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A Day In The Life -29th.-




 その日の天気は晴れだった。
昼前に目を醒ましたアリオスは、寝室を出て、誰もいないリビングを見回した。
 帰ってきやがらねぇつもりか、アイツは。
どさっと壁に凭れて腕を組む。
 三日前に「終わりでいい」と言って出て行ったまま、オスカーは帰ってこない。
否、昨日アリオスが外へ食事に出ているうちに一度帰ってきたようなのだが、着替えるとすぐに出て行ったようだった。
 だが、オスカーが帰ってこないのはアリオスにとってはある意味好都合だった。
一昨日オリヴィエと話してから、一人で考える時間がたっぷり出来たからだ。一昨日、出掛けに会ったアンジェリークのことが気になりはしたが、今は一人で自分の心と向き合う時間が欲しかった。
 この二日ほどの間、この部屋でぼんやりと様々なことを思い出していた。
エリスのこと、アンジェリークのこと、オスカーのこと。時系列など関係なく、連想ゲームのように次から次へと脳裏に浮かんできた。記憶のすべてを引っぱり出すように自らの過去の一つ一つを思い出し、考え。そうして、とある一つの事実に気づいたのは、今日の明け方だった。
 それが、自分の答えなのだと、そう思った。
そう納得して、久しぶりにゆったりとした気持ちで眠り。
先ほどまで、夢を見ていた。
 エリスが笑っていた。
哀しい眸で見ることなく、涙を流すことなく、エリスが微笑んでいた。
 エリス、と呼びかけると彼女は頷き。
 彼女は、アリオス、と自分を呼んだ。
 レヴィアス、ではなく、アリオス、と。
アリオスは、非科学的なものは信じない。だから、その夢も、夢以外の何物でもなく、自らの感情と記憶の産物に過ぎないのだと思う。
 けれど、それでもよかった。
導き出した答えは間違っていないと、そう確信した。
「やらなきゃなんねぇことは、まだあるがな」
自らに言い聞かせるように呟く。
 冷たい水で顔を洗い、冷蔵庫の中にかろうじて残っていたミネラルウォーターを喉に流しこんでから、アリオスはシャツを手に取った。
 着替えを終え、一服しようと煙草に手を伸ばしたその時、ひび割れた音のブザーが鳴り響く。
 突発の依頼人でもない限り、今日この部屋を訪ねてくるのは一人しかいない。
訪問者を予想しながらアリオスがドアを開けると、果たしてそこには予想通りアンジェリークが立っていた。
「おはよう、アリオス」
おはよう、というには随分遅いと時間だったが、そんなことは二人とも気にしていなかった。
アンジェリークの足元には大きめのボストンバッグが置いてある。
「よう」
「今日、帰るから・・」
「・・・ああ。ユーロスターなんだろ?ウォータールーまで送ってくぜ」
言いながら、ボストンバッグを持とうとすると、アンジェリークがそれを止めた。
「ううん、いいの。時間、まだちょっとあるし、レイチェルが、エルンストさんと三人でご飯食べてからって言ってるし」
「そうか・・・」
「だから、お別れ言いに来たの」
「アンジェ・・」
アンジェリークは少しの間俯いていたが、やがて勢いよく顔をあげた。
「私、アリオスのこと好きだった。・・・ううん、今も好き」
緊張の所為か、少し震えているアンジェリークを愛しいと思った。その気持ちに嘘はない。
けれど、今ここでアンジェリークに手を差し伸べてはいけないのだ。それが、アリオスの出した答えだった。
「アンジェ、オレは・・」
「あ、言わなくていいから・・・。知ってたの、あなたが、最初から私を通して別の人見てるって。アリオス、時々すごく遠くを見るように私を見てたから。隣りにいても」
 ふとした会話の途中で、フィルター越しに物を見るように自分を見つめているアリオスに気づいていた。病院で、夢に魘されたアリオスを起こした時、「エリス」と呼ばれたことで確信した。アリオスは、自分の中にエリスという女性の面影を見ているのだと。
「それでもね、いいって思ってたの。私はアリオスが好き、それでいいんだって。でも、きっとそれじゃダメなんだろうなって、どこかでわかってたから。今はいいけど、このままいけばきっといつか、私だけを見て!って、言っちゃうと思う」
 それは人を好きになれば当たり前の感情だ。責められるべきことは何もないのだと、アリオスが言おうとすると、アンジェリークはにっこりと笑った。その大きな眸は潤んでいるが、それでも彼女は笑った。
「エリスさんて人に似てなくても、アリオスが好きになれる人じゃないとダメだと思う。そうじゃないといつか絶対傷つけあうから。私はきっと、アリオスの中の想い出を、消したくなっちゃうから。だから、ダメなの。アリオスの中の想い出ごと、あなたを抱き締めてあげられる人じゃないと。私の手は小さくて、あなたを抱き締めてあげられないから」
 私の手は小さくて、貴方を抱き締めてあげられないけど。
 その眸の美しさに気づいて、抱き締めてくれる人は絶対、どこかにいるから。
アンジェリークの言葉が、またエリスに重なる。アリオスはそっと眸を眇めた。
 エリスも、アンジェリークも。
自分にとって、隣りを歩くのではなく、行くべき方向を照らし示してくれる道標なのかもしれないと思う。隣りを歩くのは・・・。
 アンジェリークはボストンバッグを両手で持った。
「たった二週間だったけど・・・。楽しかった。ありがとう、アリオス」
「・・・ああ。楽しかったぜ、オレも」
「うん。・・・じゃあね。あ、見送らないで。ドア、閉めて」
 見送られるほうが寂しいから。
アンジェリークの言葉にアリオスは軽く頷いた。彼女の言葉に逆らう気はなかった。
「また、来いよ。今度はオレよりもよっぽどオマエの好きそうな場所知ってるヤツをガイドにつけてやるから」
「うん。オスカーさんにもよろしくね。ポトフ、美味しかったって」
「ああ。・・・伝えとく」
 そのセリフの微妙な間には、アンジェリークは気づかなかったようだった。
「じゃあな、アンジェ」
「うん」
 このままではいつまでも話してしまいそうで、けれど、アンジェリークからこれ以上別れの挨拶を言わせるのは酷だろうと、アリオスは自分から話を切り上げる。
最後に、ポン、とアンジェリークの頭を撫でてやって、そうしてアリオスはゆっくりとドアを閉めたのだった。

