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Cry for the Moon




 願い事って、叶わないと知ってても願ってしまうものなのかな。


 空が高い。
遺跡の街で寝転がって見る夜空は、高くて広くて、蒼くて。
星がたくさん見えて、月がすごく大きくて綺麗だ。
オレの知ってたこの街で見る夜空は、イルミネーションで霞んで、月も星も見えなかった。
でもそれがオレにとっては自然で、好きだった。色んな光、音、思い思いのカッコしたヤツら。雑多で、静かな場所なんてないエネルギーに満ちた街だった。
 こんな、ひっそりと寂しい遺跡になっちまうなんて誰が思っただろう。
さっき、夢を見た。
懐かしいこの街の、自分の家に帰った。
・・・夢、なんだって。
オレって存在も全部、夢なんだって。千年前のスピラに存在したザナルカンドの人たちが、祈り子になって見続けてる夢。
オレの記憶も、なにもかも。
・・・んな話、あるかよ。
オレは、生きてるのに。
こうやって、寝転がって空を見て、風を感じて、草を掴んで。
夢だなんて、片付けられてたまるかよ。
でもなんか、すごく不安なんだ。自分が何者なのかわからなくなった気がして。
まだユウナを死なせずに済む方法も考えついてないってのに、こんなんじゃ余計頭ン中グチャグチャになっちまう。
 お願いだ、これ以上オレを混乱させないでくれ。そんなに許容量ないんだ。知らない世界に飛ばされて、訳わかんないままバケモノと戦って、シンはオヤジだって言われて、シン倒すにはユウナが死ななきゃいけないって知って。今度はオレが祈り子の夢だなんて言われても、オレには何がなんだかわかんないよ。
 スピラの人たちは、本当によく祈る。
オレの知ってるザナルカンドじゃ、宗教とか、なかったから。
オレには最初スピラの人たちのその感覚がよくわからなかったけど。
今になってようやく少しわかった気がする。
 目の前に突きつけられたものがあまりにも残酷で、強大で。自分に何ができるのかわかんなくなるから。
だから、祈るんだ。
オレは、スピラの民じゃないから、同じように祈りはしないけど。
でも思えばスピラに来てからずっと、オレは何かを願ってた。
帰りたい、とか。
シンを倒したい、とか。
ここ最近はずっと、ユウナを助けたいって。
どれも、どうすればいいのかわかんないものばっかりだ。どうやったら、ユウナを死なせずにシンを倒してザナルカンドに帰れるのか。考えても考えても、全然いい方法が浮かばない。このままじゃ、明日にはユウナは最後の祈り子のところで究極召喚を手に入れちまう。こんなとこでウダウダしてる場合じゃないってのに、オレは夢だとか言われて・・・。
 見上げた空にはデカい月が浮かんでる。気づかなかったけど、きっと、オレのザナルカンドにも浮かんでた月。
なあ、お願いだ。これ以上訳わかんないのはやめてくれ。ユウナを助ける方法を思いつかせてくれ。それと・・・。
それと、もし本当にオレが祈り子の夢だっていうんなら。
頼むよ。


オレを、消さないでくれ・・・。



 アーロンは、寝転んで月を眺めている少年の姿を見ていた。
少年の姿に、かつての親友の姿を思い出す。ジェクトもまた、ああやって悩んでいた。自分があやふやな存在であること、家族の許に帰れそうにないこと、守ってきたブラスカを死なせなければならないこと・・・。
 因果は、巡るのか。
究極召喚の道を選んだ男の娘は今また悲壮な決意を以って同じ道を辿ろうとし。
究極召喚獣となることを選んだ男の息子もまた、ガードとして同じ壁にぶつかっている。
そして、十年前、目の前の悲劇に何も出来なかった自分もまた、十年前と同じ光景を見ている。
 因果は巡り、死の螺旋は途切れることなく、悲劇は繰り返されるのか。
アーロンは、寝転ぶティーダの姿が視界に入る位置で近くの木に寄りかかると、前方に広がる遺跡の街を見遣った。
共に旅した男の言っていた故郷。千年前に滅んだ街の風景を嬉々として語る男の言葉をアーロンは信じていなかった。死人となって自らが迷い込むまでは。
ジェクトが語っていた通り、煌びやかで華やかで喧騒に満ちた街。シンの脅威に晒され続けたスピラには存在し得なかった屈託のない空気。その空気に触れて初めて、アーロンはジェクトがどれほどの想いを抱いていたのかを知った。帰りたいと願い続け、帰れないと諦めた場所。
そこで、男に託された少年と出会った。弱々しく涙腺の緩い頼りない子供。それでも、身勝手な父親への精一杯の意地で強く在ろうとしていた少年。
「ふん�・�・�・。」
酒瓶を煽りながらアーロンは視線を寝転んだままのティーダに戻した。
何をしているのか、まるで幼子がするように手を空に伸ばしたり引っ込めたりしている。
 その少年が今、この大陸の運命を変えるかもしれない。諦めの充満したこの土地で、そんなものの存在しない世界から来たが故に、諦めることを真っ向から拒否することのできるティーダは少しずつ、けれど確実に、諦めることに慣れた者たちに影響を与えている。それは勿論、ガードだけではなく、究極召喚を目指すユウナにも。
 彼らが明日、死の螺旋に囚われた者を前にして、どんな決断を下すのか。
十年前と同じことを繰り返そうとするのか、それとも何か別の道を行くのか。
アーロンは彼らの選択をギリギリまで見守ってやるつもりでいる。けれど、彼らが死の螺旋の道を選ぶのなら、全力を以ってそれを阻止する。
ブラスカもジェクトも、アーロンに「頼む」と言ったのだ。誰よりも愛しい、けれど親として、成長を見守ることのできなかった子供を。それは決してスピラの死の螺旋の犠牲にする為ではなかったはずだ。
「ふん�・�・�・。」
面白くなさそうにアーロンは再び酒を煽った。
悲劇を全力で阻止する覚悟はできている。しかし、アーロンには予感めいた確信があった。
彼らは、螺旋を断ち切り、スピラに新たな時代をもたらすだろう。
夢の街から来たジェクトがシンであり、その息子であるティーダもまたザナルカンドからスピラへと導かれガードとなった。
彼らだからこそ、螺旋を断ち切れる。諦めを知っているスピラの者では為し得ないことを、諦めを否定できるティーダなら、為し得るだろう。
・・・だが、それにはティーダに辛い決断を強いることになるが。
「本当に生きている世界」を実感させてやって欲しいと、ジェクトが言っている気がしてアーロンはティーダを夢のザナルカンドから現実のスピラへと連れ出した。その選択が間違っていたとは思わない。ジェクトは確かにティーダがスピラに来ることを、ガードとしてシンとなった自分を倒すことを望んだ。けれど、果たしてそれはティーダにとって幸せなことだったのか。
その答えは、今、月に向かって手を伸ばしている少年だけしかわからない。
「埒もない�・�・�・。」
アーロンは空になった酒瓶を不機嫌そうに見つめると、頭上に輝く月を見上げた。
願いなどするだけ無駄だ。十年前、嫌というほど思い知った。けれど。
願っていてやりたいと思うのだ。


