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Happy Happy Greeting




 ジリリリリリン。
リビングに置かれたやけに古めかしい旧式の電話機が、その姿に似つかわしい古めかしいベルを鳴らす。
ソファに腰掛けて雑誌を読んでいたアリオスは面倒そうに辺りを見回した。
いつもなら愛想のいい声で電話に出るはずの相棒がいつの間にかいない。壁に掛かったこちらは最新式の電波時計を見ると、長針と短針が真上を指して重なっている。電話が鳴っていることよりも、こんな時間に相棒が何も言わずに姿を消していることに眉を顰めながら、アリオスは仕方なく片手を伸ばして受話器を取り上げた。
『すぐ傍にあるんだから、ワンコールで出ろよな。反射神経鈍ってるんじゃないか?』
アリオスが電話に出た途端耳に流れ込んできたのは、先刻まで忙しそうにキッチンに立っていたオスカーの声だった。
「…おかけになった電話は現在使われておりません」
『ここで切ったらお前は二度とメシにありつけないと思え』
「……今度は一体なんだ?」
家事の達人である相棒に胃袋を握られているアリオスは、仕方なく電話機に戻そうとした受話器を耳に当てた。
『バルコニーから下見てみろよ』
「バルコニーってオマエな…」
バルコニーは寝室の外である。アリオスは溜息を吐くと電話機を片手に持ち上げ、バルコニーまで出た。コードレスなどという便利な電話機ではないので、コードがかなり必死に頑張っている。小さなバルコニーから外を眺めるのにはギリギリだ。
 そうして、下を眺めれば、アパルトメントの外で携帯電話を片手にこちらを見上げているオスカーと眼が合う。
『ハッピーニューイヤー』
眼下のオスカーが笑いを滲ませながら口を開くと、耳元にその声が聞こえてくるのが不思議といえば不思議な感覚だった。
「…もしかして、ただそれだけの為に外出たのか、アンタ」
『普通に言うんじゃつまらないだろ』
 つまらないとかいうモンでもないんじゃねぇか?
そうは思ったもののそれを口に出すと確実にまた胃袋の危機に陥るのでアリオスは別のことを口にした。
「気が済んだならとっとと上がって来いよ。寒いだろ」
『お前がそんな優しい言葉かけてくれるとは珍しいな』
「バカ、オレが寒いんだよ」
オスカーのからかうような声音に、間髪入れずに答えたアリオスの言葉は素っ気無い。
尤も、シャツ1枚で真冬の真夜中に外に出ていればこの男でなくとも寒いに決まっている。
『俺だって寒いのは一緒なんだがな』
「知るか。オマエは自分の好きで出てんだろ。…ああ、なんなら」
『…?』
眼下のオスカーが首を軽く傾げたのを見ながらアリオスはまるですぐ隣りで囁くかのように言ってやる。
「戻って来たらオレが暖めてやろうか?」
セクシャルな空気を纏ったアリオスの科白だったが、悲しい哉、タイミングが悪かったと言うべきか。
『ダメだな。お節料理をまだ作り終えてない』
 オマエは何処の専業主婦だ。
アリオスが思わずガックリと突っ込みを入れたくなったのは無理もないだろう。
 先日、久々に食事を共にした日本通のルヴァに日本の年末年始の様子を教えられたオスカーは、その足で日本のお節料理のレシピ本を購入し、日本風の年末年始の過ごし方を実践することにしたらしい。
 実は3時間程前に年越し蕎麦なるものも食べさせられたアリオスである。
「…なんでもいいから、オレはもう中入るぜ」
料理に真剣になっている時のオスカーに逆らうとロクなことがないと体験済みのアリオスは肩を竦めると踵を返そうとした。
『ちょっと待て』
それを電話越しの声が止める。
「ああ?」
仕方なくアリオスがもう一度バルコニーの手摺から下を覗けば。
『…今年もよろしく』
悪戯でも仕掛けたような笑顔と酷く耳に心地いい柔らかい声音。
アリオスは鬱陶しげに前髪を掻き上げてから一つ息を吐くと、相棒を見遣りながら口を開いた。
「…お互いにな」


Twinkle Night




 ドレスアップした紳士淑女がさざめく店内。
レスタースクウェアステーションから歩いて五分ほどのところにあるストリングフェロウズの夜には、酒と香水と音楽、そして囁くような話し声が充満している。
普段はスター御用達のハイクラスなクラブとして心地よいビートの音楽を流しているこの店も、今夜ばかりはカルテットの生演奏が流れるクラシックなパーティースタイルになっていた。
 アリオスはフロアの隅で壁に凭れ、ウェイターの差し出すカクテルグラスを取ると一口で煽った。一瞬で空になったグラスを手近なテーブルに置くと、辺りを見回す。
 先日、依頼を受けてボディガードを務めてやった実業家から、お礼に是非、と言って招待されたパーティーだった。正直、ブラックタイ着用の堅苦しいパーティーなど遠慮したかったのだが、相棒のオスカーに引き摺られて此処にやって来た彼である。
 で、その引き摺ってきた張本人は何処行きやがった…。
アリオスは苛々と髪を掻き上げた。舌打ちの一つもしたいところだが、場所が場所なので仕方なく我慢する。この男でも一応、TPOというものは弁えているのだ。
 しかし、気づけば何処かに姿を眩ましてしまった相棒への苛々は募るばかり。
何処にいても目立つ男なのだが、こうしてフロアを見回してもアリオスには相棒の赤毛を捉えることができない。
 …帰るぞ。
実は、オスカーの姿が見えないと思ったその時から、何度となく「先に帰る」と宣言しているのだ、心の中で。
その割にはこうして何杯もカクテルグラスを煽りながらフロアの隅々にまで視線を走らせている辺り、この男も大概人が好いのかもしれなかった。
「お一人?」
美しい青のフォーマルドレスに身を包んだ女性がアリオスにそう声を掛けてきた。アリオスもまた人目を惹く容姿の持ち主であるから、相棒と逸れてからというもの、時折こうして声を掛けられる。ナイトクラブを貸切で使った身内や友人の招待をメインとしたパーティーで、エスコートが必須ではなかったこともあり、こういったドレスコードの厳しいパーティーとしては比較的気軽に声を掛け易い空気であることも手伝っているのだろう。
「いや、悪い。人捜し中だ」
軽く手を挙げて断りの言葉を口にすると、相手は軽く頷いて立ち去った。さすがにこういったフォーマルなパーティーにいる女性は下手に食い下がったりはしない。これが普通のクラブだと、煩く付き纏う者もいて、アリオスの蔑みに満ちた視線に一刀両断される羽目に陥ったりするのだが。
 人捜し中、とは言ったものの、その相手は一向に見つかりそうも無い。
普段ならば、こういった場であればまず間違いなく人の輪、正確には女性限定の輪の中心でにこやかに愛想を振り撒きながら立っているのだが、幾ら見回しても何処にも人の輪など出来ていなかった。
 …マジで帰るぞ。
一々宣言しなくてはならないものでもないだろうに、アリオスは幾分眼を据わらせながら内心でそう呟く。その癖、宣言に反して中々足は動き出そうとしなかった。
 先刻から散々「帰る」宣言をしている割に、アリオスの思考の中に相棒が自分を置いて先に帰ったのかもしれないという懸念は微塵もない。その点に於いてアリオスは、奇妙なまでに相棒を無意識レベルで信頼しきっているのである。
 アリオスがこういったフォーマルな場を嫌がることをオスカーは百も承知している。
何か他愛もない喧嘩の最中だというのならともかく、嫌がるアリオスを引き摺って来ておいて、オスカーが何も言わずに先に帰ることなど有り得ないのだ。そして、相棒たるオスカーもまた、アリオスが先に帰ってしまうことなどないと確信しているに違いない。そこにはいっそ無防備な程の絶対的な信頼があった。ある意味、その信頼関係こそが二人の基盤とも言えるのかもしれない。
 しれないのだが。
だがしかし、誰にでも忍耐の限界というものもあるのだ。そしてアリオスの忍耐心というものは平均値よりも大分少なかった。喩えるなら、平均値が計量カップ摺り切り一杯とすれば、アリオスは大匙三分の二、といったところか。
 これ以上こんなトコにいられるか。
心の声というよりは、本当に声に出していたかもしれない。とうとうアリオスの足が動いた。…それでも、アリオスの忍耐心の程度をよく知る友人から見れば拍手の一つでも送りたくなる程の忍耐の末だった。
 華やかな正装の紳士淑女の間を縫うようにアリオスは出口に向かって歩き出す。フロアを抜ける直前、仕切りカーテンの合間に隠れた階段が目に入ったのは単なる偶然か、それとも小さな奇蹟だったのか。普段は解放されている二階だが、今夜のフォーマルなパーティーには不必要なスペースとして隠されていたのである。
 アリオスは足を止めて揺れるカーテンの合間に見え隠れする階段をしばらく凝視すると、やがてそこに向かって足を向けた。
 
 
 
 
 
