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A Day In The Life -25th.-




 いつも夢は幸せな風景から始まる。
大切なものに出逢えたと、愛しいものが出来たと、その歓びに溢れていた頃の風景。
 レヴィアス、と夢の中で振り返った少女が呼んだ。
その面差しは、驚くほどアンジェリークに似ている。
屈託なく笑う彼女の名前は、エリス。記憶の奥底に沈めたはずの名前。
 あの頃は、彼女の名前を呼ぶと、とても穏やかな気持ちになれた。
 彼女に名前を呼ばれると、生まれてきたことを感謝できた。
愛情の希薄な環境に育った自分に、愛しい、という想いを、彼女が教えてくれた。
エリスは時には強引なほど強い意志で以て自分の心に真正面から入り込み、快活に笑い、そして、いつだって優しかった。
 貴方の眸が大好きよ。だってほら、こんなに綺麗な色をしてる。
奇異の目で見られていた色違いの眸を、「好きだ」と言ったのは彼女が初めてだった。
 呪われた眸だと思っていた。すべての不幸の元凶のようにさえ感じていた。
その色を、綺麗だと言った彼女。その言葉で、どれだけ視界が開けただろう。
エリスの言葉はいつも、胸に刺さった無数の杭を一本一本抜くように、心の中に染みていった。
 貴方は言葉が不器用ね。
 それにすぐに照れて誤魔化すから、冷たい人みたいに見えるわね。
 だけど私は知ってるわ。貴方が優しい人だって。
 貴方の手が暖かいって、私は知ってるわ。
 世界中で他に誰も気づかなくても、私は知ってるってこと、忘れないでね。
 でもきっと、他の誰かも気づいてくれるから。貴方の眸がこんなに綺麗だってこと。
 私の手は小さくて、貴方を抱き締めてあげられないけど。
 その眸の美しさに気づいて、抱き締めてくれる人は絶対、どこかにいるから。
彼女を抱き締めて、そうして生きていくのだと思っていた。
孤独な日々は終わりを告げ、二人で歩むのだと思った。
 けれど、すぐにその風景は一転する。
浮かぶのは、哀しそうな眸の彼女。
じっとこちらを見るその眸から、一粒の涙が零れ落ちた。
 ゴメンね、と唇の動きが語りかける。
手を伸ばしても、触れられない。深く暗い溝が二人の間に横たわっている。
 レヴィアス、と呼ぶ声はもう聴こえない。
 エリス、と呼ぶ声はもう、届かない。
ただ、哀しげな彼女の眸がじっとこちらを見つめているだけだ。
 どんなに時間が経っても。
 どんなに忘れようとしても。

 「・・リオス!アリオス!」
 揺り起こす手と、何度も呼ばれる名前。
深く暗い記憶の海に沈んでいた意識が急激に覚醒する。
目を開けて、飛び込んできたのは・・・。
「エリス・・・」
「アリオス?」
「あ・・いや、アンジェか。寝てたのか、オレは」
「うん・・。大丈夫?魘されてたけど」
その言葉が、妙に心に引っ掛かる。
 精密検査の結果、脳に異常は見られずアリオスは退院を許可された。昨夜一度アパルトメントに戻ったアンジェリークが、今朝また訪れたのだった。
「ねえ、アリオス」
アンジェリークが幾分強張った表情で話し掛ける。
「なんだ?」
「あのね・・エリスさんて、誰?」
「・・・っ!」
「あ、あの、魘されて、呼んでたから・・・。どんな夢だったのか、よければ教えて欲しいなって、思っただけなの・・」
「・・・すまねぇ」
 それは、教えられない、という意味の謝罪。
アンジェリークは慌てたように手を振り、それを遮った。
「あ、いいの。話したくないなら。ただちょっと気になっただけだし」
 ほんとに、気にしないで。
そう言ってアンジェリークは退院の手続きしてくるね、と病室を出て行く。
それを見送って、アリオスは溜息をつくと髪をクシャクシャとかき回した。
神経がささくれ立っているような、そんな僅かな苛立ちを感じる。
 アンジェリークの言葉が妙に引っ掛かったのは何故なのか。
そう考えて、アリオスは一つの事実に思い当たった。
 夢を見て、「魘されていた」と起こされたのも、夢の内容を訊かれたのも、初めてだったのだ。
 何でもない他人でも、目の前で魘されていたら、その夢の内容が気になるのは当たり前だ。それが、ある程度以上の好意を感じている相手だったら尚更だろう。
アンジェリークの言葉は尤もで、「魘されていた」と起こすのも当たり前だと思う。
当たり前だと思うのに、心はざわざわと苛立つ。
 今までも何度も夢は見た。一人の時は飛び起きたりもした。
けれど、この二年の間、一人で飛び起きたことも、「魘されていた」と起こされたこともなかった。
 オスカーが、何も訊かず、そ知らぬ顔で起こしてくれていたから。
一度や二度ではない。何度も目の前で悪夢に魘される自分を見ていて、気に、ならないはずがなかったのに。
それでも、オスカーは気にしているという素振りは絶対に見せなかった。
そうしてくれることに、自覚しながら甘えていた。オスカーならば、訊かずに放っておいてくれると、そう思って。
 それは、どんなに難しいことだったのだろう。
今更ながら、考える。
 エリスを失って夢を見るようになった。それからはずっと独りだった。誰かの前で眠ったりすることなどなかったのだ、オスカーと出逢うまで。アリオスが夢に魘される、その場に居合わせたことがあるのは、オスカーだけだった。だから、比較しようもなかったのだ。今こうやって、アンジェリークに言われるまで。
 何も訊かずにいるということが、どれほど難しいのかを。