せめて、いずれ消えゆく少年が自分の物語に納得できるように、と。

 いろんなことがあったなって、思い出す。
わけわかんないことだらけで、不安で。でも、ワッカにルールー、キマリ、リュック、それにユウナと出会って。アーロンにも再会して。一緒に旅して、戦って。
ザナルカンドとは全然違う風景。機械が禁じられてて不便で。
でも、気づいたらスピラのこと、好きになってた。
 ここの人たちはみんな、一生懸命だ。ちょっとでも幸せになろうって。召喚士とガードを犠牲にして成り立つ世界だったから、余計に。犠牲を無駄にしないよう、頑張ってた。
「ザナルカンド、案内できなくて、ゴメンな。」
みんなを連れて行きたいって。案内したいってホントに思ってたんだ。全部終わればそうできるって思ってた。まさか、自分が消えちまうなんて、思ってなかったからさ。
 ユウナが泣いてる。
ゴメンな。アーロン送るだけでもユウナにはツラかっただろうけど・・。オレのことも送って欲しい。
みんなと会えなくなるの、寂しいっス。これから新しい英雄にされて大変だろうユウナを支えてやれないの、悔しいっス。けど、オレの物語は、ここまでだから。
怖くないわけじゃない。生きてたいよ、みんなと一緒に。
でもさ、大丈夫。
アーロンがさ、待っててくれるって言ってたから。
とりあえず一人じゃないってちょっと安心、だろ。
あのオッサン、傍若無人だからさ、あんまり待たせるといなくなりそうだし。
そろそろ、行くよ。
・・・ゴメンな、ユウナ。
ユウナは強いから、きっとこれからも大丈夫だよ。新しいスピラを創っていける。
 ありがとう、みんな。元気でな。

オレは勢いよく、飛空挺のデッキからダイブした。







 スピラに来てから、オレはずっと何かを願ってた。
夜になって、みんな寝静まるといろんなことが頭ン中をグルグルして。
そんな時は外に出て、地面に寝転がって空を見てた。
澄んだ夜空にはデッカくて綺麗な月が出てて、星がたくさん見えて。
そんな月を見て、なんとなく、オレは願い事をしてた。
 体がスーッと空気に溶けてくような感覚を味わいながら、思い返す。
スピラに来てしばらくはずっと、帰りたいって。
遺跡のザナルカンドに行ってからは、消えたくないって。
 ああ、もうスピラの景色も視えなくなってきた・・・。
何度も何度も月に願い事して。
諦めたくなくて、認めたくなくて。
帰りたい。
消えたくない。
頑なに、願い続けてた。でも。
知ってた。
心のどっかで、オレはわかってたんだ。







月にする願い事は、叶うはずのない願いだって。


旅の終わり




 愛されてると思ったことなんてなかった。

記憶の中の男はいつも、ティーダをからかい、嫌なことしか言わなかった。

家にいることの方が稀で、そしてたまに家にいれば大好きな母親を独占していた。

 嫌い、大嫌い。

何度言っただろう。男はその度に苦笑いして肩を竦めていた。

 …今にして思えば、その顔にはいつだって、不器用な男の後悔が浮かんでいたのに。

「…バカだ、あんた」

オレもバカだけど。

淡い光を放ち今は何も映さないスフィアを前にしてティーダは呟く。

 息子に見せてやりてぇ。

そう言って旅の先々で記録されたスフィアには、男の不器用な愛情が溢れていた。

自分の知らなかった、「父親」の顔をした男。

「……バカだ」

 そんなに愛してくれていたのなら、それを見せてくれればよかったのに。

言葉がなくても、ただ、その大きな手で頭をぐしゃぐしゃと撫でてくれればよかった。

 その掌で。温もりで伝わることだってたくさんあるのに。

そんなこともわからないなんて、なんて不器用な男なんだろう。

 けれど。

記憶の中の自分に構う男の眸にはいつだって、暖かい愛情が滲んでいた。

 言葉も温もりもなくても。視線だけで感じられることだってあるのに。

そんなことも気づかないなんて、なんて自分は鈍いんだろう。

「…ホント、バカだ」

 なにもかもが、もう遅い。

男は世界の脅威と成り果て、自分はそれを倒す旅の途中にある。

次に顔を合わせる時、それは永遠の別離に他ならない。

 それでも。

「………会いに、行く」

たとえ、男がもう父の記憶を失くしていたとしても。

自分を見ても、何も思い出せなくなっていたとしても。

 男は、他の誰でもない、息子である自分に殺されることを望んだから。

「待ってろよ、親父」

 殺し合いでしかなくても。それでも、そんな残酷な方法でも伝えられることはある。
 

 アンタの、息子でよかった、と。


約束




 「消えるって、一体どんなカンジなんだろうな」
ティーダがそんなことを呟いたのは、物凄い悲壮感があってのことではなかった。
一人になれば、自然そんな疑問も浮かぶ。壮絶な犠牲意識や使命感、悲壮な決意があるわけではないけれど、かといって何も考えずにいられる程脳天気でいるには、さすがにティーダに突きつけられた真実は重かった。
「やっぱ、すーっとしたりすんのかな」
「くだらんことを考えるな」
一人だと思っていたところに、低い声がかけられる。それに驚いて振りかえれば、すぐ傍に隻眼の男が立っていた。
「いきなり傍に立つなよなあ…」
「気づかないおまえに問題があるんだろう」
アーロンはにべもなくそう言うと、窓の外を眺めている。飛空挺の窓から流れる景色はスピラのもの。きっと、もう長く見ることはできない景色。ティーダにとっても、アーロンにとっても。
「ここって、あんたの故郷なんだよなぁ」
並んで景色を見ながら、ティーダは尋ねるでもなくそう言った。
「オレの故郷ってやっぱ、ザナルカンドでいいのかな。あー、でも故郷とか言っちゃうこと自体オカシイのかな。実体なんてないんだもんな。そうだよな、おかしいよなっ」
堰を切ったように、ティーダの口から取りとめもなく言葉が溢れてくる。無理もなかった。
たとえどんな存在であれ、十七歳の少年が受けとめるには大き過ぎる真実であることに変わりはない。
「考えても仕方のない事を考えるのはやめろと言っている」
「……オヤジ、まだいるよな」
ぽつりと、言葉が洩れた。
「ああ。ジェクトはおまえを待っている」
簡潔なアーロンの言葉にティーダは黙って頷くと、くるっとアーロンに向き直った。
「あんたも…終わったら消えちまうんだよな」
「ああ」
ふいに、ティーダの手がアーロンの頬に伸ばされ。
「やっぱ冷たいな、あんた。ホントに、死んでるんだ…」
そう言うティーダの声は微妙に震えていた。
「…泣くな。本当におまえは昔から…」
すぐに泣く。今は『シン』となった男が苦笑しいしい心配していたように。十年間、見守っていたその間にも、目の前の少年はどれだけ泣いたことだろう。そしてこれから、この少年はどれだけ泣くことができるのだろう。一度か、二度か。
「泣いてない�・�・っス」
無理矢理笑おうとするティーダを見遣ると、アーロンは片腕で少年を抱きこんだ。
「は、離せってっ!」
「俺は行く」
その言葉で、もがいていたティーダの動きがぴたっと止んだ。
「だが、おまえのことは待っていてやろう」
どこで、とは言わない。
「…うん」
おずおずとティーダの手がしがみつくようにアーロンの身体に回される。
「ヘンだな。アーロン、冷たいのに、あったかい…」
待っていてやる、と。一人で行かせたりはしない、と約束してくれた男の不思議な体温にティーダはくぐもった声で笑った。
「……ありがと」