 アリオスのヤツ、苛々してるんだろうなあ…。
その様子が目に浮かぶようでオスカーはクックッと肩を揺らした。灯りもついていないひっそりとした二階にいるのはオスカー一人だけだった。普段はレストランとして使われているそこで、窓際のテーブルに陣取って彼は窓の外を見るともなしに見ている。階下で流れるクラシックと外の通りの喧騒が僅かに伝わってこの空間を満たしていた。
 オスカーが二階に上がってきてから既に一時間近く経っている。
最初からパーティーに来ることを渋っていた相棒は、さぞかし不機嫌になっているに違いない。フロアの隅で苛々しながら、それでもさり気無く自分の姿を捜しているだろう。
 そんなに嫌なら最初から来なきゃいいのにな。
緩めたタイを片手で弄びながらオスカーはそう思う。
「オマエが引き摺って来たんだろーが」と反論するアリオスの声が聞こえてくるようで、オスカーはまた笑った。
 本当に嫌ならば幾らでも抵抗のしようがあるだろうに、不機嫌だ不愉快だ、というオーラを撒き散らしながらも渋々オスカーに付き合うのは、あの無愛想な相棒の甘さに他ならない。自分も身内に甘いだの押しに弱いだのと散々言われているが、あの男もなかなかどうして、自分と張るとオスカーは思っている。
 尤も、その甘さこそがあの傍若無人で無愛想な相棒の、一種の可愛げ、であるのだが。
オスカーの姿が見えなくなった時点でさっさと帰ることだって出来るのに、アリオスはまだ階下にいる。それはオスカーにとって確信を通り越して疑いようのない事実である。
「とはいえ、そろそろ限界だろうがなぁ…」
頬杖をついて呟く。その声は心なしか愉しそうだ。
 アリオスが忍耐心の限界を迎えて一人で帰ろうとすれば、あの男のことだ、カーテンに隠れた階段に気づくだろう。オスカーが先に帰ったなどとは露程にも疑っていない筈だから、きっと階段を登ってくる。不機嫌を絵に描いたような表情をして、鬱陶しげに髪を掻き上げながら。
 まるで悪戯でも仕掛けているかのような気分でオスカーは左腕に填めた時計を見た。
「一時間か…。ま、こんなもんだろうな、あいつの限界は」
「…それはオレのことか?」
予測と寸分違わず不機嫌度一〇〇パーセントの剣呑な声音が背後に響く。
オスカーが殊更ゆっくりとした動作で振り向くと、不機嫌な相棒がタイを緩めながらこちらに歩を進めるところだった。
「よう、遅かったな」
白々しい程の笑顔で迎えてやれば、アリオスは呆れ果てた、と言わんばかりの盛大な溜息を吐いた。
「いい歳して隠れんぼかよ」
「これが隠れんぼなら、お前はかなり出来の悪い鬼だな」
 何せ見つけ出すのに一時間もかかっているのだから。
即答で返されたセリフに、アリオスはジロリとオスカーを一瞥するともう一度溜息を吐く。
「下でお前の好きなレディってのが山程待ってるぜ?何やってんだ、こんなトコで」
「あぁ、レディ達に悪いことしたな。すぐに戻るつもりだったんだが…」
 レディ達が待っている、ということを然も当たり前と言った態で否定しようともしないあたりがオスカーらしい。
 見てみろよ、とオスカーが窓の外を指差した。
椅子に座ったオスカーの後ろから、テーブルに手をついて窓の外を覗き込んでみるが、アリオスにはいつもと変わらぬ夜のロンドンの風景にしか見えない。
「下じゃない、上だ」
オスカーの人差し指がアカデメイアのプラトン宜しく天空を指す。それに合わせてアリオスの視線も上へと動いた。
「…別に何もないじゃねーか」
見えるのは、ビルの合間に広がる夜空だけだ。
「お前は本当に情緒ってものがないな」
「ったく、なんだよ」
ただでさえ悪いアリオスの機嫌が、更に下降路線を辿り始めるのに苦笑いしつつ、オスカーが口を開く。その視線は夜空に向けたままだ。
「珍しく、星が綺麗に見えてるだろ」
「……なんか、ヤバイ酒でも飲んだか?」
瞬時に飛んだオスカーの裏拳は、予測済みだったらしくアリオスの左手に軽く受け止められてしまった。
「だからお前には情緒の欠片もないって言うんだ」
 ロンドンでは、天気さえよければ雲一つない夜空、というものは割とありふれている。だが、そこは大都市ロンドンだ。夜中まで煌々と輝くネオンが邪魔して、星が綺麗に見えることはあまりない。
 ちょっと一服するつもりで二階へ上がって来たオスカーが、窓際の席に陣取って窓の外を見上げると、ネオンに輝きにも消されることなく星が瞬いていた。
 まともに星を見るなんていつ以来だろう。
ふ、とそんな感慨に浸った彼は、相棒への悪戯も兼ねてそこで星を眺めることにしたのだった。
「で?いつまでその甘ったるい情緒に浸ってる気だ?」
「甘ったるいとは心外な。星々のさんざめく広大な空へと思いを馳せるのは、男のロマンだろ」
 アリオスにとっては全く以て取るに足らないことで一々反論してくるのがオスカーという男である。実際のところ、オスカー本人もそこにそれ程確固たる拘りはないのだが、アリオスが余りにも気のなさそうな声と口調で言うものだから、とりあえず反論したくなるのだ。
 アリオスは興味ない、と言いたげに軽く肩を竦めると、窓際のテーブルから離れた。
「どっちでも構わねぇけどな。いつまでも此処にいたって仕方ねぇだろ」
階段まで歩くと振り返ってオスカーにそう声を掛ける。
「そうだなあ」
頷く割に、オスカーは一向にその場から動こうとしない。
「オスカー」
軽い苛立ちを込めてアリオスが名を呼べば、オスカーは無言でアリオスの方に向き直った。
その眸は意味ありげに笑っている。まるでアリオスを試しているかのように。
 どうやら、オスカーをこの場から動かすには何かパスワードが必要らしい。
アリオスには到底理解し難いロマンチックだかヒロイックだかな表現を用いるなら、魔法の呪文、とでも言うべきか。
 オスカーは椅子の背凭れに肘を掛け、寛いだ姿勢でじっとアリオスを見つめている。
ヒントを出す気はさらさらないようだった。薄暗いフロアの中で、その色素の薄い眸だけが挑戦的に煌いている。
 アリオスは軽く息を吐いて髪を乱雑に掻き回すと、緩めたタイを片手でシャツの襟から抜き取り、もう片方の手を申し訳程度にオスカーに向かって差し出して一言告げた。
「帰ろうぜ」

 その五分後。
ストリングフェロウズから「ソーホーの何でも屋」の姿は消えていた。


This Night




 降り出しそうだな・・・。
 広いキャンパスを横切りながら、オスカーは頭上を見上げた。日の暮れかけた、分厚い雲に覆われた空は薄暗く、今にも雨粒が落ちてきそうだ。
「・・今日のこの寒さだと、うまく行けば雪か?」
ロンドンの冬は暖かい。緯度の高さから考えると意外だが、夏冬の気温差はあまり激しくないのだ。最低気温が零度以下になることなどまずない。だから当然、雪も滅多に降らない。
 だが、今夜はもしかしたら雪が降るかもしれない。
キャンパスに人はまばらだ。クリスマス休暇に入っているのだから当然なのだが。
オスカーにしても、休暇明けに提出のレポート資料を借りる為でなければわざわざ大学まで足を運んだりしなかった。
 オスカーの住むアパルトメントは大学に程近い所にある。一度荷物を置き、シャワーを浴びてから、もう少し厚手のコートを羽織って出かけようとオスカーは歩を早めた。
 今夜はケンブリッジサーカスに面したライムライトというクラブでクリスマスパーティーがある。クラブの常連であるオスカーにも勿論声がかかっていた。
 異様に張り切りそうだな、あの極楽鳥。
最近知り合いになった派手好きな友人のことを思い出し、オスカーは肩を竦める。
向こうも今夜のパーティーに来るはずだ。普段からオスカーの感覚では到底理解できない恰好をする男だから、今夜はさぞかし奇抜で派手な恰好で現れるだろう。
 ・・・サングラスかけてくか。
かなり真剣にそんなことを考えて、オスカーは借りてきた数冊の本を抱え直した。
キャンパスを出て、ガヴァーストリートを横切る。行き交う人々はみな、手に何かしら荷物を抱えていた。
それはケーキの箱だったり、花束だったり。大きなクマのぬいぐるみだったり。
 愛しい人と過ごす、クリスマスの夜。
今のオスカーには縁遠いものだ。
一人でロンドンへとやってきた。残念ながら、一緒にクリスマスの夜を過ごすような相手もいない。否、過ごそうと思えば今からでも一緒に過ごしてくれる女性はいるだろうが、そんなその場凌ぎをしたいと思うオスカーではない。
 その時、オスカーの目の前を何か白いものがひらっと落ちていった。
驚いて上を見れば、暗い空からちいさな雪が落ちてくる。
「ほんとに降りだしたな・・」
 こんな綺麗な雪のクリスマスを誰かと二人で過ごすなら、やはり本当に心から愛しいと思った相手と過ごしたい。今は、寂しい同類項たちと騒ぐクリスマスパーティーでいい。
「急ぐか・・」
オスカーはグッジストリートステーションの脇を走り抜けた。



 リージェンツパークをぶらぶらとし、モーニントンクレセントステーションからノーザンラインに乗ったアリオスは、ドアに寄り掛かって、変わり映えのしない外を眺めていた。
地下鉄なのだから外の風景など何も見えないが、車内は車内で家族連れが多く、煩くて敵わなかったのだ。
 そういや、クリスマスだったな・・。
自分にはあまりにも遠くなってしまったイベントなので、すっかり頭から抜け落ちていた。
 ケーキを囲んで談笑するような家族などいない。
アリオスにとって家族とは、記憶から抹消したい存在でしかなかった。
 肩を寄せ合って揺れる蝋燭の灯りを見つめるような恋人もいない。
誰よりも愛しいと思った相手は、二度触れることの叶わない存在になってしまった。
 下らないことではしゃいで夜を明かすような友人もいない。
アリオスは、他人と深く関わることを止めてしまった。誰かに心を許すということに、恐れすら抱いているのかもしれない。
 幸せなヤツらだ・・。
車内の乗客にちらっと視線を遣って、アリオスはそう思った。
 否定する気はない。その幸せがどれほど大切なものなのか、アリオスにもよくわかっている。
 けれど、その幸せがどれほど簡単に、脆く崩れ去ってしまうものなのかも、アリオスはよく知っていた。
 地下鉄がグッジストリートステーションに入る。扉が開くと、アリオスはさっと電車を降りた。
大英博物館の向かいにあるケニルワースというホテルのラウンジで人と会う約束があるのだ。ボディガードの依頼らしい。一駅先のトッテナムコートロードステーションの方が目的地に近いのだが、時間に余裕もあるし、少し歩くのもいいだろう。
 本当は、幸せそうな乗客でいっぱいの電車に、乗っていたくなかっただけなのかもしれないが。
 どうせ、外も同じなのにな。
地上へと上がる階段をゆっくりとした足取りで上りながらそんなことを考える。それでも、閉鎖された空間で一人孤独を噛み締めるよりは幾分マシだろう。
 アリオスが階段を上りきり、地上へと出たそのタイミングを見計らっていたように、何か白いものが空から降ってきた。
「ホワイトクリスマスってヤツか・・・。オレには関係ねぇが」
ポケットから煙草を取り出し、火をつけて呟いた。
それでも、雪は幸せそうな家族連れにも、恋人達にも、そして孤独な自分の上にも白く降り積もる。
 舞い落ちる雪を暫く眺めていたアリオスは、やがて雪の街へと歩き出した。


