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A Day In The Life -31th.-

 
 
 
 キングサイズのベッドの上で、オスカーはぼうっと天井を見上げていた。
とっくに正午を過ぎている。買い出しに行くなり、どこかで食べるなりしないといけないと思いつつ、動く気になれない。空腹も感じなかった。まる二日近く、まともな食べ物を口に入れていないというのに。
 何やってるんだ、俺は。
自分の情けない姿に呆れたように笑ってみるが、それも虚しいだけだ。
機械的に朝起きて、顔を洗い、服を着替え。けれどそれ以上は何もする気になれずベッドに寝転がっていた。
 アリオスは、アンジェリークとどうなったのだろうか。
そんなことを考え、頭を振った。考えなくとも答えは決まりきっているではないか。
アリオスの隣りに立って幸せそうに笑うアンジェリークを思い浮かべ、自嘲的な笑みを浮かべる。
 今だけだ。こんな風に、何もできずに立ち止まっているのは、今だけだから。
もう少し時間が経てば、またいつも通りの生活に戻れるはず。アリオスがいなくても、ストーカーは撃退できるし、何でも屋は健在だ。料理にだって凝るだろう。一人分だけの料理は作り甲斐がないが、多めに作って、セイランあたりをまた招待してもいい。競う相手もいないから、これからは毎日このベッドで気持ちよく眠れるはずだ。
「今だけ、だ・・・」
そう呟いて目を閉じる。眠気は皆無だったが、眠ってしまいたかった。
そうすれば、知らないうちに時計の針は進んでくれるから。
 
 
 
