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Twinkle Night




 ドレスアップした紳士淑女がさざめく店内。
レスタースクウェアステーションから歩いて五分ほどのところにあるストリングフェロウズの夜には、酒と香水と音楽、そして囁くような話し声が充満している。
普段はスター御用達のハイクラスなクラブとして心地よいビートの音楽を流しているこの店も、今夜ばかりはカルテットの生演奏が流れるクラシックなパーティースタイルになっていた。
 アリオスはフロアの隅で壁に凭れ、ウェイターの差し出すカクテルグラスを取ると一口で煽った。一瞬で空になったグラスを手近なテーブルに置くと、辺りを見回す。
 先日、依頼を受けてボディガードを務めてやった実業家から、お礼に是非、と言って招待されたパーティーだった。正直、ブラックタイ着用の堅苦しいパーティーなど遠慮したかったのだが、相棒のオスカーに引き摺られて此処にやって来た彼である。
 で、その引き摺ってきた張本人は何処行きやがった…。
アリオスは苛々と髪を掻き上げた。舌打ちの一つもしたいところだが、場所が場所なので仕方なく我慢する。この男でも一応、TPOというものは弁えているのだ。
 しかし、気づけば何処かに姿を眩ましてしまった相棒への苛々は募るばかり。
何処にいても目立つ男なのだが、こうしてフロアを見回してもアリオスには相棒の赤毛を捉えることができない。
 …帰るぞ。
実は、オスカーの姿が見えないと思ったその時から、何度となく「先に帰る」と宣言しているのだ、心の中で。
その割にはこうして何杯もカクテルグラスを煽りながらフロアの隅々にまで視線を走らせている辺り、この男も大概人が好いのかもしれなかった。
「お一人?」
美しい青のフォーマルドレスに身を包んだ女性がアリオスにそう声を掛けてきた。アリオスもまた人目を惹く容姿の持ち主であるから、相棒と逸れてからというもの、時折こうして声を掛けられる。ナイトクラブを貸切で使った身内や友人の招待をメインとしたパーティーで、エスコートが必須ではなかったこともあり、こういったドレスコードの厳しいパーティーとしては比較的気軽に声を掛け易い空気であることも手伝っているのだろう。
「いや、悪い。人捜し中だ」
軽く手を挙げて断りの言葉を口にすると、相手は軽く頷いて立ち去った。さすがにこういったフォーマルなパーティーにいる女性は下手に食い下がったりはしない。これが普通のクラブだと、煩く付き纏う者もいて、アリオスの蔑みに満ちた視線に一刀両断される羽目に陥ったりするのだが。
 人捜し中、とは言ったものの、その相手は一向に見つかりそうも無い。
普段ならば、こういった場であればまず間違いなく人の輪、正確には女性限定の輪の中心でにこやかに愛想を振り撒きながら立っているのだが、幾ら見回しても何処にも人の輪など出来ていなかった。
 …マジで帰るぞ。
一々宣言しなくてはならないものでもないだろうに、アリオスは幾分眼を据わらせながら内心でそう呟く。その癖、宣言に反して中々足は動き出そうとしなかった。
 先刻から散々「帰る」宣言をしている割に、アリオスの思考の中に相棒が自分を置いて先に帰ったのかもしれないという懸念は微塵もない。その点に於いてアリオスは、奇妙なまでに相棒を無意識レベルで信頼しきっているのである。
 アリオスがこういったフォーマルな場を嫌がることをオスカーは百も承知している。
何か他愛もない喧嘩の最中だというのならともかく、嫌がるアリオスを引き摺って来ておいて、オスカーが何も言わずに先に帰ることなど有り得ないのだ。そして、相棒たるオスカーもまた、アリオスが先に帰ってしまうことなどないと確信しているに違いない。そこにはいっそ無防備な程の絶対的な信頼があった。ある意味、その信頼関係こそが二人の基盤とも言えるのかもしれない。
 しれないのだが。
だがしかし、誰にでも忍耐の限界というものもあるのだ。そしてアリオスの忍耐心というものは平均値よりも大分少なかった。喩えるなら、平均値が計量カップ摺り切り一杯とすれば、アリオスは大匙三分の二、といったところか。
 これ以上こんなトコにいられるか。
心の声というよりは、本当に声に出していたかもしれない。とうとうアリオスの足が動いた。…それでも、アリオスの忍耐心の程度をよく知る友人から見れば拍手の一つでも送りたくなる程の忍耐の末だった。
 華やかな正装の紳士淑女の間を縫うようにアリオスは出口に向かって歩き出す。フロアを抜ける直前、仕切りカーテンの合間に隠れた階段が目に入ったのは単なる偶然か、それとも小さな奇蹟だったのか。普段は解放されている二階だが、今夜のフォーマルなパーティーには不必要なスペースとして隠されていたのである。
 アリオスは足を止めて揺れるカーテンの合間に見え隠れする階段をしばらく凝視すると、やがてそこに向かって足を向けた。
 
