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A Day In The Life -28th.-




 コヴェントガーデンから二00メートルほど離れた、ラッセルストリートとドルリーレーンがぶつかるあたりに、"the Fruitful Passage"という名のワインバーがある。
繁華街から少し離れている所為でこじんまりとした印象のある店だが、その分隠れ家的な要素が高く、密かに人気のある店だ。
 オスカーが店のドアを開けると、まだ少し早い時間だからか客はおらず、オーナー一人が笑顔で出迎えてくれた。
「どうした、こんな時間から」
「そうだな・・・。ま、いいだろう、たまには」
そのセリフに、オーナーは黙ってカウンターのスツールを指差してオスカーに座るよう促した。オスカーが腰掛けたのを確認すると、窓のブラインドをすべて閉める。
「おいおい、誰も貸切にしたいなんて言ってないぜ?カティス」
どこか一つでも店の窓のブラインドが上がっていて灯りが洩れていれば開店、ブラインドがすべて閉まっていれば閉店、それがこの店のルールだ。
「賑やかな所にいたいって顔じゃないぞ、今のお前さんは」
 カティス、と呼ばれたオーナーはオスカーを指差してそう言った。
「お節介だな、相変わらず」
「そのお節介が恋しいときもあるだろう?」
「さあな」
軽口を叩きながら、すっと目の前にグラスが置かれる。芳醇な香りが鼻腔を擽って、オスカーは目を眇めた。
「いいのか、こんな大物出して」
 カティスが手にしているボトルに書かれた名前はシャトー・オ・ブリオン。フランスボルドー地方の中でもグラーヴ地区で作られる一級赤ワインだ。
「もうそろそろこいつも飲み頃でな。お前さん、こんな日に来るなんて運がいいぞ」
 客の好みのワインをグラスで提供するのがワインバーの基本だが、それとは別に、こうやって飲み頃を迎えたワインを客に振る舞うのがこの店のやり方だった。
 カティス・ゲインズブールという男は、オスカーがロンドンに来て初めて親しくなった人物だ。オスカーよりも七歳年上のカティスは、オスカーがロンドンに来た時には既にここに店を構えていて、ある日通りすがりになんとなくこの店に入って以来付き合いが続いている。
「お前さんは、甘え下手だからな」
自身も芳醇なワインの香りを楽しみながら、カティスが唐突に言った。
「なんだよ、突然」
すべてを見通しているようなセリフはいつものことだ。オスカーが何か言う前から、曖昧な言葉で的確な所を突いてくる。
「逆を言えば甘えさせ上手、と言うのかもしれないが」
「それを言うならあんたの方がよっぽど上手いだろ」
肩を竦め、笑って流そうとしてもカティスには通じない。普段は実年齢よりも大人びた態度を取るオスカーも、カティスにかかると歳相応の様子になってしまう。
「・・・お前さんは、もっと自分を甘やかしてやってもいいんじゃないかってことさ」
「俺は他人に厳しく自分に甘く、レディにはもっと優しく、がポリシーなんだがな」
「その、レディには・・・、はともかくな」
苦笑しながらカティスは二つのグラスにワインを注ぐ。飲み頃を迎えた一級品は、二人だけが飲むことになりそうだった。
「とても、他人に厳しく自分に甘く、だとは思えんのだがね」
「俺が他人といるところなんて見たことないくせによく言うな、あんたも」
呆れたように言うと、カティスはまあな、と笑った。
「褒めてないぞ」
「わかってるさ」
どうもカティス相手だと分が悪い。何を言っても暖簾に腕押し、というのはこういうことを言うのだろうか。
「だがな」
カティスはグラスを回して赤ワインの香りを楽しみながら言った。少し低くなる声のトーン。だが、視線は向けない。こうやってオスカーに何かアドバイスめいたことを言う時、カティスは決してオスカーをじっと見つめたりしない。そうやって、どう受け取るかは自分次第だと、これは単なるお節介なのだと伝えてくれる。
「誰だって、誰かに甘えたいときはある」
「そりゃそうだろうな」
グラスを目の高さに掲げて、色を楽しみながらオスカーは軽く返した。
「そして今、お前さんの目の前には、自分の上を行く甘えさせ上手がいる」
「自分で言うか」
軽く吹き出して言うと、カティスも少し笑った。
「ついでに言うと、俺はお前さんを大切な友人だと思ってるぞ」
「そりゃ、ありがたい」
口許に笑みを残したままそう答えると、オスカーはグラスをカウンターに置く。
「じゃあ、お節介なオーナーに甘えて」
少し俯き加減のその表情は、前髪が眸を隠してしまってカティスからはよく見えなかった。
「なんなりと。ああ、でも今のところ、これ以上いいヤツはないからな」
ワインを指差して言ってやると、オスカーが小さく笑ってみせる。
「ワインはあんたのお薦めでいいから・・・。一晩俺に付き合ってくれ」
「なんだ、いつもと変わらんじゃないか」
「それでいいんだよ」
 帰りたくないのだ、あの部屋に。
明日、アンジェリークはパリへ帰る。アリオスは彼女を見送りに行くだろう。もしかしたら、そのまま帰ってこないかもしれない。それでもよかった。ただ、顔を合わせたくないのだ。アンジェリークと、ウォータールーステーションまで共に行くだろうアリオスを、笑って見送ってやるには自分の心は疲れすぎている。最後の最後でボロを出すような真似だけは絶対に避けたかった。
「それで、いいんだ」
 いつもと変わらない。それが重要なのだと、オスカーはカティスに向かって笑って見せた。



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