サヴィルロウの外れにあるギーブズアンドホークスは二〇〇年以上の歴史を誇るテイラーである。十九世紀半ばから数多くのテイラーが集まる通りとして有名なサヴィルロウの中でも老舗中の老舗と言っていいだろう。スーツだけでなく、シャツ、ネクタイ、傘など紳士用品ならばなんでも揃う。
その日、オスカーは気に入ったシャツを二枚ほど包んでもらってその老舗テイラーを出た。まだ外は明るい。左腕に填めた銀のデザイナーズウォッチを見ると午後六時を示していた。緯度の高いロンドンはこの時期九時過ぎまで明るいが、ディナーに早過ぎるという時間でもない。ここからソーホーのアパルトメントまでオスカーの足だと二十分強といったところ。帰って夕飯を作れば丁度いい時間になるな、と計算してオスカーは足を右に向けた。
卵を早く使っちまった方がいいなぁ。…卵尽くしでいくか。
冷蔵庫の中身を思い出しながら、どう考えても二十代前半の青年の思考とは思えない生活感たっぷりの独り言を心の内でぶつぶつと繰り返していると、ふと数メートル先の光景に足が止まった。
一人の観光客らしき初老の男性がサヴィルロウ三番地に位置するビルの前でただじっとビルの屋上を見上げて立っている。その顔に浮かぶのは、静かな興奮。まるで彼の眼にだけ何か映っているかのように。否、確かに彼は何かを見ているのだ。
それはこの場所で比較的よく見られる光景だった。
その観光客が何者で、何の為にそこを訪れ、そしてその眼に何を映しているのか。それを知っているオスカーは、しばらくして彼が次に起こすだろう行動が予測できていた。
果たして、予測どおりに彼はバッグからカメラを取り出し、そしてキョロキョロと辺りを見回す。だから、オスカーは止めていた足の動きを再開すると、自分から彼に近づきこう言ったのだった。
「May I help you?」
…腹減ったな。
夜になるに連れて活気づくソーホーの街並みを見下ろすバルコニーで紫煙を燻らせながら、アリオスはそんなことを思った。遅めの朝食兼昼食を摂ったのが確か正午前だったから、そろそろ空の胃袋が盛大に自己主張し始めても仕方のない頃合である。
何か適当に腹の足しになるようなものはないかと考え、すぐに止めた。何の調理も必要とせずに食べられるものなど、この家のキッチンにあるはずがない。料理に執念を燃やす同居人のおかげで普段から平均レベル以上の食事が出てくる反面、その同居人がいないとまったく機能しないのがこの家のキッチンなのだった。
そのキッチンの支配者たるオスカーは、昼過ぎに買いたいものがあると言って出掛けて行った。夕飯について特に言及していなかったから、そろそろ帰ってくる頃だろう。
律儀なことに、オスカーは自分一人が夜遅くまで出掛ける際は必ずアリオスの食事について言及していく。言及…というか、何か作り置いていく。何も言わなければ必ず帰ってきて料理し、二人で食事を摂るのだ。子供ではあるまいし、一人で食べるのが寂しいと言うわけでもない。別に何も言わずに遅くまで帰ってこなかった所でアリオスは適当にどこかパブに行って済ませればいいだけの話なのだが。
面倒見がいいというよりは過保護という言葉がしっくりくる相棒に対する、完全に呆れ雑じりの揶揄も、「お前、一人だと酒しか飲まないじゃないか」という言葉で一刀両断されてしまった。全く以てその通りなので反論の仕様がなかったアリオスは、以来素直に従っている。相変わらず「ソーホーの何でも屋」の力関係は家事能力によって決定づけられているようだった。「胃袋握られてるって哀しいものだね」と二つ隣りの部屋に住む芸術家に可笑しそうに言われたことを思い出すと頭痛がしてくるアリオスである。
ま、追々帰ってくるだろ。
煙を吐き出しながらそう思い、ふと眼下の通りにアリオスが眼を遣ると。
…何してんだ?
帰ってくるも何も、キッチンの支配者はアパルトメントの下に立っていた。ただし一人ではなく、アリオスにはてんで見覚えのない初老の男と一緒である。オスカーはそこからソーホースクウェアを突っ切った先を指差し何か言っている。当然五階のバルコニーからでは何を言っているかなど解らないが、男の方が何度も頭を下げているところを見ると、どうやら道案内をしてやっているらしい。
やがて男が先程示された方向へ歩いていくのを見送って、オスカーが視線を感じた、とでも言うように頭上に顔を向けた。お互い視力はいいので五階分の高低差があっても顔の判別は容易につく。
煙草片手に見下ろしているアリオスの表情に空腹感が表れていたのか、眼下で相棒が「悪い」と片手を軽く挙げた。
部屋へ上がって荷物をソファの上に無造作に置くと、オスカーは寛ぐ事もせずキッチンに向かった。
なんつーか…。いや、別にいいんだが。
空腹を抱えていたのだから歓迎すべき行動ではあるのだが、これではまるで子供に留守番させていた母親のようで、なんとなく釈然としないものをアリオスが感じていることになど気づくはずもなく、オスカーはてきぱきと調理に取り掛かる。
「悪いな、もう少し早く帰れるはずだったんだが」
歩くペースを合わせてたんでちょっと時間が掛かっちまった。
片手鍋に水を張り、卵を六つその中に沈めてオスカーはそう説明した。
「オマエが野郎に親切にするなんて珍しいじゃねぇか」
その背中をなんとなく観察しながらアリオスがそう問うと、オスカーは特に否定もせずに肩を竦めて見せる。
「ま、タイミングがよかったってとこだ。旅行の目的が一目で解ったんでな」