 
 
 
 
 アリオスのヤツ、苛々してるんだろうなあ…。
その様子が目に浮かぶようでオスカーはクックッと肩を揺らした。灯りもついていないひっそりとした二階にいるのはオスカー一人だけだった。普段はレストランとして使われているそこで、窓際のテーブルに陣取って彼は窓の外を見るともなしに見ている。階下で流れるクラシックと外の通りの喧騒が僅かに伝わってこの空間を満たしていた。
 オスカーが二階に上がってきてから既に一時間近く経っている。
最初からパーティーに来ることを渋っていた相棒は、さぞかし不機嫌になっているに違いない。フロアの隅で苛々しながら、それでもさり気無く自分の姿を捜しているだろう。
 そんなに嫌なら最初から来なきゃいいのにな。
緩めたタイを片手で弄びながらオスカーはそう思う。
「オマエが引き摺って来たんだろーが」と反論するアリオスの声が聞こえてくるようで、オスカーはまた笑った。
 本当に嫌ならば幾らでも抵抗のしようがあるだろうに、不機嫌だ不愉快だ、というオーラを撒き散らしながらも渋々オスカーに付き合うのは、あの無愛想な相棒の甘さに他ならない。自分も身内に甘いだの押しに弱いだのと散々言われているが、あの男もなかなかどうして、自分と張るとオスカーは思っている。
 尤も、その甘さこそがあの傍若無人で無愛想な相棒の、一種の可愛げ、であるのだが。
オスカーの姿が見えなくなった時点でさっさと帰ることだって出来るのに、アリオスはまだ階下にいる。それはオスカーにとって確信を通り越して疑いようのない事実である。
「とはいえ、そろそろ限界だろうがなぁ…」
頬杖をついて呟く。その声は心なしか愉しそうだ。
 アリオスが忍耐心の限界を迎えて一人で帰ろうとすれば、あの男のことだ、カーテンに隠れた階段に気づくだろう。オスカーが先に帰ったなどとは露程にも疑っていない筈だから、きっと階段を登ってくる。不機嫌を絵に描いたような表情をして、鬱陶しげに髪を掻き上げながら。
 まるで悪戯でも仕掛けているかのような気分でオスカーは左腕に填めた時計を見た。
「一時間か…。ま、こんなもんだろうな、あいつの限界は」
「…それはオレのことか?」
予測と寸分違わず不機嫌度一〇〇パーセントの剣呑な声音が背後に響く。
オスカーが殊更ゆっくりとした動作で振り向くと、不機嫌な相棒がタイを緩めながらこちらに歩を進めるところだった。
「よう、遅かったな」
白々しい程の笑顔で迎えてやれば、アリオスは呆れ果てた、と言わんばかりの盛大な溜息を吐いた。
「いい歳して隠れんぼかよ」
「これが隠れんぼなら、お前はかなり出来の悪い鬼だな」
 何せ見つけ出すのに一時間もかかっているのだから。
即答で返されたセリフに、アリオスはジロリとオスカーを一瞥するともう一度溜息を吐く。
「下でお前の好きなレディってのが山程待ってるぜ?何やってんだ、こんなトコで」
「あぁ、レディ達に悪いことしたな。すぐに戻るつもりだったんだが…」
 レディ達が待っている、ということを然も当たり前と言った態で否定しようともしないあたりがオスカーらしい。
 見てみろよ、とオスカーが窓の外を指差した。
