記事一覧

A Day In The Life -21th.-




 昼前からオスカーはずっとキッチンに立っていた。
グツグツと煮える、大きな牛肉の塊と数種類の野菜が入った鍋を見つめ、丁寧にアクを取る。時折、鍋を火から降ろすとスープを漉し、再び肉と野菜を入れて煮込み始める。材料の贅沢な使い方といい、手間のかけ方といい、レストランでメニューとして出しても充分通用するだろう。
 手間のかかる料理を、と選んだのだった。
ただひたすら鍋を見つめ、僅かなアクも残さず掬い、火加減に細心の注意を払う。
こうしている間は、余計なことを考えずに済んだ。
 気を抜けば、思い出してしまうから。
「アリオス」と名を口にした時の、アンジェリークの幸せそうな微笑。
「護ってやりたくなる」と言った時の、無意識に浮かべたアリオスの愛しげな笑み。
 アンジェリークはアリオスに恋をしている。きっと、彼女自身もその想いを自覚しているだろう。
 ではアリオスは・・・?
自覚し始めているはずだ。護ってやりたい、そう思う気持ちが何なのか。
 あの男は、本当に鈍いから。
きっと、問えば「妹みたいだ」とでも答えるのだろう。
 自分自身に関することには、本当に鈍い男だから。

 オスカーがようやくコンロの火を完全に止めたのは、既に七時近くになってからだった。
すぐにも崩れそうなほど柔らかくなった肉と野菜、丹念にアクを取り何度も漉して出来上がった澄んだスープをスープボウルに盛り付けてダイニングテーブルに並べると、アリオスがそれを見て言った。
「なんだ、それ」
「ポトフ」
「これを、昼前からずっと作ってたわけか?」
「手間かけた方が美味いんだよ」
「オマエ、ほんとによく凝るよな・・・」
「食いたくないなら、構わんぞ」
「んなこと言ってねぇだろーが。・・・あ。スープだもんな、余ってるよな?」
何かを思いついたようにアリオスが問うので、キッチンの鍋を指差して頷いた。
「配り歩くほどはないけどな」
「何処に配るって言うんだよ。・・・よし」
それだけ言うとアリオスはふいっと部屋を出て行く。それを眺めながら、オスカーは溜息をついた。
 スープ、冷めるぞ。
そんなことを思っていると、すぐにアリオスは帰ってきた。一人の少女を連れて。
「コイツ、今一人なんだとさ。レイチェルが研究室に呼び出されて」
「あの・・・」
アンジェリークが覗うようにこちらを見た。それに微笑を返してやる。どんな時であろうと、心がどんなに冷えていようと、笑みを浮かべることができる自分の習癖が有り難い反面、ひどく恨めしいと思った。
「ようこそ、お嬢ちゃん。お口に合うかわからないが、遠慮せずに食べてくれ」
空いた椅子を引いてアンジェリークを座らせるとカトラリーを用意し、もう一皿スープを盛る。
「よく言うぜ・・。普段は自信たっぷりに『美味いだろ』としか言わねぇ癖して」
「すごい・・。これ、オスカーさんが作ったんですか?」
「手間隙かけた自信作だ」
 どうぞ召し上がれ。
微笑んで見せながら、自分が酷く滑稽な芝居を演じていると思った。
 これで無意識だって言うんだから、お前はほんとに性質の悪い男だな。
「美味しい・・」と笑うアンジェリークに、「コイツ、異様に凝るからな」と返すアリオスを見ながら、オスカーは心の中で呟く。
 自ら此処まで招き入れるほど、アンジェリークはアリオスの心に入ってきているのだ。
この部屋は、二人の領域だったはずなのに。その中にアンジェリークを招き入れたという意味を、この男は意識していないのだろう。
 ほんの一週間前にセイランに指摘されたばかりだというのに、この男は自分のテリトリー意識を認めていないに違いない。この部屋に他人を入れることを不快に感じる、そんな自分を認めていれば、こんな無防備に彼女を此処へ連れてきたりはしなかったはずだ。
 お前は、無意識だからいいだろうさ。
澄んだスープを口に運びながらオスカーは思う。
 何故だろう。あれ程手間をかけて作ったポトフの味がわからない。まるで、幽体離脱でもして、離れたところからこの食卓の風景を見ているようだ。
 アリオスは、無意識の行動だからいい。けれど、アリオスのその、無意識の行動に隠された心の動きがわかってしまうオスカーはどうすればいいというのか。
 勘弁してくれよ、慣れてないんだぞ。
自分自身に向かって冗談めかして呟いてみる。
 恋愛経験は豊富だと自他ともに認めていた。けれど、こんなケースは初めてだ。
相手を突き放すことも、自分から去ることも出来ずに、ただ相手の行動を黙って受け容れるなど。
 いつだって、女性と付き合う時は真摯につきあったけれど、相手が本当に恋に溺れる前に終わらせた。相手を愛しいと思ったことに偽りはなかったが、未練を残すほど深入りはしなかった。それなのに。
 こうやって、引導を渡されるのを待っているのか。
こんなにも息苦しい日々を送りながら。
 それでも、自分から離れていけないなんて、バカだな。
カップボードの磨かれたガラスに映る自分の姿に、オスカーは声に出さずに語り掛けた。



01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 31.5


A Day In The Life -20th.-




 その日、オスカーがアパルトメントに程近いソーホースクエアで彼女と出会ったのは、ただの偶然だった。
ベリックストリートで食料を買い込み、アパルトメントに帰る途中だった。ソーホースクエアはアパルトメントのすぐ前と言ってもいいほどの近さで、同じアパルトメントで生活している二人が会うのも、自然といえば自然だ。
「・・あ、こんにちは」
アンジェリークはオスカーに気づくと、はにかむように微笑んでぺこりと会釈した。
「お嬢ちゃん、どうしたんだ?レイチェルは?」
「エルンストさんが帰ってこないから、着替えを届けに。もうすぐ帰ってくると思うんですけど、一人でお部屋にいても寂しいなって。ちょっと外に出てきたんです」
 買い物ですか?と尋ねられ、そろそろ冷蔵庫の中が空っぽなんだ、と肩を竦めて見せる。
「お嬢ちゃんはロンドンは初めてなのか?」
「はい。だから毎日色んなところ見たり。昨日もアリオスにノッティンヒルまで連れて行ってもらいました」
 アリオス、と名を口にするときの、彼女のどこか幸せそうな微笑。大きな眸のきらきらとした輝き。彼女はアリオスに恋をしている、と一目でわかってしまう。
 なんて、幸せそうなのだろう、と他人事のようにオスカーは思った。
「それは、よかったな。君みたいに可愛らしいお嬢ちゃんの案内役ならあいつも本望だろうな」
 自分でも不思議なくらい、すらすらと言葉がでてくることが無性に可笑しかった。
「そんなこと・・・あ、レイチェル」
頬を赤らめてはにかむアンジェリークが、通りの向こうからマウンテンバイクに乗ってくる親友の姿に気づき、手を振った。
「それじゃあ、またな、お嬢ちゃん」
「あ、はい。」
ぽん、とアンジェリークの肩を叩き、オスカーはアパルトメントへと足を向けた。

