ソーホーとコヴェントガーデンをわけるチャリングクロスロードを一本ソーホー側に入ったグリークストリートの中程、ソーホースクエアに程近い場所にそのアパルトメントはある。築三〇年は経っていそうな建物だが、レンガ造りの壁に蔦が絡まる様子はこの都市の雰囲気に合っていて、トッテナムコートロードステーションに近い地の利も手伝い、空き室があってもすぐに埋まる人気物件だ。
その人気物件の最上階、五階の一番奥の部屋のドアに、小さな表札がかかっている。白いプラスチックの板に油性ペンで殴り書きされた文字は"Private Detectives." よく見るとその文字の下に乱雑に拭き消された"Anything is done"という文字の跡も見て取れる。「私立探偵」と「何でも屋」では随分意味合いも違ってくるが、二つの文字の筆跡が違うところを見ると、どうやらこの部屋の住人の見解の違いのようだった。
天気はいいものの、空気がじんわりとまとわりついてくる様な湿度の高いある日の昼下がり。
時代もののリフトがひび割れた音のチャイムを鳴らして最上階に止まった。次いでギシギシだかミシミシだかわからない、どちらにしろ利用者の不安を煽る様な音を立ててリフトの扉が開く。
中から出てきた少女はきょろきょろと廊下を見回しながら歩を進め、やがて一番奥の部屋の前で立ち止まった。
「ここだわ・・」
呟きと一緒にギュッと握り締められた手の中にはクシャクシャになったメモ用紙。どうやら此処の住所が書かれているようだった。
小さな表札の横にはシンプルなブザーがついている。少女は恐る恐るそれを押した。
途端、リフトのチャイムよりもひび割れた音が響き渡り、彼女は慌てて指を離した。
「なんなの、これ」
必要以上に音量が大きい。これでは近所迷惑だろうに。
そんなことを思っていると、目の前のドアがガチャッと開かれた。
「・・・なんだ、ガキの悪戯か?」
中から出てきた長身の銀髪の男は彼女を一目見るなりそう言った。
「なっ・・・、ガキじゃありませんっ!」
瞬時に顔を真っ赤にして怒る少女に男が可笑しそうに笑う。
「わかったわかった。で?何の用だ」
鬱陶しそうに髪をかきあげながら問われ、彼女は窺うように言った。
「ここが何でも屋さんだって聞いて・・・」
そのセリフを聞いた途端、男はきびすを返してドアを閉じようとした。少女は慌ててドアを掴み、それを阻止する。
「ちょっ、なんで閉めるんですかっ!?」
「悪いが、何でも屋になった覚えはねぇんだよ」
「だって、この表札に書いてあるじゃないですかっ!」
「消してあるだろーが。別にオレが書いたわけじゃねぇ」
「じゃあ、書いた人出して下さいっ!」
「出掛けてていねぇよ」
「なら、待ってますからっ」
「邪魔だ」
「ここならどうにかしてくれるって聞いて来たのにっ!」
「誰だ、んな無責任なこと言いやがったのは」
長閑な昼下がりに不釣合いなドアの引っ張り合いが繰り広げられていると、リフトのチャイムが鳴った。相変わらずギシギシと危険な音を立てて扉が開き、中から長身の赤毛の青年が出てくるが、ドアの攻防戦真っ最中の二人はそれに気づかない。否、銀髪の男の方は気づいているが、特に反応を示さなかっただけか。
リフトから出てきた青年は、少女のすぐ後ろで立ち止まった。
「・・・可愛らしいお嬢ちゃん相手に、何やってるんだ、お前は」
少女の頭上高くで声が響く。彼女が驚いて振り返ると、赤毛の青年が彼女に向かって微笑んで見せた。
「まるでオレがこのガキ苛めてるみてぇな言い方はよせ」
不機嫌そうに銀髪の男が言う。
「ガキじゃないですってば!」
即座に反論する少女に、赤毛の青年が苦笑する。どうやら食料品の買い出しに出ていたらしく、焼きたてのパンやフルーツの入った紙袋を持ったまま肩を竦めると腰を折り、自分の肩の高さにも届かない少女と視線を合わせた。
「生憎、今この部屋はお嬢ちゃんを通せるような状態じゃないんだ。お嬢ちゃん、アイスクリームは好きか?」
唐突な質問に、彼女は首を傾げながら頷いた。
「それはよかった。ここから一五分程歩いたところに、ニールズコートビーチカフェって店がある。これからちょっと散歩がてら美味いアイスを食べに行くとしよう。」
勿論、三人でな。
そう告げられたセリフに、「大の男が二人も行くか?アイスクリーム食いに・・・」と銀髪の男が呟いた。
銀髪の男の呟き通り、パステルカラーの店に頭二つは抜き出た長身の男が二人もいる様は人目を引いた。よりによって窓際のテーブルに陣取ったものだから、店内だけでなく外の通りからも興味津々の視線が突き刺さる。辟易した銀髪の男はわざとらしく音を立ててアメリカンコーヒーを飲んでみるが、この「おやつの時間」の提案者とトリプルアイスに目を輝かせている少女には全く通用しなかった。
「ここのアイスは美味いだろう?お嬢ちゃん」
「はいっ!でも奢って貰っちゃってよかったんですか・・・?えーと・・・」
「ああ、まだ名乗ってなかったな。俺はオスカー。で、こっちの無愛想な若作りがアリオスだ。」
「若作りは余計だ」
不機嫌そうに在らぬ方を向いてコーヒーを啜っているわりに、ツッコミ所は外さない男である。
「あの、私はアンジェリーク。アンジェリーク・リモージュです」
丁寧にスプーンでアイスクリームを掬いながら、少女はそう名乗った。
「アンジェリーク、か。お嬢ちゃんにピッタリの名前だな」
ふわふわと揺れる金の髪といい、美味しそうにアイスを頬張る姿といい、その姿は、さながら無邪気な天使そのものだ。
「で?そのフランス人のガキがどうして、わざわざロンドンまで来てオレ達に何の用だ」
放っておくと、あと一〇分は続くに違いない女性賛美主義者のセリフを断ち切って、アリオスは不機嫌度三割増の声で言い放った。
「え、どうしてフランスから来たってわかっちゃうの・・・」
明らかにフランス名前であるが、それだけならフランス系イギリス人ということも有り得る。
「hの発音に無理がある」
フランス人が外国語をマスターする上で最初に引っかかり、そして最後まで引っ掛かり易いのが、"h"の発音だ。
極端に言えば、この発音がいかに自然かどうかでフランス語を母国語としている人間かそうでないかの区別はつくと言ってもいい。
いっつも先生に注意されるのよね。やっぱり私、語学ってダメ・・。
ぶつぶつと独り言で自分の発音を反省するアンジェリークに、アリオスは溜息をついた。
この調子では話を進めるのに一々脱線しそうである。
忍耐心というものとはかなり縁遠い性格のアリオスは、また在らぬ方を眺めてコーヒーを啜り出した。「オマエが進めろ」という赤毛の相棒への意思表示である。
その様子に肩を竦めてオスカーが切り出した。ちなみにこちらは、ちゃんとアンジェリークにつきあってアイスクリームを食べている。一番シンプルなバニラアイスの、当然シングルではあるが。
「お嬢ちゃんの発音は、これから直していけばいいことさ。それよりも、俺たちに何か頼みがあるんだろう?」
そう促すと、アンジェリークは神妙な顔で頷いた。
「見つけて欲しいものがあるんです・・・」
アリオスの予想通り、一々脱線とその度の軌道修正を繰り返した結果、アンジェリークの話は三〇分程に及んだ。普通に筋道だてて話せば五分もあれば済む話である。
要約すると話はこうだ。
五日前、ロンドンの知人の所へ遊びに来た彼女はその知人からピアスを貰った。その知人の想い出の品だというそれは、以前から彼女が着けてみたいと思っていたもので、当然彼女は、本人曰く「もう一生フルーツパフェが食べられなくてもいい」と思うほど喜んだ。想い出の品というだけでなく、小振りだが質の良い宝石が使われたピアスは普段使いには向いていないとわかっていたが、一昨日、「一日だけ」と彼女はそれを身につけ、出掛けてしまった。
「で、案の定、気づいた時には片方が失くなっていた、と」
「・・・その日行った処、全部捜してみたんですけど、見つからなくて」
これなんです、とバッグから取り出して、テーブルの上に置かれた、片方だけのピアス。
粒は小さいが透明度の高い上質なダイヤとルビーで飾られたそれは、キャッチまでいれても直径が精々二センチ弱といったところか。
「こんな小さな、しかも何処で落としたかもわからないモンを捜せって?無茶言うな」
確かにその通りであるが、直球過ぎて身も蓋もないアリオスの断言に、アンジェリークは項垂れた。
「やっぱり、そうですよね・・・」
だが、大きな眸に涙を溜めながら「ごめんなさい、無理なこと言って」とピアスをしまおうとしたアンジェリークの手よりも先に、オスカーの手がそれを取った。
「おいおい、誰も依頼を断るなんて言ってやしないぜ?お嬢ちゃん」
オスカーは悪戯っぽく片目を瞑り、手にしたピアスを揺らしてみせる。
出やがった・・・。
アリオスは片手で額を押さえた。アパルトメントの部屋の前で、アンジェリークを帰す前にオスカーがリフトから降りてきたのを見た瞬間から、たぶんこうなるだろうと諦めてはいたのだが。
「お嬢ちゃんに、曇った顔は似合わないからな。君の笑顔の為なら俺たちは努力を惜しまないさ。」
勝手に「俺たち」にするな・・・。
そうツッコミを入れたいが、言ったところでこの状態に突入したオスカーに何を言った所で無駄な労力を費すだけなので、敢えてアリオスは沈黙を守った。
「それじゃあ・・・」
アンジェリークの顔がぱっと輝く。
それを満足そうに見て、オスカーが断言した。
「必ず、このピアスを二つ揃えて君の許へと届けよう。だから、悲しい顔などしないでくれ、天使の名を持つ可愛らしいお嬢ちゃん」
隣りで額に片手をあてたまま、アリオスが深々と溜息をついた。
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A Day In The Life -1st.-
痕
それを愛と呼ぶには、あまりにも殺伐とした感情だと思う。
愛というものが、どれだけ自分を癒してくれたか、オレは知ってる。
独占欲。
それが一番近い言葉か。
オレに愛を教えてくれた女に感じたような、彼女とよく似た女に感じるような。
そんな、無条件に守りたいと思う感情じゃなく。
逆に、傷つけたいとすら思う、その強烈な感情。
仲間のフリをしていたときも、敵として対峙したときも。それは確実にオレの中に存在して。
それを感じ取っていたのか、それとも別の理由からなのか、アイツもまた、オレを激しく意識していた。
それはやっぱり、好意なんかじゃない。たぶん、アイツの戦闘能力の高さ故の本能的な危険察知だったんだろう。事実、アイツは最初から最後までオレを完全には信用しなかった。
だから、こうして、今も。
アイツのオレを見る眼は、他の連中とは比べものにならない程醒めてるが。
突き放すような冷たい光は、確かにオレだけを見つめてる。
誰よりも正確に、オレを捉え、そして射抜く。
ひとつ、教えてやろうか。
アンタは連中の誰よりも、オレを信用してないが。
オレは連中の誰よりも、アンタを信用してるぜ?
記憶のないオレにアイツは正確に事実を伝えた。コイツならそうすると、記憶もないくせに無条件に確信できる程には、オレはアイツを信じてる。
腹立たしいことにオレを無理矢理目覚めさせた、黒い力に支配されてる時ですら。奥底に閉じ込められた意識はそれでもアイツを感じてた。
迷いなく向けられた剣に。容赦なく射抜く視線に。
笑い出したいくらい、感じた。
愛である必要なんかない。
あの男の眸に。記憶に。心に。
消えない痕を灼きつけられればそれでいい。
わかってるか?
今この瞬間、オレの思考のすべてを支配してるのは他ならぬアンタなんだぜ?