 
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 昼過ぎから降りだした雪は、どうやらロンドンには珍しく本降りになったようだった。
「ホワイトクリスマスだな。やはりこういう夜は美しく装ったレディと語り明かしたいものなんだが・・」
「なんでもいいから、早くメシにしろっての」
「お前な、何にもしてない癖して態度デカすぎじゃないか?」
「オレはローストチキンが食いたいとも、ブッシュドノエルが食いたいとも言ってねぇよ」
 ダイニングのテーブルには蝋燭が置かれ、こんがりと焼けたローストチキンと、オニオングラタンスープ、シーザーサラダにフランスパン、そしてブッシュドノエルが所狭しと並べられていた。
 全部作りやがった、コイツ・・・。
感心していいのか呆れていいのか、最早アリオスにもわからない。
「食いたくないなら、構わないが?」
オスカーの眼が微妙に据わった。
 食事、延いては家事に関しては絶対にオスカーに逆らってはいけないとわかっていても、思わず口に出しては、毎回オスカーの機嫌を損ねるアリオスである。
「・・・食ベサセテイタダキマス」
それは棒読み以外の何物でもなかったが、オスカーは満足そうに頷いた。
「しかし、ケーキまで作るか?つーか、誰が食うんだよ。オマエだって、甘い物別に好きじゃねぇだろ」
「お前」
オスカーの答えは短い。
「なんでオレがこんな甘ったるいモンを・・」
「意外と嫌いじゃないだろ?」
「・・・」
 嫌いではない・・・らしい。自分でもよくわかっていなかったのだが。勿論、甘いだけの菓子は苦手だったが、甘すぎなければ自分でも驚くほどあっさりと食べられるということに最近気づいた。そして当然、オスカーの作るケーキはそれを考慮してかなり甘さを控えてある。
 だからって、コレ全部を食えってか。
まじまじとブッシュドノエルを凝視するアリオスの様子にオスカーは堪らない、といった態で笑い出した。
「全部食えとは言ってないだろ。俺も食うさ、勿論」
 座れよ、とアリオスを促す。
窓の外には、うっすらと白くなり始めた建物の屋根と、静かに降り続ける雪が見える。
「そういえば、何年か前にも、クリスマスに雪が降ったな」
 あの頃の自分は、まさかこんな風にクリスマスを過ごす相手が出来るなんて思ってもいなかった。
 相手が男ってだけで、完全に予測の範疇外だからな。
ワインのコルクを抜きながら、オスカーは苦笑した。
それでも、あの時のクリスマスよりも、今年のクリスマスの方が幸せだと断言できる。
「そういや、そんな年もあったな・・・」
 その頃の自分は、独りで生きていくと信じていた。幸せなクリスマスなど、二度と過ごすことなどないと思っていた。
 こんな脳天気な会話できるようになるとは思ってなかったぜ。
アリオスは軽く溜息を吐く。
食事一つにこんな応酬を繰り広げることになるなんて、思いもよらなかった。
それでも、今ならば、幸せそうな乗客でいっぱいの電車にも乗っていられる。
「それじゃ、食うとするか。やっぱり、メリークリスマス、かな」
「挨拶なんてどうでもいいじゃねぇか」
「お前な、人が折角ここまで完璧にクリスマスディナーを作ってやったのに、それくらい付き合おうって気は起きんのか」
「あー、わかったわかった。挨拶すりゃいいんだろ、挨拶すりゃ」
 挨拶でもなんでもするから、いい加減食べさせて欲しい、というのがアリオスの心情である。何しろ、夜は腕を揮うからランチは早めにな、というオスカーの所為で、かれこれ八時間は何も食べていないのだ。
「・・・投げやりな言い方だが・・・。ま、お前じゃそれが限界だろうしな」
笑いながらオスカーがグラスを手にする。アリオスもそれに倣った。
 音もしないほど軽くグラスを触れ合わせ。
 幸せな夜と、そしてそれを与えてくれた相手に。
「メリークリスマス」


A Day In The Life -Extra episode.-




 スプリングの効いたベッドは二人分の重みを柔らかく受け止めていた。
シーツはぐちゃぐちゃになっていたが、そんなことに気を使う余裕は今の二人にはない。
「ぁ・・・ンッ」
 オスカーの身の内に、自らの欲望を収めたアリオスが腰を使う。
「も、いい、かげんに・・・・っはぁっ」
「っ・・だめ、だ・・ッ」
 一体、どれほど抱き合っているのか。
夜が更けるのを待ち焦がれていたように抱き合った躰は、その欲望を止めることを知らなかった。
 何度抱いても尽きることのない衝動に任せるまま、アリオスはオスカーの躰を離そうとしない。
切れ切れのセリフで抗議するオスカーもまた、本気でそう思っているわけではなく。
「絡み・・ついて離さな、いのは、オマエの方、だぜ?」
荒い息の中、からかうようにアリオスが告げれば。
「・・どこ、の・・・エロオ、ヤジだ、バカ、やろっ!」
抗議の声とは裏腹に、熱く締め付けてくるのは、紛れもなくオスカーの躰で。
 抱き合うだけが愛情表現ではない。それでも、互いを一番強く熱く感じるには、抱き合うのが一番確実でスピーディーだ。
 半月、触れ合うことのなかった躰と、物理的な距離以上に遠くに離れていた心と。
すべての溝を埋め尽くすように、飽きることなく抱き合うのだ。
「く・・・ッ・・アァッ!」
喉の奥が引き攣るような鋭い声をあげて、オスカーが果てる。一際強くなる内部の締め付けに、アリオスもまた、何度目かわからない欲望を放った。
 オスカーがぐったりとベッドに身を預けると、アリオスが間近でその顔を覗き込む。
欲情に濡れた視線が絡み、その距離を縮めると、深く唇を合わせた。
 何度も角度を変えて唇を合わせ、舌を絡ませて。
濡れたような音とキスの合間の浅い息遣いだけが響く。
 うっとり、という表現がしっくりくるような、そんな満ち足りた気持ちのままキスを交わしていたオスカーだが、未だ自らの躰に収められたままのアリオスのモノが再び硬度を増したのを感じて慌ててアリオスを引き離そうとした。
「ちょっ・・・アリオス!」
 まだヤる気か・・・。
下世話な言い方だが、しかしオスカーの心の声はその一言に尽きる。
「まだ、足りねぇ・・」
少し掠れたような、男臭さを漂わせた声で囁かれると、オスカーの躰も自然と反応しようとした。
 だがしかし。
体力には、限界というものがあるのだ。
はっきり言って、限界点は目前だ。アリオスにしても、かなり疲労しているはず。
「ん・・・ちょ、ちょっと待てって・・・ぁ・・・」
弱々しい制止の声に耳を貸す様子もなく、アリオスがオスカーの掌でオスカーの胸を撫で上げる。オスカーは、疲れ切っていても反応してしまう自分の躰を恨んだ。
 オスカーにしてみても、アリオスの気持ちはわからないでもない。というよりも、気持ちの面だけで言うなら、まだ足りない。もっと、強く抱き合って、溶け合う程に熱を分け合って、深く深くアリオスを受け止めて、満たされたい。
 けれど、哀しい哉、体力の限界は近く。
 そして、明日からはまた、いつどんな依頼が来るかわからない何でも屋の日常生活が待っている。
 このまま朝を迎えたら、確実に夕方まで眠ることになる。シャワーを浴びたいが、そんな体力は残されていないので、汗と体液に塗れたまま、という羽目に陥るのは確実だ。
 それは嫌だ・・・。
頭の隅にかろうじて保っている理性でオスカーはそう思う。
だが、アリオスの手に自身を扱かれれば、ダメだ、と思っていても感じてしまうわけで。
 躰だけではない、心まで満たされるような深い快楽は抗い難く。
自然、抵抗は弱いものとなる。
「ん、くぁ・・な、ダメ、だ・・って・・!」
そんな、切迫感皆無の抗議に、アリオスはオスカーの鎖骨のあたりを強く吸って跡を残してからニヤリと笑った。
「言っただろ。・・離したくないって」
 あれはそーゆー意味だったのか、アリオス~ッ!
呆然自失一歩手前の思考でオスカーはツッコミを入れるが、実際にはそれが声になることはなかった。
口づけてきたアリオスに、抗議の声が吸い取られたからである。
 明日、俺は立ち上がれるんだろうか・・・。
条件反射のようにキスに応えながらそんなことを考えて、オスカーは覚悟を決めてアリオスの躰を抱き締めた。
 なんだかんだ言っても、こうやって、再びアリオスと抱き合えることに泣きたくなるほどの歓びを感じている。
 躰よりも、心が。
 求めれば求めた分だけ、満たされることの歓びと。
 こうやって強く貪欲に、自分が求められているという幸せ。
理性は拒んでいても、本当はオスカーもこの時間を手放したくない。
だから、たまにはこうやって、今この瞬間だけを考えるのもいいだろう。
 きっと目が覚めたら、汗でベトベトして躰中気持ち悪いだろうな、とか。
 シーツは早く洗濯したほうがいいのにな、とか。
頭の片隅をよぎる、そんな諸々の思考には気づかない振りをして。
 もっと深いキスを促すように、オスカーはアリオスの髪に指を差しいれたのだった。



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A Day In The Life -31th.-

 
 