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A Day In The Life -24th.-




 アリオスが事故に遭って病院に運ばれたと、オスカーが連絡を受けたのは翌朝のことだった。
 昨夜は、久しぶりにクラブやパブを梯子して朝まで飲んでいたのだ。
日が完全に昇ってからアパルトメントに帰り、シャワーを浴びてすっきりしたところで、ブザーが鳴り響き。
ドアを開けた途端、「何処行ってたんですか!」とレイチェルに怒鳴られた。
 話を聞いた時にはオスカーも一瞬蒼白になったが、命に関わるようなことはもちろん、目立った外傷もないと聞いて安心する。
「アンジェがついてるんですけど」というレイチェルの言葉に、ちくっと針が刺さったように胸が痛んだが、それはもう諦めてしまった。アンジェリークを庇ったというのだから、彼女が離れるわけがないのだ。
 大した怪我もないというし、いっそのこと、自分が行かなくてもいいのではないかと思いもしたが、入院となれば雑多な手続きも必要だ。フランスからの旅行者に過ぎないアンジェリークにその処理は無理だろうから。そう自分を納得させてオスカーは病院に足を向けた。
 病院に着くと、途端に重くなる足取りを自覚する。
病室にはアリオスがいて、そしてその傍らにアンジェリークがいるだろう。
 自分は、そこに割ってはいる部外者なのだろうと容易に想像がついた。
わざわざそんな状況の中に足を踏み入れて平気でいられるほど、図太い神経は持ち合わせていない。足が重くなって当然だった。
 それでも、一歩ずつ病室は近づき。
「お嬢ちゃん」
こうやって、何気ない風を装っている自分がいる。
「オスカーさん・・・。よかった、連絡ついたんですね」
振り返ったアンジェリークがほっとしたように言った。
 アリオスは、眠っているようだった。
「すまなかったな。・・・で?どうなんだ、そのバカの様子は」
 まったく、お嬢ちゃんを助けるなら、着地まで決めて見せろってのに。
おどけてそう言うと、アンジェリークがふふ、と笑う。
「外傷はちょっとした打撲とかすり傷程度で・・。ただ、頭を打ってるから、目が醒めたら精密検査をすることになるって。それで問題なければ明日にでも退院できるそうです」
そう言うアンジェリークの目の下に、うっすらと隈ができているの見て取って、オスカーは彼女に休むよう薦めた。
「お嬢ちゃん、ほとんど寝てないんだろう?俺が代わるから、帰って休んだほうがいい」
しかし、彼女は首を振った。
「アリオスの傍についていたいんです・・・。お願いします」
真摯にオスカーを見つめる眸には、一途な気持ちが溢れていて、それがひどく羨ましく思える。
 こんな風に、素直に想いを表現したことなどあっただろうか。
それだけで、彼女と自分の差を思い知る。
「そうか・・・。じゃあ、こいつのことはお嬢ちゃんに任せて、俺は手続きして帰ることにしよう。一応、NHSに入ってるからな」
 NHSとは"National Health Service"の略で、イギリスの健康保険制度だ。これに加入しているかどうかで、入院費や検査費も雲泥の差がつく。
「あ、それなら確認はして貰いました」
「え?」
「ここに運ばれたとき、NHSに入ってるかって訊かれたんです。わからないって言ったら、名前と住所で検索して確認するからって言われて・・」
「名前って言っても・・」
国家の保険制度に加入する以上、本名で登録されている。アリオスの名前では確認が取れるはずがない。
「レヴィアス、ですよね」
 一瞬、呼吸が止まった。
アンジェリークに気づかれる前に、ゆっくりと息を吐き出す。
 アリオスが、彼女にその名前を教えた。そのことが示す事実。
このロンドンで、アリオスの本当の名前を知っていたのはただ一人、オスカーだけだったのだ。つい先日までは。
 引導を、渡されたかな、とオスカーはぼんやりと思った。
アリオスの中で、アンジェリークはそこまでの存在になったのだ。もう、アリオスの隣り、という位置は譲るべきなのかもしれない。気づかない振りをしてそこにしがみついても虚しいだけだ。
 元々、同性、という特異な関係だ。長く続くわけがなかったのだと思う。生まれ持った性癖で同性しか愛せない、というのならともかく、二人とも本来はノーマルな性癖の持ち主だ。戻るべきところへ戻ったのだと、そう思えばいい。
「オスカーさん?」
急に黙り込んだオスカーをアンジェリークが不思議そうに見る。
「いや・・・。アリオスは、君のことをとても・・・大切に思ってるんだな」
わざわざ確認するようにアンジェリークに告げたのは、自分に言い聞かせる為だった。
「そうでしょうか・・・?」
不安そうな彼女に、微笑んで頷いてやる。
 不思議と、彼女に対する嫉妬めいた感情はなかった。
勝負になりようがないと、最初から知っていたから。
「ああ。じゃなきゃ、そいつが本当の名前を教えるわけがない」
 出逢って、ほんの一週間ちょっとで、本当の名を教えられたアンジェリーク。
自分がその名を知ったのは、出逢いから半年近く経ってからのこと。それも、偶然だった。
それだけで、アリオスの中で占める比重がわかるではないか。
 お前は、失くした何かを埋めてくれるものを、見つけたんだな。
アンジェリークの頭越し、目を醒ます気配のない男を見つめて、オスカーは胸の中でそう語り掛けた。



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A Day In The Life -23th.-




 襲い掛かってくる敵を正確な射撃で次々に倒していくと、"Congratulation!!"の文字が浮かび上がってくる。ゴーグルを外すと、見物客から拍手が起こった。
「アリオス、凄い!」
銃型のコントローラーを置くと、横でアンジェリークが嬉しそうに言った。
「ランキングトップよ。全然ミスしないんだもの」
 ここはピカデリーサーカスのすぐ近くにあるファンランドというアミューズメントパークである。パーク、というよりもセンター、と言う方がいいのかもしれない。トロカデロというビルの三階から七階を占める巨大ゲームセンターだった。
 アリオスはヴァーチャルシューティングゲームをプレイしていたのだ。
アリオスはゲームというものにあまり興味はない。同じゲーム、というならカードやビリヤード、ダーツといった駆け引きの要素のあるゲームの方が好きだったが、アンジェリークがここに行って見たい、という気持ちは理解できるので、素直に連れてきてやったのだった。十代の少女にとって、これほど規模の大きいアミューズメントパークはやはり魅力的なのだろう。
 興味はない、と言っても、プレイさせればアリオスは大抵のゲームはなんなくクリアした。今のように、得点ランキングのトップになることも珍しくない。
「腹減ったな」
並んで歩きながら、アリオスがぼそっと言った。
「そうね。もうそろそろ夕飯の時間ね・・」
同じビルの中に、飲食店も多く入っているので食べる場所には困らない。
「一昨日の。ポトフ、美味しかったね」
「ああ・・。アイツはあれが趣味みたいなもんだからな。こないだのアレだって、昼前からずっとキッチンにいたんだぜ?信じらんねぇヤツ」
「でも、凄く美味しかったじゃない。あんなに美味しいポトフ、私初めて食べたもの。どこかのシェフが作ったって言われたって、みんな信じるわ」
リフトで飲食店フロアに移動しながら、そんな会話をする。
「でも凄いな、私なんてお菓子作りは得意だけど、料理はまだ全然・・・。アリオスには絶対食べさせられないな」
「別に食える味なら何でもいいんだがな、オレは。」
 オスカーの料理への凝り方はアリオスにとって完全に理解の範疇を越えている。
それで一体、何度不毛な言い争いをしたことだろう。尤も、料理ほどではないにしても、オスカーはファブリックやリネンにも拘っていたから、そんな小さな言い争いはしょっちゅうだった。
 けれど最近は、そんな会話もあまり交わしていない。
どちらかがいる時はどちらかが出かけている。一日全く会わないということはなかったが、一緒にいる時間は極端に減った。偶然なのか故意なのか。恐らくは故意なのだろうと、アリオスにもわかっている。
 そういえば、最近はまともに顔を見た記憶がない。
鮮烈な印象を残す、色素の薄い眸を真正面から見つめたのはいつが最後だっただろう。
「ダメよ、そんなこと言っちゃ。アリオスは、言葉がぶっきらぼうなんだわ。本当は優しいのに」
 あなたは、言葉が不器用すぎね。本当は優しいのに。
ふとした瞬間に、目の前のアンジェリークに、懐かしい面影が重なる。
「エリス・・・」
「え?」
思わず呟いた名前は、アンジェリークにははっきりとは届かなかったようだった。
「いや、なんでもねぇよ」
「ならいいけど・・」
 何故こんなにも似ているのだろう。
まるで、過去を知っているのではないかと疑いたくなるほど、アンジェリークは時々アリオスにとってひどく懐かしいセリフを口にした。
そうして、アリオスの心の中にするりと入ってくるのだ。
「・・・レヴィアス」
「レヴィ、アス?」
「ああ」
「その名前が、どうかしたの?」
「オレの名前だ」
「え・・・」
 目的のフロアでリフトを降りながら、アンジェリークが首を傾げる。
「レヴィアスってのが、オレのホントの名前なんだよ。戸籍上、アリオスって名前のヤツはどこにもいない」
アリオスという名は、ロンドンに来た時に名乗った、いわば通称だった。
「レヴィアス・・」
 その響きが、信じられない程懐かしかった。
 あなたが好きよ、レヴィアス。
かつて自分にそう言った女と、同じ響きで呼ぶ声。
「どっちの名前で呼べば・・?」
「アリオス、でかまわねぇよ。ただ、教えたかっただけだ」
「うん。ありがとう、教えてくれて」
アンジェリークが嬉しそうに笑った。大切なことを教えて貰ったと。
その表情が、ますます記憶と重なってアリオスは目を眇めた。