自分が消えようとしている今、オレは真正面に立つ女じゃなく、ただオマエのことだけを考えてる。
勘違いするなよ。これは愛情なんかじゃない。
オレ自身を飲み込んでしまいそうな程に膨れ上がった独占欲。
その欲望の赴くまま、オレはオマエに消えることのない傷をつける。
別にオレは、後生大事に想い出を抱えていて欲しいわけじゃねぇ。
そんなもの、こっちから願い下げだ。
オレが欲しいのは、アンタがどんなに必死になって消そうとしても、どんなにみっともなく足掻いても、決して消えることのない傷痕。
どんなに時が経っても、忘れ去ることのできない痛み。
オマエがオレをどう思おうと知ったことじゃない。
憎んでくれた方がいいくらいだ。その分、オレがつけた傷痕が深くなる。
さあ、オレを見ろ。
オマエの目の前で消えていく、オレの姿を。一瞬たりとも眼を逸らさずに。
オレのどんな些細な動きも見逃すな。
消え去る最後の瞬間。声など出さず。本当に微かな動きで。
鋭く冷たいオマエの視線を心地よく感じながら。
オマエに消えない傷痕を残す為。
オレはその名を口にしよう。
オスカー、と。
終わりが見えている日々だから、まるで終わりなどないかのように時を刻もう。
終わりが見えている日々だから、まるで終わりなどないかのように時を刻もう。
たわいもない会話をしながら程よく冷えた白を味わって、手土産に持ってきたとっておきの赤を味わう。
一杯のグラスを賭けてのナインボールは俺の勝利に終わった。
次のグラスを賭けて挑んだポーカーは、さすがと言うべきかクィーンに愛されたオスカーに軍配が上がる。
アルコールが適度にまわり、いつもにも増して陽気になったところで軽いキスを繰り返した。
「ガキみたいだな」
ソファに腰掛けた俺に、自分の方こそ子供のようにしがみついたオスカーがそう笑う。
「何が?」
「あんたの体温」
アルコールがまわってくると、まるで普段と変わらないような確りした滑舌の割に、やけにセリフのセンテンスが短くなるのはこの男の酒癖だった。
確かに、アルコールがまわって火照った体はまるで子供の体温のように暖かい。
「やれやれ・・・。そう言うお前さんも、子供みたいな体温だが・・。そうか」
軽く背中を撫でると眼を閉じて気持ちよさそうにする様は、さながら猫だ。いや、猫というには大きすぎるから、豹くらいか、それともライオンか? ・・・まあ、猫科の肉食獣に変わりはないが。
言葉を止めたこちらを訝しんで、その猫科の動物は眼を開けてこちらを見た。
「なんだよ?」
「いや、お前さんも、出会った頃はまだこれくらいの体温だったな、と」
尤も、そんな時期はすぐに終わったが。オスカーが聖地へとやって来たのは、丁度少年から青年への過渡期の終わり頃だったんだろう。
「ふん、あんたは、出会った時から老けてたぜ」
身を起こして不貞腐れたように言う様子は、それこそ子供そのものだ。
他の連中には見せることのない、子供じみた甘えが滲む。
そういえば、初めのうちは何かって言うと、俺のことを親父呼ばわりしてたな、こいつは。
その癖、今は自分がゼフェルにオッサン呼ばわりされると一々怒るんだから呆れるぞ。
持参したとっておきの赤の、その最後の一口がオスカーの口許へと運ばれる。
なだらかなその喉の隆起をぼんやりと眺めた。
「明日は・・お前さん、どこか視察を頼まれていたっけな」
「・・・ああ。サクリアが乱れる星が頻発してるからな」
宇宙にガタがきている。もうどうしようもないほどに。
だから視察の依頼も、時を選ばない。そしてそれに文句を言うわけにもいかない。この宇宙の安定を維持することこそが、守護聖というものの存在意義なんだからな。
守護聖としてそれなりに長い年月を過ごしてきた俺はそれを充分理解していたし、今や首座の片腕となったオスカーもまた、それは承知している。だから、余計なことを言う気はない。
俺はゆっくりと立ち上がると、扉に向けて歩き出した。
どうやら、お前さんを甘やかしてやれるのも、ここまでみたいだな。
「・・帰るのか?」
「お前さん、明日は早いんだろう?あんまり夜更かしはいかんぞ、坊や」
お前さんが俺を親父呼ばわりする度に、よくこう言ってからかった。
「誰が坊やだ」
オスカーの返事は変わらない。今も昔も。・・・それでいい。
「それじゃ、またな」
軽い別れの挨拶をして。
「・・カティス」
僅かばかりの戸惑いの滲んだ声で呼び止められた。ふむ。お前さん、まだまだだな。
「なんだ?」
扉を開ける手を止めて、振り返って訊ねれば。
「いや・・・。なんでもない。またな、オヤジ」
前の瞬間の戸惑いはどこへ消えたのか、ニヤリと笑う青年がいた。
「お前さん、三十前の男を捕まえてオヤジはないだろう?」
「ふん、オヤジはオヤジだ」
何度繰り返されたかわからない応酬。
今度こそ、扉を開ける。
「・・まあ、いいさ」
振り返りもせずに軽く手を振って。
「それじゃあな、オスカー」
後ろ手に扉を閉めた。
まるで終わりなどないかのように時を刻もう。
明日の朝、守護聖としての任を果たした俺は聖地を出る。
WILD HEAVEN
な、何だって言うんだ、一体っ!?
狭い路地を全力疾走するオスカーの心の声は疑問符でいっぱいだった。
角を曲がった所で適当な足場を見つけ、一気に民家の屋根へと駆け登る。姿勢を低くし、息を潜めて気配を消すと、眼下の通りを数人の男達が走って行った。
物騒なことに、男達の手には銃器が握られている。
そして、その男達に追いかけられている、というのが現在のオスカーの状況である。
炎の守護聖ともあろう者が何故、あんな物騒な連中に追いかけられて街中を逃げ回らなければならないのか。
「・・・俺が教えて欲しいぜ、まったく」
思わず口から漏れた呟きが思いの外響いて、オスカーは慌てて口を噤んだ。
もう一度注意深く眼下の気配を探り、物騒な気配が消えたことを確認して通りへと飛び降りる。
「・・・やれやれ、だ」
片手を腰にあててオスカーは溜息をついた。
とりあえず、ここにいては危険だ。先程の連中が戻ってくる可能性もある。
辺りをザッと見回すと、オスカーは繁華街に足を向けて歩き出した。
オスカーが惑星シエルに降り立って最初の夜のことである。
発端は、王立研究院からの報告書だった。
主星系からは少し離れた星系の中心惑星シエルにおいて、サクリアバランスに多少不自然な点が見えるという。
星系の中心惑星ともなれば、当然王立研究院も存在しており、そこからの報告には特に不審な点はなかった。不自然な点に気づいたのは聖地の研究院だが、その報告書にしても、備考として多少不自然な点が見受けられる、と記されていただけで守護聖の視察どころか要検討という位置付けすらされていなかった。現地の研究院から問題なしという報告が来ている以上、聖地の研究院が些細なことなのだと判断したのも無理はない。
宇宙には数多の星があり、サクリアのバランスが大きく崩れてしまっている星もある。シエル程度のほんの僅かなサクリアバランスの崩れならば自然に直る範疇であり、通常であれば守護聖が視察に出向くことなど有り得ない。
にも関わらずオスカーがシエルに降り立ったのは、シエルのサクリアバランスの崩れ方が炎のサクリアのみに集中していることを知ったからだった。
時折、僅かな時間ではあるが、シエルは炎のサクリアを異様に求めた。
研究院のデータに残るかどうかわからない程のほんの短い時間でも、自らの持つ力を求められたオスカーの記憶にはしっかりと残る。
大概の場合に於いて、炎のサクリアを異常に求めるというのは危険なことが多い。
特に、惑星シエルは文明的に成熟した惑星で、その文明レベルは主星と同程度である。しかも惑星の状態は至って良好で生活水準も高く、飢餓や貧困といった問題はない。
そんな惑星が炎のサクリアを求めるとロクなことがない。
それはオスカーの守護聖としての経験から得た知識だった。
満ち足りた環境に在る人々が炎のサクリアを求めるのは、生きるための強さを求めているのではない。他者を侵略する破壊の力を求めていることが圧倒的に多いのだ。
だが、今回の場合は多少勝手が違う。何しろ、シエルは常に炎のサクリアを求めているわけではなく、思い出したかのように一瞬サクリアを求めるのだ。オスカーも今まで経験したことのないサクリアの求められ方に首を傾げざるを得なかった。
丁度、シエルと比較的近い同星系内の惑星で行われた王立派遣軍の視察が予定よりも大分早く終わったこともあり、オスカーは以前から気になっていたシエルへと足を運ぶことにした。非公式な視察なので星の小径は使わず、オスカーは旅行客に紛れて高速シャトルでシエルと入った。当然、同行の者もいない。オスカーにしてみれば普段のお忍びと変わらない、どちらかと言えば観光気分だった。
だったのだが。
「・・・さて。どーする?」
力の抜け切った声でオスカーは呟いた。繁華街のバーになんとか腰を落ち着けた後のことである。
武装した連中はまず間違いなくこの惑星の正規軍だろうと思われた。そんな連中に追われなければならないようなことをしでかした覚えは全くないのだが。何しろ、シエルに着いたのは今日の午後のことだ。初めて訪れた土地でいきなり軍隊に追われる程のことをしでかせと言う方が難題だろう。
そう、軍隊。軍隊なのである。
オスカーを追っていたのは、国家の警察機構ではなく、正規軍なのだ。あまりに物騒すぎるではないか。
「なんだか、嫌な予感がするぜ・・」
そして、嫌な予感の的中率だけは哀しいほどの精度を誇るオスカーである。非常に不本意なことに、嫌な予感がして嫌なことが起こらなかったことなど皆無なのだ。
しかし、こうして酒場で周囲の会話に耳を傾けていても、シエルに特に問題らしきものは見つからなかった。荒んだ様子も見受けられないし、とてもではないが炎のサクリアをそれほど欲している人々には見えない。
「だがなぁ・・・」
コトリ、と音を立ててオスカーは空のグラスをカウンターに置いた。
この星に降り立った初日早々、軍隊に追われる羽目に陥ったオスカーは、お気楽な観光気分を返上させられた代わりに、観光気分ではすぐにはわからなかったであろう情報を得ることが出来たのである。
つまり、表面上は何も問題がないように見えているのだとしても、この惑星には何かある、という情報を。
うざってぇ。
そびえたつ高層ビル街を歩きながら、アリオスは忌々しげに頭上を見た。
見えるのは、ビルの合間に四角く切り取られた空。
水彩絵の具で塗ったような青い空は空気の冷たさを伝えてくる。
それは一見、何の変哲もない冬の空だ。
実際、多くの人々はこの空に何の異変も感じないだろう。この空気を感じ取れるのは極々限られた人間だけだ。
「・・・嫌な空気だ」
アリオスは首の辺りを摩りながらぼそっと呟いた。首を締め付けるようなものは身につけていないのに、息苦しいような気がしてならない。それは、十日ほど前にこの惑星に入ったときからなんとなく感じていたものだった。
この惑星の空気には、なんとも言えない圧迫感がある。
最初は大して気にならなかったその圧迫感は、昨夜あたりから急激にその度合いを増した。
「空気だけってわけじゃねぇみてぇだがな」
昨夜から、あちこちで武装した軍人の姿を見掛ける。昨夜は明らかな軍服姿だったが、今日は私服姿でうろついていた。隠し持った銃に気づいたのはアリオスの戦闘能力故だろう。
何かを探してやがる。
路地裏に目を光らせる私服姿の軍人の横を、そ知らぬ顔で通り過ぎながらアリオスはそう思う。
彼らが警備や要人警護の為に駆り出されたわけではないことはすぐに知れた。何故なら私服姿の軍人たちは、何食わぬ顔で街中を歩き回っているからだ。警備に駆り出されたのであれば、持ち場を割り当てられ、そこから動くような真似はしないし、要人警護にしては数が多すぎる。
警察じゃなくて軍隊が出てくるとは、随分とヤバいヤツを探してるらしいな。
ビルの谷間を抜け、メインストリートを見渡せば、通行人に紛れた軍人を何人も見つけられる。
彼らの醸し出す物騒な雰囲気を感じ取れてしまう身としては、あまり愉快な気もしなかったが、かといって自分に何か迷惑がかかっているわけでもない。この星の、発達した都会故の他人への無関心ぶりを居心地よく感じていたアリオスは、何でもいいからさっさと探し物を見つけて消えて欲しい、と思いながら雑踏の中に紛れていった。
ますますヤバいことになっちまった・・・。
洗面所の鏡の前で、オスカーはらしくもなく頭を掻き毟った。
きつく閉めても閉まらない、イカれてしまった蛇口からポタポタと水滴が落ちている。壁には罅が入り、床は一歩ごとにキシキシと音を立てる。安さだけが取り得の、繁華街の裏手に面した宿だった。
オスカーが惑星シエルに着いて、既に五日目の夜である。
この惑星に問題があることは別として、軍に追われるという事態に陥ったのは最初は何かの間違いだろう、くらいに思っていたが、どうやら本気で自分は第一級手配犯になっているらしい。
昼夜を問わず、物騒な空気を纏った男達が連日街をうろついている。この宿に身を潜めていられるのも時間の問題だろう。
このままじゃマズイよなぁ・・・。
表面が傷ついて勝手に曇り硝子と化している鏡にかろうじて映る自分の顔を、しげしげと見つめてオスカーは思った。
オスカーとしても動きたいのはやまやまなのだが、武装兵士にこう容赦なく追われていては身動きもままならない。
・・・ジュリアス様、お怒りだろうなぁ・・・。
聖地と連絡も取れない状態が続いている。
「いや、ジュリアス様がお怒りになってるならいいんだが・・・」
聖地と外界の時間の流れの違いを考えると、恐らく、聖地ではまだ一日も経っていないだろう。予定を変えてシエルに行くことは伝えてあったが、オスカーと連絡が取れないことを不審に思うには至らないはずだ。
だいたい、普段から外界をお忍びで出歩いているオスカーであるから、ちょっと姿を眩ました所であまり心配されるとも思えない。狼少年ここに極まれり、である。
「だが、悠長なことも言ってられん・・」
なんとか聖地と連絡を取らなくてはならない。この惑星上で聖地と直接連絡をとれる設備があるのはただ一つ、聖地直轄の機関である王立研究院だけだ。
「それが問題なんだがな・・・」
その王立研究院に、近づけないのだ。
そもそもオスカーが軍に追われる羽目に陥ったのも、シエルに着いてすぐに、報告を入れようと研究院に足を運んだからだった。研究院の敷地に入った途端、有無を言わさず銃口を向けられた。
聖地直轄機関である王立研究院の敷地に一惑星の軍隊が武装状態で配備されているなど、普通では考えられない。
まして、実際はともかく、外見上はただ足を踏み入れただけの非武装の民間人にいきなり銃口を向け、あまつさえ手配犯扱いするなど、異常事態以外の何物でもない。
「あーあー」
ガックリと肩を落とし、大仰に溜息を吐いた時だった。
階下が急に騒がしくなった。
低く詰問する声が僅かに聞こえてくる。足音はしないが、息を殺して狭い階段を上ってくる気配がする。
見つかったか・・。
オスカーは素早く身なりを整えた。もともとほぼ身一つで来たので荷物はない。財布さえあれば、後はどうとでもなる。
夜逃げだよな、これじゃ・・・。
窓を開け、下を覗き込みながら、内心でごちた。声を出すような真似はしない。幸い、眼下の裏道の見張り兵は裏口の前と大通りへの出入り口の2箇所だけだった。まさか、三階の窓から逃げ出すとは思われていないのだろう。
窓の下に樋があることを確認し、オスカーは窓を乗り越える。
息を潜めて樋を渡り、手近な電灯を伝ってオスカーが地面に降り立つのと、つい先程までオスカーがいた部屋に銃を持った男たちが乱入して来たのはほぼ同時だった。
その夜もアリオスは酒場にいた。アリオスが好む店は、繁華街の大通りに面したような店ではなく、裏通りの地下にあるような、小さなバーである。つまみは精々ナッツかクラッカーがあればいい程度、酒の種類も少ない、カウンターしかないような小さな店。そして、店員があれこれと話し掛けたりしてこない店であること。
その点、アリオスが今いる店はすべての条件を満たしていた。お世辞にも綺麗とは言えない狭い店だが、ウォッカも常備されているし、カウンターの中にいるマスター、というよりもオヤジ、という表現がピッタリはまる店主は寡黙な男だった。何しろ、ここ数日この店に通っているが、マスターの声を聞いた回数など十回にも満たない。そんな店であるから、アリオスをして「やってけるのか?」と思う程、他の客と出くわすこともなかった。アリオスにしてみれば居心地がよかったが。
だが、残念ながら今夜は乱入者がいた。
男が二人、乱暴に店内へと入ってきたのだ。背広を着て、サラリーマン風を装ってはいるが、彼らが纏う空気はかなり剣呑だ。
・・・軍人、か。
グラスを煽りながら、アリオスはちらっと男達を見てそう判断した。
どうやら相変わらず探し物は続いているらしい。
これだけ軍人がうろついてる中を逃げ通してるってのはよっぽどのヤツだな。
そんなことを思ってアリオスは立ち上がった。
男達は寡黙なマスターに、尋ね人がこの店に来たことがないかを確認している。
「背の高い�・�・�・。そう、その男と同じくらいの背の高さだ」
突然指を差されて、アリオスは否応なしに「探し物」の特徴を聞くことになった。
「目立つ容姿だから、目に付く筈だ。髪は真っ赤で、目はかなり色素の薄い青。左耳に金のピアス」
ちょっと待て。
アリオスの動きが一瞬止まったが、すぐに自然な動きでカウンターに金を置くと、男達の脇を擦り抜ける。
狭い階段を上って路上へと出ると、建物と建物の間の狭い路地へと入り、壁に寄り掛かった。
ポケットから煙草を取り出し火をつけると、ふぅっと大きく煙を吐く。
「・・・別人ってことはないだろうな」
先程耳にした「探し物」の特徴を思い浮かべて、眉間に皺を寄せる。
あんなのがそう、何人もいるわけねぇ。
緋色の髪と氷色の眸、左耳に黄金のピアス。自分と並ぶほどの長身の男。正規軍の大掛かりな捜索態勢から一週間近くもの間逃げ遂せるほどのサバイバル能力。それらを全て持ち合わせている男に、アリオスは一人だけ心当たりがあった。
「・・何やってんだ、アイツは?」
アリオスの認識に間違いがなければ、その男は一惑星で正規軍相手に隠れんぼをしていられるような身分ではなかったはずである。というよりも、その男を相手にこんな物騒な隠れんぼを展開している惑星の方が、マズイのではないだろうか。あの探し方は、尊い身分の人間を保護する為、といった雰囲気では到底なかった。明らかに、手配犯に対するそれである。
「まあ・・・。正体隠してるってことも有り得るか」
正体を隠しているにしても、軍に追われるとは随分と愉快なことをやらかしたらしい、とアリオスは短くなった煙草を靴先で揉み消す。
聞き込みをしているとなると、恐らくはこの辺りで姿を確認したのだろう。駆り出されている人数を考えると、まだ遠くへは行っていないはずだ。
「知っちまったら気になるじゃねぇか」
一体どんなヘマをやらかしたのか。
もうそろそろまた逢いたいと思っていた、という本音は綺麗さっぱりと黙殺して、アリオスはそう呟いた。
繁華街の表通りと裏通りを頻繁に出入りしながら、オスカーはこれからの行動を考えていた。
聖地と連絡を取るためには、なんとしても王立研究院に潜りこまなければならない。だがその前に、シエルの現状についても考えをまとめておきたい。まずは、落ち着ける場所を確保するのが先決だと思われた。
「・・それが難しいんだがな」
一向に捉まらない自分に業を煮やしたのか、とうとう軍だけの隠密の捜索活動から警察も動員しての聞き込み捜査に転換したらしい。繁華街を虱潰しに聞き込んでいるらしく、似顔絵が配られていないだけマシ、という状態に陥ってしまった。つまり、うかつに店に入ればすぐさま通報されること間違いなしなのである。
このままひたすら歩き続けるってわけにもいかないしなぁ・・・。
このままでは寝ることすらままならない。それはどう考えても嬉しくない状況だった。
そんなことを考えていた所為だったのだろう、ほんの五メートル先にまで迫った私服姿の軍人に気づくのが遅れたのは。
「・・・っ」
しまった・・っ!