 
 キングサイズのベッドの上で、オスカーはぼうっと天井を見上げていた。
とっくに正午を過ぎている。買い出しに行くなり、どこかで食べるなりしないといけないと思いつつ、動く気になれない。空腹も感じなかった。まる二日近く、まともな食べ物を口に入れていないというのに。
 何やってるんだ、俺は。
自分の情けない姿に呆れたように笑ってみるが、それも虚しいだけだ。
機械的に朝起きて、顔を洗い、服を着替え。けれどそれ以上は何もする気になれずベッドに寝転がっていた。
 アリオスは、アンジェリークとどうなったのだろうか。
そんなことを考え、頭を振った。考えなくとも答えは決まりきっているではないか。
アリオスの隣りに立って幸せそうに笑うアンジェリークを思い浮かべ、自嘲的な笑みを浮かべる。
 今だけだ。こんな風に、何もできずに立ち止まっているのは、今だけだから。
もう少し時間が経てば、またいつも通りの生活に戻れるはず。アリオスがいなくても、ストーカーは撃退できるし、何でも屋は健在だ。料理にだって凝るだろう。一人分だけの料理は作り甲斐がないが、多めに作って、セイランあたりをまた招待してもいい。競う相手もいないから、これからは毎日このベッドで気持ちよく眠れるはずだ。
「今だけ、だ・・・」
そう呟いて目を閉じる。眠気は皆無だったが、眠ってしまいたかった。
そうすれば、知らないうちに時計の針は進んでくれるから。
 
 
 
 アリオスは静かに寝室のドアを開けると、ベッドの上で眠る人影を見つけて思わずほっと息を吐いた。リビングもダイニングも、一昨日自分が出て行ったときからまるで使われた跡がなかったので、オスカーもこの部屋を出て行ったのかもしれないと思ったのだ。
 起こさないようにそっとベッドサイドに立つと、眠るオスカーの顔を見下ろす。
 寝顔を見るのは久しぶりな気がした。
まるで、人形のような寝顔だ。無機質でただ呼吸しているだけの仮面のような。
こんな表情は初めて見た。オスカーの隣りで、彼の寝顔を見たことは何度もあったが、もっと、柔らかい表情をしていたと思う。初めて見た時は、眸を閉じるだけでこうも印象が変わるのかと驚いたほどだ。
 オマエ、ここしばらくずっと、こんなカオして眠ってたのか。
すべてを遮断するような、そんな表情で。安らぎとは程遠い眠り。
 アリオスはそっと、手を伸ばしてオスカーの髪に触れた。
浅い眠りだったのだろう、その感触にオスカーの眸がゆっくりと開けられる。
「・・・!!」
ゆっくり開けられた眸はそのまま見開かれた。瞬時に上半身が飛び起きたその反射神経はさすが、と言えるだろう。
「よう」
「・・・アリオス」
「呆けた面すんなよな」
「お前、なんで・・・ああ、荷物取りに来たのか」
納得したように言うオスカーにアリオスの眸が眇められる。
「なんで荷物が必要なんだ?」
「なんでって、お前、出て行くんだろ?」
オスカーは、わけがわからない、という風に訊き返した。
「出て行くなんて言った覚えはねぇんだがな」
「何言って・・・。お嬢ちゃんはどうしたんだ」
困惑しながらそう言うと、オスカーはベッドから立ち上がり、アリオスの脇をすり抜けようとした。今の位置ではあまりに間近で、胸が痛い。
「逃げるなよ」
 そのオスカーの腕を、アリオスは掴んだ。距離を開けさせるわけにはいかない。すぐ近くで見つめて、どんな視線の揺らぎも些細な表情の変化も見逃すわけにいかないのだ。
「逃げるってなんだ」
 何を言っているんだ、と苦笑しようとするオスカーを、アリオスは半ば怒ったような眼で見た。
「笑いたくもないのに、笑うなよ」
その言葉にオスカーが一瞬、眸を見開く。
「離せよ」
腕を振り払おうとするオスカーと、掴んだ手にますます力を込めて決して離そうとしないアリオス。至近距離で視線がぶつかり合った。
「・・・離せ」
さりげなくゆっくりと、視線を外しながらオスカーは言った。
 まるで、凍ったような声。冷たく固めて、溶けることを拒むような。
だがアリオスは、怯まない。凍りついているというのなら、余計この手は離せない。抱き締めて暖めて、溶かしたいのだ、オスカーの心を。
「オレは、オマエの本心が聴きたいんだよ、オスカー」
「本心だって言っただろう」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「だったら、今この距離で、オレを見つめて言ってくれ」
「・・・っ!」
「オマエが心から思ってるなら、出て行けって、アイツのとこへ行けって、言えよ」
 それを聴くまで、この手は離さない。
アリオスが強い意志を込めて告げると、オスカーは抵抗を止めて俯いた。
「・・・今更」
俯いて、落ちてくる前髪で表情を隠したまま、ポツリと呟く。
「今更、なんだって言うんだ・・・」
「オスカー・・」
「お前は彼女が大事で、彼女もお前が好きで。それで、いいじゃないか・・・」
 オスカーの脳裏に、幸せそうに笑ったアンジェリークとその彼女を愛しそうに見ていたアリオスの姿が浮かぶ。その間に割ってはいるような惨めな役は御免だった。
「一昨日、オマエが帰ってくる前に、アンジェとは別れの挨拶を済ましたぜ」
「なっ・・・」
予測外の言葉に、オスカーは顔をあげた。
「アンジェの中に、オレは別の女の面影を追ってた。それを、アイツは気づいてたよ。だから自分じゃダメなんだって言われちまった」
苦笑しながらアリオスはそう告げる。
 エリスが、そして、アンジェリークが言っていた。
自分には、過去の想い出ごと抱き締めてくれる人でないとダメなのだと。
それはまさしく、オスカーのことではなかったか。
 アンジェリークを庇って事故に遭ったとき、薄れゆく意識の中で呼んだのはオスカーの名前だったのだと、アリオスは確信している。
 一昨日の明け方、気づいたのだ。様々なことを思い出し、そうして、いつの間にか「オスカーだったらこうしていただろう、そうすれば、自分はこうするだろう」と考えている自分に。
 エリスやアンジェリークは、護ってやりたいと思った。オスカーには、護ってやりたいとは思わない。ただ、隣りでいつでも、背を預けて預けられるような、そんな位置にいてやりたいと思う。どこかピンと張り詰めた糸のようなところがある男だから、すぐにその糸を補強してやれる位置にいたい。護る、というよりも、支えてやりたいのだ。
「だから、オレのことも、アンジェのことも、関係ない。ただ、オマエの心がどうしたいのかを聴かせてくれ」
 オマエが本当に終わりにしたいってんなら、無理は言わねぇよ。
苦い笑みを残したまま、アリオスがそう言うと、オスカーは掴まれていない、自由な方の手で自らの顔を覆った。
「終わりに、したいのか?」
そのオスカーの表情を、アリオスは覗き込むように訊く。
「離せよ・・・。痛い」
アリオスの視線から逃れるように、オスカーが言った。
「答えを聴くまでは離してやらねぇよ」
「お前、勝手すぎる」
「そうか」
「俺のこと、見ようともしなかったじゃないか」
「そうだな・・・」
「・・・なんだよ、お前らしくない」
「悪かったな」
そこだけ少し憮然と答える。らしくなかろうが、構わない。オスカーから嘘のない言葉を引き出す為なのだから。
「もっと言えよ。今まで、黙ってたこと全部だ。オレのこと気遣って、言わずに溜めてた言葉全部、オレに教えろ」
 訊きたいことがあるなら、全部答えてやる。
そのセリフに、オスカーがアリオスを見た。
「・・・無理するなよ」
こんな時にまで、自分を気遣うオスカーが可笑しくて、愛しくて、少しだけ哀しくて、アリオスは小さく笑う。
「オマエ、たまには人の言葉を素直に受け取れ」
「もう、疲れたんだ、俺は」
オスカーはそう言った。
「お前が夢に魘されるたびに、適当な理由考えて起こすのも、何にも気にしてない顔するのも。俺は、そんなに出来た人間じゃない」
「ああ」
ひどく穏やかにアリオスは頷く。
 それでいいのだ。出来ていなくていい。素直な心を見せて欲しかった。
今度は自分が受け止めてやるから。
「まだ、あるだろ?」
アリオスは静かに促した。
 今までに見たことがないほど静かなアリオスの表情を見て、訊きたいことがあるなら答えるという言葉は本気なのだと、オスカーは悟る。
「・・・エリスって、誰なんだ」
暫くの逡巡のあと、ようやく、オスカーはその問いを口にした。
訊きたくて、けれど訊くことの出来なかった問い。
「・・・死んだ女だ」
どう言おうか躊躇し、結局アリオスは最も端的な言葉を選んだ。
 アリオスの生家であるアルヴィース家はリトアニアの旧貴族階級に属する家で、エリスは使用人としてアリオスの前に現れた。虚飾に塗れた家に育ち、ほとんど人間不信に近い状態に陥っていたアリオスにとって、彼女は愛を教えてくれた少女だった。アリオスに生きている意味を感じさせてくれた。
 だが、彼女はある日突然、自ら命を断った。
アルヴィース家の当主であった叔父が酔いに任せて彼女に乱暴を働いたのだと、アリオスは後から知る。
 そして、エリスを護ってやれなかった、そのことが、アリオスの傷になった。
「もう、十年近く前の話だがな・・・」
 今でも、後悔は残る。
「お嬢ちゃんは・・・彼女に似てたんだな」
「ああ」
軽く頷いてみせた。
 そうして、他には?と視線で促す。
「お前にとって、俺は一体何だったんだ。・・・っ!」
問いを口にした途端、掴まれた腕に更に力が込められて、オスカーは思わず小さく呻いた。
「過去形にするな」
不機嫌な声でそう告げられる。
「アリオス・・・」
「何だったも何もねぇよ。離したくない」
「・・・!」
アリオスが、こうもはっきりと口にするのは初めてではないだろうか。
出逢ってからの記憶を探ってみても、こんなに明確に言われたことはない。
「オマエの隣りが一番いいんだ。同じテンポで歩けるのはオマエだけだからな」
オスカーだけが、前を行くのでも後につくのでもなく、隣りを歩けるのだと、アリオスはそう告げる。
 だがオスカーは落ち着かないといった様子で視線を彷徨わせた。
「お嬢ちゃんだって、きっと・・」
「どうしてそこまでアンジェにこだわる?」
 アンジェリークのことはもう終わったのだ。アリオスも、そして何よりアンジェリークも納得してのこと。にも関わらずどうしてオスカーがそこまで彼女を気にするのか、アリオスにはわからない。
「名前・・・」
「名前?」
「だってお前、彼女に名前教えたじゃないか。ほんとの名前教えるくらい、お嬢ちゃんのこと大切に思ってるんだろう?」
 オスカーが、終わりにしようと心を決めたのは、アリオスが彼女に本当の名前を教えたと知ったからだ。それほどまでに大切に思っているのなら、もう自分の居場所はないと思ったからだ。
 その言葉に、アリオスはわざと笑った。オスカーが感じたほど、重い意味はないのだと告げる為に。
「バーカ、それこそが、オレがアイツにエリスを重ねてた証拠じゃねえか」
 アンジェリークがあまりにエリスと重なるから、だから、もう一度呼んで欲しくなったのだ。昔、エリスに呼ばれたように。
「それに・・・。オレのフルネーム、知ってるのはオマエだけだぜ?」
 レヴィアス・ラグナ・アルヴィース。それがアリオスの本当の名前。
アンジェリークにも教えていない、ミドルネーム。このロンドンで、知っているのはただ一人、オスカーだけだ。
「他に訊きたいことは?もっと、オレに文句があるんなら、言ってくれ」
笑いを収めると、アリオスは真剣な眼差しで訊ねる。
それに対してオスカーは未だ視線を逸らしたまま、言葉を捜すように言い募った。
「お前は家事は全然だし」
「ああ」
「人が手間隙かけた作ったメシに、美味いの一言も言わないどころか、食える味なら何でもいいとか失礼極まりないこと言うし」
「そりゃ、まあ・・・・・・悪かった」
「買い出しだって結局俺になってるし」
「・・・努力は、してるぞ、一応」
「・・・。」
「他にないなら、もう一度訊くぜ。こっちを見ろ」
有無を言わせない強い口調で、アリオスはオスカーの視線を向けさせた。
「オマエは、終わりにしたいのか?オスカー」
オスカーはじっと、自分を覗き込む色違いの眸を見つめる。
 傷つけあって、ボロボロになるような事態は避けたいと思っていた。誰かが犠牲を払って済むのなら、その役割は自分が担おうと思った。自分の心を隠して、自分自身さえ誤魔化してみせる、その自信があった。しかし、自分が本心から終わりにすることを望んでいるのかと問われれば。
「・・・したい、わけないだろう!」
オスカーは叫ぶように答える。
 そんなことを、誰が望むというのだろう。自分の中の愛情のベクトルは、未だアリオスの方を向いているというのに。誰が好き好んで離れたいなどと思うというのだ。
 望んでいた答えを得て、アリオスは掴んだままのオスカーの腕を更に強く引き寄せた。
腕を放し、代わりに背中から肩へと腕をまわしてしっかりと抱き締める。
「やっと素直に言ったな」
緋い髪をクシャクシャと掻きまわしてやる。
「うるさい」
気障なセリフを臆面もなく言ってのける男が、珍しく照れていた。
普段と逆のシチュエーションにアリオスは笑い、そうして久しぶりに触れた温もりをもっと感じようと、更に強く抱き締めようとすると。
「腹減った」
色気の欠片もないセリフがオスカーの口をついて出た。
「あのなあ・・・」
あまりと言えばあまりなセリフにアリオスは脱力する。
「仕方ないだろう、この二日間ほとんど食べてないんだ」
 胃袋よりも、心が空っぽになってしまったようで。
 空腹どころか、すべてが麻痺したように何か感じる余裕をなくしてしまっていたから。
「冷蔵庫もカラだしな」
思案するような口調に、アリオスはオスカーを抱き締めたまま、あからさまに嫌そうな顔をした。オスカーには見えていないが。
 普段あれだけレディに対するムード作りに余念がない男は、アリオスに対しては一切そういう概念がないのだ。自ずと、次のオスカーの行動とセリフが予想できてアリオスは溜息をつく。
と、予想通り、オスカーはアリオスの躰を押し戻した。
「よし、行くぞ」
「・・・どこに」
訊きたくなかったが、訊いてみる。
「決まってるだろ、買い出しだ」
 やっぱり・・・。
アリオスは更に深い溜息をついた。ここはベッドサイドだ。なんならこのままベッドに押し倒してやろうかと思わないでもなかったが、だが、ここは大人しくオスカーに従おう。
 ムードの欠片もなかったが、別に嘆くほどのことでもない。
 遠くに感じていた体温が、また元通り一番近いところへと戻ってきた。
 触れたいと思えばすぐに触れられる位置に。
 だから焦る必要はない。時間は、たっぷりあるのだ。
 