椅子に座ったオスカーの後ろから、テーブルに手をついて窓の外を覗き込んでみるが、アリオスにはいつもと変わらぬ夜のロンドンの風景にしか見えない。
「下じゃない、上だ」
オスカーの人差し指がアカデメイアのプラトン宜しく天空を指す。それに合わせてアリオスの視線も上へと動いた。
「…別に何もないじゃねーか」
見えるのは、ビルの合間に広がる夜空だけだ。
「お前は本当に情緒ってものがないな」
「ったく、なんだよ」
ただでさえ悪いアリオスの機嫌が、更に下降路線を辿り始めるのに苦笑いしつつ、オスカーが口を開く。その視線は夜空に向けたままだ。
「珍しく、星が綺麗に見えてるだろ」
「……なんか、ヤバイ酒でも飲んだか?」
瞬時に飛んだオスカーの裏拳は、予測済みだったらしくアリオスの左手に軽く受け止められてしまった。
「だからお前には情緒の欠片もないって言うんだ」
 ロンドンでは、天気さえよければ雲一つない夜空、というものは割とありふれている。だが、そこは大都市ロンドンだ。夜中まで煌々と輝くネオンが邪魔して、星が綺麗に見えることはあまりない。
 ちょっと一服するつもりで二階へ上がって来たオスカーが、窓際の席に陣取って窓の外を見上げると、ネオンに輝きにも消されることなく星が瞬いていた。
 まともに星を見るなんていつ以来だろう。
ふ、とそんな感慨に浸った彼は、相棒への悪戯も兼ねてそこで星を眺めることにしたのだった。
「で?いつまでその甘ったるい情緒に浸ってる気だ?」
「甘ったるいとは心外な。星々のさんざめく広大な空へと思いを馳せるのは、男のロマンだろ」
 アリオスにとっては全く以て取るに足らないことで一々反論してくるのがオスカーという男である。実際のところ、オスカー本人もそこにそれ程確固たる拘りはないのだが、アリオスが余りにも気のなさそうな声と口調で言うものだから、とりあえず反論したくなるのだ。
 アリオスは興味ない、と言いたげに軽く肩を竦めると、窓際のテーブルから離れた。
「どっちでも構わねぇけどな。いつまでも此処にいたって仕方ねぇだろ」
階段まで歩くと振り返ってオスカーにそう声を掛ける。
「そうだなあ」
頷く割に、オスカーは一向にその場から動こうとしない。
「オスカー」
軽い苛立ちを込めてアリオスが名を呼べば、オスカーは無言でアリオスの方に向き直った。
その眸は意味ありげに笑っている。まるでアリオスを試しているかのように。
 どうやら、オスカーをこの場から動かすには何かパスワードが必要らしい。
アリオスには到底理解し難いロマンチックだかヒロイックだかな表現を用いるなら、魔法の呪文、とでも言うべきか。
 オスカーは椅子の背凭れに肘を掛け、寛いだ姿勢でじっとアリオスを見つめている。
ヒントを出す気はさらさらないようだった。薄暗いフロアの中で、その色素の薄い眸だけが挑戦的に煌いている。
 アリオスは軽く息を吐いて髪を乱雑に掻き回すと、緩めたタイを片手でシャツの襟から抜き取り、もう片方の手を申し訳程度にオスカーに向かって差し出して一言告げた。
「帰ろうぜ」

 その五分後。
ストリングフェロウズから「ソーホーの何でも屋」の姿は消えていた。