 アリオスは静かに寝室のドアを開けると、ベッドの上で眠る人影を見つけて思わずほっと息を吐いた。リビングもダイニングも、一昨日自分が出て行ったときからまるで使われた跡がなかったので、オスカーもこの部屋を出て行ったのかもしれないと思ったのだ。
 起こさないようにそっとベッドサイドに立つと、眠るオスカーの顔を見下ろす。
 寝顔を見るのは久しぶりな気がした。
まるで、人形のような寝顔だ。無機質でただ呼吸しているだけの仮面のような。
こんな表情は初めて見た。オスカーの隣りで、彼の寝顔を見たことは何度もあったが、もっと、柔らかい表情をしていたと思う。初めて見た時は、眸を閉じるだけでこうも印象が変わるのかと驚いたほどだ。
 オマエ、ここしばらくずっと、こんなカオして眠ってたのか。
すべてを遮断するような、そんな表情で。安らぎとは程遠い眠り。
 アリオスはそっと、手を伸ばしてオスカーの髪に触れた。
浅い眠りだったのだろう、その感触にオスカーの眸がゆっくりと開けられる。
「・・・!!」
ゆっくり開けられた眸はそのまま見開かれた。瞬時に上半身が飛び起きたその反射神経はさすが、と言えるだろう。
「よう」
「・・・アリオス」
「呆けた面すんなよな」
「お前、なんで・・・ああ、荷物取りに来たのか」
納得したように言うオスカーにアリオスの眸が眇められる。
「なんで荷物が必要なんだ?」
「なんでって、お前、出て行くんだろ?」
オスカーは、わけがわからない、という風に訊き返した。
「出て行くなんて言った覚えはねぇんだがな」
「何言って・・・。お嬢ちゃんはどうしたんだ」
困惑しながらそう言うと、オスカーはベッドから立ち上がり、アリオスの脇をすり抜けようとした。今の位置ではあまりに間近で、胸が痛い。
「逃げるなよ」
 そのオスカーの腕を、アリオスは掴んだ。距離を開けさせるわけにはいかない。すぐ近くで見つめて、どんな視線の揺らぎも些細な表情の変化も見逃すわけにいかないのだ。
「逃げるってなんだ」
 何を言っているんだ、と苦笑しようとするオスカーを、アリオスは半ば怒ったような眼で見た。
「笑いたくもないのに、笑うなよ」
その言葉にオスカーが一瞬、眸を見開く。
「離せよ」
腕を振り払おうとするオスカーと、掴んだ手にますます力を込めて決して離そうとしないアリオス。至近距離で視線がぶつかり合った。
「・・・離せ」
さりげなくゆっくりと、視線を外しながらオスカーは言った。
 まるで、凍ったような声。冷たく固めて、溶けることを拒むような。
だがアリオスは、怯まない。凍りついているというのなら、余計この手は離せない。抱き締めて暖めて、溶かしたいのだ、オスカーの心を。
「オレは、オマエの本心が聴きたいんだよ、オスカー」
「本心だって言っただろう」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「だったら、今この距離で、オレを見つめて言ってくれ」
「・・・っ!」
「オマエが心から思ってるなら、出て行けって、アイツのとこへ行けって、言えよ」
 それを聴くまで、この手は離さない。
アリオスが強い意志を込めて告げると、オスカーは抵抗を止めて俯いた。
「・・・今更」
俯いて、落ちてくる前髪で表情を隠したまま、ポツリと呟く。
「今更、なんだって言うんだ・・・」
「オスカー・・」
「お前は彼女が大事で、彼女もお前が好きで。それで、いいじゃないか・・・」
 オスカーの脳裏に、幸せそうに笑ったアンジェリークとその彼女を愛しそうに見ていたアリオスの姿が浮かぶ。その間に割ってはいるような惨めな役は御免だった。
「一昨日、オマエが帰ってくる前に、アンジェとは別れの挨拶を済ましたぜ」
「なっ・・・」
予測外の言葉に、オスカーは顔をあげた。
「アンジェの中に、オレは別の女の面影を追ってた。それを、アイツは気づいてたよ。だから自分じゃダメなんだって言われちまった」
苦笑しながらアリオスはそう告げる。
 エリスが、そして、アンジェリークが言っていた。
自分には、過去の想い出ごと抱き締めてくれる人でないとダメなのだと。
それはまさしく、オスカーのことではなかったか。
 アンジェリークを庇って事故に遭ったとき、薄れゆく意識の中で呼んだのはオスカーの名前だったのだと、アリオスは確信している。
 一昨日の明け方、気づいたのだ。様々なことを思い出し、そうして、いつの間にか「オスカーだったらこうしていただろう、そうすれば、自分はこうするだろう」と考えている自分に。