 これからまた始まる、二人の日常の中に。
 
 
 
 
End.
 
 
 
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A Day In The Life -30th.-




 「・・・わからぬ男だ」
「本当に・・・」
クラヴィスの言葉にリュミエールがしみじみと頷いた。
「オマエら、素直にオレに言えねぇのか」
アリオスが据わった目つきで二人を見る。
 ベイカーストリートのリュミエールの家にアリオスはいた。
「珍しく朝から訪ねていらしたかと思えば、有無を言わさず、二階に上がって眠りに就いてしまうんですから、あなたは」
「ちょっと朝まで飲んでたんでな」
 飲んでいた場所から比較的近かったことと、ここならば昼間でも暗闇が用意されていることもあって、アリオスはここを宿代わりにすることにしたのだ。オスカーと違ってアリオスは別にここを毛嫌いしているわけでもない。リュミエールは相手にしにくいし、クラヴィスも得体が知れなくて多少薄気味悪く感じないでもないが、それも許容範囲のうちに収まる程度だ。
「・・・だからといってここに来るような人ではないと思っていましたが」
「まあな」
アリオスは肩を竦めて頷いた。
 ここならば、罷り間違ってもオスカーに会うことは絶対にないという確信があったからだった。
「くだらぬ・・」
クラヴィスが水晶球を見つめたまま言うのを苦笑して聞き流す。
本当に非科学的だと思うが、この男にはアリオスが何故ここにいるのかわかっているのだろう。
「オスカーと、何かあったのですか」
リュミエールがそう尋ねるのを聞いて、そういえばコイツはオスカーの友人だったんだな、と思い出した。
 オリヴィエといい、リュミエールといい、あの男はなんだかんだ言っても友人に恵まれている。
本人は友人、と言われればムキになって否定するのだろうが。
「あったな・・・。もうすぐ決着つけてやるが」
「そうですか・・」
それ以上深く訊いてこないのはありがたかった。
 アンジェリークと別れの挨拶を済ませたにも関わらず、アリオスがアパルトメントを出たのには理由がある。
 確かめたかったのだ。自分と、彼との距離を。
あの男のポーカーフェイスは、生半可なものではないとアリオスは熟知している。
どんなに心が軋んで悲鳴をあげても、あの男は造作もなく微笑んで見せるから。
 色素の薄い氷のような眸は、奥まで見通せるようでいて、その実すべてを反射する鏡のようなものだ。相手に合わせて自分を見せる。本当の心はその奥に隠したまま。
 だが、そのポーカーフェイスの奥の心が、アリオスにはわかったはずだ。
それを、確かめたかった。まだ自分が、オスカーのその僅かなシグナルを感じ取れるのかどうかを。感じ取れる距離に、自分がいるのかどうかを。
 自分を真正面から見返した氷色の眸は、相変わらず底を見せようとしなかった。
けれど、「まだ間に合う」と言った時の、一瞬の眸の揺れをアリオスは見逃さなかった。
 そう、まだ間に合う。
それはアンジェリークにではなく、オスカーの気持ちに。
自分の気持ちを何も言うことなく、すべてを終わらせようとしているあの男の手を、離すわけにはいかないのだ。
 もしオスカーが、自分に愛想を尽かして離れていくと言うのなら、それは仕方ないと思っている。
この二年間、甘え続けたのはアリオスの方だ。アンジェリークと出逢ってからのこの二週間、彼の方を見ようとしていなかったのは自分。だから、オスカーが自分から離れるというのなら、それを止める権利はないのだと、アリオスは承知している。
 だが、オスカーは何も言っていないのだ、自分の本心を。
終わりにするというのが本心ならばそれでいい。それが、本心ならば。
 何も言わずに離れていけると思うなよ、オスカー。
心の中で呼びかけて、アリオスは軽く唇を噛んだ。
 わざわざ部屋を出てきたのは、オスカーの心を揺さぶる為。
酷なことをしているようだが、そうでもしなければオスカーの限界点を越えることは出来ない。
生半可なことでは崩れない、オスカーの中の壁を越えられるのは自分だけだという自負もある。
 何も訊かないことで、アリオスを受け容れていたオスカーを。
今度は、すべて吐き出させることで受け止めてやりたいと、そう思った。
 そうして、もう一度、自分を受け容れて欲しい。
誰にも話さないと、話すことなど有り得ないと、そう決めていた過去の傷も、オスカーには話そうとアリオスは決意していた。オスカーが、訊きたいと言ってくれたのならば、ではあるが。
「何を考えていらっしゃるのか存じませんが・・・。どうも今夜は出て行くつもりがないようですね」
リュミエールが困ったように笑った。
「明日には帰るぜ。起きてるときには陰気で仕方ねぇが、寝心地だけはいいからな、この部屋」
 何せ真っ暗になる。さりげなくいい酒も揃っている。
「クラヴィスさんにご迷惑を・・・」
「構わぬ・・・」
ぼそっとクラヴィスが言った。静かにしていさえすれば、クラヴィスにとっては部屋に誰かいようといまいとどうでもいいのだろう。
「悪いな」
アリオスが軽くそう言うと、クラヴィスがフッと笑う。
「思ってもいないことを・・・。ふむ、どうやら長らくお前にかかっていた霧は晴れたということか」
 どうやら自分には霧がかかっていたらしい、とアリオスは肩を竦めた。
確かに霧の中を手探りで歩くような日々だったのかもしれない。
 だが、今はもう霧は晴れた。
行くべき方向を見誤ることはない。
その道を、独りで行くのか、隣りに相棒がいるのかは・・。
 オマエが決めることじゃない。
アリオスは自分自身に向かってそう告げた。