 夕食を摂った後の静かな時間。
シャワールームから出てきたオスカーは、ソファで雑誌を捲っているアリオスに声をかけた。
「空いたぜ」
「ああ・・」
 二、三日前の落ち着かない様子と打って変わって、アリオスの様子は以前と変わらないように見える。
「今日な」
濡れた髪を手荒く拭きながら、オスカーは何気なく言った。
「ん?」
雑誌から視線を逸らさずに、アリオスが先を促す。
「下で、茶色の髪のお嬢ちゃんに会った」
「・・ふぅん。」
視線は上げられない。けれど、ページを捲る指が一瞬動きを止めた。それで充分だった。
「可愛らしいよな。お前にいろいろ連れて行って貰ったって喜んでたぜ?」
「行きてぇって、アイツが言ったんだよ」
「こーんな、無愛想な案内役のどこがいいんだか。俺に言ってくれれば、女の子の好きそうな場所、もっと案内してやるのにな」
「悪かったな、無愛想で」
 アリオスが憮然と言う。オスカーがその様子に軽く笑った。
「まあ、お前がそんなことしてやるだけでも奇跡だしな。あんな可愛いお嬢ちゃんと一緒だと楽しいんだろ」
冗談のような口調の、実は真剣な問いかけだと、アリオスは気づいただろうか。
「バーカ、オマエと一緒にするな」
「バカとは失礼なヤツだな。だいたい、一緒にするなってお前、俺を何だと思ってるんだ??」
 どうして、こんなに軽く話せるのだろう。
まるで癖になっているようだ。気づけば、アリオスを直球で問い詰められなくなっている自分がいる。この男の為に、逃げ道を作ってやるのが当たり前になっている。
 アリオスの為に逃げ道を作ってやればやるほど、オスカーの退路は断たれていくのに。
まるで、断崖に向かって歩いているようでぞっとしない。
「女といれば無条件に楽しそうなのはオマエだろ」
「あのなあ・・」
 なあ、アリオス。お前、俺の方を見もしないんだな。
機械的に手を動かして髪を拭きながら、オスカーは心の中でそう語りかける。
 久しぶりに、ぎこちなさのない日常の会話が戻ってきたと、アリオスはそう思っているのかもしれない。だからこそ、雑誌から目も上げずに、テンポよく言葉を返すのだろう。
「ったく。お嬢ちゃんには、こんな可愛げの欠片もない態度取ってないだろうな?」
「アイツはオマエほど可愛げのないこと言わないからな。それに」
「それに?まだ何かあるのか」
「オマエと違って、素直に言葉をそのまま受け取るからな。下手すりゃ泣かれちまう」
 アリオスの口許に、困ったような、それでいて愛しげな笑みが一瞬浮かんだのを、オスカーは見逃さなかった。
「なんだか・・・、護ってやりたくなるんだよ、アイツ見てると」
 恋人って、そういうものではありません?相手を護って、護られて。
昨日のロザリアの言葉が蘇る。
「そりゃ悪かったな。どーせ素直に言葉を受け取らないからな、俺は」
「どう考えたって、オマエを護りたい、なんて思えねぇもんな」
「護られるほどの可愛げはないさ。当たり前だろ」
 まるで条件反射のように言葉を紡ぎながら、すべてが他人事のように遠く感じる。髪を拭く手も、言葉を発する口も、まるで自分の躰ではないようだ。
 俺は、一体お前にとってなんだったんだろうな。
機械のように会話を交わしながら、オスカーはぼんやりとそんなことを考えた。
 二年も生活を共にしていて、そんな基本的なことを何も知らなかったのだと。
今更気づいても、もう、遅いのかもしれない―――――。



01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 31.5


A Day In The Life -19th.-




 オスカーはその日、一人でふらりと外を歩いていた。
部屋で二人で過ごす時間が、つらかったからだ。どこかセリフでも読んでいるかのような会話も、重い沈黙も。
 二人で部屋で時間を過ごして、言葉を交わさないことなどよくあった。互いに雑誌を読んでいたり、思い思いのことをして過ごしていたのだ。それでも、そこにあったのは沈黙ではなく静寂だった。ほんの数日前までは、気づけば時間は流れていたが、今は時計の針が一秒一秒刻むのをじっと息を殺して待っているような、そんな息苦しさがあった。
 シャフツベリーアベニューの端にあるフルーズという雑貨屋を覗いて出てくると、オスカーは通りの向こうから歩いてくる人物に気づいた。向こうもこちらに気づいたのか足を止める。
「あら、何でも屋さんではありません?」
「これはこれは、ルヴァの大事なお嬢ちゃん。ご機嫌はどうかな?」
「おかげさまで、大変よろしくてよ」
ルヴァの家で一度会った、ロザリア・デ・カタルヘナだった。日傘を差して歩く姿が旧伯爵家の令嬢らしい雰囲気を湛えている。
「今日はお一人なのね」
「男が二人でずっと行動しているほうが好きかい?」
「ふふ、それもそうですわね」
「さて。折角出会ったんだ。俺としては、美しいお嬢ちゃんにコーヒーの一杯でも奢らせて頂きたいんだが。コーヒーはお嫌いかな?」
オスカーがそう言うと、ロザリアはいいえ、と首を振った。
「では、ご一緒しましょう」
恭しく一礼するとオスカーは歩き出した。