内心で大きく舌打ちする。反射的に周囲を確認した。雑居ビルの合間の狭い路地。行ける、オスカーは瞬時に判断を下した。
向こうの視線もしっかりとこちらを捉えている。人ごみに紛れ、そ知らぬ顔をして通り過ぎるのは無理だ。
そうなれば、取れる手段は一つだけ。
「前にルヴァが言ってたな・・・」
確か、どこか辺境の惑星の古い時代の言葉だったと記憶している。諺、と呼ばれる先人の教訓らしい。
何の弾みでそんな話になったのかはすっかり頭から抜け落ちているが、その時教わった諺とやらはしっかり覚えている。
まさに今の自分の状況にピッタリだ。その諺とは。
「三十六計逃げるに如かずっ」
まるでそれがスタートの合図だったかのように、オスカーはほぼ直角に進路転換をし、路地へと逃げ込んだ。
相手が複数の場合、こういう狭い場所に逃げ込むに限る。一対多数という不利を軽減できるからだ。
だがまあ問題は、一対多数なんてレベルじゃないってことなんだがな・・・。
入り組んだ路地を適当に走り抜けながら、オスカーはこの後の動きを考えている。
こちらがたった一人なのに対して、相手は数十、下手をすれば数百単位の人員を動員してきており、尚且つ、オスカーはこの辺りの地理を把握していないという圧倒的に不利な状況にある。このまま路地を闇雲に走っていても、いずれ挟み撃ちにされるだろう。
後ろから迫ってくる足音に舌打ちしながら、オスカーは角を曲がった。
「言った傍からこれだ・・」
道の向こうには大通りが見える。まず間違いなく待ち構えられているはずだ。しかし後ろにも追手は迫ってきている。
「平面方向に逃げ場がないとなると、垂直方向に行くしかないんだが・・・」
どこか適当な足場があれば三階建くらいの小さなビルならば屋上まで登れるのだが。
ざっと見てみるが目当てのものは見つからなかった。
そうしている間にも足音は近づいてくる。これが年貢の納め時、とかいうことなのかと軽く溜息を吐いた時だった。
不意に横から伸びてきた手に腕を掴まれ、ビルの裏のデッドスペースに引きずり込まれる。
「な・・・っ!?」
完全に不意打ちだった。何よりも、この自分に気配を気づかせずに傍まで来られる人間がいると思わなかった。だが、次の瞬間驚きは更に大きくなる。
「助けてやろうか?」
身動きが出来ないようガッチリとオスカーの躰を壁に抑えつけ、低く笑ってそう言ったのは。
「・・アリオス!」
「黙ってろよ。逃げてんだろ?」
「う・・・」
なんでお前がここにいる、と問おうしたところを先に制され、オスカーは仕方なく口を噤んだ。
その様子にアリオスは笑うと、オスカーを引き摺るように街灯の光がほとんど届かない奥まで移動した。近くの店などから出された樽やビールケースが山積みにされたそこに、オスカーの躰を押し倒す。
「おいっ」
アリオスの行動に焦ったのは当然オスカーである。
こんな所で盛るほどこいつはケダモノだったのかっ!?
考えてみればそうかもしれない・・・、いや、クールな美剣士とか言われてたのはどーしたんだっ!
そんな埒もないことを考えて口をパクパクさせているオスカーに、アリオスは人の悪い笑みを浮かべると覆い被さった。
「んんーっ!!」
口づけ、などという生やさしいものではなかった。アリオスの舌がオスカーの口腔を思う様に蹂躙していく。
巧くオスカーの躰を抑えつけ、抵抗を許さないアリオスの手がオスカーのシャツを肌蹴させると、辺りが急に強い光に照らされた。
瞬時にオスカーの躰が強張るが、アリオスはそれを気に止めた様子もなく、行為を続行する。
光は暫く二人を照らしていたが、やがて消えていった。
「・・はぁっ」
光と共に複数の足音がドタドタと遠ざかっていったのを確認して、アリオスがオスカーの唇を解放してやった時には、オスカーの息は完全に上がりきっていた。いきなりあんなディープキスをされれば当然である。
「な、んでここにっ」
抑えつける手を振り払うと存外あっさりとアリオスは身を起こした。
「そりゃこっちのセリフだぜ。お偉い守護聖様が、なんでこんなとこで軍に追われてる?」
「まあ、いろいろとな」
「なんだよ、助けてやったってのに恩知らずなヤツだな」
煙草に火をつけながらアリオスが肩を竦めると、息を整えたオスカーも立ち上がった。当然のようにアリオスのジャケットから煙草を一本取り出して咥えると、アリオスの煙草から直接火を移す。
「恩知らずも何も、こんな追われる程のことなのか、俺が訊きたいくらいだぜ、ホント」
「なんだ、なんかヤバイことやらかしたんじゃねぇのか?」
先程までオスカーを押し倒していたビールケースに腰掛けて、アリオスが首を傾げた。
「さあな。そんなことは、あいつらに訊いてくれ。まだその辺あちこちにいるだろうさ」
憮然と答えたオスカーはそれよりも、とアリオスの方へ向き直った。「何故おまえがここにいる?」
「あちこち放浪中なだけだ」
「じゃあ、俺が追われてることを何故知ってるんだ?」
「これだけ物騒な気配隠しもせずに軍隊が動いてれば嫌でも気づくだろーが。アイツらの『探し物』がアンタだって知ったのはついさっきさ」
後は追手側の動きから適当に目星をつけて待っていただけだ。オスカーが自分の横を通り過ぎようとするのを。
「さすがにあれだけの組織相手じゃオマエも大変だろうと同情してやったんだよ」
恩着せがましく言うな。
オスカーはジロリとアリオスを睨んだが、睨まれた方は何処吹く風である。
「助けてもらったのは・・・非っ常に、この上なく、物凄く不本意だが、一応、礼を言うが・・・」
「・・・オマエ、それで本気で礼を言ってるつもりか?」
「本気なわけないだろう」
呆れた眼でアリオスがオスカーを見ると、オスカーはアリオスににじり寄った。
「だがな、なんでいきなりこんなとこで押し倒されにゃならんのだ」
「路地裏で男と女がヨロシクヤッてるって思えばあれ以上踏み込んで来ねぇだろ。立ったままだとアンタはデカいからバレちまうし。それにライトが当たれば髪の色でバレる」
その点、押し倒せば、遠目からでは体格もはっきりとは判別できないし、自分が覆い被さることでオスカーの顔は影となって髪の色も判らなくなる。
「・・・」
なんだか巧く言い包められているような気がしないでもないが、とりあえずオスカーはそれ以上の追求を諦めた。
第一、いくら凌いだとはいえ、またいつ軍人なり警察官なりが来るかわからないのである。早急に立ち去るべきだった。
と言っても、行く当てがあればこんなとこで逃げ回る羽目に陥ったりしないんだがな。
思わず夜空を見上げて溜息を一つ。
「ああ、星が綺麗だなあ」などと思っていると、アリオスが立ち上がってさっさと歩き出した。数歩進んだ所で空を見上げたままのオスカーを振り返る。
「何やってんだ。行くぜ?」
「行くって何処に」
「オレが泊まってるホテル。アンタは非常階段から入れよな。フロントに顔見られたらマズイだろ」
「・・・何階だ?」
「六階」
オスカーの肩ががっくりと下がった。
疲れた・・・。
熱めのシャワーを全身に浴びながら、オスカーはしみじみと溜息を吐いた。
百十四段の階段を上って疲れないわけがない。しかも普通に上るのではなく、人目を忍んで音を立てないように注意しながら、だ。
だいたい、元々自分がいた安宿から出る際も三階からの脱出であったし、そのあとは腰を落ち着けることも出来ずに繁華街を歩き続け、挙句の果てに裏道の追いかけっこをこなした、最後の駄目押しの百十四段である。
アリオスが泊まっているという部屋に辿り着いた時にはヘトヘトだった。
とりあえず、シャワー浴びさせてくれ。
オスカーが室内に入って最初のセリフがそれだった。アリオスは無言で呆れたように肩を竦めるとシャワールームを指差した。
「あー、生き返るー」
頭からシャワーを浴び、思わずそんな言葉が口を衝いて出たその時。
曇り硝子のドアが突然開けられた。
「うわっ」
オスカーが驚いてそちらを見れば、アリオスが上半身裸で立っている。
「んなに驚くなよ」
クッと笑うと、濡れるのも構わずアリオスが入ってきた。狭いシャワールームでは逃げ場もない。
「お前、それは盛りすぎだろっ」
「なんだよ、さっきのキスだけで終わりのつもりだったのか?」
オスカーを壁に追い詰めて、アリオスが愉しげに言う。
「ヘトヘトだって言わなかったか、俺は」
「んなこと、知ったこっちゃねぇな」
「・・ッ」
躰を密着させて、深く唇を貪る。舌で歯列をこじ開け、オスカーの舌を引き出すように絡ませた。アリオスを押し戻そうと二人の間で突っ張ろうとしているオスカーの両腕が、やがて力をなくすまで。
アリオスの片手がオスカーの下肢を割る。
「ちゃんと感じてるじゃねぇか」
喉の奥で笑いながら言われたセリフに、オスカーはムッとしたようにアリオスを見た。
「これで勃たなかったら俺は不感症だろーが」
するならとっととしろ、とオスカーが不貞腐れ気味に言うのにまた笑い、アリオスは手をゆっくりと動かす。
「はぁ・・」
深く吐き出された息は熱い。
黄金色のピアスごと、オスカーの耳たぶを舌で嬲る。
「ァ・・ッ」
アリオスが少し躰の位置をずらした時、鋭い声が上がった。
明らかに性感を煽られて上がった声だったが、特に何かした覚えのないアリオスが訝しげに少し躰を離すと、またも声が上がる。
原因はすぐに知れた。
「これか・・」
人の悪い笑みを浮かべてアリオスはそれを空いた手に持った。するとまたビクビクとオスカーの躰が跳ねる。
「んんーっ!」
手に持ったそれを、もう片方の手の中で脈打つモノに向けてやれば、面白いように反応した。
「・・おもしれぇ」
シャワーヘッドを動かすと、それに合わせてオスカーの躰も跳ねる。
「やめっ、たの、むからっ」
刺激が強すぎて堪らないらしい。
「いいじゃねぇか、感じてんだろ?」
どこのエロオヤジだ、馬鹿野郎。
そう叫びたいが、口から出てくるのは恥ずかしくなるような喘ぎ声ばかり。
そうしているうちに、アリオスの指がオスカーの奥へと伸ばされた。お湯で充分湿った其処は、久々の行為の割にはすんなりと指を受け容れる。
「ふ・・っ、ぁ・ぁぁ」
内部をまさぐる指の数が増えると、さすがにオスカーの表情に苦痛が表れたが、それも、最も感じる場所を見つけることですぐに悦楽に取って代わった。
「ア、リ・・オスッ」
「なんだよ、限界か?」
熱く艶を孕んだ声で自分の名を呼ぶことが、オスカーの最大の譲歩であることを知っているアリオスは、指を引き抜くとオスカーの片足を抱え上げて怒張した自身を秘部へと押し当てると、殊更ゆっくりと貫いていった。
「ぁあっ」
「すげー、締め付け」
「んっ」
アリオスが耳元で囁く声にすら、感じる。
こんなに強い快楽を味わうのは、アリオスに抱かれる時だけだ。
勿論、女性を抱くのと男性に抱かれるのでは全く違うのは当然なのだが、女性を抱くとき、オスカーはここまで快楽に貪欲にはならない。理性をなくしたことなどないし、ここまでの愉悦を感じたこともない。女性を抱くときは、常に自分の快楽よりも、女性を満足させることを重視している所為なのかもしれないが。女性とのセックスで物足りなさを感じたことはないのだが、こうやってアリオスに抱かれると、まるで自分が本当の悦楽を何も知らなかったのではないかという気にさえなってくる。
アリオスが大きく腰を使う。躰の中をぐちゃぐちゃに掻き回されるような感覚に、目が眩みそうだ。
「あ・・・んんっ」
「オスカー・・・」
けれど何よりも感じるのは、こんな時に自分の名を呼ぶ、アリオスの声だ。
「んーっ、ぁぁっ」
ああ、この声が好きだ・・。
霞みそうな頭でそんなことを思いながら、オスカーは精を放ち。
「・・っ」
その一際強い締め付けに、アリオスもまた、オスカーの中で果てた。