それは、すべてが終わる前に交された約束。


ひっそりと触れた手に甘い想いを詰め込んで僕たちの足跡は交わることなく離れていく

 
 
 
 穏やかな、穏やかな、感情。
けれど、どこか小さな痛みを伴って。
 改札の向こうにあいつの姿を見つけたとき。
俺の隣りにも、あいつの隣りにも、それぞれの「愛すべき者」がいて。
無邪気に手を振り合っていた。
ゆっくりと改札を抜けて俺の前に立ったあいつに、「よぉ」と挨拶する。
 哀しいくらい、自然に。
今もまだ、胸の奥に燻り続ける何かがあるのに、それでも当たり前のように微笑んでる俺がいた。
 まだ、あの雨の日の記憶は鮮明に残ってるのに…。
 
 
 
 
 
 朝から曇っていた空は、午後になって静かに雨を落とし始めた。
傘を持っていなかった俺たちは、近くの喫茶店に飛び込み、向かい合って座りながら、何故か言葉を発せずにいた。
 いつもだったら。
いつもだったら、先刻解決してきた事件の話や、最近読んだ推理小説の話をしてとりとめもなくはしゃいでいるのに。
俺も服部も、心のどこかで感じていたのかもしれない。
お互いがお互いを想う、気持ちを。
 けれど。
その想いを口に出してはいけないことも、俺たちはわかっていたから。
 自分を待ってくれている大切な人がいる。お互いに。
それはかけがえのない存在。傷つけることなどできない存在。とてもとても大切な…。
でもそれは、今目の前にいる相手に感じるような、激しく切ない想いを感じる相手じゃない。
 言っちゃ、いけない。
 口に出したら、終わりだ。
言ってしまったら、止められなくなる。大切な人を、傷つける。
 服部はコーヒーを飲みながら、窓の外をじっと見ていた。
沈黙を誤魔化すためには、そうするのが一番よかったから。

 いつものように。
いつものように、事件の話をすれば、それでいいはずなのに。でも今、言葉を発しようとしたら、俺はきっと言ってしまう。
 おまえが、好きだって。そう、言ってしまう。
そしてたぶんそれは服部も同じで。
だから俺たちは、向かい合わせに座りながら、窓の外を見て。
口を開くどころか、お互いを見つめることさえ禁忌のようにコーヒーを飲んでいた。
 
 
 なんで、もっと早く出逢えなかったんだろう。
 そうしたら迷わずに言えたのに。
 今まで出逢った誰よりも、刺激のある存在。
 いつでも、未知の世界へ飛び出していけるような、唯一の存在。
 だけど。
 出逢う前に俺たちは。
 もう、それぞれの「安らげる場所」を選んでしまっていた。
 どこまでも、自分を受け入れてくれる存在を、選んでしまっていたんだ。
 
 
 カチャンと、カップを受けとめたソーサーが音をたてて、俺たちの意識を窓の外から逸らした。
ぼんやりと見ていた窓の外の、止みそうにない雨はそれでもだいぶ小降りになっていて。
「…行こか。」
ぽつりと、服部が言った。
 
 
 
 
 
 小雨の降りつづける中、急ぐでもなく俺たちは駅までの道を歩いた。
 言い出してしまいそうな衝動を堪えて。
この雨は、これから俺たちが戻るそれぞれの街にも降ってるんだろうかとぼんやり考えながら、気づけば駅の改札は目の前にあって。
「…。」
ここから、俺たちはそれぞれの街へ戻る。
服部は口を開きかけ…、結局何の言葉も吐き出せないまま俺を見た。
 この沈黙が、痛い。
この沈黙を、「好きだ」という言葉で打ち破りたい衝動が俺の中で渦巻いている。
すべてを捨てて目の前の相手の手を取れたら。
 けど。
結局俺たちは、俺たちを待っていてくれる存在を傷つけることなんかできなくて。
自分でもそうわかっているのに、言葉を告げたがる心は止まってくれなくて。
ちょっとでも気を抜けば、言葉を告げようとする。
 俺の心が、その沈黙に耐えられなくなったその時。
思わず口を開きかけたその瞬間、服部が、今日、初めてじっと俺を見つめて言った。
「…ほな、な。」
 それは、別れの言葉。
俺たちが、俺たち自身の想いに告げる、哀しい言葉。
 ずきずきと胸の奥が痛んで赤い涙を流すけど。
その時の俺には、もう、たった1つの言葉しか、口に出すことを許されてなかった。
 
 精一杯、普通に。
「…ああ。じゃあ、な。」
 
 
 
 
 
 「…元気か?」
「ああ。おまえは?」
「こっちも、別に変わらん。」
「そっか。」
久しぶりに会ったことにはしゃぐ蘭と和葉ちゃんの後を俺たちはゆっくりと歩いた。
 極々ありきたりな、どこにでもありふれた会話。
あの雨の日以来、俺たちが話すことは、事件のことだけだった。たまにする電話はすべて事件がらみで。
東京と大阪で離れているから会うこともなくて。
 事件について話すだけなら、俺たちは当たり前のように饒舌に話せた。
 だから、直接会ったとき、俺たちは普通に話すことができるだろうかと不安だった。
事件を間に挟まずに、俺たちは普通に接することができるんだろうかって。
 でも、ほら。
 こんなにも簡単に。こんなにも自然に。
並んで歩きながら話してる俺たちがいる。
 勿論、最近扱った事件のことも話すけど。でもそれだけじゃなくて。
学校はどうだとか、幼馴染にせがまれて一緒に恋愛モノの映画を見に行ったとか、そんな、他愛も無い話。
 あの雨の日以来、俺たちの間で途絶えていた、そんな普通の会話。
それを今、当たり前のように話してる俺たち。
 なんでだろう。
あの時の切なさは、まだ鮮明に残ってるのにな。
いや、残ってるなんてもんじゃない。まだ胸の奥で小さく燻ってるのに。
どうして、こんなにも自然に俺は話してるんだろう。
 なあ、服部。おまえも、そうなのか?
こうやって、俺と話すその笑顔の裏で、やっぱりおまえもそう思ってるのか?
 だって、あまりにも自然で。自然過ぎて。
俺たちは、あの時捨てるつもりでいた想いを、告げてしまってもいいんじゃないかって。
はしゃぐ彼女たちの手じゃなく、今こうして隣りを歩いてる相手の手を取ってもいいんじゃないかって。
 そう、錯覚してしまいそうになる。
そんなわけ、ないのにな…。
 でも、そんな微かな切なさと一緒に。
やっぱり俺を支配するのは穏やかな気持ち。
あの雨の日も今も、感じるこの切なさは嘘じゃないけど。
だけど、あの雨の日には感じなかった、この穏やかな気持ちも嘘じゃない。
 これが、時間なんだろう。
俺たちがこんなに自然に話すことができるのも、きっと、時間の所為。
 過ぎ去った分だけ。互いに距離を置いた分だけ。
 時間が。
あの時俺たちを支配していた切なさを、許容できるまでにした。
 それは、きっと、自然で、当たり前で。誰にだってあることで。
今こうやって、俺たちの前を歩いてる彼女たちだって。今この瞬間、擦れ違った見知らぬ誰かだって。一生擦れ違うこともなく、俺の知らないところで生きて、俺の知らないところで死んでいく誰かだって。
 痛みも、悲しみも、切なさも、愛しさも、喜びも。
全部、時間に委ねて生きている。
どんなに激しく自分を支配した感情も。時間の流れがいつのまにか、それを想い出に変えてゆく。
 激しかった想いを、哀しいほど、穏やかな想いに変えていく。
………鮮明に残る胸の痛みすら、どこか懐かしく感じるほど。
 結局、あの時、互いの手を取ることを選べなかった……選ばなかった俺たちは、今更あの想いを告げられるような激しさを持っているわけもなかったんだ。
 人を想うことに。想いを告げることに。
 資格なんてものがあるとしたら。
俺たちは、互いに想いを告げる資格を、あの雨の日に、自分から放棄したんだ。
 みんな、すべてを時間に委ねて生きているのなら。
あの時、彼女たちじゃなく、互いの手を取ったって、構わなかったはずなのに。
その一瞬、彼女たちを深く傷つけたとしても、それは時間の流れとともに癒されて、いつか許されるはずだったのに。
 それでも彼女たちを傷つけることを怖がった俺たちには。
 きっと最初から、今の道しかなかったんだと思う。
 
