わりないのだ。ただ、エネルギーを注ぎ足すというその行為の困難度は比較にもならないが。
 とにもかくにも、「命の灯」のエネルギーが弱まる時期に在位することになった王や領主は、そのエネルギーを注ぎ足す儀式を行わなければならない。それはハッキリ言って修行に近い。
 ティアクライスの十二の国を、北北東に位置する技術大国ヴィダーから順に時計回りに旅し、それぞれの国のどこかにある聖域で証を手に入れ、大陸の中央部・山岳地帯ミネルウァの聖殿で十二の証を捧げることで新たな命の灯が授けられる…らしい。
らしい、というのは、この儀式が数百年毎にしか行われない為詳しい事が伝わっていないからだ。各地の聖域の場所も、代々統治者に灯とともに受け継がれてきた知識で、他国の聖域の位置など知る由もない。
 「命の灯」のエネルギー濃度が徐々に下がってきたことが確認されると、その代、もしくは次代の当主が旅に出る。灯が消える前に、新たな灯を持ち帰る為に。何処にあるとも知れない物を探しながら大陸を一周するのだ、最低でも一年は見込む。過去の事例では、灯が完全に弱まる前には新たな灯が注ぎ足されていたようだ。だからシャウラでも当然、余裕を持って旅が始まるはずだったのだが。
 次代の当主が無気力・無関心・無感動と三拍子揃ったクラヴィスであったことがシャウラの最大の不幸だった。
地位にも権力にも名誉にも全く興味もなければ、次代シャウラ候としての責任感も皆無。
厭世的で生きる事そのものに今ひとつ執着のないクラヴィスは、当然旅に出ようとはしなかった。クラヴィス付きの騎士であるオスカーを始めとして、周囲の者がいくら言っても一切動こうとしない。これはもう諦めてクラヴィスを廃位して誰か別の者を次代当主として立てるべきか、いやいやしかしそれは…等と議論は長引き、なかなか結論も出ない。いっそのことクラヴィスが無能であれば話は早かったのだが、幸か不幸かクラヴィスは魔道士としては歴代当主の中でも抜きん出た力を有していた為、そういうわけにもいかなかったのである。
 そして、運命の日はやってきた。
事の発端は現シャウラ候であったクラヴィスの祖父(父は幼い頃に亡くなっている)が心労により倒れたことにある。シャウラ候の側近の間では、こうなったら無理矢理クラヴィスを即位させ、責任感の強いお供――都合のいい事に、クラヴィス付きの騎士であり、クラヴィス自身のお気に入りでもあるオスカーという打ってつけの男がいることであるし――をつけて叩き出すしかないという結論に達した。
しかし、一応相手は次代当主。本気で叩き出すわけにもいかないので、エネルギーが弱まり頼りなく揺れる「命の灯」を前に、涙ながらに懇願する作戦に出る事となった。
 それが何よりも間違いだった、とその場に居合わせたオスカーが後にしみじみと語っている。
「命の灯」を前にしての、側近たちの涙ながらの懇願にも全く心動かされた様子のないクラヴィスは踵を返そうとした。それを、側近の魔道士の一人が魔法壁を作って止めようとしたのだ。気持ちは判らないでもなかったが、浅はかとしか言いようのない。よりにもよって、シャウラ、スコルピオンといわず、このティアクライス全土に於いてさえトップクラスに入るだろう魔力の持ち主たるクラヴィスに魔法を仕掛けるなど。
それを見ていたオスカーも思わず「馬鹿、やめとけ」と呟いた程だ。相手が年長で古参の魔道士だったのではっきりとは言わなかったのだが。その後の展開を知っていれば剣を抜いてでも止めたのに、と後悔しても遅い。案の定クラヴィスはその強大な魔力であっさりと魔法壁を砕き…、そしてその時放った魔力の一部が「命の灯」を直撃したのだった。
 
 
 
 どっちにしろ自分は主であるクラヴィスの供として旅をしなければならなかっただろうとは思うものの、故郷があんなことになっていなければもうちょっと道中気が楽だったに違いない。供だって自分一人ではなかっただろうし。
 あの時、瞬時に状況を悟ったクラヴィスは即座にオスカーの腕を掴み空間移動呪文を唱え、次の瞬間には隣りのジュバ領にいた。通常、空間移動では魔法結界を越えられないのだが、クラヴィス程の魔力の持ち主だと多少の無理は利くらしい。
まだ然して時の経っていない過去の出来事を反芻したオスカーは、ほぅ、とそれはそれは重い溜息を吐いた。
「何を深呼吸している」
「深呼吸じゃなくて溜息吐いてるんですよっ」