 出会った場所から一〇〇メートルほどの所にあるモンマス・コーヒー・ハウスはテーブルが五つしかないこじんまりとした店だ。店の二階で挽いているコーヒーは、様々な種類が揃っている。好きなコーヒーを選び、それを自家製の小さなチョコレートと一緒に楽しむのがこの店のスタイルだった。
 コーヒーのほろ苦い香りが鼻腔を擽る。
「おっちょこちょいなお嬢ちゃんは元気かい?」
「ええ。すっかり元気ですわ。ピアスの一件はほんとに呆れましたけど」
 今はバーリントン邸に戻って相変わらず淑女になりきれない生活を送っているらしい。
「ジュリアス様も苦労なさいますわ」
 まあ、渋い顔をなさっていてもあの方にはそれが幸せなんですけれど。
コーヒーカップをソーサーに戻しながにロザリアが言うと、オスカーが苦笑した。
「バーリントン子爵と元々知り合いだったのは君のほうだった、と聞いたが」
「そうですわ。ジュリアス様とは小さな頃からお知り合いです。アンジェリークは三年前にジュリアス様が私の家にいらした時に紹介したんですわ」
 春先のガーデンパーティーで、おそらくは運命的とも言える出逢いの場に、ロザリアは立ち会った。親友が、一目で恋に落ちたことは彼女の目には明らかだった。
「だからそれからは、私がロンドンへ行く時は必ずあの子を一緒に連れていきますの。ジュリアス様がパリへいらっしゃる時は、必ず家に呼びますし」
積極的に親友の恋の成就に一役買ってやった、ということなのだろう。
「だが・・・。失礼かもしれないが、元々は君が子爵の婚約者になる予定だったんじゃないのかな」
 家柄の点で言っても、ロザリアならば申し分ない。バーリントン家のような大貴族が、極々一般の家庭の娘を迎え入れると決まるまでは紆余曲折があったに違いない。
「ええ、仰る通り。でも、私は、ルヴァ様に出逢ってしまいましたから。すべては丸く収まっておりますの」
 子爵は普通の少女を愛し、婚約者になるはずだった旧伯爵家の令嬢は優秀なんだか違うのか、今一つ判別のつかない学者を好きになった。当事者同士がタッグを組んで身分違いの二大ロマンスを成就させたのだろう。
「子爵よりルヴァ、ねぇ・・」
コーヒーカップに口をつけながら、オスカーは考え込むように呟いた。ルヴァの人間的な魅力はオスカーも充分承知しているが、あの子爵と並べば、普通はどうしても子爵の方に目が行くだろう。
「ジュリアス様のことは尊敬しておりますわ。小さな頃からあの方は私の目標でしたし、これからもあの方は私の道標です。でも、護りたい、と思うのはルヴァ様ですわ」
「護りたい・・・?」
「恋人って、そういうものではありません?相手を護って、護られて」
 ロザリアの言葉が、響く。
自分はどうだろう、とオスカーは思った。
 アリオスのことを、護ってやりたいと、思っているのだろうか。
意識したことなどなかった。自分たちは恋人、というよりも相棒、という言葉の方がしっくりくると思っていたが、そこに紛うことなき愛情が存在するのも確かだ。安心して背中を預けられるような、そんな相手だと思っていた。相手の強さを認めてもいる。けれど、時折見せるその不器用な面を、護ってやりたいと、そう思ったことはなかったか。
 夢に魘される男を、そ知らぬ顔で起こしてやっていたのも。
 今も、明らかに茶色の髪の少女に惹かれていることに気づきながら、何も言わずに男の感情の整理がつくのを待っていてやっているのも。
すべては、アリオスの不器用で繊細な面を傷つけたくないと、護りたいと、感じていたからではなかったのか。
「ルヴァ様に伺いましたけど、貴方は恋愛のエキスパート、なんでしょう?こんな話は今更でしたわね」
「いや。とても興味深い話だったよ、お嬢ちゃん」
「その、お嬢ちゃん、というのはできればやめて頂きたいですけれど・・」
 カフェを出ると、ロザリアは日傘を差し、コヴェントガーデンの方へと足を向けた。
五、六歩進んだところで振り返る。
「よくわかりませんけれど、元気をお出しになってね、何でも屋さん」
 どこか沈んだ空気を気づかれたらしい。
女性にそんな心配をされるようでは失格だな、と苦笑しながらオスカーは頷いた。



01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 31.5


A Day In The Life -18th.-




 「でね、夜になったら、ムーンライト・シンデレラが咲くんだよ。いい香りがするでしょう?」
昨日から降り続いた雨も昼前には上がり、多少湿度は高いものの、やがて見事な青空が顔を覗かせた。
 昼過ぎに部屋を訪ねてきたレイチェルに引っ張り出され、アリオスはアンジェリークと午後を過ごしている。
 「レイチェルが、勝手に呼びに行っちゃって・・・ごめんなさい」とアンジェリークは謝ったが、アリオスは「別にかまわねぇよ」の一言で済ませた。本当に嫌ならば、絶対に外に出てやるような男ではないのだ。自分の肩ほどの身長もない彼女の頭をくしゃくしゃと撫でてやると「子供じゃないんだから」とアンジェリークは拗ねたように言った。どちらかと言うと内気で大人しい彼女が、アリオスの前では快活な顔を見せることに、アリオスは自分でも気づかないうちに満足していた。
 その無意識の満足は、快活な顔のほうがより、記憶の中の面影に重なるからだ、ということを、当然アリオスは自覚していない。
 どこへ行くんだ、と尋ねたアリオスに、アンジェリークはハイドパークに程近い一軒の家に行くのだと告げた。
 昨年の夏休みに彼女の家にショートステイをした少年が住んでいるのだという。ユーロトンネルが出来てからは鉄道でもロンドン・パリ間はユーロスターで三時間、飛行機を使えばたった一時間という近さになったが、十代の彼らにとってはそう簡単に行き来できる距離でもない。飛行機でもユーロスターでも、チケット代は彼らには痛い出費となるからだ。
 そんなわけでアンジェリークは昨年の夏以来、時々電話やメールを遣り取りしていた少年の家を訪ねることにしたのだ。何度も話に聞いた、自慢の庭を見せてもらう約束なのだという。
 正直アリオスはガーデニングに何の興味も知識も持ち合わせていないが、渋ることなくアンジェリークにつきあってやることにした。「興味ねぇな」などと一言言おうものなら、彼女の表情が一瞬にして曇ってしまうことを知っていたからだった。
「この花って夜の間だけ咲くのよね?」
「そう。だからムーンライト・シンデレラ、って言うんだけどね。毎年花をつけるわけじゃないし、この花を見るのは結構大変だけど楽しみなんだ」
「今年は咲くのね。ホント、いい香りがする・・」
 ね、アリオス?と同意を求められてアリオスは短く頷いた。
「じゃ、今度はローズガーデンだよ」
 そう言って二人を案内するのは、マルセル・ナッシュ。ガーデニングが趣味の、アンジェリークの友人である。尤も、イギリスは国民総ガーデナーと言われる程ガーデニングが盛んな国であるから、ガーデニングが趣味の少年、というのも決して珍しいわけではなかった。
「いろんな薔薇があるけど・・。今は、イングリッシュローズを中心にローズガーデンを作ってるんだ」
白い蔓薔薇のアーチをくぐると、咲き乱れる花の香りがする。
「これも、薔薇なのか」
花々を一瞥してアリオスが言うと、マルセルがうん、と頷いた。
「お花屋さんで花束にしてもらうような薔薇とはイメージが違うから、詳しくない人は薔薇だってわからないんだけど。これも薔薇なんだよ。可愛いでしょ」
アンジェリークが一つ一つの薔薇を丁寧に見て回る。これはジェーン・オースチン、それはスイート・ジュリエット、とマルセルが隣りで薔薇の名前を教えていた。
 薔薇どころか、花というもの全般に疎いアリオスは、確かに言われなければこれが薔薇だなんて一生気づかなかったに違いない。
 薔薇というと、緋い、華やかな花を思い出す。たった一輪だけでも、自然とその場の中心に収まるような、凛として鮮やかな花。ときどき、ダイニングのテーブルにも一輪飾られていた。
 それはそのまま、赤毛の相棒のイメージと重なる。
「きっとアリオスさんが薔薇、って思ってるのは、剣弁咲きとか高芯咲きのハイブリッドティー系なんだと思うな」
 そんな専門用語を言われても何のことやらさっぱり、というアリオスに、ちょっと待ってて、と言ってマルセルが持ってきたのは、一本の深紅の薔薇。
「花束にしてあげたいって、頼まれてて、さっき切ったんだけど・・。こんなイメージでしょ?アリオスさんの思う薔薇って」
「綺麗・・」
アンジェリークもその薔薇を見て感嘆の声をあげた。
 中心が高く、外へ反るように広がる緋色のビロードのような花弁。まさしく、アリオスがイメージしていたのはこういう薔薇だった。
「これはね、日本作出の薔薇で"乾杯"って言うんだ。綺麗だよね」
言いながら、マルセルは持ってきたその一輪を、アンジェリークに渡す。
「アンジェにあげる」
「ありがとう」
パッと顔を輝かせて、アンジェリークが一輪の薔薇を大切そうに持った。
「綺麗な花だね?」
そう同意を求められ、アリオスは「そうだな・・・」と一言答えた。
 確かに美しい花だと思った。けれど、彼女が持つにはイメージが違いすぎる。彼女にはもっと可憐な、たとえばこのローズガーデンに咲いているような薔薇の方が似合う。こんな華麗な薔薇が似合うのは・・・。
 共に暮らしていながら、何故かひどく遠くなってしまったように感じる相手を、アリオスは思い出していた。