 エスカレーターの前で、どのレストランにしようかと、アンジェリークが話していた時だった。
階下からエスカレーターで上がってきた家族連れと擦れ違い様、はしゃいで駆け出した子供がアンジェリークの足にぶつかった。
「きゃっ!」
突然足元に衝撃を受けたアンジェリークの躰が、あろうことか無人の下りエスカレーターの方向に倒れる。
「おいっ!」
腕を掴んで引き戻そうにも、アンジェリークの躰は既に半分以上投げ出されていて叶わない。咄嗟にアリオスは、自分の躰ごとエスカレーターに乗り出し、アンジェリークの躰を抱え込んだ。
アミューズメントビルの長く幅の広いエスカレーターでは、途中で引っ掛かって止まることもなく、二人の躰は一気に階下まで転がり落ちた。
「アリオス!!」
ドスン、と平らな床に投げ出されたのを感じて、抱え込まれた腕から抜け出したアンジェリークが、アリオスを見て蒼白になって叫ぶ。
「しっかりして!アリオス!」
 頭を打ったのか、朦朧とする意識の中、遠くで誰かが呼んでいる気がした。
アンジェリークは無事だったのだと、それだけを思うと、急激に視界がブラックアウトしていく。
 暗闇に沈んでいく視界の中で、脳裏に浮かんだのは誰だったのか。
 音にならない声で、名前を呼んだ相手は誰だったのか。
それを認識しないまま、アリオスの意識は途切れた。



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A Day In The Life -22th.-




 トッテナムコートロードはロンドン大学が面していることもあり、ここに通う学生や職員が多く行き交う通りだ。
 オスカーはその通りを、ロンドン大学に向かって歩いていた。偶々、知り合いに行き会ったついでである。
「なんでオメーも来るんだよ」
「面白いからに決まってるだろう」
「オレは見世物じゃねぇっ!」
「ムキになるなよ、坊や」
「坊やじゃねぇっつってんだろ」
「そうやって脹れっ面するから坊やなんだろ」
 オスカーの隣りを歩いているのは、ゼフェル・レンという少年だ。ルヴァのところに下宿しているので、オスカーとも顔見知りだった。まだ十七歳だが、飛び級でロンドン大学の電子工学カレッジに通っている、らしい。
らしい、というのは、彼があまり勤勉とは言い難い学生だからだ。講義を受けているよりも研究室にいることのほうが多い。
 そのゼフェルとオスカーが一緒に歩いているのは、先刻、アパルトメントに向かおうとするゼフェルと行き会ったからだった。
ゼフェルの目的の人物が入れ違いで大学に向かったことを知っていたオスカーがそれを教えてやると、ゼフェルはオスカーを捕まえて真剣な顔で訊いた。
「女の機嫌を直すにはどうしたらいい?」と言われた時には、ゼフェルには悪いが吹き出しそうになったものだ。
 ゼフェルが会いに行こうとしていたアパルトメントに住む人物、とはレイチェルである。
優秀な従兄に劣らず才媛である彼女は、やはり飛び級でゼフェルと同じ電子工学カレッジに通う学生なのだった。
 昨日、研究の工程に関することで些細な言い争いをしたのだという。そういえば、昨夜はレイチェルが研究室に呼び出されたと言っていたな、とオスカーは思い出した。てっきりエルンストの世話焼きで行ったのかと思っていたのだが。昨夜のことを思うと、ずるずると思考が深みに嵌って行きそうで、オスカーは意識的に思考をシャットアウトした。
「あいつのやり方だとまわりくどいんだよ。だからそう言っただけなのによ」
「そりゃ、研究過程を記録する為なんだろ。どうせお前はそういうものに見向きもしないからな。お嬢ちゃんの言うとおりだぜ。お前、研究はきちっと記録して発表しなきゃ認められないんだってわかってるのか?」
「わーってるよ、そんくらい!」
「じゃあ、彼女の言い分も尤もだってわかるだろうが」
「・・・あー、わかったよ。だからって、あんな怒ることねぇだろーによ」
 女ってのはどーしてああ面倒くせぇんだよ、と言いながらもバツの悪そうな表情のゼフェルが可笑しい。
「そんなんじゃ、お嬢ちゃんに厭きられるぞ。あの子みたいな美人で才媛なら、すぐに他の男が名乗りを挙げるだろうからな」
大学の門をくぐって、遺伝子研究室の方へと足を向けながら、核心をついてみる。
「お前、お嬢ちゃんのことが好きなんだろう?」
 反応は顕著だった。
「ばっ、バカなこと言ってんじゃねーよっ!なんっっっで、オレがあんなのを!」
「どうでもいいが、エライ注目集めてるぞ」
 通りすがりの学生たちが、急に大声を張り上げたゼフェルを何事かと見ている。
笑いを噛み殺しながらそう指摘してやると、不貞腐れたように横を向いた。
「怒るなよ、坊や」
「うるせー。笑ってんじゃねーよ」
「わかったわかった」
「ったく、バカにしやがって」
 そうではない。
どちらかといえば、羨ましいのだ。
 こんな風に、感情を素直に表に出せたらどんなにかラクだっただろう、と。
きっと、収拾もつかないほどの大喧嘩になるか、一気に壊れてしまうかどちらかだと思うが、それでも、今のように一歩ずつ断崖に向かって歩いていくような生活に比べればマシだったのかもしれない。
 もう、後戻りは出来ないけれど。

 「これは珍しい御仁だ」
遺伝子研究室を訪ねると、研究棟の前で白衣姿の二人の人物と出会った。
「ちょっとこいつの付き添いでな」
「誰も、んなもん頼んでねえっつーの」
「そっちこそ珍しいじゃないか、研究室の外にいるなんて。なあ、ロキシー」
「いやあ、この研究バカを無理矢理連れ出して遅い昼食を摂ってきたところさ」
白衣のうちの一人、ロキシーと呼ばれた研究員はおどけた様子で言った。
「ゼフェルさん・・・電子工学研究室にいたんじゃなかったんですか」
そしてもう一人が、レイチェルの困った従兄、エルンストだった。
「なんだよ、オレが外行ってちゃいけねぇのかよ」
「いえ、そんなことはないのですが・・」
エルンストが眼鏡の位置を直しながら言い淀む。
「じゃあ擦れ違いだねぇ」
ロキシーが顎に手を当てて呟いた。神妙そうな顔をしているが、その口許が笑っていることにオスカーは気づいた。
「なんだよ」
ゼフェルが苛々したように訊くと、ロキシーがにっこり笑う。
「レイチェル嬢がね、電子工学研究室に行くってさっきね。なんでもゼフェル君に用があるとかなんとか言ってたと思うんだが・・」
 完全に擦れ違いだねぇ。でも、走っていけば間に合うかもねぇ。
オスカーから見ても、このロキシーという男は研究員などという肩書きが詐欺に見えるほど食えない男だった。
「なっ・・・!」
 早く言えよ、そーゆーことはっ!
怒るように言い捨てて、ゼフェルが全力で走り出す。
「頑張れよ、少年」
とりあえず、オスカーは後姿に声をかけてやった。
「一体何が・・・?」
状況を把握できていないのはエルンストだけである。
「お前も、もうそろそろしっかり者の従妹に頼らず生活できるようにならなきゃな」
エルンストの肩にポン、と手を乗せてオスカーが忠告してやった。
「な・・・」
「いやぁ、レイチェル嬢のことだから、まとめて面倒見てくれるかもしれないぞ」
「一体、なんのことですか・・・?」
 研究以外のことにはとにかく疎い男が、わけがわからず二人の男を交互に見比べていた。