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A Day In The Life -29th.-




 その日の天気は晴れだった。
昼前に目を醒ましたアリオスは、寝室を出て、誰もいないリビングを見回した。
 帰ってきやがらねぇつもりか、アイツは。
どさっと壁に凭れて腕を組む。
 三日前に「終わりでいい」と言って出て行ったまま、オスカーは帰ってこない。
否、昨日アリオスが外へ食事に出ているうちに一度帰ってきたようなのだが、着替えるとすぐに出て行ったようだった。
 だが、オスカーが帰ってこないのはアリオスにとってはある意味好都合だった。
一昨日オリヴィエと話してから、一人で考える時間がたっぷり出来たからだ。一昨日、出掛けに会ったアンジェリークのことが気になりはしたが、今は一人で自分の心と向き合う時間が欲しかった。
 この二日ほどの間、この部屋でぼんやりと様々なことを思い出していた。
エリスのこと、アンジェリークのこと、オスカーのこと。時系列など関係なく、連想ゲームのように次から次へと脳裏に浮かんできた。記憶のすべてを引っぱり出すように自らの過去の一つ一つを思い出し、考え。そうして、とある一つの事実に気づいたのは、今日の明け方だった。
 それが、自分の答えなのだと、そう思った。
そう納得して、久しぶりにゆったりとした気持ちで眠り。
先ほどまで、夢を見ていた。
 エリスが笑っていた。
哀しい眸で見ることなく、涙を流すことなく、エリスが微笑んでいた。
 エリス、と呼びかけると彼女は頷き。
 彼女は、アリオス、と自分を呼んだ。
 レヴィアス、ではなく、アリオス、と。
アリオスは、非科学的なものは信じない。だから、その夢も、夢以外の何物でもなく、自らの感情と記憶の産物に過ぎないのだと思う。
 けれど、それでもよかった。
導き出した答えは間違っていないと、そう確信した。
「やらなきゃなんねぇことは、まだあるがな」
自らに言い聞かせるように呟く。
 冷たい水で顔を洗い、冷蔵庫の中にかろうじて残っていたミネラルウォーターを喉に流しこんでから、アリオスはシャツを手に取った。
 着替えを終え、一服しようと煙草に手を伸ばしたその時、ひび割れた音のブザーが鳴り響く。
 突発の依頼人でもない限り、今日この部屋を訪ねてくるのは一人しかいない。
訪問者を予想しながらアリオスがドアを開けると、果たしてそこには予想通りアンジェリークが立っていた。
「おはよう、アリオス」
おはよう、というには随分遅いと時間だったが、そんなことは二人とも気にしていなかった。
アンジェリークの足元には大きめのボストンバッグが置いてある。
「よう」
「今日、帰るから・・」
「・・・ああ。ユーロスターなんだろ?ウォータールーまで送ってくぜ」
言いながら、ボストンバッグを持とうとすると、アンジェリークがそれを止めた。
「ううん、いいの。時間、まだちょっとあるし、レイチェルが、エルンストさんと三人でご飯食べてからって言ってるし」
「そうか・・・」
「だから、お別れ言いに来たの」
「アンジェ・・」
アンジェリークは少しの間俯いていたが、やがて勢いよく顔をあげた。
「私、アリオスのこと好きだった。・・・ううん、今も好き」
緊張の所為か、少し震えているアンジェリークを愛しいと思った。その気持ちに嘘はない。
けれど、今ここでアンジェリークに手を差し伸べてはいけないのだ。それが、アリオスの出した答えだった。
「アンジェ、オレは・・」
「あ、言わなくていいから・・・。知ってたの、あなたが、最初から私を通して別の人見てるって。アリオス、時々すごく遠くを見るように私を見てたから。隣りにいても」
 ふとした会話の途中で、フィルター越しに物を見るように自分を見つめているアリオスに気づいていた。病院で、夢に魘されたアリオスを起こした時、「エリス」と呼ばれたことで確信した。アリオスは、自分の中にエリスという女性の面影を見ているのだと。
「それでもね、いいって思ってたの。私はアリオスが好き、それでいいんだって。でも、きっとそれじゃダメなんだろうなって、どこかでわかってたから。今はいいけど、このままいけばきっといつか、私だけを見て!って、言っちゃうと思う」
 それは人を好きになれば当たり前の感情だ。責められるべきことは何もないのだと、アリオスが言おうとすると、アンジェリークはにっこりと笑った。その大きな眸は潤んでいるが、それでも彼女は笑った。
「エリスさんて人に似てなくても、アリオスが好きになれる人じゃないとダメだと思う。そうじゃないといつか絶対傷つけあうから。私はきっと、アリオスの中の想い出を、消したくなっちゃうから。だから、ダメなの。アリオスの中の想い出ごと、あなたを抱き締めてあげられる人じゃないと。私の手は小さくて、あなたを抱き締めてあげられないから」
 私の手は小さくて、貴方を抱き締めてあげられないけど。
 その眸の美しさに気づいて、抱き締めてくれる人は絶対、どこかにいるから。
アンジェリークの言葉が、またエリスに重なる。アリオスはそっと眸を眇めた。
 エリスも、アンジェリークも。
自分にとって、隣りを歩くのではなく、行くべき方向を照らし示してくれる道標なのかもしれないと思う。隣りを歩くのは・・・。
 アンジェリークはボストンバッグを両手で持った。
「たった二週間だったけど・・・。楽しかった。ありがとう、アリオス」
「・・・ああ。楽しかったぜ、オレも」
「うん。・・・じゃあね。あ、見送らないで。ドア、閉めて」
 見送られるほうが寂しいから。
アンジェリークの言葉にアリオスは軽く頷いた。彼女の言葉に逆らう気はなかった。
「また、来いよ。今度はオレよりもよっぽどオマエの好きそうな場所知ってるヤツをガイドにつけてやるから」
「うん。オスカーさんにもよろしくね。ポトフ、美味しかったって」
「ああ。・・・伝えとく」
 そのセリフの微妙な間には、アンジェリークは気づかなかったようだった。
「じゃあな、アンジェ」
「うん」
 このままではいつまでも話してしまいそうで、けれど、アンジェリークからこれ以上別れの挨拶を言わせるのは酷だろうと、アリオスは自分から話を切り上げる。
最後に、ポン、とアンジェリークの頭を撫でてやって、そうしてアリオスはゆっくりとドアを閉めたのだった。

 まるで、覗き見していたようで気分がよくない。
そう思いながらセイランは自室のドアを開けた。ちょうど、アンジェリークがリフトの昇降ボタンを押したところだった。
「あ・・・、セイランさん」
「無事、別れの儀式は済んだようだね」
 セイランが遅い朝食兼昼食を摂りに行こうと部屋から出ようとしたら、アンジェリークが二つ隣りの部屋のブザーを押したのだ。さすがにセイランも出るに出られず、中途半端にドアを開けかけたまま、アンジェリークの精一杯のセリフを聞く羽目に陥った。
「はい・・。セイランさんにも、相談に乗ってもらってありがとうございました」
「別に、相談に乗った覚えはないんだけどね・・」
 一昨日、アンジェリークの話を聴いてやっただけに過ぎない。特にアドバイスをしたわけでもなく、本当に、ただ彼女が話すのを聴いていただけだった。
「でも、セイランさんに話して・・。聴いて貰っているうちに、落ち着いたから」
「そうだと言うなら、そうなのかもね」
セイランがそう答えると、リフトが着いたことを告げるチャイムが鳴り響く。
「はい。あ、じゃあ、行きますね。下でレイチェルが待ってるし」
相変わらずギシギシと音を立てて開くリフトに乗り込むと、アンジェリークはぺこりと頭を下げた。
「今度来るときは」
「え?」
「今度来る時は、僕の部屋を訪ねて来てもいいよ。もしもキミが芸術に興味を持っているのなら、だけどね」
 リフトの扉が閉まる直前に言われた、なんとも捻くれたセリフに、アンジェリークは笑って頷く。
「はい!」
リフトの扉が完全に閉まり、リフトの上についたランプの灯りが階下へと移っていくのを見ながらセイランは呟いた。
「・・・僕も下へ降りなきゃいけなかったんだっけ」

 オスカーが、アパルトメントに戻ったのは昼過ぎだった。
誰もいないリビングを見て、ほっと溜息をつく。
玄関の鍵もかかっていたし、この部屋にアリオスはいない。
リビングと、隣りの、ここ二、三日使われた形跡のないキッチンダイニングを見回しオスカーは呟いた。
「行ったんだな・・」
「誰が、何処に行ったって?」
 突然後ろから掛けられた声に、オスカーは驚いて振り返る。
「アリオス・・!」
「なんだよ、オレがここにいちゃいけねぇのか?」
リビングの扉に凭れてこちらを見ているのは、紛れもなくアリオスだった。
「お前・・・、お嬢ちゃんは?あの子は今日帰るんだろう?」
「ああ」
「ああって、お前、見送りに行かないのか?まだ間に合うだろ」
 何やってるんだ、とオスカーが半分怒ったように言うのを、アリオスはじっと見つめていた。
「見送らなくていいって、アイツが言ったんだよ」
 別れの挨拶を済ませたことは、わざと告げなかった。
「そんなの、本心じゃないに決まってるだろう。一緒にパリに来て欲しいくらいの気持ちのはずだぞ、あの子は」
「それでいいのかよ」
ユーロスターの時刻表を探し始めたオスカーの動作を遮るように、アリオスが言った。
「なんのことだ」
わかっているのにはぐらかす、それはオスカーの常套手段だ。
「オレが、アンジェの所に行ってもいいのかと訊いてるんだ」
黄金と翡翠の、剣呑と言ってもいいほどの視線がオスカーを射抜く。
それに一瞬魅了されながら、だがオスカーはその視線を真正面から見返した。
 ここで視線を逸らしたら、すべてが崩れてしまうから。
「終わりでいい、と俺は言ったはずだが?」
 自分の口から出るセリフに、心が悲鳴をあげるがそれは聞かない振りをする。
もう、アリオスの隣りは自分のいるべき場所ではないのだ。それを自覚してしまったら、そこにいるのは苦しいだけだ。
「本心、なんだな?」
確認の言葉に、心がきりきりと締め付けられるように痛んだ。
 早く、行ってくれ・・・!
オスカーはそう思う。こんな痛みを隠して笑うのには、もうそろそろ限界が近い。
「何度も言わせるな。・・・行けよ、まだ間に合うんだから」
それでもかろうじて苦笑しながら、その言葉を告げる。
 アリオスは、しばらくオスカーから視線を外さずにいたが、やがてふいっと踵を返した。
「わかったよ。オマエがそう言うんならそれでいいさ。じゃあな」
そして振り返ることなく、アリオスは部屋を出て行き。
オスカーは疲れきったようにソファに躰を預けた。