 
 
 「ほなな。」
あの時と同じ、別れの言葉。
「ああ。」
別れの挨拶なんて、それだけで終わってしまう。他に話すことも見つからなくて。
言葉豊かに別れを惜しむ彼女たちを、俺たちはぼんやりと見ていた。
 電車の発車を知らせるベルが鳴り響く。
 これが、永遠の別れなわけじゃない。いつだって、会おうと思えば会えるのに。
何故か、ふ、とあの雨の日の切なさがこみ上げてくる。
 和葉ちゃんが先に電車に乗りこみ、続いて服部が乗りこもうとした瞬間。
衝動的に、俺は服部の手に触れた。
そっと、触れるだけ。蘭にも、和葉ちゃんにも見えていなかっただろう。
 指先が触れた、その一点に。すべてを託して。
服部も、ただ一度だけ、指先でトン、と俺の手に触れ返す。
「じゃあな。」
その言葉とともに、電車の扉が閉まる。
そうして、俺たちは離れていく。
 
 
 
 
 
 ただ1度だけ触れた手。それだけが、俺たちの想いの証。
 
 
 
 
 

カナリヤ




 アナタにとって一番大切な構成要素を失ったアナタは、アナタなのでしょうか。



 記憶障害なんてものは、思ったよりも簡単に起こるらしい。
自分が想像する「記憶喪失」は、例えばありふれた日常の中、突然の電話で近しい人が事故に遭ったと聞き、慌てて病院に駆けつけて病室のドアを開けると頭に包帯を巻いたその人が「どなたですか?」なんて尋ねたりして、呆然とする自分の横で医者がそっと首を振り「奇跡的に怪我自体は大したことないんですが、事故で頭を強打したらしく、記憶に障害がでています」などと言う、ドラマなんかでよく見る光景。それが記憶喪失だと思っていた。
 けれど実際は、事故なんかに遭わなくても、もっと簡単に障害がでてしまうものだったようだ。
 ベッドから落ちた。ただ、それだけ。
たったそれだけのことで、工藤新一は記憶を失った。
決してベッドが高い位置にあったわけでもない。落下距離はせいぜい五十センチ。そもそも、寝相は恐ろしくいいはずの新一がベッドから落ちたという事自体、俄かには信じ難かったが状況はそれしか考えられなかった。
 朝、いつまでも起きてこない同居人の様子を覗きに行って見ると、ベッドの脇に座りこんで呆然とこちらを見返す新一がいた。
 彼はドアを開けた平次をしばらく凝視した後、真剣な顔をしてこう言った。
「悪いんだけどさ、訊いてもいい?ここ、どこ?」



 最初は性質の悪い冗談だと思った。
けれど、そうではないとわかった時の衝撃は大きかった。
 自分の足元が砂のように崩れ去っていく、そんな感覚。
目の前にいるのは、工藤新一であって工藤新一ではない者。
新一は、自分の名前も両親のことも平次のことも大切な幼馴染みのことも、小学生としての生活を余儀なくされた事件のことも、すべてを忘れてしまっていた。
 それでも、一日ニ日もすれば元に戻るだろうと思っていた。
元に戻って、「…迷惑かけて悪かったな。」と誠意の欠片もない声で言ってくれると思っていた。
 しかし。工藤新一が記憶障害に陥ってから一週間。
相変わらず工藤新一は「工藤新一であってそうでない者」のままだ。
あの工藤新一とは思えない程従順な彼。
甲斐甲斐しく世話を焼く平次に、素直に「ごめん」と言う。
「そんなん、気にせんといてや。覚えとらんかもしれんけどここは工藤の家で、俺は下宿させてもろてる身なんやから。」
そう言って笑う自分が、滑稽だった。



 記憶をどこかに置いてきた工藤新一は、推理をしない。
平次にとって、なにより辛かったのはそれだった。
 今の新一に、あの真実を射抜く眸は、ない。
記憶を失ったからといって、知能が下がったわけでもない。相変わらず新一の頭の回転は素晴らしく良かったし、冷静な洞察力だって健在だった。
 それでも。
今の新一の中では、その頭脳も洞察力も、推理には結びつかないのだ。
 新一が記憶障害に陥ってからは、専ら平次が新一の代わりに警視庁に協力することとなっていた。幸い、難事件という程のものは起こらず、平次が現場に出向かなくとも電話で概要を聞けば解決できた。
「平次って、すごいんだな。」
簡単なアリバイトリックの存在を看破して容疑者を一人に絞り、話を尋くよう伝えて電話を切ると、後ろにいた新一が心底感心したように言った。
 記憶を失くした新一は平次のことを名前で呼ぶ。
たったそれだけのことなのに、呼ばれる度に心臓が痛い。
自分の知る「工藤新一」はいないのだと思い知らされるようで。
「こんなん、すごいうちに入らんわ。ちょっと考えればわかるよって。」
「でもやっぱすげーよ。俺にはさっぱりだ。」
無邪気に言う彼に、平次が焦がれて止まなかった「東の名探偵」の面影は、ない。
 「工藤新一」を語る上で、最も大切なキーワード。それが推理、だったのに。
「そないなこと、言わんといてや。」
 工藤新一の顔で。工藤新一の声で。
工藤新一のすべてを否定するような言葉を紡がないで欲しい。
「平次…?」
思わず口をついた科白に、新一が首を傾げる。
「あ、ああ、すまん。なんでもないんや。ヘンなこと言うて悪かったな。」
慌てて謝り、安心させるように笑顔を向けた。
 彼に言っても、仕方の無いことなのだ。
彼は工藤新一であって工藤新一ではない者。
工藤新一がどんな人間なのか、知る術のない者。
 工藤新一という名前と体を持った、全くの別人だと考えるのが一番だ。
今の新一に「工藤新一」らしい思考や言動、振舞を求めても酷なだけ。
 けれど。
「工藤新一」を求めて止まない想いは、どこに行けばいいのだろう。