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A Day In The Life -21th.-




 昼前からオスカーはずっとキッチンに立っていた。
グツグツと煮える、大きな牛肉の塊と数種類の野菜が入った鍋を見つめ、丁寧にアクを取る。時折、鍋を火から降ろすとスープを漉し、再び肉と野菜を入れて煮込み始める。材料の贅沢な使い方といい、手間のかけ方といい、レストランでメニューとして出しても充分通用するだろう。
 手間のかかる料理を、と選んだのだった。
ただひたすら鍋を見つめ、僅かなアクも残さず掬い、火加減に細心の注意を払う。
こうしている間は、余計なことを考えずに済んだ。
 気を抜けば、思い出してしまうから。
「アリオス」と名を口にした時の、アンジェリークの幸せそうな微笑。
「護ってやりたくなる」と言った時の、無意識に浮かべたアリオスの愛しげな笑み。
 アンジェリークはアリオスに恋をしている。きっと、彼女自身もその想いを自覚しているだろう。
 ではアリオスは・・・?
自覚し始めているはずだ。護ってやりたい、そう思う気持ちが何なのか。
 あの男は、本当に鈍いから。
きっと、問えば「妹みたいだ」とでも答えるのだろう。
 自分自身に関することには、本当に鈍い男だから。

 オスカーがようやくコンロの火を完全に止めたのは、既に七時近くになってからだった。
すぐにも崩れそうなほど柔らかくなった肉と野菜、丹念にアクを取り何度も漉して出来上がった澄んだスープをスープボウルに盛り付けてダイニングテーブルに並べると、アリオスがそれを見て言った。
「なんだ、それ」
「ポトフ」
「これを、昼前からずっと作ってたわけか?」
「手間かけた方が美味いんだよ」
「オマエ、ほんとによく凝るよな・・・」
「食いたくないなら、構わんぞ」
「んなこと言ってねぇだろーが。・・・あ。スープだもんな、余ってるよな?」
何かを思いついたようにアリオスが問うので、キッチンの鍋を指差して頷いた。
「配り歩くほどはないけどな」
「何処に配るって言うんだよ。・・・よし」
それだけ言うとアリオスはふいっと部屋を出て行く。それを眺めながら、オスカーは溜息をついた。
 スープ、冷めるぞ。
そんなことを思っていると、すぐにアリオスは帰ってきた。一人の少女を連れて。
「コイツ、今一人なんだとさ。レイチェルが研究室に呼び出されて」
「あの・・・」
アンジェリークが覗うようにこちらを見た。それに微笑を返してやる。どんな時であろうと、心がどんなに冷えていようと、笑みを浮かべることができる自分の習癖が有り難い反面、ひどく恨めしいと思った。
「ようこそ、お嬢ちゃん。お口に合うかわからないが、遠慮せずに食べてくれ」
空いた椅子を引いてアンジェリークを座らせるとカトラリーを用意し、もう一皿スープを盛る。
「よく言うぜ・・。普段は自信たっぷりに『美味いだろ』としか言わねぇ癖して」
「すごい・・。これ、オスカーさんが作ったんですか?」
「手間隙かけた自信作だ」
 どうぞ召し上がれ。
微笑んで見せながら、自分が酷く滑稽な芝居を演じていると思った。
 これで無意識だって言うんだから、お前はほんとに性質の悪い男だな。
「美味しい・・」と笑うアンジェリークに、「コイツ、異様に凝るからな」と返すアリオスを見ながら、オスカーは心の中で呟く。
 自ら此処まで招き入れるほど、アンジェリークはアリオスの心に入ってきているのだ。
この部屋は、二人の領域だったはずなのに。その中にアンジェリークを招き入れたという意味を、この男は意識していないのだろう。
 ほんの一週間前にセイランに指摘されたばかりだというのに、この男は自分のテリトリー意識を認めていないに違いない。この部屋に他人を入れることを不快に感じる、そんな自分を認めていれば、こんな無防備に彼女を此処へ連れてきたりはしなかったはずだ。
 お前は、無意識だからいいだろうさ。
澄んだスープを口に運びながらオスカーは思う。
 何故だろう。あれ程手間をかけて作ったポトフの味がわからない。まるで、幽体離脱でもして、離れたところからこの食卓の風景を見ているようだ。
 アリオスは、無意識の行動だからいい。けれど、アリオスのその、無意識の行動に隠された心の動きがわかってしまうオスカーはどうすればいいというのか。
 勘弁してくれよ、慣れてないんだぞ。
自分自身に向かって冗談めかして呟いてみる。
 恋愛経験は豊富だと自他ともに認めていた。けれど、こんなケースは初めてだ。
相手を突き放すことも、自分から去ることも出来ずに、ただ相手の行動を黙って受け容れるなど。
 いつだって、女性と付き合う時は真摯につきあったけれど、相手が本当に恋に溺れる前に終わらせた。相手を愛しいと思ったことに偽りはなかったが、未練を残すほど深入りはしなかった。それなのに。
 こうやって、引導を渡されるのを待っているのか。
こんなにも息苦しい日々を送りながら。
 それでも、自分から離れていけないなんて、バカだな。
カップボードの磨かれたガラスに映る自分の姿に、オスカーは声に出さずに語り掛けた。



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A Day In The Life -20th.-




 その日、オスカーがアパルトメントに程近いソーホースクエアで彼女と出会ったのは、ただの偶然だった。
ベリックストリートで食料を買い込み、アパルトメントに帰る途中だった。ソーホースクエアはアパルトメントのすぐ前と言ってもいいほどの近さで、同じアパルトメントで生活している二人が会うのも、自然といえば自然だ。
「・・あ、こんにちは」
アンジェリークはオスカーに気づくと、はにかむように微笑んでぺこりと会釈した。
「お嬢ちゃん、どうしたんだ?レイチェルは?」
「エルンストさんが帰ってこないから、着替えを届けに。もうすぐ帰ってくると思うんですけど、一人でお部屋にいても寂しいなって。ちょっと外に出てきたんです」
 買い物ですか?と尋ねられ、そろそろ冷蔵庫の中が空っぽなんだ、と肩を竦めて見せる。
「お嬢ちゃんはロンドンは初めてなのか?」
「はい。だから毎日色んなところ見たり。昨日もアリオスにノッティンヒルまで連れて行ってもらいました」
 アリオス、と名を口にするときの、彼女のどこか幸せそうな微笑。大きな眸のきらきらとした輝き。彼女はアリオスに恋をしている、と一目でわかってしまう。
 なんて、幸せそうなのだろう、と他人事のようにオスカーは思った。
「それは、よかったな。君みたいに可愛らしいお嬢ちゃんの案内役ならあいつも本望だろうな」
 自分でも不思議なくらい、すらすらと言葉がでてくることが無性に可笑しかった。
「そんなこと・・・あ、レイチェル」
頬を赤らめてはにかむアンジェリークが、通りの向こうからマウンテンバイクに乗ってくる親友の姿に気づき、手を振った。
「それじゃあ、またな、お嬢ちゃん」
「あ、はい。」
ぽん、とアンジェリークの肩を叩き、オスカーはアパルトメントへと足を向けた。