オスカーに溜息を吐かせる最大にして唯一の原因…否、この場合は既に元凶と言った方が正しいのかもしれないクラヴィスは、相変わらず何を考えているのかわからない表情で緋い髪の騎士を見ている。
「で?歩く気力がない貴方は一体どうしたいんですか?」
 街に着くのは確実に夜になるな、と諦めながらオスカーは訊ねる。
規格外に大きな男二人の旅だ。別段夜になったところで襲われる心配もないし、仮に夜盗に襲撃されても「スコルピオンの黒の魔道士」と称される大魔道士であるクラヴィスと、十八にして「ナイト・オブ・ザ・ナイツ」の称号を得た自分に敵うとも思えない。
とはいえ、ここはティアクライスの北に位置するヴィダー。今はまだ寒さの厳しい季節ではないといえ、夜になれば冷え込む。だからこそ、日が落ちる前にヴィダーの第一都市であるハマルに辿り着きたかったのだが。
「気力がないのだから、気力を補えばよかろう」
まるで他人事のようにクラヴィスは言った。
 「よかろう」ってあんた、だったら自分で補えばいいだろーが。
オスカーの偽らざる心情である。
 光を遮るもののない草原の道の上で、だいぶ西に傾いた太陽がじりじりと二人を照らす。二人の他に通る人影はおらず、まるで広い世界にたった二人だけになってしまったような、そんな心許無さをオスカーは僅かに感じた。
 …いや、いっそ一人になれたらどんなにか。
心許無いのは寂しいからではない。クラヴィスと二人きり、というのが不安感を募らせるのだ。それはオスカーの野生の勘と言ってもいいだろう。
「こういった場合気力を補うのによいものがある」
そう言ったクラヴィスの口調は愉しそうだった。他人には全く判別つかないだろうが、哀しい哉オスカーにはわかってしまった。
 「正しいクラヴィス様対応マニュアル」第三項・クラヴィスが愉しそうな時は自分に不幸が迫っている時と心得るべし。
 絶対、その先を聞きたくない。
オスカーの勘と経験が脳内で点滅信号を発する。
だが伝家の宝刀を翳されたオスカーに耳を塞ぐ権利はなく、クラヴィスはオスカーの様子を気にした風もなく、言葉を続けた。
「元気が出るおまじない、というものだ」
 ああ、神様、どうか私をお助け下さい。
騎士の中の騎士であるはずの彼は他力本願に走った。しかし、普段信じてもいない者をこんな時だけ助けてくれるほど神様はお人好しではなかったらしい。無情にも変人極まりない主から誰が聞いても耳を疑うであろう科白が発せられる。
「お前から私にくちづけを」
「何ふざけた事言ってんですか、あんた」
「くちづけをしろ」と続くはずだったクラヴィスの声は、主に対する騎士の言葉とは到底思えない科白で遮られた。
「…別に、ふざけてなどいないが」
「ふざけてないなら、頭ン中沸いてるんじゃないんですか」
心底呆れた、と言わんばかりの声音でオスカーは答える。そして今度こそ冗談には付き合えないとオスカーは踵を返した。
 だが、敵を甘く見てはいけなかった。
クラヴィスにはまだ伝家の宝刀第二弾が残っていたのである。
伝家の宝刀をそんなに幾つも安易に抜いていいものなのか疑問だが、幸いこの男の宝刀は何度でも使えてお得なタイプらしい。
クラヴィスは呼吸を整えるように息を吸うと、第二弾をオスカーに向かって振り翳した。
「『クラヴィスさまのことがだいすきだから、おれをずっとおそばにおいてください』」
 ドサッガシャッ
夕暮れの草原に派手な音が響いた。
「…器用な真似を」
どうも本気で感心しているらしい主の声がオスカーに掛けられる。
 公人としては騎士の中の騎士と呼ばれて畏敬の念を集め、私人としては端整な容姿と甘い言葉で女性の視線を一身に集める男は、故郷から遠く離れた異国の石ころ一つない路上で、いっそ見事なほど器用にコケていた。
「な、なんてことを…」
顔面を打ったのか、左手で顔の下半分を覆いながら騎士は立ち上がる。
 開いた口が塞がらないとはまさにこのことか。
まだ子供だった時分の話を持ち出され、オスカーは恥ずかしさと呆れが混じった視線をクラヴィスへと向けたのだった。
 
 
 
 誰にでも子供の時分というものは存在する。
どんなに老けていようが、カッコつけていようが、生き物である以上、どんな者にも幼年時代というものはあるのだ。
それは、「ナイト・オブ・ザ・ナイツ」と称される騎士のオスカーにしても同じ事。
突き飛ばせばピーピー泣き…はしなかったものの、眼に涙を浮かべながらも泣くまいと必死になるような、そんな少年時代が確かにあったのだ。