 夜中にそっと、新一の部屋を覗いてみる。
ベッドサイドに立っても、新一は起きる素振りを見せない。
 以前なら、こんなことは有り得なかった。
人の気配に敏感な新一は、ベッドサイドに立つ程近づけば、余程体調が悪くない限り、確実に目を覚ましていたはずだ。
 こんな所にも「工藤新一」の不在を感じて胸が痛む。
このベッドで、新一の隣りで、眠ることの方が多かったのに。
「なんで、忘れたん…?」
誰も答えてくれない問い掛け。
答えを知っている唯一の人は、今、この世界のどこにもいない。
「…どこに、行ってしもたん?工藤…。」
こうして、夜中にそっと、眠る彼に向かって答える声のない問い掛けをする自分をどうしようもなく惨めで滑稽で女々しく思うのに、それでも止められない。
 新一の記憶が確実に戻る保障があるのなら、いつまでだって平次は待つだろう。
新一に対する平次の想いは、ちょっとやそっとの時が流れたくらいで屈するような、そんなヤワなものではない。けれど。
 新一の記憶は、戻らない可能性だってあるのだ。
それが、平次の心を弱くさせる。
 このまま、「工藤新一」は消えてしまう、という不安が。



 新一が記憶障害に陥ってから三週間。
一見それまでと変わらない日常が、「工藤新一」不在のまま繰り返されていく。
幸い、大学が長期休暇の真っ最中の為、新一の記憶がないことによるトラブルは起こらずに済んでいる。尤も、この長期休暇が終わるまでに新一の記憶が戻らなければ面倒な事態が起こることは目に見えていたが。
「平次ってさ、なんで探偵になったんだ?」
新一がそんなことを訊いてきたのは、目暮警部の依頼で事件を解決して帰って来た、蒸し暑い夜だった。
 少々難解な殺人事件。さすがに電話で状況を聞いただけではどうしようもなくて、久々に現場へ出向いて推理した。容疑者の話の小さな矛盾に気づいてアリバイを崩し、その他の証言から密室と思われた殺人現場がほんのニ、三分ずつ、ニ度に渡って出入りが可能であったことを立証して見せて犯人の自供に持ち込んだ。
 被害者はつい最近脳梗塞で倒れ、命に別状はなかったものの言語中枢に障害が残ってしまったラジオのDJ。加害者は、その妻。
 彼女は様々な事後処理を済ませたら自首するつもりだったという。
殺害を自供した後、目暮警部に動機を問われた彼女は静かに微笑んでこう言った。
「だって、あの人にはDJが天職だったんですもの。あの人にとって話すことがあの人の存在意義だったの。それを失くしてしまったら、あの人はもう、あの人じゃないでしょう。 唄えなくなったカナリヤは、死んでしまうしか道がないもの。」
 その科白は、平次の胸に深く突き刺さった。
涙を流すこともなく、淡々と、哀しげな微笑を浮かべた彼女が、自分に重なって見えてどうしようもなかった。
 それ以上その場にいることが、彼女を見ることが辛くて、馴染みの刑事たちへの挨拶もそこそこに、平次は逃げるように帰って来たのだった。
 少し蒼冷めた顔で帰って来た平次を見て、何も知らない新一が、探偵というものを余程辛いものなのだと思うのも仕方のないことかもしれない。
「なんで、そんなツラそうにしてまで、探偵なんてやってんの?」
 その質問に平次は瞠目した。
 「工藤新一」だったら、そんなこと、絶対に訊かない。
真実を射抜く眸を持った彼は、何故探偵をしているかなんて疑問は持たない。
 新一も、平次も、探偵だから謎を解いているわけじゃない。
そこに、隠された真実があるから、その真実を見つけているだけだ。
それは、真実を射抜く眸を持った者だけがわかる、真実。
「ははは…。工藤にそないなこと訊かれる日が来るなんて思てへんかったわ。」
乾いた笑いで胸の内の絶望をごまかして、平次は新一の方へ向きなおった。
 新一は、平次をじっと見ていた。
一瞬、記憶が戻ったのでは?と思うほど、以前の彼とよく似た眼差しで。
「・・・そんなに、『工藤新一』がいい?」
静かに、新一はそう問いかけた。
「工藤…?」
「記憶が戻るかどうかなんてわかんないのに。これから、ずっと『俺』が『工藤新一』かもしれないのに。みんな『俺』を代用品みたいに見る。おまえも、ぱっと見、親切に俺の世話焼いてくれてても、いつだって俺を見る時は『俺』の向こうの『工藤新一』を捜そうとして必死な眼だ。」
 まるで、犯人に推理を披露するかのような。
「工藤新一」の眼で、平次にそう告げる彼の声には、いっそ「工藤新一」に対する憎悪すら隠されていて。冷たく平次の胸を切り裂いた。
「……。」
 何か言葉を返さなければと思って口を開いても、言うべき言葉は平次の中のどこにも見つからない。
その様子に新一は、酷く哀しげに微笑った。
「………。『工藤新一』は、名探偵なんだって、蘭ちゃんが教えてくれたよ。推理となると他の一切が見えなくなる推理バカなんだってさ。『工藤新一』っていうパーソナリティーを語るとき、絶対に必要なキーワードが『推理』なんだろ?」
「…工藤?」
話の流れが読めず、平次はやっとの思いで新一を呼んだ。
「それでさ、彼女、こう言ったんだ。『新一はどうしようもない推理バカだけど、でも新一にとって大事なのは推理することじゃない。不当に隠された真実をきちんと見つけ出してあげることが大切なの。新一は、真実を見つけ出す眸を持った人だから』って。」
 記憶を失った新一に、そう『工藤新一』を語ってみせた幼馴染だという彼女。
話しながら自分を見る彼女の眼はとても遠くて。『工藤新一』の姿を語ることで、自分の中の奥深くに埋もれた『本当の工藤新一』を揺り起こそうとするかのようだった。
「工藤新一は俺なのに、誰も『俺』を見ようとはしないんだ。いつも、『俺』の中の誰かを探してる。」
 それは仕方のないことなのだと、新一にもわかっている。
けれど、記憶を持たない自分もまた、『工藤新一』であることに変わりはないのだ。
周囲が自分の中の『本当の』工藤新一を探そうとすればするほど、『偽物』にされた自分の心は悲鳴をあげる。
 それなのに。
「でもさ、いいんだ、別に。だって、仕方ないよな、ホントのことなんだから。」
先程まで冷たい憎悪を宿していた眸が急に力を失くした。
 自分がどんなに主張したところで、「工藤新一」が記憶喪失に陥り、その結果自分という新たなパーソナリティーが出てきたことは否定しようのない事実。覆しようがない。
「…だけど、俺は。」
 怖いくらい静かな声に平次の体に緊張が走った。
何も言えずにただ黙って見つめていた平次に新一は射抜くような視線を向ける。
「俺は、推理なんて、しない。」
その瞬間、平次は反射的に耳を塞ごうとする自分の手を必死で抑えた。
 それは、まるで死刑宣告のようで。
 何より最も聞きたくない科白だった。
「おまえらの探してる『工藤新一』なんて、どこにもいない。今、『工藤新一』は俺なんだ。『推理』がおまえらの探す『工藤新一』のキーワードなんだとしたら、俺は、絶対にそんなことしない。」
 痛い、と平次は感じた。
それは言葉で、決して直接危害を加えられたわけでもないのに、なのにはっきりと痛みを感じた。
 呼吸さえ止まってしまうと思うほどの痛み。
怒りと哀しみとが縒って心臓を締めつけているように感じるけれど、しかしその怒りと哀しみが、一体誰に対して、何に対してなのかははっきりとしない。平次がわかるのは、ただ、痛みと、真っ直ぐに自分を射抜く新一の眸だけ。
 きつく自分を見つめる新一の視線に耐えられず、平次は階段を駆け上がって自室に逃げ込んだ。
 ……「逃げる」という表現以外に有り得ないほど、新一の眸と科白に平次は追い詰められていた。