結局シャワールームで二回、ベッドへと移って三回、汗と体液を洗い流す為入ったシャワールームでもう一回抱き合った彼らは、太陽が完全に昇りきる頃、漸く眠りに就いた。
眠りに就いたのが朝なのだから、当然目を醒ましたのは昼過ぎ、日が落ちるのが早くなっているこの季節では既に西日が射し込もうかという時刻だった。
追われているというのに緊張感のない男達である。
豪気なのか図太いのか、恐らくは後者だろう。
「・・・腰痛ぇ」
目が醒めて、ベッドの上で上半身を起こしたオスカーの最初のセリフである。
それでも、ベッドで眠れた分マシだったのだろう。何しろ、狭いビジネスホテルのシングルルームである。規格外の男が二人眠れるようなベッドサイズなわけがなく、久しぶりに抱き合った、その躰の負担を考慮してかアリオスがベッドを譲ってくれたのだった。
そのアリオスは、硬いソファで横になっている。
「こっちだって躰が痛ぇよ」
ぐるっと首を回して肩を鳴らすと、アリオスが髪をかきあげながら呟いた。
「さて・・・。どうするかな」
上半身を起こしたものの、それ以上動く気にもなれず、オスカーはぼうっと天井を見上げる。
どうするも何も、どうにかして王立研究院へと行き、聖地に連絡を入れなければならないのだが。
「厳重警戒態勢だろうしな・・」
何の苦労もなく入るのは絶対に無理そうだった。
「いきなり中まで入るようなルートがあれば・・・って、アリオス、お前、魔導は?」
一緒にいる男が恐ろしい程便利な力を持っていることを失念していた。考えてみれば、アリオスはいつだってその力を使って突然オスカーの前に現れているというのに。
だが、アリオスの答えは簡潔だった。
「使えねぇ」
「お前、ケチ臭いこと言うな。それぐらい協力してくれたっていいだろうが」
「違ぇよ。マジで使えねぇんだ」
そう言って肩を竦めたアリオスを、思わず凝視してオスカーは問い掛ける。
「使えないって、力が消えたってことか?」
「いいや。オマエ、何にも感じないか?」
人差し指を上に向け、アリオスは問い返した。
「もしかして、このシールドみたいなヤツの所為なのか」
オスカーも気づいてはいた。上から覆い被さるような、抑えつけるようなこの惑星の空気。
「全く使えねぇわけじゃないが・・・。使うにはかなりの精神集中が必要だし、それでも、オマエを連れてってやるようなのは無理だな」
何の為にこんなことしてんのかは知らねぇが。
アリオスがそう付け加えると、オスカーは指先を顎にあて、自らの考えを整理するように話し出した。
「これは俺の推測だが・・・。このシールドが抑えてるのは、サクリアだ」
この惑星のサクリアが抑圧状態にあることは、シエルを彷徨っているうちにわかった。道理で一見何の問題もなく感じるわけだ。上から抑えて表面を均しているような状態なのである。表面上は過不足なく見えるというわけだ。
「それでなんで魔導まで使えなくなるんだ」
サクリアと魔導の力はまったく別の性質の力であり、アリオスの疑問は尤もである。
「とばっちり、じゃないかと思う。・・サクリアを制御できる技術が出来たなんて話聞いたこともないしな。たぶん、未知のエネルギーを感知して抑えてるんだろう」
つまり、サクリアと魔導の区別など出来ていないというわけだ。わかっているのは、惑星上に存在する生体エネルギーなどといった既知のものではないということだけ。
「で?それを抑えてこの惑星は何をしようってんだ?」
アリオスの知っている限りでは、サクリアというものは、この宇宙の根源的エネルギーなのだという。惑星にとっても、惑星上に暮らす人々にとっても、そのバランスを崩せば死を招くものなのだと。
「『セブンス・ヘヴン』だそうだ」
「なんだそれ」
ここ数日、オスカーは捜索の目から逃れながらも情報収集という名目の飲酒を怠っていなかった。繁華街から離れなかったのは、身の隠し易さは勿論だが、情報収集をし易いという点もあったからだ。
繁華街には様々な人間が出入りし、そして一様に酔えば皆口が軽くなる。ぽろっと重要な情報を聞かせてくれることもあった。その上、相手が女性であれば、オスカーに引き出せない情報はないと言って過言ではない。
実際、一昨日の夜バーで飲んだ、シエル政府の事務官で現在は秘書室勤務だという女性はオスカーに有用な情報を教えてくれた。
「『セブンス�・ヘヴン』ってのは、この辺りの惑星に広く流布している伝承に基づく表現だそうだ。伝承に出てくる天国は六階層に分かれていて『セブンス�・ヘブン』は第七天国、つまり、その六階層の更に上、最高天ってことらしい」
「その最高天がなんだって言うんだ」
煙草を咥えながらアリオスが続きを促す。
「シエルはその『セブンス・ヘヴン』になるんだそうだ」
「は?」
事の発端はシエルの大統領に、軍部出身の男が就任したことにあるらしい。軍部の発言力は日増しに大きくなり、現在ではすっかり軍事政権と化しているという。そしてその軍事政権が打ち立てた理想が「セブンス・ヘヴン」というわけだ。「聖地の支配から脱却し、更なる飛躍と発展を。シエルを聖地を凌駕する最高天に」というスローガンらしいが、つまるところ、周辺惑星への軍事侵攻と植民地化を狙っているのだ。その話を聞いて、オスカーは爆発的に増える炎のサクリアへの望みの背景が理解できた。
「随分物騒な天国もあったもんだぜ」
「だが、そのままでいたら当然聖地から介入される。そこで開発されたのがあのシールドってことなんだろうな」
聖地はサクリアバランスで星の状態を知る。逆を言えば、サクリアバランスさえ誤魔化していれば聖地からの介入を防げるのだ。シエルも含め、この周辺の惑星には王立派遣軍の駐屯地もないので、惑星上にある王立研究院さえ制圧すれば直接報告が聖地にされることもない。
時々急激に、抑えている筈の炎のサクリアへの望みを感じたのは、シールドのシステム上の問題らしかった。いわばシールドの張替えのようなものが必要らしく、その張替えの際にシールドが消滅する時間ができるということらしい。
「その僅かな時間の誤魔化しは、王立研究院を制圧すれば出来ることだしな」
現地の研究院から「異常なし」という報告が為されれば、そんな僅かな乱れは問題視されないと踏んだのだろうし、事実、問題視されなかったのだ。ただ一人、炎の守護聖を除いては。
「そこへ、ある日突然旅行者が研究院に入ろうとしたんで軍がその身柄を拘束しようとしたってわけか?」
ふうっと、紫煙を吐きは出してアリオスが言葉を繋ぐ。それにオスカーが不愉快そうに頷いた。
「ああ。最初は不審者を取り締まるってことだったんだろ。旅行者の口からシエルの王立研究院は軍に占領されてるなんて話が漏れたらマズいしな」
だが、それだけだったら、あそこまで大規模な捜索態勢になるわけがない。旅行者であれば、いずれ高速シャトルを使って帰らなければならないのだから、宇宙空港を張っていればそれで済む。
それで済まなかったのは、旅行者の正体が実は炎の守護聖――シエルが干渉を恐れている聖地の、その中枢を担う一人――であると知ったからだろう。きっと、聖地の研究院から連絡が入ったに違いない。「炎の守護聖様がそちらに向かわれたが、もう到着なさったか?」といった連絡が。そこで炎の守護聖の外見の特徴を聞けば、それが既に研究院を訪れた旅行者であることはすぐにわかったはずだ。
「俺が研究院に行く前にそれを知っていれば、誤魔化しも出来ただろうが、向こうにしてみりゃ不幸なことに俺は既に軍と追いかけっこをしちまってたからな。そうなると残された道はただ一つ」
「何が何でもオマエを捕まえて、不慮の事故に遭って貰う、か」
「そのとーり」
頭を掻きながら、抑揚のない声でオスカーが肯定する。
「これからどうするか、だな・・・」
サクリアが抑えられている以上、サクリアを放出することで聖地にいる女王や守護聖たちに直接異変を伝えるという最終手段も使えない。このまま連絡がつかなければいずれ不審に思って人が派遣されてくるだろうが、それでは時間がかかりすぎる。逃げ続けるにも限界があるのだ。
深い溜息を零しながら、雑に髪を掻き毟るオスカーに、アリオスはとりあえず、と声をかけて立ち上がった。
「どうでもいいから、腹減った」
何しろ、顔が割れている手配犯がいるのでどこか店に入って食事、
という真似が出来ない。
仕方ないのでアリオスが買ってきたファーストフードを、人気のない路地裏で食べるという、この上なく侘しい食事になった。
「お前でもハンバーガー買えるんだなぁ」
「・・・喧嘩売ってんのか」
「酒飲んでるイメージしかないんだ、お前には」
山積みのビールケースに腰掛けて、そんな会話を交しながらハンバーガーに齧り付く。アリオスが買ってきたのはハンバーガーを四つにホットコーヒーを二つ。バーガーの種類を変えるだとか、ポテトを買うだとか、そういったことを一切しないところがアリオスらしくてオスカーは苦笑するしかない。
そんなことを考えてる場合じゃないんだが。
軽く息を吐いてオスカーはコーヒーを飲んだ。ファーストフードの薄いコーヒーはあまり好みではないのだが、贅沢を言っていられる場合でもない。
「このまま、逃げ続けてるわけにもいかないしな・・」
「なんなら、本気で逃げちまうか?」
「え?」
アリオスの言葉の意味が掴めずに思わず見返すと、アリオスがニヤリと笑ってオスカーを見た。
「本気で、全部からな。この惑星だけじゃない、この宇宙から。オマエを囲ってる全てのものからだ」
「・・・アリオス」
どう返せばいいものか言葉に詰まっていると、アリオスがククッと肩を揺らした。
「冗談だ。んな本気に取るなよ、ガキじゃあるまいし」
「笑えない冗談言ってる場合か」
オスカーもそれに合わせて言葉を返す。
冗談で済ますには、アリオスの視線は真剣だったし、自分の心も一瞬揺れた。けれど、それには気づかなかった振りをして。
「さて、と」
空のカップやラップをダストシュートに投げ込むと、表通りへと歩き出す。
表通りへと出る直前に、客らしき酔っ払いに絡まれる女性がいたのが切っ掛けだった。
女性が困っているのに黙って見過ごすなどという真似を、「全宇宙の女性の恋人」を自認するオスカーができる筈もなく。
アリオスが呆れた顔で溜息を吐いたのには構わず、酔っ払いを退散させた。そこまではよかったのだが。
「チョコレート色の眸のレディ、怪我はないか?」
コイツ、自分の置かれてる状況わかってるんだろうな・・・。
こんな時にまで口説きモードに入るこの男の神経の図太さに、アリオスがこのまま置いていってしまおうかと思ったその時。
人ごみの向こうに、剣呑な視線を見つけた。それも複数。
ヤバいっ!
アリオスは瞬時に身を翻した。女性相手に甘い言葉を囁いている男の腕を掴んで。
「逃げるぞっ!」
「ちょ・・っ、じゃあな、レディ」
走り出しながらも、女性への挨拶だけは忘れないオスカーはある意味尊敬に値するかもしれない。
「オマエな、少しは状況考えろっ」
「レディが困ってるのに見過ごせるかっ」
裏通りを全力で走り抜けながらも、そんな会話を交わす。後ろであちこちから短い悲鳴が聞こえるのは、彼らを追う人間達が通行人にぶつかっているからだろう。追手側の人数も多ければ通行客の人数も多いので悲鳴の合唱が巻き起こっている。
「つーか、いい加減手を離せっ」
アリオスの方が確実に足が速いというのならともかく、走るスピードにほぼ差がないのに腕を掴まれていては走りにくくて敵わない。
「離したらオマエまた一々女に引っ掛かるだろーがっ」
だが、アリオスの言う事も尤もである。二人は通行人にぶつかるようなことはなかったが、今腕を離せば、ぶつかりそうになった女性が「きゃっ」と声を上げる度、オスカーの走るスピードは遅くなるだろう。
「どーするんだよ、これから。炎の守護聖様は」
「・・・行くか。逃げ回るのも飽きたしな」
飽きたとかいう問題じゃないんじゃないのか?