 夕食を摂った後の静かな時間。
シャワールームから出てきたオスカーは、ソファで雑誌を捲っているアリオスに声をかけた。
「空いたぜ」
「ああ・・」
 二、三日前の落ち着かない様子と打って変わって、アリオスの様子は以前と変わらないように見える。
「今日な」
濡れた髪を手荒く拭きながら、オスカーは何気なく言った。
「ん?」
雑誌から視線を逸らさずに、アリオスが先を促す。
「下で、茶色の髪のお嬢ちゃんに会った」
「・・ふぅん。」
視線は上げられない。けれど、ページを捲る指が一瞬動きを止めた。それで充分だった。
「可愛らしいよな。お前にいろいろ連れて行って貰ったって喜んでたぜ?」
「行きてぇって、アイツが言ったんだよ」
「こーんな、無愛想な案内役のどこがいいんだか。俺に言ってくれれば、女の子の好きそうな場所、もっと案内してやるのにな」
「悪かったな、無愛想で」
 アリオスが憮然と言う。オスカーがその様子に軽く笑った。
「まあ、お前がそんなことしてやるだけでも奇跡だしな。あんな可愛いお嬢ちゃんと一緒だと楽しいんだろ」
冗談のような口調の、実は真剣な問いかけだと、アリオスは気づいただろうか。
「バーカ、オマエと一緒にするな」
「バカとは失礼なヤツだな。だいたい、一緒にするなってお前、俺を何だと思ってるんだ??」
 どうして、こんなに軽く話せるのだろう。
まるで癖になっているようだ。気づけば、アリオスを直球で問い詰められなくなっている自分がいる。この男の為に、逃げ道を作ってやるのが当たり前になっている。
 アリオスの為に逃げ道を作ってやればやるほど、オスカーの退路は断たれていくのに。
まるで、断崖に向かって歩いているようでぞっとしない。
「女といれば無条件に楽しそうなのはオマエだろ」
「あのなあ・・」
 なあ、アリオス。お前、俺の方を見もしないんだな。
機械的に手を動かして髪を拭きながら、オスカーは心の中でそう語りかける。
 久しぶりに、ぎこちなさのない日常の会話が戻ってきたと、アリオスはそう思っているのかもしれない。だからこそ、雑誌から目も上げずに、テンポよく言葉を返すのだろう。
「ったく。お嬢ちゃんには、こんな可愛げの欠片もない態度取ってないだろうな?」
「アイツはオマエほど可愛げのないこと言わないからな。それに」
「それに?まだ何かあるのか」
「オマエと違って、素直に言葉をそのまま受け取るからな。下手すりゃ泣かれちまう」
 アリオスの口許に、困ったような、それでいて愛しげな笑みが一瞬浮かんだのを、オスカーは見逃さなかった。
「なんだか・・・、護ってやりたくなるんだよ、アイツ見てると」
 恋人って、そういうものではありません?相手を護って、護られて。
昨日のロザリアの言葉が蘇る。
「そりゃ悪かったな。どーせ素直に言葉を受け取らないからな、俺は」
「どう考えたって、オマエを護りたい、なんて思えねぇもんな」
「護られるほどの可愛げはないさ。当たり前だろ」
 まるで条件反射のように言葉を紡ぎながら、すべてが他人事のように遠く感じる。髪を拭く手も、言葉を発する口も、まるで自分の躰ではないようだ。
 俺は、一体お前にとってなんだったんだろうな。
機械のように会話を交わしながら、オスカーはぼんやりとそんなことを考えた。
 二年も生活を共にしていて、そんな基本的なことを何も知らなかったのだと。
今更気づいても、もう、遅いのかもしれない―――――。



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A Day In The Life -19th.-




 オスカーはその日、一人でふらりと外を歩いていた。
部屋で二人で過ごす時間が、つらかったからだ。どこかセリフでも読んでいるかのような会話も、重い沈黙も。
 二人で部屋で時間を過ごして、言葉を交わさないことなどよくあった。互いに雑誌を読んでいたり、思い思いのことをして過ごしていたのだ。それでも、そこにあったのは沈黙ではなく静寂だった。ほんの数日前までは、気づけば時間は流れていたが、今は時計の針が一秒一秒刻むのをじっと息を殺して待っているような、そんな息苦しさがあった。
 シャフツベリーアベニューの端にあるフルーズという雑貨屋を覗いて出てくると、オスカーは通りの向こうから歩いてくる人物に気づいた。向こうもこちらに気づいたのか足を止める。
「あら、何でも屋さんではありません?」
「これはこれは、ルヴァの大事なお嬢ちゃん。ご機嫌はどうかな?」
「おかげさまで、大変よろしくてよ」
ルヴァの家で一度会った、ロザリア・デ・カタルヘナだった。日傘を差して歩く姿が旧伯爵家の令嬢らしい雰囲気を湛えている。
「今日はお一人なのね」
「男が二人でずっと行動しているほうが好きかい?」
「ふふ、それもそうですわね」
「さて。折角出会ったんだ。俺としては、美しいお嬢ちゃんにコーヒーの一杯でも奢らせて頂きたいんだが。コーヒーはお嫌いかな?」
オスカーがそう言うと、ロザリアはいいえ、と首を振った。
「では、ご一緒しましょう」
恭しく一礼するとオスカーは歩き出した。