 自室のドアに背を預けて、平次は呆然と宙を見つめていた。
頭の中で考えがまとまらない。
「何逃げとんねん、俺は…。」
あそこで逃げたところで何の解決にもならないと理解できるのに、それでも新一と顔を合わせているのが怖かった。
 これ以上、新一自身の口から「工藤新一」を否定する科白を聞くのが怖かった。
 誰より愛しい相手の顔で、声で。
 愛しいその人自身を否定される。
それがこんなにも、辛いなんて。
「なんや俺、自分が信じられなくなってきよった…。」
辛いだけならよかった。
痛みに耐えれば済むのならそれでよかった。
 けれど。
自分の中に渦巻く感情は、それだけではなくて。
その激しい感情の波に、驚愕し。
 平次はぎゅっと自分を抱き締めた。



 そして同じように。
新一もまた、自室のベッドで仰向けになり、ぼんやりと宙を見つめていた。
「バカバカしい…。」
 あんなこと、言うつもりなんてなかった。
なのに一度口を突いて出てきた言葉は、自分でも止める事ができないほどエスカレートした。
その根底にあるものはただひとつ。
 「工藤新一」への、嫉妬。
傍から見ればきっと、不可解に違いない。自分に嫉妬するなんて。
けれど、記憶というピースを失った自分は、それ以前の自分とは別人格なのだ。
きっと、土台は一緒なのだろうに。思考パターンや物の感じ方だって、そう変わりはないのだろうに。
 それでも。
記憶というたったひとつの。そして、最大のピースを失った自分は、平次の求める「工藤新一」ではないのだ。
 それがこんなにも悔しいなんて。
「…バカバカしい。」
 何故、自分は平次の求める「工藤新一」ではないのだと、気づいてしまったんだろう。
気づかなければ、もっとラクだったのに。
 何も知らないまま、気づかないまま日々を過ごして、いつか、記憶を取り戻し。
この体を、「工藤新一」に返して。
そうして、何も気づかないまま自分は消えていけたなら、こんな想いに煩わされることもなかったのに。
 熱帯夜で、眠りの浅かった真夜中。
 ベッドサイドに立って自分の顔を見つめている平次の気配に目を覚ましてしまった。
 眩しい程明るく笑う彼が、弱々しく頼りなげに眠る自分に問い掛けた言葉を聞いてしまった。
 「…どこに、行ってしもたん?工藤…。」
耳について離れない、その言葉。
「ここ、だよ。平次…。」
そっと、胸を押えた。
ぼんやりと答えを口にしてみても。
 その声は、誰にも届かないまま宙に消えた。



 明りもつけず真っ暗な部屋の中で、ドアに凭れて座りこんでいた平次は、虚ろな眼をして立ち上がった。
 ふらふらと廊下を歩き、新一の部屋の前で立ち止まる。

「俺は、推理なんて、しない。」
そう言って、「工藤新一」を否定した彼。

「唄えなくなったカナリヤは、死んでしまうしか道がないもの。」
そう言って静かに微笑んだ彼女。

 頭の中で何度も何度もリフレインする、科白。
 「工藤新一」を否定されたとき。
 怒りと哀しみの後に平次を襲ったのは、強烈な殺意だった。
誰よりも何よりも大切な人を、奪った相手。その体の奥深くに「工藤新一」を閉じ込めてしまった者。それが、平次から見た、今の新一だった。
 そんな風に考えることが、いかに理不尽で身勝手なことか、平次にもよくわかっている。否、わかっていた。けれど。
新一が記憶喪失に陥って以来、ずっと心の底に沈殿し続けていた感情が、あの否定の科白で一気に浮上してしまった。
 普段だったら、それでも平次がここまで理不尽な感情に支配されることなどなかったのかもしれない。しかし、昼間解決した事件の犯人の言葉が、ずっと脳裏にたゆたっていた今の平次の理性の歯止めは、意味を成さないほど弛んでいた。
 
 
 推理を。真実を射抜くことを忘れた、否定した新一は、唄えなくなったカナリヤと同じ。
 存在意義を失った者が生きていたところで、一体誰が幸福になれるというのだろう。
 姿に変わりがないだけ、それは本人も、まわりの人間も不幸にする。
 いっそ、消えてしまっていた方が、どんなにかラクだっただろう。
 そうすれば、誰も傷つかなくて済むのだから。
 
 いっそ、消えてしまえば。




 
 ベッドの上に寝転び、そのまま新一は眠ってしまったようだった。静かに寝息をたてるその顔を、じっと見つめる。
 こうしていると、変わらないのに。
「…けど、違う。」
そっと、眠る相手の首に両手をかけた。
少しずつ、少しずつ、両手に力を込めていく。
抵抗のない体を死に至らしめるのは簡単なこと。
 ゆっくりと、けれど確実に力の込められていく手に、眠る新一の表情も少しずつ苦痛を見せ始める。
あまりの息苦しさに新一が目を覚ました時には、きっともう手遅れになっているだろう。
 それで、いい。
それで、工藤新一であってそうでない者は消える。もう、平次や他の人間が自分を見ないことに苛立ち傷つくこともない。周囲の人間が、同じ姿でありながら同じ人物ではない彼を見て哀しみに囚われることも、ない。
 そうして「工藤新一」は、永久に、消えるのだ。
還る器を失って。二度と、平次の前に現れることはない。
あの眸も、声も、体温の低い指先から感じる不思議な暖かさも。
何もかもが幻のように消え失せて、彼のいない世界が平次を包むだろう。
 そう。工藤新一の、いない世界が。
「んく…っ。」
思うように呼吸の出来ない苦しさから、眠ったままの新一が小さく呻き声をあげた。
 瞬間、両手に込められた力が弛む。
はっとして、もう一度両手に力を込めようとし、虚ろだった平次の顔が見る間に歪んだ。
 苦痛を耐えて泣きそうにも見える表情。
そして、平次は新一の首にかけていた両手を力なく外した。
「…できるわけ、ないやないか、工藤。」
新一のいない世界でどうしろというのだ。
「工藤新一」だけが、平次と同じ目線を共有できるのに。
その彼の戻る場所を、奪うことなど、できるわけない。
「工藤…。還ってきて…。」
そっと、眠る新一の肩口に顔を埋めて囁く。
「はよ、思い出してや…。」
 自分が誰なのかを。自分の存在意義を確立する、あの真実を射抜く眸を。
 そして、その目線で見た世界を、唯一共有できる相手のことを。
「おまえ居らんようになったら、俺、めっちゃ寂しゅうて敵わんわ…。」
体を起こし、入ってきたときと同じように静かに部屋のドアを開ける。
廊下に出てドアを閉める直前、ぽつりと言った。
 切実な。偽りなど一点もない、心からの願い。
 