 エリスやアンジェリークは、護ってやりたいと思った。オスカーには、護ってやりたいとは思わない。ただ、隣りでいつでも、背を預けて預けられるような、そんな位置にいてやりたいと思う。どこかピンと張り詰めた糸のようなところがある男だから、すぐにその糸を補強してやれる位置にいたい。護る、というよりも、支えてやりたいのだ。
「だから、オレのことも、アンジェのことも、関係ない。ただ、オマエの心がどうしたいのかを聴かせてくれ」
 オマエが本当に終わりにしたいってんなら、無理は言わねぇよ。
苦い笑みを残したまま、アリオスがそう言うと、オスカーは掴まれていない、自由な方の手で自らの顔を覆った。
「終わりに、したいのか?」
そのオスカーの表情を、アリオスは覗き込むように訊く。
「離せよ・・・。痛い」
アリオスの視線から逃れるように、オスカーが言った。
「答えを聴くまでは離してやらねぇよ」
「お前、勝手すぎる」
「そうか」
「俺のこと、見ようともしなかったじゃないか」
「そうだな・・・」
「・・・なんだよ、お前らしくない」
「悪かったな」
そこだけ少し憮然と答える。らしくなかろうが、構わない。オスカーから嘘のない言葉を引き出す為なのだから。
「もっと言えよ。今まで、黙ってたこと全部だ。オレのこと気遣って、言わずに溜めてた言葉全部、オレに教えろ」
 訊きたいことがあるなら、全部答えてやる。
そのセリフに、オスカーがアリオスを見た。
「・・・無理するなよ」
こんな時にまで、自分を気遣うオスカーが可笑しくて、愛しくて、少しだけ哀しくて、アリオスは小さく笑う。
「オマエ、たまには人の言葉を素直に受け取れ」
「もう、疲れたんだ、俺は」
オスカーはそう言った。
「お前が夢に魘されるたびに、適当な理由考えて起こすのも、何にも気にしてない顔するのも。俺は、そんなに出来た人間じゃない」
「ああ」
ひどく穏やかにアリオスは頷く。
 それでいいのだ。出来ていなくていい。素直な心を見せて欲しかった。
今度は自分が受け止めてやるから。
「まだ、あるだろ?」
アリオスは静かに促した。
 今までに見たことがないほど静かなアリオスの表情を見て、訊きたいことがあるなら答えるという言葉は本気なのだと、オスカーは悟る。
「・・・エリスって、誰なんだ」
暫くの逡巡のあと、ようやく、オスカーはその問いを口にした。
訊きたくて、けれど訊くことの出来なかった問い。
「・・・死んだ女だ」
どう言おうか躊躇し、結局アリオスは最も端的な言葉を選んだ。
 アリオスの生家であるアルヴィース家はリトアニアの旧貴族階級に属する家で、エリスは使用人としてアリオスの前に現れた。虚飾に塗れた家に育ち、ほとんど人間不信に近い状態に陥っていたアリオスにとって、彼女は愛を教えてくれた少女だった。アリオスに生きている意味を感じさせてくれた。
 だが、彼女はある日突然、自ら命を断った。
アルヴィース家の当主であった叔父が酔いに任せて彼女に乱暴を働いたのだと、アリオスは後から知る。
 そして、エリスを護ってやれなかった、そのことが、アリオスの傷になった。
「もう、十年近く前の話だがな・・・」
 今でも、後悔は残る。
「お嬢ちゃんは・・・彼女に似てたんだな」
「ああ」
軽く頷いてみせた。
 そうして、他には?と視線で促す。
「お前にとって、俺は一体何だったんだ。・・・っ!」
問いを口にした途端、掴まれた腕に更に力が込められて、オスカーは思わず小さく呻いた。
「過去形にするな」
不機嫌な声でそう告げられる。
「アリオス・・・」
「何だったも何もねぇよ。離したくない」
「・・・!」
アリオスが、こうもはっきりと口にするのは初めてではないだろうか。
出逢ってからの記憶を探ってみても、こんなに明確に言われたことはない。
「オマエの隣りが一番いいんだ。同じテンポで歩けるのはオマエだけだからな」
オスカーだけが、前を行くのでも後につくのでもなく、隣りを歩けるのだと、アリオスはそう告げる。
 だがオスカーは落ち着かないといった様子で視線を彷徨わせた。
「お嬢ちゃんだって、きっと・・」
「どうしてそこまでアンジェにこだわる?」
 アンジェリークのことはもう終わったのだ。アリオスも、そして何よりアンジェリークも納得してのこと。にも関わらずどうしてオスカーがそこまで彼女を気にするのか、アリオスにはわからない。
「名前・・・」
「名前?」