 まるで、覗き見していたようで気分がよくない。
そう思いながらセイランは自室のドアを開けた。ちょうど、アンジェリークがリフトの昇降ボタンを押したところだった。
「あ・・・、セイランさん」
「無事、別れの儀式は済んだようだね」
 セイランが遅い朝食兼昼食を摂りに行こうと部屋から出ようとしたら、アンジェリークが二つ隣りの部屋のブザーを押したのだ。さすがにセイランも出るに出られず、中途半端にドアを開けかけたまま、アンジェリークの精一杯のセリフを聞く羽目に陥った。
「はい・・。セイランさんにも、相談に乗ってもらってありがとうございました」
「別に、相談に乗った覚えはないんだけどね・・」
 一昨日、アンジェリークの話を聴いてやっただけに過ぎない。特にアドバイスをしたわけでもなく、本当に、ただ彼女が話すのを聴いていただけだった。
「でも、セイランさんに話して・・。聴いて貰っているうちに、落ち着いたから」
「そうだと言うなら、そうなのかもね」
セイランがそう答えると、リフトが着いたことを告げるチャイムが鳴り響く。
「はい。あ、じゃあ、行きますね。下でレイチェルが待ってるし」
相変わらずギシギシと音を立てて開くリフトに乗り込むと、アンジェリークはぺこりと頭を下げた。
「今度来るときは」
「え?」
「今度来る時は、僕の部屋を訪ねて来てもいいよ。もしもキミが芸術に興味を持っているのなら、だけどね」
 リフトの扉が閉まる直前に言われた、なんとも捻くれたセリフに、アンジェリークは笑って頷く。
「はい!」
リフトの扉が完全に閉まり、リフトの上についたランプの灯りが階下へと移っていくのを見ながらセイランは呟いた。
「・・・僕も下へ降りなきゃいけなかったんだっけ」

 オスカーが、アパルトメントに戻ったのは昼過ぎだった。
誰もいないリビングを見て、ほっと溜息をつく。
玄関の鍵もかかっていたし、この部屋にアリオスはいない。
リビングと、隣りの、ここ二、三日使われた形跡のないキッチンダイニングを見回しオスカーは呟いた。
「行ったんだな・・」
「誰が、何処に行ったって?」
 突然後ろから掛けられた声に、オスカーは驚いて振り返る。
「アリオス・・!」
「なんだよ、オレがここにいちゃいけねぇのか?」
リビングの扉に凭れてこちらを見ているのは、紛れもなくアリオスだった。
「お前・・・、お嬢ちゃんは?あの子は今日帰るんだろう?」
「ああ」
「ああって、お前、見送りに行かないのか?まだ間に合うだろ」
 何やってるんだ、とオスカーが半分怒ったように言うのを、アリオスはじっと見つめていた。
「見送らなくていいって、アイツが言ったんだよ」
 別れの挨拶を済ませたことは、わざと告げなかった。
「そんなの、本心じゃないに決まってるだろう。一緒にパリに来て欲しいくらいの気持ちのはずだぞ、あの子は」
「それでいいのかよ」
ユーロスターの時刻表を探し始めたオスカーの動作を遮るように、アリオスが言った。
「なんのことだ」
わかっているのにはぐらかす、それはオスカーの常套手段だ。
「オレが、アンジェの所に行ってもいいのかと訊いてるんだ」
黄金と翡翠の、剣呑と言ってもいいほどの視線がオスカーを射抜く。
それに一瞬魅了されながら、だがオスカーはその視線を真正面から見返した。
 ここで視線を逸らしたら、すべてが崩れてしまうから。
「終わりでいい、と俺は言ったはずだが?」
 自分の口から出るセリフに、心が悲鳴をあげるがそれは聞かない振りをする。
もう、アリオスの隣りは自分のいるべき場所ではないのだ。それを自覚してしまったら、そこにいるのは苦しいだけだ。
「本心、なんだな?」
確認の言葉に、心がきりきりと締め付けられるように痛んだ。
 早く、行ってくれ・・・!
オスカーはそう思う。こんな痛みを隠して笑うのには、もうそろそろ限界が近い。
「何度も言わせるな。・・・行けよ、まだ間に合うんだから」
それでもかろうじて苦笑しながら、その言葉を告げる。
 アリオスは、しばらくオスカーから視線を外さずにいたが、やがてふいっと踵を返した。
「わかったよ。オマエがそう言うんならそれでいいさ。じゃあな」
そして振り返ることなく、アリオスは部屋を出て行き。
オスカーは疲れきったようにソファに躰を預けた。



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