 
「俺を…。独りぼっちにせんといて…。工藤。」


 
 
 
 平次の足音が、自室へ消えると、それまで新一の部屋に響いていた静かな寝息がぴたりと止まった。
眠っていたはずの新一が目蓋を開く。
「平次のばーか…。」
少し痛みの残る首を摩りながら呟く。
 いっそ、殺してくれればよかったのに。
 そうすれば、全部奪って逝けたのに。
 平次から、「工藤新一」を。そして、「工藤新一」から、平次を。
「…平次のばーか。」
もう一度、同じ言葉を呟いて、寝返りを打つ。
「…ほんとに、バカだよ…。」
誰が、とも何が、とも言わず、新一は目蓋を閉じた。




 
 翌朝。
いつまで経っても新一は起きて来なかった。
昨日あんなことがあったばかりでは顔を合わせづらいのはお互い様だが、時計の針が昼を指し示す頃になっても、姿を見せない新一を心配して平次が部屋を覗いてみると、そこには誰もいない。だいぶ前に起きだしていたようだった。
外に行ったのかと思って玄関を見てみるが、靴は全部揃っていて、そういうわけでもないらしい。
 なんとなく胸騒ぎがして家の中をあちこち捜してみても、新一の気配はどこにもなかった。
「どこ行きよったんや、工藤のヤツ…。」
どこか捜し忘れている場所はないかと、この家の間取り図を頭に思い浮かべる。
そうして一箇所だけ捜していない場所を見つけた。
 2階の廊下の突き当たり。一見戸棚のような扉の先にある細い階段を昇ったところにある、屋根裏部屋。
「遅かったな、平次。」
案の定、新一は屋根裏部屋にいた。
その様子に平次は眉を顰める。
「そないなとこに座っとったら危ないで。」
古くなった脚立の途中に座る新一にそう言うと、新一は静かに笑って首を振った。
「いいんだよ。」
 何かが違う、と平次の中で警鐘が鳴る。
新一は、何かしようとしている。けれど、何をしようとしているのか見当がつかない。
「平次があんまり寂しがるから、さ。返してあげようと思って。」
まるで悪戯でも仕掛けているような。そんな無邪気な笑顔で新一はそう言った。
「工藤…?」
「ホントはさ、返すつもりなんて全然なかったんだけどな。」
そっと、自分の首を摩りながら言う新一に、平次はその言葉の意味を覚る。
「工藤、目ぇ覚ましとったんやな…?」
「殺してくれても、よかったのに。」
穏やかな笑顔でそう言って、新一は立ちあがった。
 古びた脚立はそれだけの振動でも不安定に揺れる。
「でも、おまえにこの体を殺せるわけもなかったよな。」
言いながら、脚立を登る。
 以前は書庫で使われていたというその脚立は、平次の肩くらいの高さがあって、その分不安定だ。更に古くなっている分その不安定に拍車がかかっている。
「工藤、何する気や?」
「だから、俺が自分で壊そうかとも思った。でも、平次はすごく寂しそうだしさ。」
平次の問いに答える気はないらしい。
その間にも、新一は一段一段ゆっくり脚立に足をかけ、一番上の段に腰掛けた。
「どうしようかと考えて、賭けてみようって決めたんだ。「工藤新一」諸共この体が壊れるか、俺が消えるかどっちかだと思うけど。一応、俺は返すつもりではいるよ。そうならなくても、許してくれよな。」
「工藤、止めとき。」
 静止の言葉を投げ掛けて、古びた脚立に必要以上の振動を与えないようそっと歩を進めた平次が、脚立の傍まで行って新一を見上げた瞬間、新一は平次の肩をぐっと引き寄せた。
 そうして、腰掛けたまま、上半身を屈めて平次に口づける。
「…っ!?」
 何が起こったかわからず呆けた平次を離すと、新一は脚立の上に勢いよく立ちあがった。
「バイバイ。俺も、平次のこと好きだったよ。きっと、『工藤新一』とおんなじくらいに。」
「工藤っ!」
 ぐらぐらと揺れる脚立を止めようと、平次が手を伸ばした瞬間。
脚立の止め具が外れて一気に崩れる。と、同時に上に立っていた新一の体も投げ出された。
「くどぉっ!」
 受け身を取る気のない体は重く鈍い音をたてて床に転がった。
慌てて抱き起こすと、打ち身くらいで特に大きな外傷は見当たらないものの、計画通りにとでも言うべきなのか、頭を打って意識を失ったらしかった。
「ホンマに…記憶なくしても無茶しよるなぁ…。そんなトコはなぁんも変わっとらんのやな、工藤…。」
 意識のない体をぎゅっと抱き締める。
「アホやなぁ…。俺かて、『工藤新一』の次くらいには、好きやったで?」
 ちょお、1位と2位の差は大きかったのは事実やけどな。そんなことを呟いて、平次は笑った。
こんな無茶なことをした『新一』を。そんな無茶なことをさせる程追い詰められていた自分を。
そして誰より、記憶喪失なんてバカなことをして自分たちをこんなに苦しくさせた『工藤』を。




 
 自分と殆ど体格の違わない、意識のない体を運ぶのはかなりの苦労を要したが、それでもなんとか新一の体をベッドに横たえると、ベッドサイドに椅子を引っ張ってきて座り、新一の顔を眺めた。
「はよ、起きや。」
 もしかしたら目覚めてもまだ、記憶を失ったままの可能性だって勿論承知していたけれど。
 それでも、自分は、「平次に返す」と笑って言ってくれた彼を信じる。
彼が「返す」と言った以上、きっと、新一は還ってくる。
「はよ起きんと、これから毎朝レーズンパンにしてまうぞ?」
「…そんなことしてみろ。この家追い出すからな。」
 目を閉じたまま、返された声。
「工藤?」
覗きこんだ平次の前で、すっと新一が目蓋を上げた。そして、帰還の挨拶を告げる。
「よぉ、服部。」
三週間ぶりに、新一の声で、苗字を呼ばれた。
「ほんまに、工藤なんやな?」
「バーロォ、ったりめーだろーが。」
あまりに嬉しくて、何を言っていいのかわからなくなる。
どうしようもなくて、何も言わずに抱きついた。
「服部ぃ、こっちは全身打撲の怪我人なんだ。ちったぁ遠慮しろ。」
「…もう、戻ってこないかと思うた。」
「悪かったな、迷惑かけて。」
 少しも悪かったなんて思っていなさそうな口調があまりに新一らしくて笑った。
「もう、ええわ。」
 こうやって、思い出してくれたのだから、それでいい。
 独りぼっちにならずに済んだのだから、それで充分だ。
「あ、せやけど、ひとつ、訊きたかってん。」
「んー?なんだよ?」
「工藤、おまえ、なんでベッドから落ちたりしたん?」
「あー、それか・・・。」
 気難しい顔をして宙を睨んだあと、新一は照れくさそうに白状した。
「らしくねーんだけどよ。夢見たんだ。」
「夢?」
「そ。おまえと俺が、遠くに引き離される夢。で、飛び起きちまってさ。慌ててたんだな。ベッドから降りようとしたトコでシーツに足引っ掛けたんだ。」
「アホやなあ。」
「るせー。」
なんとなく、離れ難くてじゃれ合っていると電話のベルが鳴り響く。
しばらく無視してみるが、ベルが鳴り止む気配は一向にない。
「ったく、なんだってんだよ…。」
仕方なく平次が電話に出ると、聞き慣れた目暮警部の声がした。
手短に話を済ませて電話を切ると、平次は新一に向かって今切ったばかりの電話を振って見せる。
「目暮警部はんからや。密室殺人やって。どうする?全身打撲で調子悪いんなら、俺一人で行って来ても別に構へんけど?」
 その科白に全身打撲の怪我人のはずの新一が、勢いよく起きあがった。
「バーロ。俺が行かなくてどーするってんだよ。」
 予想通りの反応に平次は声を立てて笑った。
「ホンマ、それでこそ工藤や。」