 昼間、レイチェルに夜はアデルフィシアターにミュージカルを見に行くからそれまでには帰って来いと念を押されていた為、時間を見計らってアパルトメントに帰ると、エントランスの前にレイチェルが待っていた。
楽しかった?などと、尋ねてくる親友に頷いた後、アンジェリークがアリオスを振り返る。
「つきあってくれて、ありがとう。楽しかった」
「大したことじゃねぇよ」
「また、つきあってもらってもいい?」
「ああ」
ポンポン、と軽く頭を叩いてやると、アンジェリークが嬉しそうに笑った。
「それじゃあ、またね、アリオス」
「気をつけてけよ」
うん、と幸せそうに頷いて、レイチェルと一緒に歩いていくアンジェリークと、それを自覚のないままひどく柔らかな眼差しで見送ってやるアリオス。
 その様子を、部屋の窓からそっとオスカーが見下ろしていた。



01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 31.5


A Day In The Life -17th.-




 一見変わりのない日常が過ぎているように見えた。
オスカーは相変わらず料理に凝るし、アリオスは相変わらずそれを呆れて眺めている。ベッドが早い者勝ちなのも変わらない。けれど、ほんの三日前と比べて、明らかに接触が減った。互いに何食わぬ顔で、気づいていない風を装って、たが痛いほど自覚している。
 どちらが変わったのかといえば、それは間違いなくアリオスの方だった。
昨日も夜帰ってきたあと、何か言いた気にオスカーを見ているのに、尋ねれば「いや・・・」と言葉を濁す。はっきり言えばいいものを・・・と思う反面、おそらくアリオス自身にも自分の感情を整理できていないのだろう、と容易に想像がつくのでオスカーも、「ならいいが・・・」と流してやった。
 エリスという女性がアリオスにとってどんな存在なのか、そして恐らくエリスによく似ているのだろうアンジェリーク・コレットという少女がアリオスの中でどういう存在になろうとしているのか、オスカーは知らない。アリオスが話そうとしなければ訊くこともないだろう。
 ただわかるのは、自分たちが砂の城のように不安定な場所に立っているということだけだ。いつ崩れるかも知れない、そんな均衡の上で生活している。
「お前、今日はいるんだろ?」
ソファに寝そべっているアリオスにそう声をかける。
「あぁ。・・・雨ン中出てくのも面倒だしな」
「じゃあ、キッチンにクラブハウスサンド作っておいてやったから、それ食えよな」
「出掛けんのか?」
いつもよりほんの少しだけ畏まった恰好に着替えたオスカーを見て、アリオスが上体を起こして尋ねた。
「ああ。メルに買い物に付き合ってくれって頼まれてな。・・・もうそろそろ来る頃なんだが」
そのセリフを待っていたかのようにブザーが響き渡る。
「随分珍しいヤツと買い物だな・・・」
そういうアリオスに、麻のジャケットに手を通したオスカーが笑った。
 メルとは、このアパルトメントから三分ほどのところに住んでいる少年である。確かトルコの方の出身だと以前聞いたような気もするが、正確なところはよく知らない。元々ソーホーは移民の多い街で、生粋のイギリス人の方が少ないのだ。斯く言う二人もイギリス出身ではない。
「スマイソンとザ・ペン・ショップに行きたいんだそうだ。あの子みたいな子供が一人で入るにはちょっと敷居が高いだろ」
そんなわけで俺が付き添いなのさ、と苦笑しながらオスカーは部屋を出て行った。

 リージェントストリート沿いにあるザ・ペン・ショップはその名が示す通りペンの専門店だ。ショーケースの中に一流メーカーの万年筆やボールペンが並ぶ。そこから三〇〇メートル程離れたニューボンドストリートにあるスマイソンは英国王室御用達の文具店で、高級感溢れる文具が並んでいる。どちらの店も、十代の少年が一人で入るのに躊躇するのは当然だった。
「サラお姉ちゃんと、パスハさんにプレゼントするの」
雨の中、綺麗に包んでもらったプレゼントが濡れないように両手でしっかり抱え込んだメルが嬉しそうに言った。
 サラとは、メルの従姉で雑誌の恋愛相談コーナーをいくつも抱えるロンドンの女性たちの恋愛の神様だ。「イイ女」を具現したような人物で、スーパーモデルに勝るとも劣らないスタイルを誇るエキゾチックな美人である。
 パスハはサラの夫で、ロンドン大学で教鞭をとっている。レイチェルの困った従兄、エルンストと同じチームで研究をしているらしい。冷静で理知的な容姿ながら、きっと、バスケットボールやバレーボールチームから誘いがひっきりなしだったであろうと容易に想像がつくほどの大男だ。なにせ、一九〇センチ弱の身長を誇るオスカーやアリオスが、パスハのことは見上げなければならないのだから。
この夫婦の間にはつい先日ファルウという名の男の子が生まれ、メルと合わせて四人で暮らしている。
 ちょうど夕飯時であるし、と帰り道にあるサイゴンという、ベトナム料理のレストランに入った。勿論オスカーの奢りである。買い物に付き合ってもらった上に奢ってもらうなんて、というメルに、大人の好意は素直に受けとっておくもんだぜ、とオスカーは笑った。
 本当は、アリオスと二人で過ごす時間をほんの少し先延ばしにしたいだけだ。感情の整理がつきかねているアリオスは、不器用さに輪がかかっていて、そ知らぬ顔をしてやるのも骨が折れる。いっそのこと、単刀直入に訊いてしまおうか、などと思えてくるから嫌なのだ。
「ファルウが生まれて、二人にはもっともっと仲良くして欲しいから、これはそのおまじない」
「おまじない?」
出てきた料理を頬張りながら、メルが説明してくれた。
 艶やかに黒く光る漆塗りの柄に、シリアルナンバーが刻印された万年筆はパスハに。
 上質な鞣革の箱に入った、品のいい金の箔押しで装飾されたレターセットはサラに。
二人にとって大切な事柄を伝える為に手紙を出す時にだけ、その万年筆とレターセットを使うこと、二つのアイテムを一緒にはしておかないこと、そしてそれぞれがしまう場所を秘密にすること、この三つを約束して。
 メール全盛の今も、本当に大切な事柄は自筆の手紙であることが基本だから。何か大切な手紙を書かねばならない時、二人が揃っていなくては手紙を書けないように。万年筆だけでも、レターセットだけでも手紙は書けない。二人がそれぞれ自分の万年筆とレターセットを持ち寄って初めて、手紙を出すことが叶うのだ。
「へぇ・・・。素敵なおまじないじゃないか」
そう褒めると、メルは嬉しそうに頷いた。
「でしょう。オスカーさんも、大好きな人に、万年筆かレターセット、プレゼントしてみるといいよ」
「大好きな人、ねぇ・・」
「いないの??ずっと一緒にいたいって思える人。オスカーさん、モテるのに・・」
 その言葉に、オスカーの心臓がきり、と痛んだ。
ほんの数日前だったら、冗談でアリオスに万年筆を贈ったかもしれない。アリオスもきっと、「くだらねぇ」と言いながらどこかにしまっておいたかもしれない。
 しかし、今それをしても、二人の間の空気がさらにぎこちなくなるだけだ。
未来を約束するはずのまじないが、未来を束縛する足枷にしか見えなくなるに違いない。そしてそれは、確実にアリオスの心を追い詰めるだろう。
「いるさ。・・・向こうはどう思ってるのか知らないけどな」
メルに沈黙を不審がられないうちに、肩を竦め、冗談めかして告げる。
「相手の人も、そう思ってるといいね・・」
しんみりと呟いたメルの言葉が、ひどく胸に響いた。