アリオスは内心でそう思ったが、それは言わずに、代わりに訊ねる。
「どっちだ」
「そりゃあ・・」
アリオスが掴んでいたオスカーの腕を離した。ちらっと、横に視線を流せば、同じように自分を見るオスカーの視線とぶつかる。
「アタマだな」
声が重なった。
こういう時に議論を必要としない相手はありがたかった。
バイクの低いエンジン音が静まり返った官庁街に響き渡る。
誰がどう見ても、否、誰が見なくても立派な無断借用だったが、その責任はアリオスに被って貰おう、などと酷い事をオスカーは考えていた。元々、バイクを拝借しようと言い出したのはアリオスであるし、運転しているのもアリオスだ。
やがて視線の先に、物々しく軍人に警備された建物が見えてくる。
さすがに、まさか守護聖が乗り込んで来るとは思っていなかったのだろう、王立研究院ほどの厳戒態勢ではないようだった。
無論、その方がこちらとしてもやり易い。
「行くぜ」
アリオスが短く告げる。
アクセルを全開にし、更に低い唸り声をエンジンが上げると、スピードを緩めることなく突っ込んでいった。車体がバウンドし、銃を構える軍人たちの鼻先を掠めていく。
「死人は出すなよ、死人はっ!」
荒っぽいアリオスの運転に、思わずそんな文句が出た。
「うるせぇな」
「後で色々責任問われるのは俺なんだーっ」
聖地に帰還した後のジュリアスのお小言を想像すると蒼醒めるオスカーである。
アリオスの荒っぽい運転で、一気に建物の玄関を打ち破り、正面の階段を登ったところでバイクは止まった。玄関の扉と平行に、つまり階段を塞ぐように止めることで階下からの増員が出来にくくする。ほんの僅かな時間稼ぎにしかなりはしないが。
ここから先は徒歩強行軍である。
異変に飛び出てきたものの、あまりの異常事態に銃を構えることも忘れて呆然としている軍人に飛び掛かると手にしていたサブマシンガンと腰に携帯している拳銃を頂いた。暴れられると面倒なので鳩尾に一発拳を叩き込むことも忘れない。
軍人が呆然とするのも無理はなかった。
一体誰が、夜更けにたった二人でバイクに乗って大統領官邸に突入して来るなどと思うのだろう。
「なあ、アリオス。お前、銃って扱えるか?」
「拳銃は二、三度撃ったことはあるが・・。アンタは?」
「俺も似たようなもんだ。ま、ストッパー外しておいて、後はトリガー引けばなんとかなるだろ」
オスカーがなんともアバウトで恐ろしいことをさらりと口にすると、銃声が響き渡った。
咄嗟に左右の壁に背を張り付け、様子を伺う。
前方向からの銃撃。
二人の視線が一瞬交差する。軽く頷くと、一気に走り出した。
オスカーが拳銃のトリガーを引くと、前方の兵士が倒れる。
「死人は出さないんじゃなかったのか?」
「死んではないだろ、たぶん」
「・・・いいのかよ、そんなんで」
そう言ったアリオスの頬を、後ろから弾丸が掠めた。
アリオスはくるりと振り返ると、サブマシンガンのトリガーを引いて左右に銃口を振る。マシンガンなど持ったことのない人間にしては、遠慮のない見事な撃ちっぷりである。
「楽しそうだな、これ」
拳銃で前方の兵士を的確に撃ち抜いてるオスカーも、片手に持ったサブマシンガンに心惹かれたらしい。
銃器は撃った後の反動が激しく、手許がぶれ易い。初心者には狙ったところに撃つなどという芸当は普通できないものなのだが、剣で鍛えられた腕の筋肉が、ここでしっかりと役立っているようだ。
倒れ付す兵士たちのところまで来ると、一応死人がいないことだけを確認する。一人の身を起こして、拳銃をこめかみに突きつけた。
「大統領は何処にいる?」
低く訊ねる声と鋭い氷碧の視線は、まだ若い兵士を震え上がらせるには充分なようだった。
こんなことジュリアス様にバレたら・・・、想像もつかん。
卒倒されてしまうかもしれない・・と内心冷や汗を流しながらやっているとは思えない、堂に入ったテロリストぶりである。
「早くしろよ」
背後からの攻撃に対応するため、こちらに背を向けているアリオスが苛々とした口調で促す。オスカーが持っていたサブマシンガンまで手にして、二丁拳銃ならぬ二丁マシンガンだ。死人を出すなというオスカーの言葉を考慮して、銃口は足のあたりに向いている。
「こっ、この一番奥っ」
「サンキュ」
兵士の躰を離すとオスカーは立ち上がった。持っていたサブマシンガンをアリオスに取られたので、倒れた兵士たちの持っていたマシンガンを新たに手にする。
「行くぞ」
「先行ってろ。こっち片付けてから行く」
「頼む」
アリオスにその場を任せるとオスカーは走り出した。
有無を言わさずマシンガンのトリガーを引きっ放しで突っ込んでいけば、一番奥の部屋まですぐだった。
施錠はされているが、そんなものはマシンガンの乱射の前には一秒ともたない。鍵を壊すと、オスカーは扉と壁の境に沿ってマシンガンのトリガーを引いた。蝶番が壊され、支えるものがなくなった重厚な扉は、単に壁の隙間に嵌った厚い板に過ぎない。二枚の扉を思い切り蹴り飛ばせば、それは部屋の中へと倒れていく。
バタン、と大きな音と共に、部屋の中から複数の悲鳴が上がった。
ダメ押しでマシンガンを床に向けて乱射すれば、部屋の中に待機していた兵士達は最早敵ではなかった。
「なんだ、片付いちまったのか?」
アリオスがそう言いながら後ろから近づいて来た。
「そっちも片付いたのか」
「ああ」
部屋の中の兵士達が恐怖に慄いた目で二人を見ている。
「さて、と」
オスカーはわざとらしく部屋をぐるりと見回し、中央の革張りの椅子に腰掛けたまま、凍りついている男に視線を合わせた。
「大統領閣下?」
恭しく確認する声すら恐ろしい。
大統領は声も出ないのか、小刻みに頷くだけだ。
「シエルに来てからこっち、随分熱烈な歓迎を受けまして」
そう言うオスカーの口許は笑っているが眼が全く笑っていない。
口調は丁寧だが、声は真冬の海よりも冷たかった。
ストレス溜まってたんだな・・・。
芝居がかったオスカーの様子に、アリオスはこっそり溜息を吐く。
逃亡生活を強いられた恨みは恐怖にして返す、と言ったところなのだろう。
「どうやら私をお捜しのようなので、こちらから伺いました」
そこまで言って、オスカーの口許から笑みが消えた。
「炎の守護聖であるこの俺に、こんなふざけた真似してくれた代償は、きっちりと払って貰うぜ?」
大統領による命令で王立研究院は長い占領から解放された。
オスカーはすぐさま聖地に連絡を入れ、シエルには暫く王立派遣軍が駐屯することになった。
大統領は更迭されて軍部の発言権も一気に縮小した。
シエルの新聞は夜間の大統領官邸襲撃事件を大きく報じたが、それが守護聖自らによって引き起こされた事件であることは当然報じられなかった。
「今回は済まなかったな。おかげで助かったぜ」
オスカーはひどく素直にアリオスに対して謝辞を述べた。
「珍しいな、オマエがんな素直に礼言うの」
なんか隠してることでもあんのか?と訊くアリオスに、オスカーはいや別に、と首を振る。
「失礼なヤツだな。今回のことは俺の執務に関わることだし、巻き込んで悪かったと思うから言ってるんだろ」
本当は、バイクの無断借用はともかく、官邸襲撃、必要以上のマシンガンの乱射まで、聖地に報告する際に、全てアリオスの所為にしたからだとは口が裂けても言えない話である。
「ま、いいけどな。アンタがどういう報告した所で、オレにはどうでもいいことだ」
紫煙を燻らせながらアリオスはそう言ってちら、と横目でオスカーを見遣った。
バレてる・・・。
オスカーの背中を冷や汗が伝う。ここはそのまま素知らぬ振りをしよう。
「ところで、お前、これからどうするんだ?」
やや強引な気がしなくもないが、自然といえば自然な話題転換だった。
「別に。適当に何処か行くさ」
「そうか・・・」
考えてみると、アリオスと「別れの挨拶」というものをあまりしたことがなかったことに気づく。こんなに長い時間一緒に行動するのも初めてではないだろうか。いつもは一晩抱き合って、別れるだけだ。
改めて別れの挨拶をするとなると何を言っていいのかわからない。
「じゃ、オレは行くぜ?」
「あ、ああ・・」
結局上手い言葉が見つからずに、ただ頷いたオスカーの心情に気づいているのか、アリオスがニヤリと笑って付け足した。
「今回の礼は、今度たっぷりしてくれるんだろ。期待してるぜ」
そして耳元で。
「丸一日は離してやらねぇから、覚悟しとけよ」
「な・・・っ」
絶句するオスカーを尻目に、アリオスはすっと姿を消した。
残されたのは、片手で口許を覆った炎の守護聖一人。
「・・・・・・洒落にならん」
そんな言葉が、溜息と一緒にオスカーの口を突いて出たのだった。
±0
聖殿の廊下を歩いていたら、頭上から花瓶が落ちて来た。
階上で掃除をしていたメイドが蒼褪めた顔で「申し訳御座いません」と連発したが、特に怪我もない。粉々に割れた花瓶を一瞥するとそのまま歩き去った。
昼食に出てきたヴィシソワーズを食べていたら、中に砂利が入っていた。
シェフが慌てて飛んできて、テーブルに額を打ち付けんばかりに謝ったが、別に食べたところで死ぬものでもなし、砂利を捨てると、そのまま食べ続けた。
午後の惰眠を貪ろうと横になったら、何かが窓を派手に壊して飛んできた。
「おっ、わりぃわりぃ」と言いながらゼフェルがメカチュピを回収しに来たが、割れたガラスには見向きもせずに去っていった。…特に寝るのに問題ない。
さて、眠ろうかと思ったら、叩き壊さんばかりに元気に扉が開かれた。
「すみません、ゼフェルがまたメカチュピ暴走させたって聞いて」と明るく爽やかにランディがやってきて、勝手に色々話しながらガラスを片付けていった。…何故ランディ?
今度こそ眠ろうと眼を閉じたら、いきなり何かに突かれた。
「ダメだよ、チュピったら!」そう言いながらマルセルが入ってきて、「ごめんなさい。お詫びに…」と花を飾っていった。…どうやら小鳥に突かれたらしい。
なんだか眠る気が削がれた…と思っていたら、ポロン、とハープの音がした。
「午後の音楽を奏でに参りました」とリュミエールが言うので、丁度いいかと一曲頼んだ。結局リュミエールは五曲奏でていった。…しかしいつの間に来たのだろう。
再び襲ってきた睡魔に身を委ねようとしたら、視覚的目覚ましがやってきた。
「ちょっとー、この石見てくんない~?」とオリヴィエが持ってきた宝石を鑑てやると、お礼だと言って白檀の香を置いていった。…別に宝石鑑定士ではないのだが。
どうも眠れそうにないので仕方ない、と散歩に出たら、本の山とぶつかった。
「あ~、すみません。前が見えなかったもので~」というルヴァと、何故かそのまま立ち話に付き合わされた。…本の角がぶつかったらしい。額にたんこぶが出来ている。
執務室の前まで戻ったら、隣人に待ち構えられていた。
「まったく、そなたはいつもいつも…以下略」と延々とジュリアスの小言が続く。立ったままだと熟睡もできない。…もしかして、今日は運が悪いのだろうか。
早々に執務を切り上げ邸で寛いでいたら、テラスから侵入者が来た。
「なんですか、その意外そうな顔は」
オスカーはそう言うと、テーブルにワインと花束を置く。確か、この男は視察で聖地を留守にしていたように記憶していたのだが、何故ここにいるのだろう。
「貴方、もしかして本気で忘れてるんですか?」
さも呆れた、とオスカーは首を振った。
「誕生日でしょう、貴方の」
すっかり忘れていた。
「人が、なんとか日付が変わらないうちに帰ろうと、必死になって視察をこなして来たってのに、肝心の貴方が自分の誕生日を憶えていないんじゃ、俺は一体何の為に必死になったんだか。・・・まあ、それも貴方らしいと言えば貴方らしいんでしょうけどね」
そう笑う相手を抱き寄せた。
誕生日だと言う割に。
朝から酷く運のない一日だったような気がするが、これで、差し引きゼロだろう。
「貴方が生まれてきたことに、感謝を」
Carriage
「・・・ッ」
聖殿の大階段を降りた瞬間、右足首に走った痛みに思わず小さな呻きが洩れたのは、オスカーにとって油断以外の何物でもなかった。
そして、階段を降りたその先に、何故か擬似自閉症引きこもり癖の闇の守護聖が立っていたことは、オスカーにとって不運以外の何物でもなかった。
いや、一応二人は恋人、と呼べる仲ではあるのだが。
「・・・どうした」
「っっ!クラヴィス様っ」
忌々しげに自分の足首を見ていたオスカーに、恐らくは半径一メートル周囲に届くかすら疑わしい音量の声がかけられた。
慌てて顔を上げればすぐ傍にクラヴィスが立っている。
・・・・・階段を降りた時にはまだ、五メートルは先に立っていたはずなのに、瞬間移動でもしたのか、この人は。
この男なら有り得る、と思わずまじまじとクラヴィスを見つめてしまうオスカーである。
「どうしたと訊いている」
そんなオスカーの様子に構うことなくクラヴィスは問いを繰り返した。
「あ、いえ、大したことじゃないんですが・・」
そう言ってオスカーは事情を話す。
先刻、廊下で足を滑らせて転びかけたメイドを抱きとめてやった際にほんの少し右足を捻ったのだ。捻挫、と大騒ぎするほどのことでもない。今日は歩くのに少し注意を要するが、邸に帰って湿布でも貼れば一晩で治るだろう。その程度だ。
その程度なのだが。
「うわぁっ」
これがあの、宇宙一のプレイボーイ、強さを司る炎の守護聖の口から出たとは思えないほど情けない悲鳴があがった。
「何するんですか、貴方はっ!?」
「お姫様抱っこ」
「ぶっ・・」
思わず吹き出したオスカーに罪はないだろう。
そう。横抱き、抱え上げ。
オスカーは突然、クラヴィスに抱き上げられたのだ。
・・・執務服だぞ?軽鎧だぞ?そんなもの着た男をどうしてこんな軽々と持ち上げられるんだ、この人はっ!?