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A Day In The Life -28th.-




 コヴェントガーデンから二00メートルほど離れた、ラッセルストリートとドルリーレーンがぶつかるあたりに、"the Fruitful Passage"という名のワインバーがある。
繁華街から少し離れている所為でこじんまりとした印象のある店だが、その分隠れ家的な要素が高く、密かに人気のある店だ。
 オスカーが店のドアを開けると、まだ少し早い時間だからか客はおらず、オーナー一人が笑顔で出迎えてくれた。
「どうした、こんな時間から」
「そうだな・・・。ま、いいだろう、たまには」
そのセリフに、オーナーは黙ってカウンターのスツールを指差してオスカーに座るよう促した。オスカーが腰掛けたのを確認すると、窓のブラインドをすべて閉める。
「おいおい、誰も貸切にしたいなんて言ってないぜ?カティス」
どこか一つでも店の窓のブラインドが上がっていて灯りが洩れていれば開店、ブラインドがすべて閉まっていれば閉店、それがこの店のルールだ。
「賑やかな所にいたいって顔じゃないぞ、今のお前さんは」
 カティス、と呼ばれたオーナーはオスカーを指差してそう言った。
「お節介だな、相変わらず」
「そのお節介が恋しいときもあるだろう?」
「さあな」
軽口を叩きながら、すっと目の前にグラスが置かれる。芳醇な香りが鼻腔を擽って、オスカーは目を眇めた。
「いいのか、こんな大物出して」
 カティスが手にしているボトルに書かれた名前はシャトー・オ・ブリオン。フランスボルドー地方の中でもグラーヴ地区で作られる一級赤ワインだ。
「もうそろそろこいつも飲み頃でな。お前さん、こんな日に来るなんて運がいいぞ」
 客の好みのワインをグラスで提供するのがワインバーの基本だが、それとは別に、こうやって飲み頃を迎えたワインを客に振る舞うのがこの店のやり方だった。
 カティス・ゲインズブールという男は、オスカーがロンドンに来て初めて親しくなった人物だ。オスカーよりも七歳年上のカティスは、オスカーがロンドンに来た時には既にここに店を構えていて、ある日通りすがりになんとなくこの店に入って以来付き合いが続いている。
「お前さんは、甘え下手だからな」
自身も芳醇なワインの香りを楽しみながら、カティスが唐突に言った。
「なんだよ、突然」
すべてを見通しているようなセリフはいつものことだ。オスカーが何か言う前から、曖昧な言葉で的確な所を突いてくる。
「逆を言えば甘えさせ上手、と言うのかもしれないが」
「それを言うならあんたの方がよっぽど上手いだろ」
肩を竦め、笑って流そうとしてもカティスには通じない。普段は実年齢よりも大人びた態度を取るオスカーも、カティスにかかると歳相応の様子になってしまう。
「・・・お前さんは、もっと自分を甘やかしてやってもいいんじゃないかってことさ」
「俺は他人に厳しく自分に甘く、レディにはもっと優しく、がポリシーなんだがな」
「その、レディには・・・、はともかくな」
苦笑しながらカティスは二つのグラスにワインを注ぐ。飲み頃を迎えた一級品は、二人だけが飲むことになりそうだった。
「とても、他人に厳しく自分に甘く、だとは思えんのだがね」
「俺が他人といるところなんて見たことないくせによく言うな、あんたも」
呆れたように言うと、カティスはまあな、と笑った。
「褒めてないぞ」
「わかってるさ」
どうもカティス相手だと分が悪い。何を言っても暖簾に腕押し、というのはこういうことを言うのだろうか。
「だがな」
カティスはグラスを回して赤ワインの香りを楽しみながら言った。少し低くなる声のトーン。だが、視線は向けない。こうやってオスカーに何かアドバイスめいたことを言う時、カティスは決してオスカーをじっと見つめたりしない。そうやって、どう受け取るかは自分次第だと、これは単なるお節介なのだと伝えてくれる。
「誰だって、誰かに甘えたいときはある」
「そりゃそうだろうな」
グラスを目の高さに掲げて、色を楽しみながらオスカーは軽く返した。
「そして今、お前さんの目の前には、自分の上を行く甘えさせ上手がいる」
「自分で言うか」
軽く吹き出して言うと、カティスも少し笑った。
「ついでに言うと、俺はお前さんを大切な友人だと思ってるぞ」
「そりゃ、ありがたい」
口許に笑みを残したままそう答えると、オスカーはグラスをカウンターに置く。
「じゃあ、お節介なオーナーに甘えて」
少し俯き加減のその表情は、前髪が眸を隠してしまってカティスからはよく見えなかった。
「なんなりと。ああ、でも今のところ、これ以上いいヤツはないからな」
ワインを指差して言ってやると、オスカーが小さく笑ってみせる。
「ワインはあんたのお薦めでいいから・・・。一晩俺に付き合ってくれ」
「なんだ、いつもと変わらんじゃないか」
「それでいいんだよ」
 帰りたくないのだ、あの部屋に。
明日、アンジェリークはパリへ帰る。アリオスは彼女を見送りに行くだろう。もしかしたら、そのまま帰ってこないかもしれない。それでもよかった。ただ、顔を合わせたくないのだ。アンジェリークと、ウォータールーステーションまで共に行くだろうアリオスを、笑って見送ってやるには自分の心は疲れすぎている。最後の最後でボロを出すような真似だけは絶対に避けたかった。
「それで、いいんだ」
 いつもと変わらない。それが重要なのだと、オスカーはカティスに向かって笑って見せた。



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A Day In The Life -27th.-




 ブザーが鳴り響いたのは、午後三時近くのことだった。
明け方まで酒を片手に自問自答を続けていたアリオスだが、知らないうちにソファでそのまま眠ってしまっていたらしい。
 大音量で響き渡るひび割れた音のブザーが止むと、バタン、と玄関の扉が開けられる音がした。無用心だが、鍵をかけずに眠ってしまったのだろう。
 遠慮のない足音の主はすぐにリビングのドアを勢いよく開けて現れた。
「は~い、アリオス。鍵かかってなかったから勝手に入ってきちゃったよ~ん」
目覚めの第一声としては絶対に聞きたくなかった声だった。
「・・・何の用だ、オリヴィエ」
「あら~、こんな時間にお目覚め?優雅なんだか怠惰なんだかわかんない生活送ってるわね、相変わらず」
 オリヴィエは向かいのソファにどさっと腰を下ろすとオーバーアクションで足を組んだ。
「二〇分待ったげるから、シャワー浴びて着替えてらっしゃい。楽しく二人でお食事に出かけるわよ」
 軽い言葉とは裏腹に、その声には剣呑な響きが含まれていた。
 
 
 
 アパルトメントから三分ほどの所にある、ゲイ・ハサーというハンガリー料理のレストランで遅めの昼食を摂ってセイランが自室のある五階に戻ってくると、二つ隣りの部屋の前に一人の少女が佇んでいた。
「何でも屋に用ってわけじゃなさそうだね」
 他人に干渉するのもされるのも嫌いなセイランが彼女に声をかけたのは、彼女があまりにも沈んだ顔で立っていたからだった。
 彼女のことは、二つ隣りの部屋の住人の片割れと一緒にいるところを何度か見掛けたことがある。
だが、数度見掛けたそのすべての時において、彼女はもっと幸せそうな笑みを湛えていた。
「あ、はい・・」
声を掛けられるとは思っていなかったのだろう。驚いたように顔を上げ、彼女は頷いた。
「アリオスに・・。会いに来たんですけど」
「いなかったのかい?」
「いたんですけど・・。出かけるところでした」
 すごく華やかな・・・たぶん男の人だと思うんですけど、その人と一緒に。
そのセリフで、オリヴィエが来ていたのだな、とわかる。セイランはオリヴィエとも顔見知りだった。
「それで、そんな沈んだ顔してたってわけかい?アリオスにだって色々都合もあるだろうに」
「あ、違うんです。一緒に出かけたかったのは本当だけど、それがダメだったからってわけじゃなくて・・」
 上手く言葉にできないらしく、彼女はそう言うと俯いた。
その様子にセイランは溜息をついた。お節介を焼くのは趣味ではないのだが。
「生憎僕は銘柄なんてものに拘る性格じゃなくてね」
「え?」
唐突な言葉に、彼女は首を傾げてセイランを見る。
「高かろうと安かろうと美味しいのならそれでいいのさ」
「えっと・・」
「お茶くらいなら出せるけど?」
 インスタントだから、キミが高級志向だっていうならオススメはしないけれどね。
その言葉に彼女は少し迷ったあと、頷いた。
 
 
 