01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 31.5


A Day In The Life -16th.-




 風は少し強いが、天気はいい午後。
一階でリフトを降りたアリオスの足がぴたっと止まった。
 アリオスの視線の先、アパルトメントのエントランスで話しているのは、レイチェルと、茶色の髪の少女―――アンジェリークだ。
 視線が、アンジェリークに吸い寄せられる。逸らそうと思っても躰が自分の意思に従わない。何食わぬ顔で横を通り過ぎようと思っても、まるで縫い止められたように足が動かない。
 アイツとは別人だ。
頭の中で何度もそう唱えるが、重なった面影は離れない。今も自分の中に鮮明に残る面影が、実体を伴ったかのように。
「あ、アリオスさん!」
話し込んでいたレイチェルがこちらに気づいて手を振った。それが待っていたかのように、動かなかった足も自然に動き出す。
「よう。なにマジな顔して話しこんでんだ?」
声をかけずに通り過ぎるわけにもいかず、アリオスは二人の前で立ち止まった。
「ね、レイチェル。気にしなくていいから、早く行った方が・・」
「うーん・・・。あ!ねぇアリオスさん、アンジェのこと、頼んでもいいですか?」
「レイチェル!」
アンジェリークが困ったようにレイチェルの腕を掴むが、レイチェルは「だいじょーぶ」とその手を押し戻した。
「どういうことだ?」
「アンジェの行きたいトコ連れて行こうと思ってたのに、あの研究バカの従兄が帰ってこないんです。没頭すると時間の感覚なんてなくなるのしょっちゅうだし、放っておけばいいんだけど、迎えに来て、帰らせてくれって電話来ちゃって」
 レイチェルの従兄、エルンストはロンドン大学のカレッジで遺伝子研究の側面からバイオエシックスの研究員をしている。大学側からは教授の椅子を提示されたが、本人が固辞したため、教授待遇の研究員という肩書きになっていた。本人はそういった肩書きには何の執着も持たない、よく言えば勤勉、悪く言えば研究バカで、研究室に篭って寝食を忘れることも多々ある男である。時々度を越しそうになるとこうやって、レイチェルのところへ研究仲間から電話がかかってくるのだ。
「だから、アリオスさん、アンジェに付き合ってあげてもらえませんか?」
「レイチェル!私は一人でも平気だから・・・。アリオスさんにも迷惑だし・・」
「かまわねぇよ」
 アンジェリークの言葉を遮るように、アリオスは答えていた。
自分でも内心驚きを隠せない。考えるよりも先に、言葉が口をついて出たのだ。
オスカーではあるまいし、いつもであれば、「ガキの面倒なんて御免だ」と無下に断っていたに違いないのに。
「やった!それじゃ、アリオスさん、アンジェをよろしくーっ!」
「ちょっと、レイチェル!」
マウンテンバイクに飛び乗ってレイチェルが行ってしまうと、そこに残ったのは二人だけ。
「あの・・・」
「で?ドコ行きたいって?」
 ごめんなさい、レイチェルが勝手に・・・。と続くはずだったセリフを遮ってアリオスは尋ねた。
「えっと・・。イングリッシュ・テディベアってお店に・・」
どうにも困った様子でアンジェリークが告げるのも無理はない。イングリッシュ・テディベアは、その名の通り、テディベアの専門店なのだ。出逢ったばかりのアンジェリークにも、そこがアリオスとは無縁の店だと断言できるだろう。案内を頼むのも気が引けて当然だった。
 さすがにアリオスも言葉に詰まる。通りすがりに目に入るので、店の場所は知っている。が、自分には一生縁のない店だろうと思っていたのも確かだ。すべてのテディベアがハンドメイドなので、一つとして同じ顔、性格のものがない、とオスカーが言っていたのを思い出す。あの男は女に頼まれて連れて行ってやったりしたことがあるのだろう。自分と違って、女に頼まれればそういうことを厭わない男であるし。
「あ、やっぱり、いいです。また今度レイチェルに頼めばいいんだし・・・」
アンジェリークがそう言おうとした矢先、アリオスが歩き出した。
「アリオスさん??」
アリオスが顔だけちらっと振り返る。
「行きてぇんだろ。ついて来いよ」
「・・ありがとうございます!」
ぱっと表情を明るくさせて、アンジェリークが後に続いた。

 リージェントストリート沿いにあるイングリッシュ・テディベアは、アパルトメントから三〇分程歩いた所にある。
ガラス張りで、中にテディベアや関連グッズが所狭しと並んでいる様子が目に入ると、アリオスは一瞬足を止めたが、すぐに覚悟したようにアンジェリークにつきあって中に入ってやった。
女性客が多いが、中にはプレゼントにする為なのか、ちらほらと男性客もいてアリオスはアンジェリークに気づかれないよう、そっと息を吐いた。
 一体々々、丁寧にテディベアを見て回っていたアンジェリークは、やがてそのうちの一体を抱き上げた。振り返り、アリオスにそれを見せる。
「なんか、アリオスさんみたい」
「オレ?」
アンジェリークが差し出したテディベアをしげしげと見つめる。白いクマの眼は左右の色が微妙に違っていて、それが自分のオッドアイのようだと言いたいのだろうと思った。
「ああ、眼か・・。珍しいからな」
「そうじゃなくて。この子の性格、照れ屋でぶっきらぼう、でも優しいって」
 アリオスさんも、そうでしょ?
アンジェリークがそう笑いかけるのに、アリオスはとりあえず苦笑しておいた。ぶっきらぼうはともかく、照れ屋で優しい、などと自分を評価したことはなかったのだが。
「でも、そうね、眼か・・・。でも、アリオスさんの眼の色のほうがずっと綺麗」
 テディベアと見比べて、アンジェリークがアリオスに微笑みかける。
「ホントに、綺麗な色の眸。私、好きだな、アリオスさんの眼」
 本当に綺麗な色ね。私、貴方の眸が好きよ。
アリオスの記憶の中の声と、アンジェリークの声が重なった。
 エリス・・・!
心の中で、面影に呼びかける。脳裏に浮かぶ面影は、そのまま目の前のアンジェリークへと重なった。別人だと、そうわかっていても止まらない。ただ顔が似ているだけではない、彼女のすべてが懐かしい記憶を呼び覚ます。
「アリオスでいい・・・」
「え?」
「アリオスさん、なんて呼ばなくていいって言ってるんだ。呼びつけでかまわねぇよ、アンジェ」
 親しく言葉を交わしたのは今日が初めてだというのに、アリオスが少女をアンジェ、と愛称で呼ぶことがどれだけ異例のことなのか、アンジェリークは知らない。
だから彼女はただ、嬉しそうに頷いて答えるだけだ。
「わかったわ、アリオス」と。