あまりの驚愕に、ぱくぱくと口を開閉させながらオスカーはそんな的外れのことを思っていた。が、すぐに我に返る。
「どこ行く気ですか、貴方は!降ろしてくださいって」
オスカーは遠慮がちにもがきながら抗議した。思い切り暴れると、クラヴィス諸共派手に転ぶ危険性があるのだ。それは避けたい。ただでさえ足首を痛めているのだからして。
「足を痛めているのだろう。動かさないほうがよい」
クラヴィスの言い分は尤もだ。尤もなのだが。
「だからって、貴方が姫抱きする必要がどこにあるって言うんですかーっ!」
オスカーの主張も尤もなのである。
だがクラヴィスはそれにあっさりと答えを返した。
「一度やってみたかったのでな」
何の正当性も必然性もないその言葉に、敵う反論などあるだろうか。いや、ない。
「もう夕刻だ。執務は片付いているのだろう?邸まで送ってやろう」
ガックリと項垂れるオスカーにクラヴィスはそう言った。その表情が心なしか楽しそうなのは幻影ではないだろう。
炎の守護聖をお姫様抱っこして歩く闇の守護聖。
その異様な光景に、聖殿から炎の私邸、更にはその主人の私室までの道程で、擦れ違う人々は守護聖、使用人、一般人を問わず皆慌てて道の両脇へと体を寄せた。さり気無く目を逸らし、まるで無機物のように一言も発しない。
さながらモーゼの十戒である。
「明日から俺はどんな顔して出仕すればいいんですか・・・」
漸く辿り着いた私室のベッドの上に降ろされ、オスカーは憮然と呟いた。
転ぶのが嫌だからとはいえ、なんだかんだ言って大人しくお姫様抱っこされたままだったのだから、この男も大概おめでたい。
「普段通りの顔でよかろう?」
「そりゃ、貴方は執務室に暗ぁく引き篭もってりゃいいんですから、気にもならないでしょうけどね。・・・で、この手はなんです?」
意外と器用に自分が身につけているマントや鎧を外していく手を、オスカーは思い切り剣呑な眼で見つめた。
「私の手だが?」
「ええ、貴方の手でしょうね、俺の手じゃありませんから。俺が訊いてるのは、その貴方の手がなんで俺を脱がそうとしてるか、なんですが?」
「仮にも恋人、という関係の二人が片方の私室、しかもベッドの上にいる目的など一つしかないと思わないのか・・・?」
珍しく長いセリフを吐くと、クラヴィスは当たり前のように動きを再開する。
その言葉にオスカーが呆れ返った、と言わんばかりに大袈裟に溜息をついた。
「貴方ね、なんで俺をわざわざあんっっな、恥かしいカッコで運んできたんです?怪我人相手に何しようってんですか」
「足に負荷を掛けなければいいだけの話だろう。お前が立ったままの方が好きだというのならば、それは難しいが」
「じゃあ、立ったままの方が好きです」
即答だった。
「そうか、では次の機会にはそうするとしよう」
「って、この、エロオヤジーっ!」
聞き捨てならないセリフである。
「オスカー」
低く囁くような静かな声音でクラヴィスが呼べば、びくっと竦むようにオスカーは見つめてくる。
「おまえは・・・手紙を出す時には切手を貼るだろう」
「当たり前でしょう」
手紙の精霊さんに頼めばいい、という突っ込みは却下である。
「荷物を送るときには送料を払うだろう」
「そりゃあそうです」
聖地に宅配業者がいるかどうかは不明だが。
「高速シャトルに乗れば運賃を払うだろう」
「払わなかったら犯罪でしょう」
専ら次元回廊しか使っていないのではないだろうか。
「つまりは・・・そういうことだ」
「どーゆーことですかーっ!?・・・んんっ!」
これ以上煩く喚く口は、実力行使で塞いでしまえ。
こうして炎の私邸の夜は更けてゆき。
翌朝、お姫様抱っこの話を耳にした首座の守護聖から、オスカーはたっぷりお小言を受ける羽目に陥るのである。
midnight lovers
「ァ・・・」
背を木に預けたオスカーの口から切なげな声が洩れた。
アリオスが紅く熟れた胸の飾りに軽く歯を立てると、オスカーの躰がビクンと跳ねる。
「・・ンンッ」
「あんまり派手に声あげるなよ・・・。大して離れてないんだからな」
アリオスが突起を口に含んだままそう告げると、それもまたたまらない刺激となってオスカーを襲った。
「ア・・リオス・・ッ」
必死な、それでいて強請るな甘さを帯びた声に促されて、アリオスが蜜を滴らせたオスカーのモノを乱暴に扱いてやると、オスカーは洩れそうになる嬌声を唇を噛み締めて堪える。
深夜の森。
近くには王立派遣軍の仮設の兵営がある。大きな声をあげれば、見張りの衛兵にすぐに気づかれてしまうだろう。
そんな危険を冒してまで抱き合わなくてもいい。
頭ではそうわかっていたが、心は止まらなかった。心に引き摺られるように、躰も互いの体温を欲した。
まさか、こんな場所で出逢うなんて思ってもいなかったから。
その惑星で起こった暴動は、沈静化するのに時間を要した。
王立派遣軍が暴動の沈静の為の活動を展開したが、完全に暴徒と化した民衆は派遣軍にまで危害を加える有様で、これはサクリアの調整でしか事態は解決しないのではないかと思われた。
その切迫した事態が急展開を見せたのは、乱れたサクリアの状態の視察を兼ねて直接派遣軍の指揮を取る為に、オスカーがこの惑星に降り立った前日のことだった。
「・・解決した?」
「はい・・・。ああ、もちろんサクリアの調整による抜本的な解決は必要ですが、暴動自体は沈静化致しました」
駐屯地ではないこの惑星での活動の為に仮設された派遣軍の本営で、オスカーは現地の指揮を取っていた連隊長からそう報告を受けた。
「あれほど梃子摺っていたのに、何か策を練ったのか?」
「いえ、それが・・・」
言い淀む連隊長にオスカーが訝しげな視線を送ると、彼は意を決したように答える。
「お恥ずかしい限りではございますが・・・。実は、たった一人の傭兵の手によって事態は解決されたのです」
「傭兵?」
治安維持の為に活動する王立派遣軍が傭兵を雇うなど聞いたことがない。別に傭兵を雇ったこと自体は咎めることでもないが、たった一人の傭兵の力で片がつく事態に、一個連隊が派遣され、尚且つ成果を上げられなかったというのは問題である。
そう考えているのが伝わったのだろう、連隊長は慌てて言い募った。
「兵士たちはよくやりました。その傭兵というのが、その、何か我々には理解し得ない力を持っているようなのです」
そんな得体の知れない者を傭兵として雇い入れるのはやはり問題なのではないだろうか、とは思うが、宇宙は広く、例えば占いに長けた火龍族のように、そういった特殊能力を持つ人種がいる可能性も十二分にあったので大して気にも留めなかった。
「・・・まあいい。その傭兵というのには、明日俺が直接会おう。なんにせよ、彼が事態の解決に貢献した以上、派遣軍を代表して礼をしなくてはならないからな」
オスカーがそう言うと、連隊長ははっ、と敬礼した。
「なあ、いきなりどうしたんだ?」
あてがわれた兵営の一室で、アリオスは同室の兵士に尋ねた。
先ほどから、兵営全体がやけに活気付いている。暴動が鎮まった今、戦闘準備体勢に入った、というわけでもなさそうだった。
「ああ、総司令官閣下がいらしたんだよ」
「総司令官?」
鸚鵡返しに訊き返すと、兵士は頷いて見せた。
「王立派遣軍の総司令官閣下さ。お姿を拝見できるなんて滅多にないことなんだ」
「総司令官だろ?姿見せなくてそれで務まるのか?」
軍の最高責任者が滅多に姿を見せないなど、組織として健全とは言い難い。
「ああ、あんたは知らないのか。王立派遣軍はこの宇宙を治める女王陛下の軍隊だから、そこらの国家の軍隊とは違うんだ。王立派遣軍総司令官ってのは、炎の守護聖様が就かれる地位なんだよ」
「炎の、守護聖・・・」
「ああ、俺たちが、軍神と崇める方さ。さっき、こちらに到着なさったんだ。だからみんな浮き足だってるんだよ」
「へぇ・・・」
アリオスはとりあえず、納得したように頷いた。
「じゃあアンタもその総司令官閣下の顔見に行くのか」
「そんなことできるわけないじゃないか。守護聖様だぞ?この宇宙を支えてらっしゃる方なんだぞ?俺みたいな軍曹がそんな間近でお顔を拝見するなんて無理だよ。遠くからお姿を拝見するだけさ。それでも、派遣軍全体で大きな式典でもない限りは滅多にない機会なんだ」
「ふーん・・・」
守護聖というものが、一般人にとっていかに遠く神にも近しい存在なのか、アリオスは初めて理解した。なまじ間近で接したことがあるだけに、どうも実感は湧かないのだが。
今こうやって興奮気味に総司令官について語る兵士に、自分はその総司令官閣下を抱いたことがある、などと告げたら一体どうなるのだろうか。本気にされないのは勿論だが、下手すれば不敬罪、なんて言葉を持ち出してこられかねないだろうとアリオスは思った。
「あ、でも、あんたはもしかしたらお声をかけて頂けるかもしれないぞ!なんてったって、あんたは今回の暴動鎮圧の英雄だからな」
いいなあ・・・、と羨望の眼差しを向ける兵士に、アリオスはとりあえず、適当に笑って頷いておいた。
深夜、見張り兵の他は兵営全体が眠りについている時間。
本営の一室で眠りに就いていたオスカーは、急に現れた気配に咄嗟に飛び起きた。
「・・・アリオス」
「よう」
目の前に立っているのは、紛れもなくアリオスだった。突然現れたことに驚きはしない。その魔導の力のおかげで、アリオスはいつだって突然現れるのだから。
だが、こんな所に現れるとはさすがに思っていなかった。
「お前、なんでここに・・・」
「炎の守護聖様が来たって騒がしかったんでな」
部屋の外には衛兵が立っている。自然、二人は声を顰めて話した。
「ヘンだな・・・」
急にオスカーはクスクスと笑い出す。それをアリオスは訝しげに見遣った。
「何が?」
「いや・・・。こんな時にお前と会うなんてヘンな気分だと思ってな」
守護聖としての職務の為に来た惑星で、まるで逢瀬の約束でも交わしていたかのようにアリオスと逢うことになるとは。
そんなに頻繁ではないが、普段、二人が会うのはオスカーが聖地を抜け出した時か、そうでなければアリオスが急にオスカーの寝室に現れた時のどちらかだ。オスカーにとっては私的な場所で逢っているという印象が強い。
だが、ここは守護聖、そして総司令官として訪れた王立派遣軍の兵営であり、部屋の外には衛兵が立っているという公的な場所だ。就寝中だったとはいえ、アリオスに守護聖としての顔を覗かれたような、そんなくすぐったさがあった。
「来いよ。」
そんなオスカーに、アリオスが手を差し出す。
「だが・・・」
オスカーは躊躇った。やはり、ここが公的な空間である以上、いつもと同じというわけにはいかないのだ。
暴動は沈静化したとはいえ、いつ何が起きるかわからない。何か問題が発生すればすぐさまこの部屋へ人が来るはずで、もしそうなった場合に総司令官が部屋を抜け出していて指示を仰げませんでした、では話にならない。
そんなオスカーの腕を、アリオスは無理矢理掴んだ。
「アリオス・・っ!」
「抱きてぇんだよ」
「・・・」
あまりにストレートな言葉にオスカーはアリオスを凝視する。
次の瞬間、部屋から二人の姿は掻き消えた。
噛み締めすぎてうっすら血の滲んだ唇が痛ましくて、アリオスはそっとくちづけた。
舌先で擽るように、噛み締めた唇を綻ばせる。
「く・・ッン・・ッ」
「あんまり噛み締めんなよ。んな紅い唇じゃ、明日ヘンに思われるぜ?」
「無茶、言う・・な・・ッ」
声を出すな、唇を噛み締めるな、では一体どうしろというのだ。
だいたい、声を上げさせている張本人にそんなことを言われる筋合いはない、とオスカーは霞みかける頭で考えた。
そんなことを思う間にも、アリオスの手に煽られて、オスカーの熱は高まるばかりだというのに。
本当は兵営からもっと離れた場所で抱き合えばいいのだが、もしも何か問題が発生した時の為、兵営の動きがわかる場所でなければ絶対に嫌だと、オスカーが頑なに主張したのだった。
「一度イッとけよ」
そんなストレートなセリフとともに、より強く扱かれて、オスカーはアリオスの手の中に精を放った。
「・・・!」
堪え切れなかった嬌声は、アリオスの唇に吸い取られて。
深く唇を合わせながら、アリオスは蜜を纏った指で、オスカーの秘部に触れた。円を描くようになぞり、やがて一本の指を内へと忍ばせる。くちゅ、という濡れた音が性感を煽った。
「は・・っぁ」
目許をうっすら朱に染めたオスカーの貌が、夜目にも美しい。
それを見るアリオスの中にあるのは、明らかな優越感。
すぐ近くには、派遣軍の兵士たちが大勢眠る兵営がある。彼らが軍神と仰ぎ、遠目であっても一目その姿を拝めるというだけで浮き足だっている、その相手が、今自らの腕の中で甘い嬌声をあげている。彼らが崇める守護聖という神にも等しい存在を、こうやって自分の手で乱すことへの優越感だった。
今まで、オスカーと会うときは、彼が守護聖である、ということをあまり意識したことがなかった。そんな神聖な存在だと思うには、彼があまりに人間臭いからだ。尤もこれはオスカーだけに限ったことではないが。
「ンン・・・ッ!」
次第に中を抉る指の本数を増やしていくと、オスカーがかぶりを振った。
昼間、炎の守護聖が来ている、と聞いた時、何故だか無性に抱きたくなった。
オスカーの許へ行って姿を見たら、その衝動は更に強くなった。
守護聖という貌を見せるオスカーを抱いて、自分だけが知っている貌に変えたいと、そう思ったのかもしれない。
自分でも気づかないうちに、随分と執着していたようだ、とアリオスは苦笑し、目の前に曝け出された首筋を強く吸った。