 出会った場所から一〇〇メートルほどの所にあるモンマス・コーヒー・ハウスはテーブルが五つしかないこじんまりとした店だ。店の二階で挽いているコーヒーは、様々な種類が揃っている。好きなコーヒーを選び、それを自家製の小さなチョコレートと一緒に楽しむのがこの店のスタイルだった。
 コーヒーのほろ苦い香りが鼻腔を擽る。
「おっちょこちょいなお嬢ちゃんは元気かい?」
「ええ。すっかり元気ですわ。ピアスの一件はほんとに呆れましたけど」
 今はバーリントン邸に戻って相変わらず淑女になりきれない生活を送っているらしい。
「ジュリアス様も苦労なさいますわ」
 まあ、渋い顔をなさっていてもあの方にはそれが幸せなんですけれど。
コーヒーカップをソーサーに戻しながにロザリアが言うと、オスカーが苦笑した。
「バーリントン子爵と元々知り合いだったのは君のほうだった、と聞いたが」
「そうですわ。ジュリアス様とは小さな頃からお知り合いです。アンジェリークは三年前にジュリアス様が私の家にいらした時に紹介したんですわ」
 春先のガーデンパーティーで、おそらくは運命的とも言える出逢いの場に、ロザリアは立ち会った。親友が、一目で恋に落ちたことは彼女の目には明らかだった。
「だからそれからは、私がロンドンへ行く時は必ずあの子を一緒に連れていきますの。ジュリアス様がパリへいらっしゃる時は、必ず家に呼びますし」
積極的に親友の恋の成就に一役買ってやった、ということなのだろう。
「だが・・・。失礼かもしれないが、元々は君が子爵の婚約者になる予定だったんじゃないのかな」
 家柄の点で言っても、ロザリアならば申し分ない。バーリントン家のような大貴族が、極々一般の家庭の娘を迎え入れると決まるまでは紆余曲折があったに違いない。
「ええ、仰る通り。でも、私は、ルヴァ様に出逢ってしまいましたから。すべては丸く収まっておりますの」
 子爵は普通の少女を愛し、婚約者になるはずだった旧伯爵家の令嬢は優秀なんだか違うのか、今一つ判別のつかない学者を好きになった。当事者同士がタッグを組んで身分違いの二大ロマンスを成就させたのだろう。
「子爵よりルヴァ、ねぇ・・」
コーヒーカップに口をつけながら、オスカーは考え込むように呟いた。ルヴァの人間的な魅力はオスカーも充分承知しているが、あの子爵と並べば、普通はどうしても子爵の方に目が行くだろう。
「ジュリアス様のことは尊敬しておりますわ。小さな頃からあの方は私の目標でしたし、これからもあの方は私の道標です。でも、護りたい、と思うのはルヴァ様ですわ」
「護りたい・・・?」
「恋人って、そういうものではありません?相手を護って、護られて」
 ロザリアの言葉が、響く。
自分はどうだろう、とオスカーは思った。
 アリオスのことを、護ってやりたいと、思っているのだろうか。
意識したことなどなかった。自分たちは恋人、というよりも相棒、という言葉の方がしっくりくると思っていたが、そこに紛うことなき愛情が存在するのも確かだ。安心して背中を預けられるような、そんな相手だと思っていた。相手の強さを認めてもいる。けれど、時折見せるその不器用な面を、護ってやりたいと、そう思ったことはなかったか。
 夢に魘される男を、そ知らぬ顔で起こしてやっていたのも。
 今も、明らかに茶色の髪の少女に惹かれていることに気づきながら、何も言わずに男の感情の整理がつくのを待っていてやっているのも。
すべては、アリオスの不器用で繊細な面を傷つけたくないと、護りたいと、感じていたからではなかったのか。
「ルヴァ様に伺いましたけど、貴方は恋愛のエキスパート、なんでしょう?こんな話は今更でしたわね」
「いや。とても興味深い話だったよ、お嬢ちゃん」
「その、お嬢ちゃん、というのはできればやめて頂きたいですけれど・・」
 カフェを出ると、ロザリアは日傘を差し、コヴェントガーデンの方へと足を向けた。
五、六歩進んだところで振り返る。
「よくわかりませんけれど、元気をお出しになってね、何でも屋さん」
 どこか沈んだ空気を気づかれたらしい。
女性にそんな心配をされるようでは失格だな、と苦笑しながらオスカーは頷いた。



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A Day In The Life -18th.-




 「でね、夜になったら、ムーンライト・シンデレラが咲くんだよ。いい香りがするでしょう?」
昨日から降り続いた雨も昼前には上がり、多少湿度は高いものの、やがて見事な青空が顔を覗かせた。
 昼過ぎに部屋を訪ねてきたレイチェルに引っ張り出され、アリオスはアンジェリークと午後を過ごしている。
 「レイチェルが、勝手に呼びに行っちゃって・・・ごめんなさい」とアンジェリークは謝ったが、アリオスは「別にかまわねぇよ」の一言で済ませた。本当に嫌ならば、絶対に外に出てやるような男ではないのだ。自分の肩ほどの身長もない彼女の頭をくしゃくしゃと撫でてやると「子供じゃないんだから」とアンジェリークは拗ねたように言った。どちらかと言うと内気で大人しい彼女が、アリオスの前では快活な顔を見せることに、アリオスは自分でも気づかないうちに満足していた。
 その無意識の満足は、快活な顔のほうがより、記憶の中の面影に重なるからだ、ということを、当然アリオスは自覚していない。
 どこへ行くんだ、と尋ねたアリオスに、アンジェリークはハイドパークに程近い一軒の家に行くのだと告げた。
 昨年の夏休みに彼女の家にショートステイをした少年が住んでいるのだという。ユーロトンネルが出来てからは鉄道でもロンドン・パリ間はユーロスターで三時間、飛行機を使えばたった一時間という近さになったが、十代の彼らにとってはそう簡単に行き来できる距離でもない。飛行機でもユーロスターでも、チケット代は彼らには痛い出費となるからだ。
 そんなわけでアンジェリークは昨年の夏以来、時々電話やメールを遣り取りしていた少年の家を訪ねることにしたのだ。何度も話に聞いた、自慢の庭を見せてもらう約束なのだという。
 正直アリオスはガーデニングに何の興味も知識も持ち合わせていないが、渋ることなくアンジェリークにつきあってやることにした。「興味ねぇな」などと一言言おうものなら、彼女の表情が一瞬にして曇ってしまうことを知っていたからだった。
「この花って夜の間だけ咲くのよね?」
「そう。だからムーンライト・シンデレラ、って言うんだけどね。毎年花をつけるわけじゃないし、この花を見るのは結構大変だけど楽しみなんだ」
「今年は咲くのね。ホント、いい香りがする・・」
 ね、アリオス?と同意を求められてアリオスは短く頷いた。
「じゃ、今度はローズガーデンだよ」
 そう言って二人を案内するのは、マルセル・ナッシュ。ガーデニングが趣味の、アンジェリークの友人である。尤も、イギリスは国民総ガーデナーと言われる程ガーデニングが盛んな国であるから、ガーデニングが趣味の少年、というのも決して珍しいわけではなかった。
「いろんな薔薇があるけど・・。今は、イングリッシュローズを中心にローズガーデンを作ってるんだ」
白い蔓薔薇のアーチをくぐると、咲き乱れる花の香りがする。
「これも、薔薇なのか」
花々を一瞥してアリオスが言うと、マルセルがうん、と頷いた。
「お花屋さんで花束にしてもらうような薔薇とはイメージが違うから、詳しくない人は薔薇だってわからないんだけど。これも薔薇なんだよ。可愛いでしょ」
アンジェリークが一つ一つの薔薇を丁寧に見て回る。これはジェーン・オースチン、それはスイート・ジュリエット、とマルセルが隣りで薔薇の名前を教えていた。
 薔薇どころか、花というもの全般に疎いアリオスは、確かに言われなければこれが薔薇だなんて一生気づかなかったに違いない。
 薔薇というと、緋い、華やかな花を思い出す。たった一輪だけでも、自然とその場の中心に収まるような、凛として鮮やかな花。ときどき、ダイニングのテーブルにも一輪飾られていた。
 それはそのまま、赤毛の相棒のイメージと重なる。
「きっとアリオスさんが薔薇、って思ってるのは、剣弁咲きとか高芯咲きのハイブリッドティー系なんだと思うな」
 そんな専門用語を言われても何のことやらさっぱり、というアリオスに、ちょっと待ってて、と言ってマルセルが持ってきたのは、一本の深紅の薔薇。
「花束にしてあげたいって、頼まれてて、さっき切ったんだけど・・。こんなイメージでしょ?アリオスさんの思う薔薇って」
「綺麗・・」
アンジェリークもその薔薇を見て感嘆の声をあげた。
 中心が高く、外へ反るように広がる緋色のビロードのような花弁。まさしく、アリオスがイメージしていたのはこういう薔薇だった。
「これはね、日本作出の薔薇で"乾杯"って言うんだ。綺麗だよね」
言いながら、マルセルは持ってきたその一輪を、アンジェリークに渡す。
「アンジェにあげる」
「ありがとう」
パッと顔を輝かせて、アンジェリークが一輪の薔薇を大切そうに持った。
「綺麗な花だね?」
そう同意を求められ、アリオスは「そうだな・・・」と一言答えた。
 確かに美しい花だと思った。けれど、彼女が持つにはイメージが違いすぎる。彼女にはもっと可憐な、たとえばこのローズガーデンに咲いているような薔薇の方が似合う。こんな華麗な薔薇が似合うのは・・・。
 共に暮らしていながら、何故かひどく遠くなってしまったように感じる相手を、アリオスは思い出していた。