 
 唄を忘れたカナリヤを、殺してしまってはなんにもならない。
いつかカナリヤは、自分の唄を思い出すから。

 
 
 推理するその表情。真実を射抜く眸。それこそがアナタがアナタたる所以。


forgive




 愛することの証明が、自分のすべてを曝け出すことなのだとしたら。
自分は、かの愛しい人を、本当に愛してはいないのだろうか。
 けれど、彼を愛する自分も真実。彼には言えないもう1つの顔も真実。
「愛しているからといって、それが自分のすべてを相手に委ねることにはならない。」
これは、詭弁だろうか。

 怪盗と、探偵。
何故、自分たちは、こんな因果な関係なんだろう。
何故、普通の高校生ではないんだろう。
「もしも」を言えばキリがない。
けれど、自分が「月下の奇術師」とまで言われる怪盗で、彼が「西の名探偵」と呼ばれる探偵であるのは、紛れも無い現実。
 相反する存在。
 追う者と追われる者。
でも、こんなにも、愛しい。

 誕生日に欲しいものは?と訊かれて、何も要らないと答えた。
ただ、一緒にいて欲しいと望み。彼は望む通りに、一緒にいた。
 別に、普段と変わらない1日。
住む場所が遠く離れている所為で滅多に逢えないけれど、それ以外は特に変わらない時間。
 ただ、2人で同じ時間を過ごす。
「なあ…。ホンマに、なんも要らんの?」
誕生日が、他の日と変わることなく終わろうとするのを咎めて、平次はそう訊いた。
「いいよ。こうやって、平次と一緒にいられれば、それで。」
この日、何度と無く繰り返された問いに笑い、快斗はその度に同じ答えを返す。
「…ホンマに?」
その日繰り返された問いの答えに、初めて平次が念を押した。
「ホントだっ…て」
読んでいた雑誌から目を離し、そう答えようとして、一瞬、詰まる。
 彼は、じっと快斗を見ていた。
 それは、真実を見つける者の眼。
快斗が白い衣装に身を包み対峙するときに見せる眼にも似た、偽りのいらえを許さない眸。
「ホンマのこと、言ってはくれんの?」
静かに問う声に、そっと嘆息する。
 本当は、1つだけ、欲しいものがある。
決して手に入らないものだと、わかっているけれど。
「俺には、快斗が欲しいと思うもの、なんもあげられへんの?」
「そんなことないって。」
 自分が、今、何より欲しいものは、平次がくれなければ意味がない。
 けれど、彼にすべてを話す勇気はない。
「なんでも、ええから。快斗が欲しいもの、言うたって?」
そう言う彼の声があまりにも優しくて。
 儚い幻想でも、見たくなる。
 少しだけ自分を、甘やかしたくなる。
「じゃあ……。1つだけ、お願いがあるんだけど。」
「うん?」
 立ち上がり、向かいのソファに座った平次の足元に跪く。
「何も訊かないで、ただ一言だけ。『許す』って、言って欲しいんだ。」
「快斗??」
予想外の願い事に、驚いて名を呼べば、快斗の真剣な眼差しとぶつかる。
 真摯な、哀しい眼差し。どこか殉教者を思わせるような、眸。
快斗が自分に言えない秘密を抱えていることを、随分前から平次はわかっていたから。
 その一言で、快斗の心が少しでも癒されるのなら。
 躊躇うことなく、その言葉を口にしよう。
じっと、見つめる眼差しを、真っ直ぐに見つめ返す。


「俺は、おまえを、許す。」


 一瞬の、沈黙。
「……ありがとう。」
静かにそっと、彼の体を抱き締める。
 これが、甘い夢に過ぎないことは、よくわかっている。
 それでも。
 たとえ、偽りの許しであったとしても、今この瞬間、自分の心は深く癒された。
 いつか。
 いつか、白い怪盗の役目を果たす時まで。
 今の一言で、自分はその時まで、耐えていける。
 それまではどうか。
 こうやって、騙されていて。
 

 その時がきたら。
 きっと、すべてを曝け出し、きみに、本当の許しを乞うから。


cigarette




 タバコを美味いと思ったことは1度もない。
勿論、銘柄の美味い・不味いの差はわかるけれど、タバコというもの自体を美味いものだと思ったことはただの1度もなかった。
だから、吸うときは吸うし、吸わないときは何ヶ月だって吸わないでいられる。
タバコを吸うようになったのは、確か中学3年の夏。ちょっとした興味だった。別に大人の真似をしようだとか、少し悪ぶってみようだとか、そんな気持ちはさらさらなかった。
単純な、興味。「ヤミツキ」というものを実感してみたくて、結局それは失敗に終わる。
「初めてタバコ吸ったのって、おまえ、いつ?」
まるで昼メロのようだ、などと思いながら新一はベッドの上で紫煙を燻らせ、隣りで枕に突っ伏している平次に聞いてみる。
「…なんや、突然。」
気のせいではなく平次の声が掠れているのは先程までの行為の名残だろう。
「いや、なんとなく。」
本当に他意はなかったので、そのままを答えると、平次は態勢を仰向けに変えて天井を見上げて答えた。
「あんま正確には覚えとらんけど…、確か、中1の終わりやったかなあ…。まあ、そん時は1回吸っただけやったけどな。吸い始めたのは高校入ってからやな。」
吸い始めた、といっても平次はタバコを常習しているようには見えない。どうやら、平次も新一と同じく、禁煙に苦労するタイプではないようだった。
「どないしたん?」
「べっつに、深い意味なんてねーよ。」
短くなったタバコを灰皿に押しつけ、新一はおもむろに平次にキスを送る。
「…タバコくさい。」
「嫌か?」
至近距離で言葉を交しながら、新一の手は緩やかに、けれど明確な意図を持って平次の体の上を滑りはじめた。
「ん~、嫌やない。」
鎮まりかけた熱を揺り起こそうとする手に、平次は敏感に身を竦ませながら笑った。
「また、するん?」
新一の髪をくしゃっと掴んで確認してみる。
「嫌か?」
口の端を僅かにあげて先程と同じセリフで問い返せば、褐色の肌の恋人は、ゆるゆると笑って首を振った。
「ん…、嫌やない。」
繰り返されたセリフに、新一は満足そうに笑うと、もう1度、今度は深いキスを送った。
 タバコはヤミツキになるものだという。
癖になって手放せないものだという。
だとすれば。
“工藤新一のタバコは、服部平次に他ならない。”
タバコに手をのばすたび。
新一はそんなことをひっそりと思う。