「アリ・・オ、ス・・」
甘い声で切れ切れに呼ばれる。その声に誘われて、アリオスは指を抜くと、自身でオスカーを貫いた。
再び唇を合わせて、あげられた悲鳴にも似た喘ぎを押し込める。
オスカーが少し落ち着いたのを見計らって、激しく突き上げた。
「・・ン・・・ッ!」
「・・っ」
絶え間なく洩れそうになる声を、オスカーは目の前のアリオスの肩に噛み付くことで堪える。一瞬走った痛みにアリオスは眉を顰めたが、オスカーを離そうとはしなかった。
ガクガクと躰を揺さ振るように突き上げられ。
オスカーが一際強くアリオスの肩に噛み痕を残すと、アリオスもまた、オスカーの内部に熱い欲望を迸らせたのだった。
アリオスがつけた鬱血の痕は、ギリギリのところで正装の襟に隠れた。
それでも気になって、時々首筋に触れてしまう。
「何か、お加減が悪いのですか?」
事ある毎に首に触れる総司令官の様子に、脇に控えた連隊長が不安そうに尋ねてきた。
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
安心させるように笑って見せて、オスカーは正面に向き直る。
この惑星の不安定なサクリアの状態は既に昨日の段階で把握してあった。
今日はこれから暴動沈静化の立役者だという傭兵に会って報奨金を渡したあと、駐留兵の前で激励の言葉を述べたらすぐに聖地へ戻ることになっている。
アリオスの姿は、オスカーが気づいた時には既に消えていた。
強い快感に意識を失った自分を本営に戻し、躰を清めてくれたらしい。
あの男でもそんな心遣いをするのだな、と思うと妙に可笑しかった。
「閣下」
「ああ、わかった」
謁見の準備が整ったことを告げる連隊長にオスカーは軽く頷くと、司令部の隣りに急遽設けられた謁見室へと足を向けた。
「総司令官閣下がお見えだ」
自分をここまで案内してきた兵士が幾分緊張した声で告げるのに、アリオスはおざなりに頷いて応えた。
兵士たちの敬礼に迎えられ、上座に立った人物は、アリオスを見ると軽く目を見張る。
だが、次の瞬間、総司令官は意味ありげに眸を眇めると、自分の首筋を人差し指で軽くトントン、と叩いて見せた。
こんなところに痕を残すな、と言いたいのだろう。
「今回の暴動沈静化にあたって、我が派遣軍が随分世話になったらしいな。軍を代表して礼を言う」
私的な感情など一切匂わせない言葉とともに、手渡された報奨金。
「・・・別に。行きがかり上、手を貸してやっただけだ」
それを受け取りながらアリオスは、いかにも組織に属さない傭兵らしくそっけなく言葉を返してみせる。
だが、口の端を片方だけ持ち上げるような、そんな皮肉気な笑みを浮かべて相手を見ると、自分の右肩を軽く竦めて見せた。
オマエがつけた噛み痕がまだ少し痛むのだからお互い様だ、と伝わっただろう。
「それほどの腕なら、派遣軍でも相当の地位を用意できるんだがな」
「生憎、オレは組織に組み込まれる気なんかねぇんだ」
「そうか・・・」
白々しい会話を長く続けるのも面倒だ。アリオスはくるりと総司令官に背を向ける。
「貰うモン貰ったらオレは用済みだ。とっとと消えることにするぜ」
「待て」
意外なことに、総司令官はアリオスを引き止めた。訝しげに振り返ると彼はじっとこちらを見つめていた。
「まだ聞いていなかった。お前の名は?」
悪戯でも仕掛けているかのように、楽しげな声だった。
それに、アリオスもニヤリと笑って返す。
「名乗るほどのもんじゃねぇよ、総司令官閣下」
少なくとも、守護聖様、とか、総司令官、とかいう輩に名乗る気はなかった。
その答えに彼も苦笑する。
「俺はオスカー。・・・次に逢ったときにはお前の名も教えてくれ、傭兵」
次に逢うときは、またいつものように人間臭い一個人として逢うだろうから。
「次に逢ったとき、な」
アリオスは軽くそう言うと、謁見室を出て行き。
そうして、不思議な力を持った傭兵は、忽然と兵営から姿を消したのだった。
百億の笑顔に隠されたたった1つの涙の雫
普段の飄々とした態度からすると意外な程、カティスはなかなか情熱的な抱き方をする。
荒い息を吐き出しながら隣りに身を横たえる男を見てオスカーはぼんやりと思った。
尤も、普段の態度そのままに淡白に抱かれるのは御免なので、決してカティスの抱き方に不満があるわけではない。男性としての自尊心やらモラルを訴える理性やら、一応の柵となんとか折り合いをつけてこの男に抱かれることを選んだ以上、相手にもそれなりにわかり易い形で自分を求めて欲しい、と思っても罰は当たらないだろう。
にも関わらず情事後の気怠さの中、オスカーがそんなことを思ったのは、やはり単純に普段の態度との落差故、といったところか。
「なんだ…?」
焦点が合っているのかどうかわからない眸でじっと見つめられていることに気づいたカティスが少し掠れた声で問い掛ける。その声にも、常にはない男臭さのようなものが漂っていて無性に可笑しかった。
「いや…。あんたって、ベッドの上だと人格変わるタイプだったんだなあ、ってさ。今更ながらに思ってただけだ。」
普段のカティスはあまりにも飄々としているから。
だから、こんな落差がとてつもなく新鮮に感じるのだろう。
「意外か?」
少し笑って返された科白に、オスカーは軽く頷いてみせた。
「普段のイメージとは全然違うって、自分でも思わないか?」
「じゃあ訊くが、お前さんから見た普段の俺は、一体どういうイメージなのかな?」
冗談めかした口調で投げられた質問に、少し考え込む。隣りから伸ばされた指先が、汗で湿った自分の髪をかきあげる心地よさに僅かに眸を眇めながら。
「笑顔、だな。」
「笑顔?」
暫くして出された答えに、カティスが首を傾げた。鸚鵡返しに訊き返すことで説明を求める。
「ああ。あんた、いっつも笑ってる気がするぜ?」
聖地に来て間もない頃は、薄気味悪く思ったほどだ。カティスはいつも笑顔でいるような気がする。快活な笑いの時もあれば、穏やかな微笑の時もある。困ったような苦笑いの時もあるけれど、笑顔の他を思い浮かべるのは難しい。
「あまり褒め言葉にも聞こえんな。それじゃまるっきり悩みのない脳天気な男みたいじゃないか。」
そう言いながらもやはり笑顔のままのカティスに、オスカーも笑う。
「脳天気というよりも、楽天家、ってイメージだな。でもそうか、あんたでも悩むことはあるんだな。」
本気なわけではないが、あまりイメージが湧かないのも事実だ。
「おいおい、そりゃ随分と酷い言い草だな。」
「あんたが深刻そうな顔しないんだから仕方ないだろ。」
そうだな、と苦笑しながらカティスは鼻の頭を掻いた。
「ガキの頃の話だが。自分がこうやって守護聖になるなんて思いもしなかった頃だ。聖地なんてものも知らない程小さな頃だが、好きな歌があってな。」
少し懐かしむ表情を視界の端に捉えながら、オスカーは何気ない顔で話を聞く。カティスの思い出話を聴くのは初めてだった。
「苦しい事も悲しい事もあるだろう。それでも挫けない。泣くよりも笑おう。そんな歌だった。その歌に、子供だった俺はいたく感じ入って、幼心に思ったわけだ。どんな時も泣くよりも笑おう、ってな。」
尤も、子供の時分に思っていたよりも遥かに人生ってのは厳しいもんだがな、と天井を見つめながらカティスは続ける。
その横顔すら、僅かに口許が笑みを刻んでいて。
オスカーは身を起こし、カティスの躰を跨ぐように正面から顔を見た。
「どうした?」
笑みを残したままの問いかけには答えず、オスカーはカティスの頬にそっと手を当てた。
「泣くよりも、笑おう、って?」
「ああ。その方が前向きだろう?」
剣を握る癖に細い指先が頬を撫でるのに任せ、カティスは穏やかに笑う。
「どんなに、苦しくても?」
「ああ。」
馬乗りになったまま、顔を近づけて問う。カティスは笑顔のままだ。
「悲しくても?」
「ああ。」
吐息が触れるほど、近づく。
オスカーが今まで見てきたカティスの笑顔の中にも、そうやって涙を隠した笑顔があったのだろうか。
そう考えると、ツキン、と胸の奥が痛んだ。
「おいおい、お前さんがそんな切ない顔しなくともいいだろう?」
「うるさい。」
冗談めかして笑う男の唇に、噛み付くように口づける。
そのまま何度も深く唇を合わせ、躰を反転させたカティスが今までとは逆にオスカーの上に馬乗りになった時には既に、折角整った息も再び荒くなっていた。
「お前さんにしちゃ随分荒っぽい誘い方だな?」
「あんたにムード作っても仕方ないだろ。」
それもそうか、とカティスは笑った。
その首に腕を伸ばしながらオスカーは思う。
自分だけには辛い顔も、悲しい顔も見せて欲しい。
そんな言葉を言う気はない。
恋人と呼べる関係にあろうと、この男のポリシーに口を出す気はないからだ。
だから代わりに、オスカーは言った。
「あんたの笑顔、好きだぜ、カティス。」
たとえそれが、涙を隠した笑顔であったとしても。
Searching for...
オスカーは無人と化した街を走り回っていた。
一軒一軒扉を開け、中を確認し、その度に落胆の溜息が口を突く。
そして、落胆の溜息を吐いている自分に気づいて決まり悪そうに笑うのだ。
「何をガッカリしてるんだ、俺は…。いない方がいいじゃないか」
軽く首を振り、また走り出す。
無人と化したはずの、アルカディアを。
エレミアの育成は、間に合わなかった。
誰の所為でもない。アンジェリークは最後まで懸命に努力したし、勿論、それは守護聖や協力者たちにも言えることだった。
ただ、ラ・ガの力は予想以上に強く。
そしてエルダの力は予測以上に衰弱が激しかった。
それだけのことだ。
守護聖が、女王のサクリアを触媒とせずとも自らのサクリアの持つ力を充分に発揮できていればまた、状況も変わっていただろうが、それは考えても仕方のないこと。
消滅が免れないとわかった時点で、直ちにアルカディアの住民たちの移住計画が練られた。女王の力と王立研究院の技術によって一時的に次元回廊を創りだし、それにより全住民を金色の髪の女王の宇宙へと移動させる。言葉にすれば簡単だが、女王の力が次元の狭間の収縮とラ・ガの力の抑制に割かれ、新宇宙の女王であるアンジェリークの力もギリギリまでエレミアの育成に注がれている状態では、予行など出来るわけもなく。それ故に、計画を実行する為に綿密な打ち合わせを繰り返し、最終的に計画はアルカディアの消滅が翌日に迫るという日に実行に移された。
まず、王立研究院の者や協力者たち、守護聖の一部の者が各々先導となり、アルカディアの民を少人数のグループに分けて金色の髪の女王の宇宙へと移動させた後、それを見届けてアンジェリークとレイチェルを新宇宙へと帰す。最後に金髪の女王アンジェリークとロザリア、ジュリアス、クラヴィス、そして護衛の意味も兼ねて残ったオスカーが彼らの宇宙へと戻る。そういう予定だった。
そしてその予定が狂ったのは、最後の瞬間。
いない…。
リュミエールによって先導されたアルカディアの民の最後のグループが次元回廊の光の中に消えた時、オスカーの心に焦りが生まれた。
いないのだ。脱出を果たしたアルカディアの民の中に、いなくてはならないはずの男が。
事前にアルカディアの住民のリストをチェックした時、その中にその男の名前がないことには何の疑問も抱かなかった。転生を果たした男が一切の記憶を失っていることを承知していたからだ。以前の名とは違ってしまっていても不思議はない。
だが、やはりいないのだ。
彼が。アリオスが。
アリオスがアルカディアにいると知ったのは、偶然だった。
土の曜日、何気なく足を向けた約束の地にアリオスがいた。初めは驚愕し、次いでアリオスの記憶が失われていることを知り密かに安堵した。
苦く、切ない、それでいて背徳故の甘さを持った記憶は、自分だけの胸に納めておけばいい。オスカーはそう思っていたから。
あの旅の途中。
アリオスが皇帝だと気づきながら、それでもその手を離せずに関係を持ち続けた。
互いに、二度と触れてはいけないと思いながら、けれど触れずにいられなかった温もり。
その記憶は、転生を果たしたアリオスが持っているべきものではない。そう思った。
以前のように黒い力に操られているわけではないと、すぐにわかったから。あの一件の所為で転生の過程が歪められたことは確かだが、今なら、全くの別人としての新たな生き方ができるはず。
だからこそ、記憶のないアリオスに、オスカーは初めて出逢ったかのような態度を取った。
レヴィアスという本来の名は勿論、アリオスという名も教えなかった。必要以上の会話も避けた。自分の名も、名乗らなかった。
忘れているのなら、忘れたままの方がいい。思い出しても、必ず別れるときが来るのだから。この地を去る前に、最後にちらっと姿を確認できれば、それでいい。
どこか切なく疼く胸の痛みを抱えたまま、オスカーはそう言い聞かせてきたのだ。
この、アルカディア最後の日まで。
だが、移住するはずのアルカディアの民の中にアリオスはいなかった。
ならば、アリオスはまだこの土地にいるということになる。明日、消滅するとわかっているこの土地に。
女王たちと共に次元回廊へと足を踏み入れながら、オスカーは背筋に冷たい汗が流れていくのを自覚した。
しかし、明日消え去るとわかっている土地にわざわざ残る物好きもいないはずだ。きっと、自分が人々の群れの中に見落としたのだろう。
頭を過る嫌な考えを打ち消すようにオスカーは思う。
だが。
だが、もしもアリオスが、この土地の運命を知らずにいたとしたら…?