 物心ついた時から騎士としての教育を受け、体躯的にも恵まれていた彼は歳の割りには大人びてはいたが、それでも子供らしいところも多分に残した少年だった。女性相手に気障で甘い科白を吐くその習癖は既にあったが、それすら、言われた女性が「あら、可愛い坊やに嬉しい事を言われたわ」とオスカーに飴玉をくれるような、そんな幼さのある子供だったのである。
シャウラ領の由緒正しい騎士の家に生まれたオスカーは、騎士になることが運命付けられていた。そしてそれと同時に、騎士として仕えるべき主も既に定まっていた。次のシャウラ候になるはずのクラヴィスである。
 幼い頃から主となるべき相手に接する事は、徹底的な忠誠心を植え付けるのにいいからと、オスカーは自分の足で歩けるようになった頃から四歳年上のクラヴィスの遊び相手として城に上がっていた。尤も、クラヴィスの方は多少の子供らしさはあるものの、子供の頃から寡黙で一人でいることを好む少年だったので、始めのうちは遊び相手として宛がわれたオスカーをあまり歓迎していない様子だった。だが、オスカーは聡い子供で、クラヴィスが静かに時間を過ごすことが好きなのだとすぐに察し、無理にクラヴィスを遊びに誘ったり必要以上に話し掛けたりすることはしなかった。幼いながらに「クラヴィス様はお前がお仕えする大切な主だ」という父の言葉を真摯に受け止めていたオスカーは、クラヴィスといるときは黙って本を読んだりしてクラヴィスの傍から離れようとはせず、クラヴィスにしても何も言わずにこちらのことを察してくれる聡い少年が傍にいることにすっかり慣れたのである。まさか成長後にあんな下らない会話を交わすようになるとはその当時を知る者は誰一人として想像出来なかったに違いない。オスカー本人すら、「騙された」と述懐する。とはいえ、寡黙で他者を拒む傾向のあるクラヴィスが自分に対しては心を許しているのだということは、一応、理解しているのだが。
 それは、まだオスカーが十歳にもならない頃だったか。
クラヴィスは幼少の頃から強大な魔力を発現し、魔道士としての才能が申し分ない事は明らかだったが、何せ無気力・無関心・無感動、ついでに無愛想とどう弁護しようにも弁護出来ないほどハッキリ言って可愛げのない少年だったので、次代シャウラ候として擁立することを不安視する声もその頃からちらほらあった。クラヴィス本人は元々自ら望んでその立場にいるわけでもなし、特に何の感慨も持たないどころか、この煩わしい立場を肩代わりしてくれる者がいるなら進んで譲りたかったのだが、その煩い外野の声をある日偶然未だ十に満たない子供のオスカーが耳にしてしまったのはさすがに拙かった。
 小さな時から「クラヴィス様が次のシャウラ候、そしてお前のお仕えすべき主だ」と言われて育った少年にとって、自分の仕える主が当主となることに不安を抱く者がいるというのはやはり衝撃だったらしい。さすがにクラヴィスもなんと言っていいものか困った。
「当主になどなりたくないのだ」と正直なことを話せば、それは「立派な騎士になって主をお守りする」というオスカーの抱く夢を否定することになる。オスカーの中の「主」がシャウラ候という地位だけを指すのならばよかったのだが、既にオスカーの中で次代シャウラ候とクラヴィスはイコールで結ばれてしまっていて、それは容易には覆せそうになかった。それに正直に話すことでオスカーが自分から離れていくのではないかとクラヴィスが危惧したのも事実だ。その頃にはクラヴィスもすっかり傍に四つ年下の少年がいることを当然だと感じるようになっていたのである。
 しかし、客観的に見て自分が当主に向いていないことも事実であるし、主観的に言っても自分はそんなものになりたいとは思っていない。とはいえ現実に、自分の資質を不安視する声はあっても廃位を求める声は今の所挙がっておらず、自分は次代シャウラ候のままだ。この半端な状況をどう言ったらいいものか、大人びているとは言え、その当時まだローティーンだったクラヴィスにはわかりようもなかった。元々寡黙な所為もあったが。
 だが、どうしたものか考えあぐねているクラヴィス少年の隣りで、幼いオスカーもまた幼いなりに色々考えたらしい。彼は酷く真剣な表情でクラヴィスに向き直りこう言ったのだった。
「クラヴィスさまのことがだいすきだから、おれをずっとおそばにおいてください」と。
 
 
 
 なんであんなことを言っちまったんだ俺は…っ!