01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 31.5


A Day In The Life -15th.-




 軋む躰に鞭打って、オスカーはそっと起き上がった。まだ外は暗く、陽が射しこんでくるまでにはもう暫く時間があるだろう。
暗闇に目が慣れてくるのを待って、隣りで眠るアリオスの顔を見下ろす。
 魘されているわけでもないのに、険しい寝顔。
とてもではないが抱き合った後、恋人を腕に抱いたまま眠る男の表情とは思えない、孤独な顔に見える。
 その顔を暫く眺めて、オスカーはそっと溜息をついた。手荒に抱かれた躰は、たったそれだけのことにさえ、微かに軋むような痛みを覚える。
 お前、人のこと何だと思ってるんだ。
冗談でならば幾らでも言えるセリフも、こんなときには口に出せない。
 昨日、レイチェルとアンジェリークが帰った後も、アリオスの様子は落ち着かなかった。
苛々と歩きまわり、「どうしたんだ」と問えば「何でもねぇ」とドカッとソファに腰掛ける。だが、十分も経たないうちにまた落ち着かない様子で立ち上がる。それをしばらく繰り返した後、「ちょっと出てくる」と外へ行き、アルコールの匂いを漂わせて帰ってきた時には既に日付は変わっていた。
 酒には滅法強い筈のアリオスの足元が、僅かにふらついているのを見て寝室まで支えてやったオスカーが、「ベッドは譲ってやるから、寝ちまえよ」と言い終わらないうちに、荒々しく抱き締められた。いつものような軽い言葉の応酬も何もない、ただのセックス。
 前後不覚寸前の男にいいようにされる趣味など、当然オスカーには皆無だったが、ここでアリオスを突き放してはいけない気がして好きにさせた。こちらの躰を全く慮らない、労わりの欠片もない行為はオスカーにとっては快楽とは程遠いもので、傍若無人に見えてもいつもはこちらのことも労わってくれてたんだな、と妙に醒めた頭で考えたりもした。
 喉が渇いていたが、ベッドから出るには腰にまわされたアリオスの手を外さないわけにはいかず、けれどそうすれば恐らくアリオスは目を醒ましてしまうだろう。
仕方ない、と静かに息を吐くとオスカーはもう一度ゆっくりとした動作でベッドに横になった。
 ぐっと近くなったアリオスの顔を見ているのが、ひどくつらいことに感じるのは何故だろう。
アリオスから視線を逸らし、天井を見つめながらオスカーは思う。
 エリスって、誰なんだ・・・?
なんの飾りもなく、直球でそう訊けたならすっきりするのだろうか。それとも、今まで上手くやってきたと思っていた二人の関係が壊れるのだろうか。
 ホントにお前は不器用なヤツだな。
過去の傷を見せて欲しいなどと言うつもりはないのだ。触れられたくないのなら、何食わぬ顔でそっとしておいてやるくらいの度量は持ち合わせているつもりだった。現在の恋人、という身分を盾に、隠そうとするものを無理矢理穿り返して曝け出させる趣味はない。
 触れられたくないのなら、隠しとおしてくれればいいのに。
なのに、不器用なこの男は中途半端な隠し方しかできないのだ。隠したいと思っているくせに、欠片をオスカーの前に落としていく。目の前に、恋人の過去の切れ端をちらつかされるこちらの身にもなって欲しいものだ。聖人君子ではあるまいし、そっとしておく度量は持ち合わせていても、その為には強い自制を要求される。誰だって、恋人の過去の何もかも、できることなら知りたいと思うのが当たり前なのだから。
 もしも、アリオスのこの不器用な隠し方が、何も訊かずにそっとしておいてやるオスカーに対する無意識の甘えなのだとしたら。
 随分性質の悪い男を好きになったもんだ、俺も。
はぐらかすような苦い笑みがオスカーの口許に浮かんですぐに消えた。
 初めて逢った頃は、こんなに不器用な男だとは思わなかった。アリオスの一見近寄りがたいクールな雰囲気は、この男の不器用な側面を隠すのにも役立っていたのだ。公園のベンチで目が合って、その、珍しい金と翠のオッドアイの美しさについ見入ったのがすべての始まり。その時はまさか、この自分が男に惚れるなんて思いもしなかったが。
 気が合って、強い酒も気兼ねなく飲める恰好の飲み友達になって。そうやって気を許すと少しずつ、アリオスの不器用な面も見えてきた。
 初めて抱き合ったとき、思いのほか優しい指先に内心随分と驚いた。それが、女性相手ならば経験豊富だが、抱かれるのは勿論、同性とそういった行為に及ぶのも初めてだったオスカーに対する気遣いであることは間違いなかった。もっと荒々しい抱き方をするのかと思っていた、と告げたオスカーに、「うるせぇ」とぶっきらぼうに返したアリオスが、実は照れたような、バツの悪そうな顔をしていたことを知っている。
 降ろしたブラインドの隙間からうっすらと光が射し込んできて、オスカーはもう一度アリオスの顔を見た。
 光を反射する銀の髪が何故だか遠く感じられる。すぐ目の前にあるはずなのに。
昨日まで、何よりも近くに感じていた体温が、こうして密着している今でさえ、作り物のように遠く感じるのは何故だろう。
 二年も一緒に暮らしていて、何度も魘される場面に遭遇しながら未だ明かされることのない悪夢の内容と、繕うことさえできないほど動揺した「エリス」という存在、そしてその「エリス」を彷彿とさせたのだろう、アンジェリークとの出逢い。
 いつか、俺に話したいと思う日が来るのか?
問えるものならそう問いたい。それとも、いつまでも、そ知らぬ顔をして逃げ道を作ってやればいいのだろうか。けれどそう思うよりも先に、自分に選択肢はないのだと、オスカーは知ってしまっていた。
 一度作ってやった逃げ道を、自らの手で断つような真似はできない。それは裏切りに他ならないと思うから。
 何があろうと、そ知らぬ顔で接してやる。まずは、射し込む光にもうすぐ目を醒ますだろうアリオスの為、疲れ果ててずっと眠り続けていた振りをする。昨夜の乱暴な行為に、ぎこちない謝罪を口にするだろう男に、いつものように軽口で返してやる。
 何気ない軽口の応酬。当たり前だったはずの昨日までの日常が、たった一晩でひどく遠くなったと感じることに、疲れたような笑みを浮かべ、オスカーは眸を閉じた。