「目的?」
「サヴィルロウで突っ立ってたんだよ」
手際よく微塵切りにした玉葱をフライパンで炒める動作を止めることなく、オスカーは一瞬アリオスの方を振り返ってそう言った。
「…ビートルズか」
合点がいった、という態でアリオスが呟く。
サヴィルロウ三番地。今は持ち主も変わってしまったそのビルは、昔ビートルズの設立した会社、アップル・コープスがあった場所であり、ビートルズが屋上で“ゲットバック”のゲリラ演奏をした場所である。いわば伝説的な場所で、今でも訪れるファンは多い。
「ご名答。それで記念写真を撮って、MPLまでご案内差し上げたわけだ」
上機嫌でゆで卵の殻を向きながらオスカーが顎で先刻道案内した方向を指し示した。
二人の住むこのアパルトメントのあるソーホースクウェアの、その一番地にはポール・マッカートニーのロンドンの事務所があるのだ。ビートルズのメンバーの中でもポールが一番好きだというその観光客が次はそこを訪ねるつもりだと言うので、どうせ近所だからと案内して来たということらしい。
「マッカートニーが一番好き、ねぇ」
特に何かを思ったわけではなく、ただふとアリオスの口をついた呟きを、耳聡い相棒は聞き逃さなかった。
「なんだ、お前はレノン派か?」
ボールの中で合挽肉と炒めた玉葱、パン粉と溶き卵を混ぜて練りながらオスカーは心底意外そうに訊ねる。
「レノンも何も、ビートルズにそんな大した思い入れなんかねぇよ」
どうでもいい所に引っ掛かるな、と言わんばかりの表情でアリオスがそう返すと、オスカーも「さもありなん」と頷いた。
「だろうな。ちなみに俺はマッカートニーの方が好きだぞ」
ハロー・グッバイなんて結構好きだ。
ゆで卵を半分に切りながら鼻歌でメロディを辿る。
「訊いてねぇっての」
元々ビートルズ世代とは程遠い年齢である。音楽史に残るグループだからある程度の曲を知っているに過ぎない。
「ま、確かにアンタはマッカートニーの方が好きそうだな」
フライパンの上で肉が焼ける音に混じって、アリオスがそんな感想を述べた。
家事の達人であるこの相棒は、家事だけでなく恋愛のエキスパートをも標榜する男で、実際異常にモテる。人目を惹く容姿ながら他人を寄せ付けない雰囲気のアリオスに比べ、全世界の女性の恋人を自認するオスカーは人当たりもいいので当然と言えば当然なのかもしれなかった。
恋愛の駆け引きを心底愉しんでいるらしいこの男は、同じ愛でも哲学的な人類愛を謳うジョン・レノンよりも、恋愛を一種のエンターテイメントとして謳い上げるマッカートニーの方が嗜好に合うことは想像に難くない。
「しみじみ納得してないでフォークの一つも出そうくらいの気遣いはないのか、お前」
両手に皿を持ったオスカーが呆れた顔をしてダイニングテーブルに肘をついて腰掛けているアリオスを見ていた。
「オマエが何作ってるんだか知らねぇのにフォークがいるかなんてわからねぇだろ」
胃袋を握られている割には意外と強気な態度を崩さないのがアリオスという男である。
「…お前、案外屁理屈捏ねる男だな」
「そりゃ誰かの影響だろうな」
表情一つ変えずにアリオスはそう返した。
ああ言えばこう言う。その見本の様な男と生活を共にしているのだ。多少なりとも影響を受けるのは必至というものだろう。
「…可愛気のないヤツ」
「へぇ、アンタがオレに可愛げを求めてたとは知らなかったぜ」
「誰がそんなもん求めるか」
憮然とした表情で答えたオスカーが皿をテーブルに置き、カトラリーを揃える。そうして、ふと思いついたのか、可愛げの欠片もない相棒に訊いてみた。
「レノン派でもマッカートニー派でもないお前が一番好きな歌は?」
「………」
その沈黙はオスカーの予測どおりのもので。
別段、本気でアリオスがその問いに答えるとは思っていなかったオスカーは、大して気にした様子もなくテーブルに料理を並べることに意識を切り替える。オーブンからココット皿を取り出し、その出来に満足した時、疾うに完結したと思っていた遣り取りの答えが返って来た。
「…サムシング」
「え?」
一瞬何のことかわからなかったが、それが先程の問いの答えであるとすぐに思い当たる。
「…ほぉ」
そしてなんでもないことのように相槌を打つと、オスカーはテーブルについた。
サムシング。
ビートルズのメンバーの中で一番目立たなかったジョージ・ハリスンが作った愛の歌。
愛を哲学にまで高めたレノンと、愛をエンターテイメントに仕立て上げたマッカートニーの歌に彩られたビートルズのナンバーの中で大仰に謳い上げるわけでもなく、ただ「彼女の何気ない仕草で彼女とはもう離れられないと心から思う」と謳う珠玉のバラード。
そのさり気ない愛の歌を一番好きだという相棒が、何気ない日常をこの男なりに大切に感じているのだろうことを感じ取ってオスカーはくすりと笑みを洩らした。
「よし、食うとするか」
「…なんだ、このメニュー」
「スコッチエッグとほうれん草のココットだ」
別名・賞味期限が切れる前に卵を使い切ろう大作戦メニューである。
「………」
アリオスの口から隠す気もさらさらないらしい溜息が出た。
「文句があるなら食うな」
「…イタダキマス」
結局胃袋を握られている方が弱いのもいつものことで。
半ば機械的にフォークを動かすアリオスと、その様子を勝ち誇った顔で見るオスカー。
さりげない、けれど彼らが愛して止まない日常が、今日も続いている。