この土地の人々とあまり交流もなかったようだったし、情報が耳に入り易い、人の多い所へもほとんど行っていないようだった。もし、人の多い所へ出入りしていれば、オスカーの他にも誰かがアリオスを見つけ報告があって然るべきだろう。
それに、やはり次元回廊を通る人々の中にアリオスはいなかった。最後に姿を確認したいと、そう思っていたオスカーが、さり気無く、けれど全神経を集中させてその姿を捜したにも関わらず、見つけられなかったのだ。万が一、オスカーが見逃していたとしても、あの目立つ男が誰の目にも留まらないなどということがあるはずがない。
やはり、アリオスはアルカディアにいる。
そう思った時、オスカーの躰は考えるより先に動いていた。
「オスカー!?」
光の中、閉じようとする次元回廊の扉からひらりと飛び出たオスカーに、ジュリアスが慌てて呼び掛ける。
「申し訳ありません。…でも、俺はまだ行けない」
驚きに目を見開く女王たちに向かって頭を下げる。
「オスカーッ!!」
悲鳴にも似た響きでオスカーを呼ぶ女王の姿が強い光に薄れていく。
閉じかかった次元回廊を急に開くなど、女王の力を以てしても無理な話だった。
突然の出来事に為す術のないまま。
炎の守護聖をアルカディアに残し、次元回廊は光の中に消えた。
「守護聖失格、だな、これじゃ…」
それを見届けてオスカーは自嘲気味に呟く。
自分でも、こんな衝動的な行動を取るだなんて思ってもみなかった。
けれど、仕方がない。抑制しようとする理性を撥ね退けて、心が、躰が、訴えているのだから。
あの男に。アリオスに逢いたい、と。
「後悔するのは趣味じゃないからな」
感情の赴くまま、オスカーはアルカディアの街に向けて走り出した。
強い圧迫感を感じるのは、気のせいではないのだろう。
次元の狭間の収縮を抑えていた女王が去り、収縮のスピードは速まっている。このままいけば、明日を待たずしてアルカディアは消滅するに違いない。
「ったく、何処行ったって言うんだ、あいつは…!」
走り回って乱れた呼吸を整えながら、オスカーは苛々と唇を噛んだ。
街だけでなく、日向の丘や約束の地、エレミアまで捜して回ったにも関わらず、そこに人影を見つけることはできなかった。
「もう、いないのか…?」
もしかしたら、何らかの方法でアリオスはアルカディアを脱出したのかも知れない。
「それならいい…」
どこかで生きていてくれるのなら。
新しい生を全うしてくれるのなら、それでいいと思った。
「お前は、充分苦しんだんだからな…」
記憶を持たないのは、不安だろうとは思うけれど。
それでも、レヴィアスでも、アリオスでもない、全くの別人として新たな道を歩くには丁度いい。
そして。
あの旅の間、二人だけが持っていた秘めやかな記憶は。
自分一人で抱えていく。
「いない相手を捜し回って死ぬ俺は、歴代守護聖一の大馬鹿者だな」
オスカーは殊更軽い口調でそう呟いた。
恐らく、聖地からの助けは間に合わないだろうと思う。
次元の狭間から聖地に向けて次元回廊を開くことはできても、その逆は難しいはずだ。回廊を開く先の座標が不安定で容易には特定できないのだから。
「ここが最後か」
足を止めたオスカーの目の前には、銀の大樹があった。
ざっと辺りを見回してみるが、人影はない。
オスカーはその根元に腰を下ろすと、片膝を抱えるような体勢で俯いた。
「さすがに、ちょっと疲れた…」
呟きながら目を閉じる。うっかりすると眠りの淵に引き摺り込まれそうだ。
それも、いいかもしれない。眠っている間に宇宙の藻屑となるのも。
そんなことを思ううちに、もしかしたら、本当に眠っていたのかもしれない。
気配に聡いはずのオスカーが、近づいてくる気配にも、草を踏みしめる足音にさえ、暫く気づかなかったのだから。
「何してるんだ、アンタ」
その声に、オスカーの全神経は急激に覚醒した。反射的に顔を上げれば、じっとこちらを見下ろす色違いの眸。
捜していた。見つからないことに落胆しながら、反面見つからないことを祈っていたその相手が、アリオスが、そこに立っていた。
「確か…前に一度会ったよな」
その科白で、アリオスの記憶が失われたままであることが窺い知れる。何を言えばいいのか咄嗟に判断がつきかねて、オスカーはただ目の前の男を見つめた。
「一体どうなってんだ、ここは。住民は皆消えちまうし、異常な圧迫感はあるし。…アンタ、何か知って…、っ?」
尋ねようとした言葉が不自然に途切れた。
オスカーが、くっくっと小さく笑い始めたからだ。
「なんだよ、イカレちまったか?」
呆れたような、困ったような声には答えず、オスカーは片手で自らの顔を覆った。
自分は、何をしようとしていたのだろう。
逢いたいと。衝動に突き動かされるまま、守護聖としての責任を棄て、生命の危険すら顧みずに動いて。
けれど、自分にはこの男に掛ける言葉も、してやれることも、何一つないのだ。
アリオス、と名を呼ぶことさえできない。
ただ、消えゆく大陸と運命を共にするだけ。
「これじゃ…態のいい無理心中だ…」
小さく呟いた言葉は、記憶を失くした男の耳にも届いたようだった。
「…おい」
「なんだ?」
苦い笑みを浮かべたままオスカーが見返せば、男は真剣な表情でオスカーを見つめている。
「アンタ…。オレを知ってるな…?」
金と翠の眸が、相手のどんな些細な反応も見逃すまいとしていた。
「前に一度会ったと、さっきお前自身が言ってたじゃないか」
「そうじゃない」
さり気無く視線を外しながら返された、はぐらかすようなオスカーの答えに、男の眸が僅かに眇められる。
失くした記憶。曖昧な景色。自分の名前すら思い出せない。けれど。
瞼の奥に鮮烈に残っている、色彩がある。
「その髪の色も、眼の色も。綺麗だと…アンタに似合ってると、昔、オレは確かに思った」
「…っ!」
オスカーの眼が見開かれる。
「この前会った時も…。何故か懐かしい気がした」
男は跪き、オスカーと視線を合わせた。
「失くした記憶の中で、オレはオマエを知ってる。オマエもオレを知ってるはずだ。答えろよ。…オレは、誰なんだ?」
拒否も、偽りも許さない強い視線。
その視線に晒されて、オスカーの心の内を駆け巡るのは、葛藤と、そしてそれを上回る歓喜だった。
「言えよ、オレの名前を」
自分の内を巡る歓びに、オスカーは自分が今までどれだけ自分自身に我慢を強いていたのかを知った。
本当は、約束の地で姿を見たその瞬間から、呼びたくてたまらなかったのに。
「…アリ、オス」
丁寧に、甘ささえ乗せて紡がれたその音に、アリオスの中の何かが反応する。
「アリオス…。それが、オレの名前…。オレの…」
憶えている。頭よりも躰が。
自分の名を呼ぶ、この声を。この声で紡がれただけで、信じられない程甘く響いた自分の名前。
そして、まるで封印が解かれたように、溢れ出す記憶。
洪水のように、それは自分の中の空虚を満たしていく。幸せなものよりも、悲しく、苦しいもののほうが多いけれど。
それでも、決して手放したくない記憶。
取り戻した記憶が引き連れてきた感情の命じるままに、アリオスはじっと様子を窺っているオスカーを抱き締めた。
一瞬驚いたように身じろいだオスカーもまた、アリオスの躰に腕をまわす。
永らく欠けていたものがようやく戻ったような、そんな満ち足りた気持ちのままに、そうして暫く互いの体温を感じながら、時間が過ぎていった。
どれくらいそうしていただろうか。
突然、ドン、と大きな力が大地を震わせる。
「…そういや、なんなんだ、コレは」
名残惜しそうに躰を離してアリオスが言った。
状況を全く知らないアリオスに、オスカーは手短にアルカディアの状態を説明すると最後にぽつりと口にする。
「もうすぐ、次元の狭間が消滅する。この土地も、…この土地にいる、俺たちも」
ようやく、アリオス、と呼べるようになったのに。
それとも、最後にもう一度、抱き締められただけでも、幸せなのだと思うべきなのか。
「待てよ。アンタにしちゃ諦め良すぎだぜ?」
「アリオス?」
オスカーが訝しげに見遣ると、アリオスは何度か手を握ったり開いたりを繰り返して、何かを確かめるように頷いた。
「魔導が、使える」
「なんだって…!?」
取り戻した記憶が鍵となったのか、アリオスの躰には魔導の力までもが蘇っていた。
確かに、魔導の力であれば次元移動も可能だろう。ましてアリオスは元々が強大な魔導の力の持ち主なのだから。
「確かにお前のその力なら次元移動できるだろうが・・・。急激に収縮しているここじゃ、さすがに、何か突破口がないと無理だ」
そして、その突破口が見つからない。
オスカーの言葉に、アリオスが「ちっ」と舌打ちした時だった。
二人の背後にそびえたつ銀の大樹が光り輝いた。
「…なっ!?」
予測外の出来事に二人が振り向いたその先に、光り輝く銀の大樹に重なるように見える人影。
「…エルダ」
オスカーが呆然とその名を口にした。
「誰だ、それは」
状況を呑みこめないアリオスの問いに、オスカーが簡潔に説明する。彼こそが女王や守護聖、協力者たちを呼び寄せた、この地に封印されし者だ、と。
エルダは口を動かしながら二人を指差し、次いで中空を指差した。
「おい、コイツは何言ってるんだ?」
「エルダの声はお嬢ちゃんにしか聴こえないんだ。…?…お嬢ちゃん……もしかして?」
「なんだよ?」
何か思いついたようなオスカーの声に、アリオスが先を促す。
エルダの声を聴くことができたのは、新宇宙の女王、アンジェリークのみ。そして、今朝顔を会わせた時に彼女が言っていた言葉を思い出す。
「もしかして、本当に、時空移動するのか…?」
アンジェリークはエルダの夢を見たと言っていた。育成は間に合わなかったとはいえ、だいぶ力を蓄えることができた。その力を使って少し先の未来へとアルカディアを移動させ、そこで完全に封印を解くとエルダは言った、と。
「コイツがこのアルカディアを時空移動させるついでに、オレたちが次元移動する突破口を開いてくれるって言うのか…?」
アリオスの問い掛けに、エルダは静かに頷いた。
「エルダ、お前の力、本当にそこまでもつのか…?」
時空移動は多大な負担となるはず。そこへ更に、二人だけを別に移動させる道を開くとなれば、その負担は計り知れない。封印が完全には解けていない状態のエルダに果たしてそれが可能なのだろうか。
懸念を示したオスカーを、エルダは静かに指差し、次いで自分を指差した。
「俺がお前に?…そうか、サクリアか!」
強さを司る炎のサクリアでエルダの力を補填してやることで、負荷を軽くしようというのだろう。
この突破口さえ出来れば、後は魔導の力で還るべき宇宙へと戻ることができるはず。
未来へと繋がる道は、できた。
オスカーは、隣りに立つ男を見て言った。
「…戻ろう」
アリオスがニヤリと笑って返す。
「戻ったら、責められるかもしれないぜ?守護聖さんは」
「……いいさ」
逢いたかったのだ。名を呼びたかった。そして、抱き締め、抱き締められたかった。
それが叶った今、どんな叱責も批難も甘んじて受ける。
「ま、オマエの周りのヤツらが何を言おうと、いざとなればオマエを攫ってでも、二度と離してやらねぇよ」
まるで、オスカーの心を見透かしたように。
力強く告げられた言葉は、オスカーの心を暖かく満たす。
「…言ってろ」
照れ隠しのような科白を投げつけて。
オスカーはエルダにサクリアを送るべく、精神を集中する為に目を閉じた。
アルカディアが光の中に包まれた後。
次元の狭間は虚無へと還った。
アイノコトバ
誰かを腕に抱いて誕生日を迎えたことなら何度もあったが、誰かの腕に抱かれて誕生日を迎えたのは初めてだった。
白檀の香りが漂う闇の褥。
思いの外力強い腕が肩に回され、オスカーはクラヴィスの胸に頭を預けるようにしてぼんやりと過去のこの日を思い返す。
去年までは柔らかな女性の躰を抱きとめていたはずが、今年はこうして抱きとめられている事実が、なんともいえない苦笑いを浮かべさせた。
「何を笑っている…」
ふいにかけられた声にオスカーは身を起こしてクラヴィスの顔を見た。
「起きてらしたんですか。眠ってるものだと思ってましたよ。」
闇に溶けて黒く見える紫紺の瞳が、思いの外冴えた光を放っているのに驚いてオスカーがじっと見つめれば、クラヴィスは手を伸ばし、夜目に鮮やかな緋色の髪を梳いた。ひんやりと体温の低い指先が繰り返す動作に気持ち良さそうに目を眇める様は、さながら猫科の動物のようで。
「猫でも飼い慣らしているような気分だ」
素直に口に出せば赤毛の猫は嫣然と微笑い、顔を近づけて飼い主の唇をぺロッと舐めた。
「猫なんて、可愛らしいものに例えられるとは心外ですね。」
顔を寄せたまま紡がれた囁きは、背筋に震えが走るほど抗い難い艶を含んでいて。
誘われるままに深く口づける。
快楽に従順なオスカーはクラヴィスの手が与える刺激を貪欲に受け取り、二人の間に熱を生み出す。
まるで冷めることを知らないかのようにそれは高まってゆく。
求められるまま、求めるまま、濃密な空気が辺りを支配した。
「ァ…、ッ」
オスカーは自ら腰を落としてクラヴィスの欲望を身の内に飲み込んでゆく。クラヴィスの手が熱く滾る自身を煽り、更なる快感を得ようと淫らに腰を揺らす。
「ク、ラヴィ…、ぁあっ」
闇の褥に、緋色の髪が舞った。
「誕生日プレゼント、下さいますか?」
未だ色濃く艶の漂う空気の中、オスカーが悪戯でも仕掛けるかのような声で言った。
「無理難題でなければ、な。」
対するクラヴィスの声も悪戯に応対する程度の軽さだ。
「では、プレゼントとして、約束して下さい」
「…?」
意外な言葉に軽く眉を上げ続きを促せば、オスカーは酷く無邪気な笑顔を浮かべた。
「『愛してる』とか『好きだ』とか。そんなセリフは絶対に吐かないと約束して下さい。」
普通は逆な気もするが、元々愛の言葉などとはあまり縁のないクラヴィスだ。あっさりと頷いてみせる。
「いいだろう」
「ありがとうございます」
言葉など、いらない。ただ黙って受け止めてくれる腕があればいい。言葉で縛り付けなくとも、その眼差し一つでオスカーはクラヴィスから離れられないのだ。クラヴィスの口から陳腐な愛の言葉など聴きたくなかった。
「代わりに…」
「??」
今度はオスカーが首を傾げる番だった。
「私の心をおまえにやろう」
まるで、何か土産でも渡すかのような気軽さで口にされたセリフは、その軽さ故にクラヴィスらしい気がして。
オスカーはくすくすと肩を揺らして笑った。
「食えない人だな」
陳腐な愛の言葉など口にしないと約束した直後にこんなセリフを吐いてみせる。
「別に愛の言葉ではなかろう?」
「そうですね。そういうことにしておきましょう」
オスカーは笑いを収めて至近距離でクラヴィスを見つめた。
「では、あなたの心、確かに俺が頂きましたよ」
その言葉が響き終わらないうちに、今宵何度目かわからない口づけが交わされた。