01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 31.5


A Day In The Life -14th.-




 アリオスは偶に夢に魘される。
 それは同居生活を始めて幾らも経たないうちにオスカーの知るところとなった。けれど、どんな夢を見るのか、それはいつも同じ夢なのか、そういったことを訊いたことは一度もない。必要があれば自分から話すだろう。愛情を伴うパートナーとはいえ、相手の過去を逐一知りたがるような子供ではなかった。アリオスがオスカーに過去を話さないように、オスカーもアリオスに過去を話していない。別にそれで構わなかったのだ。
 だから、アリオスが魘されていれば、オスカーはそ知らぬ顔で起こしてやった。「魘されてたぞ」などとは言わない。「酒が飲みたくなった」「目が醒めたから付き合え」――あくまでオスカーの我儘で起こしたのだ、と伝えた。アリオスもわかっていながらそれに乗った。「ったく、人を巻き込むなよ」と。
 さて、今夜はどんな理由にしようか。
深夜、リビングのソファの傍に静かに立ったオスカーは、アリオスを見下ろしながら考えた。
眉間に皺を寄せて眠るアリオスの表情は痛々しい。早く起こしてやった方がいいだろう。
 オスカーは足でソファをドン、と蹴った。
「・・っ!」
瞬時に目を醒ますアリオスに、オスカーが笑って言う。
「喉渇いてな。どうも、グラタンの塩分過多だったみたいだ。お前もそろそろ喉が渇くだろうと、この俺の親切心で起こしてやったぜ」
 今頃セイランも喉が渇いて起きてるんじゃないか?
そんな軽口とともに、冷えたビールの缶を渡す。
「・・・メシに凝るなら、そのヘンの初歩的ミスはなくせよな」
起き上がって缶を受け取りながらアリオスが返した。
 そんなことはないと、知っていながら。
グラタンの塩加減など、大したミスではない。ホワイトソースに小さな一塊が余計に入ったところで、夜中に喉が渇いて起きる程の塩分過多になるわけがないのだ。現に、あのカネロニグラタンは、少し濃いと感じただけで、食べた人間の好みによっては丁度いい塩加減だと言うだろう。
「悪かったな。見てろ、今度はもっと美味いグラタン作ってやる」
 ビールを煽りながら、そうやって、何も訊かずに逃げ道を作ってくれるオスカーに、アリオスもまた、黙ってビールを煽った。

 結局朝まで飲んで、躰が欲するままに夢も見られない程ぐっすりと熟睡した二人が次に目を醒ました時、時計は既にアフタヌーンティーの頃を指していた。
「これじゃ朝昼晩兼用の食事だな」
「とりあえず、何か食わせてくれ・・・」
 昨日の塩加減のミスが悔しいのか、起きるなりメニューを考え始めたオスカーに、アリオスが言った。飲むだけ飲んで、まる半日以上何も食べ物を入れていない胃袋が、固形物が欲しいと切実に訴えている。
「ん、そうだな。じゃあクロックムッシュでも作るか」
 パンにハムとチーズを乗せて焼いただけのクロックムッシュとプレーンオムレツがリビングのテーブルに並んだのは、それから一〇分ほど経ってからだった。ディナーはダイニングで摂るが、ブレックファーストやランチはこうやって、リビングで行儀悪く寛ぎながら摂ることが多い。
「しかし、この時間に食べると、夕飯は軽いほうがいいか・・」
「凝ったメシ作るのは明日以降にまわしてくれ」
パンをコーヒーで流し込みながらアリオスが言う。それにオスカーも軽く頷いた。
「それじゃ、掃除だな」
「は?」
「最近リビングの掃除してないからな。埃も溜まってるし。仮にも、寝床の一つなんだ、清潔にしといた方がいいだろ?」
オスカーが皿を持って立ち上がりながら言った。コイツの思考は家事から離れないのか、とアリオスは思ったが、それは口にせず黙って頷いた。家事を任せっきりにしている人間の立場としては反論は命取りなのだった。
「この時間じゃ、洗濯してももう干せないからなあ・・。とりあえずブランケットは取り替えるか・・」
それに、オスカーがこうやって突然掃除だなどと言い出すのにはもっと別の理由がある。
 アリオスが夢を見たからだ。
そうやって、夢を魘された、という記憶すら追い出すように、掃除をする。次にこのソファで眠る時、夢を見るかもしれない、という不安を感じずに済むように。
「お前、邪魔」
ソファの脇のサイドテーブルに置かれたブランケットを取り替えながらオスカーがアリオスを追いやった。
 アリオスに掃除をさせないのは、遠慮や気遣いではなく、本当に邪魔だからだ。
一緒に暮らし始めた頃は、掃除くらいは、と手伝わせてみたりしたものだが、数回で諦めた。四角い部屋を丸く掃くような、そんな掃除の仕方しかしないのだ、アリオスは。
 無言で肩を竦めたアリオスが、ダイニングへ移動しようとした時だった。
耳に痛い、ひび割れたブザーが部屋に鳴り響いた。
「こんにちはっ!開いてから入ってきちゃいましたよ」
リビングに姿を見せたのはレイチェルだ。
「よう、お嬢ちゃん。珍しいな」
アパルトメントの前で会うことは偶にあるが、こうやってレイチェルが部屋を訪ねてくることは滅多にない。
「ほら、こないだ言ったじゃないですか。友達が来るから紹介するって」
「ああ、フランスから来るって言ってたな」
「別に、紹介して欲しくねぇ・・」
アリオスの呟きにオスカーが苦笑しながら、レイチェルを促した。
「で?ここに来てるのか?」
「あ、じゃあ呼びますね。・・・アンジェー!おいでよっ!」
「アンジェ・・・?」
 アンジェ、という名前に二人は反応する。まさか未来のバーリントン公爵夫人ではないだろうな、とリビングの入り口を凝視する。
だが、現れたのは、ふわふわと揺れる金の髪ではなく、さらさらと揺れる茶色の髪。
 アリオスの眸が、驚愕に見開かれた。
「紹介しまーす。ワタシの親友、アンジェリーク・コレットです」
レイチェルに紹介され、少女はぺこっと頭を下げた。
「エリス・・・」
呆然とアリオスの口から呟かれたその声は、隣りに立ったオスカーの耳にだけ届いた。