 「さっきの子が、噂のアンジェちゃんってわけかー」
レスタースクエアステーションのすぐ近くにあるコーク&ボトルというワインバーに腰を落ち着けると、オリヴィエは早々に話を切り出した。
「別に噂にはなってねぇだろうが」
「オスカーに聞いたのよ」
「そういえば、オマエ、アイツと飲んでたんじゃなかったのか?」
昨日、オスカーはそう言っていたはずだ。
「飲んだわよ。だからこーしてワタシがアンタんとこ来たんじゃない。朝まで飲んで、寝床も提供してやったから、あのバカ、まだ眠ってるんじゃないの~?こっちは睡眠不足もいいとこよ、まったく」
 手早く注文を済ますと、オリヴィエはふっと真剣な顔になった。
「で?」
覗き込むようなその視線に、鬱陶しげに髪をかきあげるとアリオスはオリヴィエを見返す。
「何が言いたい」
「アンタはどうするつもりなのかと思ってね」
にやりと笑ってオリヴィエはそう言った。だが、その視線は表情を裏切って鋭い。
「・・・何処まで知ってるんだ、オマエは」
「知らないわよ」
「?」
「アンジェリークって子が現れて、そりゃあ可愛らしくて素直ないい子で、アンタはその子をすごく気に入ってる。アイツが話したのはそれだけよ」
 それだって、随分酔いが回ってからやっと話したんだけどね。
運ばれてきたハムとチーズのパイを食べながらオリヴィエはそう言った。
「どっからそれだけ言葉が出て来るんだってくらい口の減らないヤツだけど・・・。でも、アイツ、自分のことは喋ろうとしないの、知ってるでしょ」
 そうなのだ。オスカーは饒舌でありながら、自身のことはほとんど話さない。それすらも、深く付き合ってみないとわからないほど、彼は巧みに会話の舵を取る。
 だから、オスカーは「終わりにしよう」と言ったことも当然話していないのだ。恐らくは普段と変わらない様子で朝まで飲み明かしたのだろう。
「だったら、オマエはなんでオレのとこに来たんだ、オリヴィエ」
「孤独だったから」
「・・」
「昼過ぎに喉が乾いて目が覚めて、叩き起こしてやろうかと思ってオスカーの様子見たのよ。アイツはまだ眠っててさ。そしたらなんか・・・。上手く言えないんだけどね、すごく孤独に見えたのよ、あのバカが」
 自分の勘の良さには絶対の自信を持っているオリヴィエは、その直感に従って行動することを即座に決めた。オスカーが孤独に見えるということは、その原因はきっとアリオスにある。明け方近くになってオスカーが言った、アリオスが気に入っているという少女が二人の間の楔となっているに違いない。
「オスカーがさ、アンタに惚れたんだって気づいた時ね、そりゃあ驚いたよ、ワタシ。だってアイツの女好きはよぉく知ってたからね。でもね、だからわかったのよ。あの徹底した女好きでプライドの高いアイツが、そういうハードルを越えるほど、アンタのことを好きになったんだって」
「オリヴィエ」
「あのバカ、笑っちゃうけど、結構健気なトコあるからさ。そこまで好きになった相手のこと最優先しちゃうんだよねぇ。女の子のことも優先しちゃうけど」
 あんな態度デカい癖して、実は自分のことは後回しってんだから可笑しいったらありゃしない。
言葉と裏腹に大して可笑しそうでもなくオリヴィエは言い募る。
「アリオス。ワタシはアンタのこと、結構いい飲み友達だと思ってるけどね」
アリオスが無言でオリヴィエを見遣った。
「でも、アンタと知り合う前からあのバカはワタシの悪友なのよ。しかも悔しいことに、結構大事なね」
オリヴィエはワイングラスを回しながら笑う。アリオスから視線を外さずに。
「べっつに、別れるな、なんてバカなこと言わないわよ。アンタがそのアンジェちゃんを選ぶってんならそれでもいいわ。けどね」
そこでグラスを置いて、オリヴィエは静かに告げた。
「アイツだけが犠牲を払うような終わり方だけはやめて」



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A Day In The Life -26th.-




 アンジェリークのことを、護ってやりたいと思う。それは今も変わらない。
けれど、彼女の中にエリスを見ていることを、否定できない。
護ってやりたいと思う、その気持ちが、護ってやれなかったエリスへの想いも引き摺っていることを、アリオスは疾うに自覚している。それでも、彼女に惹かれる気持ちは止められなかった。アンジェリークは、あまりにもエリスに似過ぎていたのだ。
 歯止めのないまま、彼女に惹かれ、時間を過ごし、ますますアンジェリークにエリスの面影が重なり。けれど、アンジェリークとエリスは別人だ。だから誤魔化し続けていた。一体、自分はアンジェリークを見ているのか、エリスを見ているのか。
 だが、本当は。
それ以前に、気づかない振りをしていたことがある。
 自分は、オスカーとの関係をどうしたいのか。
アンジェリークと出逢ってから、オスカーとまともに会話する機会は極端に減った。触れ合うこともない。きちんと顔を見ることも無くなっていた。
 アンジェリークを初めて見た日。そのあまりにエリスとよく似た姿に、酷く狼狽した。記憶の底に沈めたものを突然引き上げられて、居ても立ってもいられなかった。浴びるどころか、浸かる程の酒を飲み、したたかに酔った勢いのまま、オスカーを無理に抱いた。
 黙ってたな、アイツ。
ソファに寝転んで、アリオスはその時のことを思い返す。
 あんな風に無理矢理行為に及んで、それを良しとするような男ではない。元々何をしても拮抗する二人だ。オスカーが本気で抗えば、泥酔状態だったアリオスを跳ね除けることなど造作もなかっただろう。
 だが、オスカーは黙ってアリオスを受け容れた。
到底愛撫とは呼べない乱暴な行為に、苦痛の声を噛み殺しながら、決して「やめろ」とは言わなかった。
翌日には、何でもないような顔していた。きっと、躰は悲鳴をあげていただろうに。
 いつだって、そうだった。
出逢ってから今まで、些細なことで子供の喧嘩じみた言い争いをしたりすることはよくあったが、オスカーとの会話で神経が逆撫でされたことなど皆無だ。アリオスが本当に触れて欲しくないと思っていることは、オスカーは何も訊かずに受け容れてくれていたのだ。アリオスが意識せずにいるうちに、オスカーは触れていいもの、触れてはいけないものを感じ取っていた。あの男はそれをいとも容易くやってのけたから、気づけばそれが自然になっていたのだ。アンジェリークに「魘されていた」と起こされるまで、意識せずにいたほど。
 初めて逢ったとき、オスカーはしばらくアリオスを凝視していた。
色違いの眸を好奇の目で見られることには慣れていたから、オスカーのその凝視にも特に何も思わなかった。珍しいとか、猫のようだとか、そんなことを言われるのだろうと思っていた。だが、彼は暫く黙って見つめていたかと思うと、ふっと笑ってこう言った。
 初めて見たが・・・。綺麗な色だな。
そのセリフに驚いたことを、今でも憶えている。
「何やってるんだ」
取りとめもなく思い返していると、オスカーがリビングのドアに凭れていた。
「・・・別に」
「お嬢ちゃんとどこか行かなくていいのか?」
「なんでだ?」
アリオスはソファから身を起こすと、オスカーを見つめた。
「お嬢ちゃん、明々後日帰るんだろう?」
「ああ、らしいな」
昨日、アンジェリークにそう告げられた。オスカーは恐らくレイチェルあたりに聞いたのだろう。
「だったら、もっと一緒にいたいんじゃないのか?」
 少なくとも、アンジェリークはそう思っているはずだ。
「そうだな」
「なら・・」
「オマエ、それでいいのか?」
オスカーをじっと見つめてアリオスは言った。
 彼女と一緒にいたい、そう思う気持ちはアリオスの中にもある。
けれど、今は考えなくてはならないのだ。
 自分はアンジェリークを見ているのか、エリスを見ているのか。
そして、自分が本当に心から欲しているのは誰なのかを。
 アンジェリークを庇ってエスカレーターを転げ落ちたあの時、途切れていく意識の中で思い描いたのは誰だったのか。誰の名を呼んだのか。
「それでいいって?」
オスカーは意味がわからない、というように首を傾げた。
「そのままの意味だ」
アリオスが、アンジェリークと共にいるということの意味。アンジェリークを選ぶということの意味。
「お前、お嬢ちゃんのこと大切に思ってるんだろう?」
オスカーがまるでからかうように微かに笑った。
「・・・」
「可愛らしいし、素直だし、正直お前みたいなひねくれ者には勿体無いくらいだと思うけどな。お嬢ちゃんもお前のことを好きなようだし。あの子、お前のことを話すとき、そりゃあ幸せそうに笑うんだぜ?ったく、俺が口説きたいくらいだ」
 俺の方がよっぽどいい男なのにな。
肩を竦め、オスカーは一気にまくし立てる。
「一昨日だって、庇われた所為で責任も感じてたんだろうが、お前の目が醒めるまでついていたいって、目の下に隈作ってまで言うんだ。お前がのうのうと寝てた所為だぞ」
「オスカー」
言葉を遮るように、アリオスは名を呼んだ。
だが、オスカーはそれを無視して続ける。
「なんなら、パリまで行ったらどうだ?どこにでもストーカーはいるだろうからな。ロンドンだけじゃなく、パリのレディたちにも安心を届けるってのはいいかもしれないぜ。お嬢ちゃんもお前といつでも会えるほうが喜ぶだろう」
「オスカー」
「ああ、悪い。オリヴィエと飲む約束をしてるんだ。夕飯作ってないから、お嬢ちゃんを誘ってどこか食べに行くんだな。なんならお嬢ちゃんの手料理をご馳走して貰うって手もあるが」
「オスカー!」
 キッチンは勝手に使ってくれ。たぶん今夜は帰らないから。
そう言いながらリビングを出て行こうとするオスカーを、強い口調で呼び止めると、オスカーは振り返ってアリオスを見た。
「なあアリオス。終わり、でいいじゃないか」
さらりとした口調だった。まるで、世間話をするかのような。こちらを見つめてそう告げるオスカーの口許には笑みさえ浮かんでいる。
「詳しくは知らないが、お前は昔何か大切なものを失って、今その穴を埋めてくれる何かを見つけたんだ。彼女はそういう存在なんだろう?だったら、迷わず彼女の手を取ればいいんだ。この二年間は・・・そうだな、ちょっとした暇潰しだな」
 自分とのことは、独りでいるには長すぎる時間を埋める為の暇潰しだったのだと、オスカーはそう言い切って見せる。
「だから、気にするなよ。お前らしくもない」
「オスカー・・・」
「時間に遅れちまう・・。じゃ、な」
 笑みを浮かべたまま頷いて見せると、オスカーはリビングのドアを閉めた。
「・・・」
一人残されたリビングで、アリオスは、閉じられたドアをただじっと見つめていた。



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