子供の頃の純粋さが今となっては酷く恨めしい。忘れたわけではなかったが、出来れば忘れたかったことを持ち出されてオスカーは陸に上げられた魚のように口を開閉させる。
「そのように恥ずかしがることもなかろう?あの時はお前の方から顔を…」
「だーっっっ!言うなーっ」
敬語を使うことすら忘れてオスカーはクラヴィスの科白を遮った。
 そうなのだ。恥ずかしいのはあの時の言葉だけではない。
その時自分が取った突拍子もない行動を、オスカーはしっかりと憶えている。
 幼い自分が、自分を凝視する少年のクラヴィスの唇に自らのそれを当てた。
それは一瞬だけの、本当に軽いものだったが、紛れもないくちづけである。
その頃の自分は、女性相手に子供らしからぬ気障な科白を吐く割りに、まだ本当には恋愛なんていうものを理解していなかったのだ。当然といえば当然だが。
その数日前に結婚式を見たことも大きい。新郎新婦が交わすキスを、母は「大好きな人に誓いをたてているのよ」と説明した。確かに子供にする説明としては妥当だったとは思う。思うのだが。
 …せめてそれが異性間でのことだということも言って欲しかったです、母上。
今は遠い故郷で凍りついてしまっている母に向かってオスカーは泣きそうな気分で語りかけた。
「だいたい、男同士でキスなんて、何考えてんですか。悪趣味にも程がありますよ」
「そうか?」
可笑しそうに――この男にしては珍しく誰が見ても可笑しそうに――クラヴィスは言う。
「特別奇異なことをいったつもりはないのだが」
「男にキスしろなんて言う事のどこが奇異じゃないんですか」
腰に手をあてて疲れたように息を吐きながら言い返すオスカーに、あの幼い時の面影は見出せない。年齢差の所為でクラヴィスよりも頭一つ小さかった子供は成長するに連れてクラヴィスと肩を並べる程大きくなった。自分の傍にいるときはあまり話さなかったので知らなかったが、饒舌な男であるらしい。あれ程立派な騎士に憧れていた割りにその素行は騎士とは程遠いことも知っている。そしてそれでありながら、非の打ちどころがない程騎士として完璧な技量と精神を携えていることも。
「ほんとに、ふざけた事してないで歩いて下さい。夜になったら冷えますよ」
 オスカーはわかっていないが、クラヴィスは別に冗談を言っているわけではない。否、勿論「おまじない」は冗談だが、キスを求めたのは多分に本気である。クラヴィスは同性愛者ではなかったが、かといって異性からのキスを欲しいとも思わない。オスカーのキスが欲しかったのだが、どうやらそれはなかなか伝わらないようだ。この伝え方では当然の結果だが。
 だがしかし、クラヴィスはそこで大人しく引き下がるような男でもなかった。
「オスカー」
その声にオスカーの表情がびくっと強張る。
 その声には抗えないのだ。それは紛れもなく自らの主の声。
オスカーは本日何度目かわからない溜息を吐いた。
 まったく、脅迫と変わらんじゃないか。
オスカーはそう思う。そう思っても抗えない。傍に置いて欲しい、傍にいると誓った幼い言葉は騎士として裏切る事の出来ないものだ。
 それに、なぁ…。
内心で苦笑する。振り回されて、下らない事で伝家の宝刀を抜かれて、こんな悪趣味な冗談を強要されて、それでも。
 それでも、クラヴィス様のこと嫌いにはなれないんだからな。
我ながら酔狂なことだと思う。しかし、騎士として定められた主をどうしても好きになれないよりは遥かにマシだろうと考えて、オスカーは勢いよくクラヴィスの方へ歩き出した。
三歩で間合いを詰めると、クラヴィスの唇に思い切り自分のそれを押し付ける。
 ムードも何もあったものじゃないそれは瞬きほどの時間で終わり、手の甲で唇をぐいと拭った騎士は身を翻しながら言った。
「行きますよ」
主に対して不機嫌を隠そうともしないオスカーに、クラヴィスは密かな笑みを漏らして止めていた足を再び動かし始める。
 今日の所は満足な結果だと思うべきだろう。
旅は長い。それでもこの男と一緒にいれば退屈はしない。元々クラヴィスの日常に於いて鮮やかな精彩を持って認識されていたのはオスカーくらいのものだったのだ。旅に出る事で以前よりもずっと長く共にいられるというのは願ってもないことだったかもしれない。
 そうとわかっていれば、早々に旅に出ればよかったか。
「だから旅立てと言ったのに」とシャウラで凍てついた側近たちが涙を流して突っ込みを入れそうなことを考えながら、クラヴィスは前を歩く騎士の後に続いたのだった。