「だってお前、彼女に名前教えたじゃないか。ほんとの名前教えるくらい、お嬢ちゃんのこと大切に思ってるんだろう?」
 オスカーが、終わりにしようと心を決めたのは、アリオスが彼女に本当の名前を教えたと知ったからだ。それほどまでに大切に思っているのなら、もう自分の居場所はないと思ったからだ。
 その言葉に、アリオスはわざと笑った。オスカーが感じたほど、重い意味はないのだと告げる為に。
「バーカ、それこそが、オレがアイツにエリスを重ねてた証拠じゃねえか」
 アンジェリークがあまりにエリスと重なるから、だから、もう一度呼んで欲しくなったのだ。昔、エリスに呼ばれたように。
「それに・・・。オレのフルネーム、知ってるのはオマエだけだぜ?」
 レヴィアス・ラグナ・アルヴィース。それがアリオスの本当の名前。
アンジェリークにも教えていない、ミドルネーム。このロンドンで、知っているのはただ一人、オスカーだけだ。
「他に訊きたいことは?もっと、オレに文句があるんなら、言ってくれ」
笑いを収めると、アリオスは真剣な眼差しで訊ねる。
それに対してオスカーは未だ視線を逸らしたまま、言葉を捜すように言い募った。
「お前は家事は全然だし」
「ああ」
「人が手間隙かけた作ったメシに、美味いの一言も言わないどころか、食える味なら何でもいいとか失礼極まりないこと言うし」
「そりゃ、まあ・・・・・・悪かった」
「買い出しだって結局俺になってるし」
「・・・努力は、してるぞ、一応」
「・・・。」
「他にないなら、もう一度訊くぜ。こっちを見ろ」
有無を言わせない強い口調で、アリオスはオスカーの視線を向けさせた。
「オマエは、終わりにしたいのか?オスカー」
オスカーはじっと、自分を覗き込む色違いの眸を見つめる。
 傷つけあって、ボロボロになるような事態は避けたいと思っていた。誰かが犠牲を払って済むのなら、その役割は自分が担おうと思った。自分の心を隠して、自分自身さえ誤魔化してみせる、その自信があった。しかし、自分が本心から終わりにすることを望んでいるのかと問われれば。
「・・・したい、わけないだろう!」
オスカーは叫ぶように答える。
 そんなことを、誰が望むというのだろう。自分の中の愛情のベクトルは、未だアリオスの方を向いているというのに。誰が好き好んで離れたいなどと思うというのだ。
 望んでいた答えを得て、アリオスは掴んだままのオスカーの腕を更に強く引き寄せた。
腕を放し、代わりに背中から肩へと腕をまわしてしっかりと抱き締める。
「やっと素直に言ったな」
緋い髪をクシャクシャと掻きまわしてやる。
「うるさい」
気障なセリフを臆面もなく言ってのける男が、珍しく照れていた。
普段と逆のシチュエーションにアリオスは笑い、そうして久しぶりに触れた温もりをもっと感じようと、更に強く抱き締めようとすると。
「腹減った」
色気の欠片もないセリフがオスカーの口をついて出た。
「あのなあ・・・」
あまりと言えばあまりなセリフにアリオスは脱力する。
「仕方ないだろう、この二日間ほとんど食べてないんだ」
 胃袋よりも、心が空っぽになってしまったようで。
 空腹どころか、すべてが麻痺したように何か感じる余裕をなくしてしまっていたから。
「冷蔵庫もカラだしな」
思案するような口調に、アリオスはオスカーを抱き締めたまま、あからさまに嫌そうな顔をした。オスカーには見えていないが。
 普段あれだけレディに対するムード作りに余念がない男は、アリオスに対しては一切そういう概念がないのだ。自ずと、次のオスカーの行動とセリフが予想できてアリオスは溜息をつく。
と、予想通り、オスカーはアリオスの躰を押し戻した。
「よし、行くぞ」
「・・・どこに」
訊きたくなかったが、訊いてみる。
「決まってるだろ、買い出しだ」
 やっぱり・・・。
アリオスは更に深い溜息をついた。ここはベッドサイドだ。なんならこのままベッドに押し倒してやろうかと思わないでもなかったが、だが、ここは大人しくオスカーに従おう。
 ムードの欠片もなかったが、別に嘆くほどのことでもない。
 遠くに感じていた体温が、また元通り一番近いところへと戻ってきた。
 触れたいと思えばすぐに触れられる位置に。
 だから焦る必要はない。時間は、たっぷりあるのだ。
 
 これからまた始まる、二人の日常の中に。
 
 
 
 
End.
 
 
 
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