 昼間、レイチェルに夜はアデルフィシアターにミュージカルを見に行くからそれまでには帰って来いと念を押されていた為、時間を見計らってアパルトメントに帰ると、エントランスの前にレイチェルが待っていた。
楽しかった?などと、尋ねてくる親友に頷いた後、アンジェリークがアリオスを振り返る。
「つきあってくれて、ありがとう。楽しかった」
「大したことじゃねぇよ」
「また、つきあってもらってもいい?」
「ああ」
ポンポン、と軽く頭を叩いてやると、アンジェリークが嬉しそうに笑った。
「それじゃあ、またね、アリオス」
「気をつけてけよ」
うん、と幸せそうに頷いて、レイチェルと一緒に歩いていくアンジェリークと、それを自覚のないままひどく柔らかな眼差しで見送ってやるアリオス。
 その様子を、部屋の窓からそっとオスカーが見下ろしていた。



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A Day In The Life -17th.-




 一見変わりのない日常が過ぎているように見えた。
オスカーは相変わらず料理に凝るし、アリオスは相変わらずそれを呆れて眺めている。ベッドが早い者勝ちなのも変わらない。けれど、ほんの三日前と比べて、明らかに接触が減った。互いに何食わぬ顔で、気づいていない風を装って、たが痛いほど自覚している。
 どちらが変わったのかといえば、それは間違いなくアリオスの方だった。
昨日も夜帰ってきたあと、何か言いた気にオスカーを見ているのに、尋ねれば「いや・・・」と言葉を濁す。はっきり言えばいいものを・・・と思う反面、おそらくアリオス自身にも自分の感情を整理できていないのだろう、と容易に想像がつくのでオスカーも、「ならいいが・・・」と流してやった。
 エリスという女性がアリオスにとってどんな存在なのか、そして恐らくエリスによく似ているのだろうアンジェリーク・コレットという少女がアリオスの中でどういう存在になろうとしているのか、オスカーは知らない。アリオスが話そうとしなければ訊くこともないだろう。
 ただわかるのは、自分たちが砂の城のように不安定な場所に立っているということだけだ。いつ崩れるかも知れない、そんな均衡の上で生活している。
「お前、今日はいるんだろ?」
ソファに寝そべっているアリオスにそう声をかける。
「あぁ。・・・雨ン中出てくのも面倒だしな」
「じゃあ、キッチンにクラブハウスサンド作っておいてやったから、それ食えよな」
「出掛けんのか?」
いつもよりほんの少しだけ畏まった恰好に着替えたオスカーを見て、アリオスが上体を起こして尋ねた。
「ああ。メルに買い物に付き合ってくれって頼まれてな。・・・もうそろそろ来る頃なんだが」
そのセリフを待っていたかのようにブザーが響き渡る。
「随分珍しいヤツと買い物だな・・・」
そういうアリオスに、麻のジャケットに手を通したオスカーが笑った。
 メルとは、このアパルトメントから三分ほどのところに住んでいる少年である。確かトルコの方の出身だと以前聞いたような気もするが、正確なところはよく知らない。元々ソーホーは移民の多い街で、生粋のイギリス人の方が少ないのだ。斯く言う二人もイギリス出身ではない。
「スマイソンとザ・ペン・ショップに行きたいんだそうだ。あの子みたいな子供が一人で入るにはちょっと敷居が高いだろ」
そんなわけで俺が付き添いなのさ、と苦笑しながらオスカーは部屋を出て行った。

 リージェントストリート沿いにあるザ・ペン・ショップはその名が示す通りペンの専門店だ。ショーケースの中に一流メーカーの万年筆やボールペンが並ぶ。そこから三〇〇メートル程離れたニューボンドストリートにあるスマイソンは英国王室御用達の文具店で、高級感溢れる文具が並んでいる。どちらの店も、十代の少年が一人で入るのに躊躇するのは当然だった。
「サラお姉ちゃんと、パスハさんにプレゼントするの」
雨の中、綺麗に包んでもらったプレゼントが濡れないように両手でしっかり抱え込んだメルが嬉しそうに言った。
 サラとは、メルの従姉で雑誌の恋愛相談コーナーをいくつも抱えるロンドンの女性たちの恋愛の神様だ。「イイ女」を具現したような人物で、スーパーモデルに勝るとも劣らないスタイルを誇るエキゾチックな美人である。
 パスハはサラの夫で、ロンドン大学で教鞭をとっている。レイチェルの困った従兄、エルンストと同じチームで研究をしているらしい。冷静で理知的な容姿ながら、きっと、バスケットボールやバレーボールチームから誘いがひっきりなしだったであろうと容易に想像がつくほどの大男だ。なにせ、一九〇センチ弱の身長を誇るオスカーやアリオスが、パスハのことは見上げなければならないのだから。
この夫婦の間にはつい先日ファルウという名の男の子が生まれ、メルと合わせて四人で暮らしている。
 ちょうど夕飯時であるし、と帰り道にあるサイゴンという、ベトナム料理のレストランに入った。勿論オスカーの奢りである。買い物に付き合ってもらった上に奢ってもらうなんて、というメルに、大人の好意は素直に受けとっておくもんだぜ、とオスカーは笑った。
 本当は、アリオスと二人で過ごす時間をほんの少し先延ばしにしたいだけだ。感情の整理がつきかねているアリオスは、不器用さに輪がかかっていて、そ知らぬ顔をしてやるのも骨が折れる。いっそのこと、単刀直入に訊いてしまおうか、などと思えてくるから嫌なのだ。
「ファルウが生まれて、二人にはもっともっと仲良くして欲しいから、これはそのおまじない」
「おまじない?」
出てきた料理を頬張りながら、メルが説明してくれた。
 艶やかに黒く光る漆塗りの柄に、シリアルナンバーが刻印された万年筆はパスハに。
 上質な鞣革の箱に入った、品のいい金の箔押しで装飾されたレターセットはサラに。
二人にとって大切な事柄を伝える為に手紙を出す時にだけ、その万年筆とレターセットを使うこと、二つのアイテムを一緒にはしておかないこと、そしてそれぞれがしまう場所を秘密にすること、この三つを約束して。
 メール全盛の今も、本当に大切な事柄は自筆の手紙であることが基本だから。何か大切な手紙を書かねばならない時、二人が揃っていなくては手紙を書けないように。万年筆だけでも、レターセットだけでも手紙は書けない。二人がそれぞれ自分の万年筆とレターセットを持ち寄って初めて、手紙を出すことが叶うのだ。
「へぇ・・・。素敵なおまじないじゃないか」
そう褒めると、メルは嬉しそうに頷いた。
「でしょう。オスカーさんも、大好きな人に、万年筆かレターセット、プレゼントしてみるといいよ」
「大好きな人、ねぇ・・」
「いないの??ずっと一緒にいたいって思える人。オスカーさん、モテるのに・・」
 その言葉に、オスカーの心臓がきり、と痛んだ。
ほんの数日前だったら、冗談でアリオスに万年筆を贈ったかもしれない。アリオスもきっと、「くだらねぇ」と言いながらどこかにしまっておいたかもしれない。
 しかし、今それをしても、二人の間の空気がさらにぎこちなくなるだけだ。
未来を約束するはずのまじないが、未来を束縛する足枷にしか見えなくなるに違いない。そしてそれは、確実にアリオスの心を追い詰めるだろう。
「いるさ。・・・向こうはどう思ってるのか知らないけどな」
メルに沈黙を不審がられないうちに、肩を竦め、冗談めかして告げる。
「相手の人も、そう思ってるといいね・・」
しんみりと呟いたメルの言葉が、ひどく胸に響いた。



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A Day In The Life -16th.-




 風は少し強いが、天気はいい午後。
一階でリフトを降りたアリオスの足がぴたっと止まった。
 アリオスの視線の先、アパルトメントのエントランスで話しているのは、レイチェルと、茶色の髪の少女―――アンジェリークだ。
 視線が、アンジェリークに吸い寄せられる。逸らそうと思っても躰が自分の意思に従わない。何食わぬ顔で横を通り過ぎようと思っても、まるで縫い止められたように足が動かない。
 アイツとは別人だ。
頭の中で何度もそう唱えるが、重なった面影は離れない。今も自分の中に鮮明に残る面影が、実体を伴ったかのように。
「あ、アリオスさん!」
話し込んでいたレイチェルがこちらに気づいて手を振った。それが待っていたかのように、動かなかった足も自然に動き出す。
「よう。なにマジな顔して話しこんでんだ?」
声をかけずに通り過ぎるわけにもいかず、アリオスは二人の前で立ち止まった。
「ね、レイチェル。気にしなくていいから、早く行った方が・・」
「うーん・・・。あ!ねぇアリオスさん、アンジェのこと、頼んでもいいですか?」
「レイチェル!」
アンジェリークが困ったようにレイチェルの腕を掴むが、レイチェルは「だいじょーぶ」とその手を押し戻した。
「どういうことだ?」
「アンジェの行きたいトコ連れて行こうと思ってたのに、あの研究バカの従兄が帰ってこないんです。没頭すると時間の感覚なんてなくなるのしょっちゅうだし、放っておけばいいんだけど、迎えに来て、帰らせてくれって電話来ちゃって」
 レイチェルの従兄、エルンストはロンドン大学のカレッジで遺伝子研究の側面からバイオエシックスの研究員をしている。大学側からは教授の椅子を提示されたが、本人が固辞したため、教授待遇の研究員という肩書きになっていた。本人はそういった肩書きには何の執着も持たない、よく言えば勤勉、悪く言えば研究バカで、研究室に篭って寝食を忘れることも多々ある男である。時々度を越しそうになるとこうやって、レイチェルのところへ研究仲間から電話がかかってくるのだ。
「だから、アリオスさん、アンジェに付き合ってあげてもらえませんか?」
「レイチェル!私は一人でも平気だから・・・。アリオスさんにも迷惑だし・・」
「かまわねぇよ」
 アンジェリークの言葉を遮るように、アリオスは答えていた。
自分でも内心驚きを隠せない。考えるよりも先に、言葉が口をついて出たのだ。
オスカーではあるまいし、いつもであれば、「ガキの面倒なんて御免だ」と無下に断っていたに違いないのに。
「やった!それじゃ、アリオスさん、アンジェをよろしくーっ!」
「ちょっと、レイチェル!」
マウンテンバイクに飛び乗ってレイチェルが行ってしまうと、そこに残ったのは二人だけ。
「あの・・・」
「で?ドコ行きたいって?」
 ごめんなさい、レイチェルが勝手に・・・。と続くはずだったセリフを遮ってアリオスは尋ねた。
「えっと・・。イングリッシュ・テディベアってお店に・・」
どうにも困った様子でアンジェリークが告げるのも無理はない。イングリッシュ・テディベアは、その名の通り、テディベアの専門店なのだ。出逢ったばかりのアンジェリークにも、そこがアリオスとは無縁の店だと断言できるだろう。案内を頼むのも気が引けて当然だった。
 さすがにアリオスも言葉に詰まる。通りすがりに目に入るので、店の場所は知っている。が、自分には一生縁のない店だろうと思っていたのも確かだ。すべてのテディベアがハンドメイドなので、一つとして同じ顔、性格のものがない、とオスカーが言っていたのを思い出す。あの男は女に頼まれて連れて行ってやったりしたことがあるのだろう。自分と違って、女に頼まれればそういうことを厭わない男であるし。
「あ、やっぱり、いいです。また今度レイチェルに頼めばいいんだし・・・」
アンジェリークがそう言おうとした矢先、アリオスが歩き出した。
「アリオスさん??」
アリオスが顔だけちらっと振り返る。
「行きてぇんだろ。ついて来いよ」
「・・ありがとうございます!」
ぱっと表情を明るくさせて、アンジェリークが後に続いた。

 リージェントストリート沿いにあるイングリッシュ・テディベアは、アパルトメントから三〇分程歩いた所にある。
ガラス張りで、中にテディベアや関連グッズが所狭しと並んでいる様子が目に入ると、アリオスは一瞬足を止めたが、すぐに覚悟したようにアンジェリークにつきあって中に入ってやった。
女性客が多いが、中にはプレゼントにする為なのか、ちらほらと男性客もいてアリオスはアンジェリークに気づかれないよう、そっと息を吐いた。
 一体々々、丁寧にテディベアを見て回っていたアンジェリークは、やがてそのうちの一体を抱き上げた。振り返り、アリオスにそれを見せる。
「なんか、アリオスさんみたい」
「オレ?」
アンジェリークが差し出したテディベアをしげしげと見つめる。白いクマの眼は左右の色が微妙に違っていて、それが自分のオッドアイのようだと言いたいのだろうと思った。
「ああ、眼か・・。珍しいからな」
「そうじゃなくて。この子の性格、照れ屋でぶっきらぼう、でも優しいって」
 アリオスさんも、そうでしょ?
アンジェリークがそう笑いかけるのに、アリオスはとりあえず苦笑しておいた。ぶっきらぼうはともかく、照れ屋で優しい、などと自分を評価したことはなかったのだが。
「でも、そうね、眼か・・・。でも、アリオスさんの眼の色のほうがずっと綺麗」
 テディベアと見比べて、アンジェリークがアリオスに微笑みかける。
「ホントに、綺麗な色の眸。私、好きだな、アリオスさんの眼」
 本当に綺麗な色ね。私、貴方の眸が好きよ。
アリオスの記憶の中の声と、アンジェリークの声が重なった。
 エリス・・・!
心の中で、面影に呼びかける。脳裏に浮かぶ面影は、そのまま目の前のアンジェリークへと重なった。別人だと、そうわかっていても止まらない。ただ顔が似ているだけではない、彼女のすべてが懐かしい記憶を呼び覚ます。
「アリオスでいい・・・」
「え?」
「アリオスさん、なんて呼ばなくていいって言ってるんだ。呼びつけでかまわねぇよ、アンジェ」
 親しく言葉を交わしたのは今日が初めてだというのに、アリオスが少女をアンジェ、と愛称で呼ぶことがどれだけ異例のことなのか、アンジェリークは知らない。
だから彼女はただ、嬉しそうに頷いて答えるだけだ。
「わかったわ、アリオス」と。



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