01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 31.5


A Day In The Life -13th.-




 元々「私立探偵」であったものが「何でも屋」になるにはそれなりの過程がある。
ソーホーの何でも屋にしても、最初から雑多な依頼を受けていたわけではないのだ。
元はボディーガードであったり、そういった「私立探偵」という言葉から想像し易いハードボイルドなイメージの依頼をこなしていた。何せ喧嘩の強さでも彼らに敵う者を見つけるのは、このロンドン中を探しても難しいだろう、というレベルであったので。
 そのハードボイルドな「私立探偵」がお嬢ちゃんのささやかな依頼までこなす「何でも屋」になったのは、偏に赤毛の女性賛美主義者の所為だ、と相棒の銀髪の男は思う。
 学園祭でダンスパーティーがあるという依頼人の娘に、ダンスを教えてやったり、ついでだから、とエスコートしてやったり。風邪をひいてしまって、というマダムに「熱で潤んだ貴女の眸は美しいですが、そんな貴女に無理をさせるなんて、神が許しても俺は許せません。どうぞなんなりとお申し付けください」と家事を引き受けてやったり。なまじ器用で大抵のことはこなせるものだから性質が悪い。アリオスが呆れて放っておいているうちに、気づけば「私立探偵」は「何でも屋」へと変わってしまっていたのである。
 本当に、無駄な程器用な男なのだ、オスカーは。
「どうだ、美味いだろ。ホワイトソースとミートソースからちゃんと作ったからな」
カネロニのグラタンを前に、オスカーが満足そうに言った。
「ホントに、こういうことにはとことん凝るね、キミは」
「嫌なら食わなくていいんだぜ?」
「別に嫌だなんて言ってないだろう?曲解するのは止めて欲しいね」
「・・・その前に、なんでオマエがここにいるんだ。」
カネロニをフォークで突き刺しながらのアリオスの問い掛けである。
 普段なら住人二人しかいないはずのダイニングでの夕食だが、今日はもう一人夕食を共にしている人物がいる。
「さっき、オスカーに招待されたのさ。ソースを作りすぎたから食べに来いってね」
 二つ隣りの部屋に住むセイランだった。詩人、画家として高い評価を受けているらしいが、芸術というもの自体に基本的に興味のない二人は、彼の作品がどれほどの高値で取り引きされているのか知らない。こんな古びたアパルトメントではなく大貴族並みの邸宅で暮らすことも可能だという話だが、そういった贅沢には何の興味も持たない人物である。
「ああ、それとも、折角の二人きりの食事を僕に邪魔されては迷惑だったかい?アリオス」
「いいや、まったく」
 勘の鋭いセイランには、二人の関係はバレている。
オリヴィエといい、リュミエールといい、クラヴィスといい、このセイランといい。
 なんで、嫌なタイプだけに知られるんだか。
そんな感想を持っている二人だが、そう言った勘が鋭いからこそ嫌なタイプなのだ、ということに気づいていない。
「美味しいけど、ちょっと塩味が濃くないかい?」
「バレたか。実は、ホワイトソース作るときに塩の塊が入っちまってな」
「確信犯の癖して、よく『美味いだろ』なんて自信たっぷりに訊けるね、キミも」
「煩いな。塩味濃いけど美味いって自分だって言ったじゃないか」
 嫌なタイプ、と言いつつも、オスカーはセイランと比較的仲がいい。軽いテンポで物を言い合える相手とは、なんだかんだ言って気が合うオスカーだ。
「だいたいな、こいつだったら、そんな塩加減なんて、絶対気づかないぜ」
オスカーがアリオスを指して断言する。
 どうでもいいが、フォークで人を指すのはよせ。
アリオスは無言で自分に向かうフォークをオスカーの方へ押し戻した。
「別に、塩加減くらいわかる」
人を味音痴のように言うな、とアリオスがカネロニを口に放り入れながら憮然と呟いた。
「塩が多少濃くても、食える味ならなんでもいいんだよ、オレは」
 食事に基本的に拘りのない男だということは承知していたが、時間をかけて作った料理を目の前にして、こうまでハッキリ言われるとオスカーの目が据わるのは仕方ない。
「なんだ、ヤキモチかい」
剣呑な雰囲気がテーブルを支配しつつある中、思いもかけない言葉で結論付けたのは、セイランだった。
「はぁ?」
思わず訊き返す声が揃った。今までの会話のどこからヤキモチなどという言葉が出てくるのか。
 だがセイランは、グラタン皿の中のカネロニを綺麗に食べるとフォークを置き、ナフキンで口を拭ってから立ち上がった。
「だって、僕がお邪魔してるから不機嫌なんだろう?アリオスは」
「何言ってやがる」
即答するとセイランが笑った。
「自覚ないのかい。キミは二人だけのテリトリーの中に僕が入ってきたから不機嫌なのさ。しかも、オスカーに誘われて来た僕がね。それで僕じゃなくて無意識にオスカーに突っかかるなんて、可愛いトコあるね、キミも」
 それじゃ、ご馳走様。
アリオスに反論するタイミングを与えずにセイランは出て行ってしまう。
残されたのは、微妙に口をぱくぱくさせているアリオスと、その様子を横目で窺うオスカー。
 そういえば、とオスカーは思う。
アリオスはリビング以外の部屋に他人を入れるのを嫌っていたような気がする。応接間を兼ねているリビングには時々人が来ることはあったが、それすらもあまり快く思ってはいない気配があった。本人に訊けば「んなことねぇ」と答えるだろうが。
 それが、テリトリー意識だったとは。
二人の居住空間に、他人を踏み込ませたくない、という意識。
そして、そのテリトリーの中でオスカーが他人と親しげにしている様子に不機嫌になったというのか。
「なんだよ」
バツが悪そうに、カネロニをフォークでメッタ刺しにしているアリオスが問うと、オスカーが意味ありげに笑って首を振った。
「いいや。とっとと食べろよな」
綺麗に食べ終えた自分の皿とセイランの皿をキッチンへと運ぶ。
その背中に不機嫌そうな声がかかった。
「言っとくけどな、セイランの言ったことを真に受けるなよ」
それでは、図星だと言っているようなものだと思うのだが。
「そうだな、お前は多少の塩加減なんて気にしないんだよな」
振り向かずに答えると、「そーだよ」と自棄になったように言うのが可笑しくて、オスカーは笑った。




01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 31.5


A Day In The Life -12th.-




 天気は快晴とはいかないが、雨が降る心配もなさそうな午後。
キュキュッと、滑り止めのついたシューズが芝を踏みしめる音と、スパーン、スパーン、とボールが弾かれる音が規則的に響く。
 リージェンツパークのテニスコートではプロ顔負けの試合が繰り広げられていた。その、レベルの高い白熱した試合に、すぐ近くのリージェンツ大学の学生や、クィーンメアリーズガーデンを散策にきた市民も思わず足を止める。
 白熱した試合を繰り広げているのは、何でも屋二人である。
 三セットマッチで現在は佳境の三セット、十二ゲーム目。既にフォーティーオールでタイブレークに縺れ込んでいるが、なかなか二点の差はつかない。いい加減、プレイヤーの息も上がりきっていた。
 一点リードしているアリオスが、渾身の力でスマッシュを放つ。
オスカーのラケットが、僅かのところでボールを逃した。これでようやくゲームセットだ。いつの間にか増えていた見物人の間から拍手が起こる。ウィンブルドンもかくや、という試合にブラボー、という声も上がったほどだ。
 だが、本人達にはそんな拍手に応える余裕もなく、コート脇のベンチまでくると力尽きたように座り込んだ。大きく胸が上下して、とにかく肺に空気を送り込もうと必死だ。
「凄かったです!やっぱりお二人に頼んで正解でした!」
二人にタオルを手渡しながら興奮したように喋るのは、ランドルフ・フォート、通称ランディである。リージェンツ大学の一年だが、ハイスクールの頃から、二人とは顔見知りだった。
 オスカーとアリオスが、健康的にテニスで汗を流すことになったのは、この日の朝、ランディが一人の友人を連れてきたことに因る。
「こんなに間近であんなに白熱した試合を見られるなんて思いませんでした。ありがとうございます」
 褐色の肌の少年が丁寧に頭を下げた。これがランディの連れて来た友人、である。
短期の留学生としてリージェンツ大学にやってきたティムカという少年は、なんでも小国とは言え、中央アジアに位置する国の皇太子なのだそうだ。短期留学の間、ランディの家にホームステイしているのだと言う。そういえば、ランディはサーの称号を持つ家柄だったな、と二人はすっかり忘れていたことを思い出した。
 そのティムカが自国へと帰る日も近い。そこでランディが何かやりたいことはないかと尋ねたところ、「テニスの試合を間近で見てみたい」と希望された。自国ではテニスはマイナーなスポーツで、ハイレベルな試合を見ることは叶わないのだという。そういえば、この短期留学の間、ティムカは様々なスポーツの観戦に行っていた。しかし、もう少し早く言ってくれればいいものを、ウィンブルドンが終わった直後のこの時期、大きな試合は望めない。大学のクラブ戦ならばあるかもしれないが、どうせならばもっと白熱した試合を見せてやりたい、とランディは考えた。
 そこで登場願ったのが、ソーホーの何でも屋、だったわけだ。
二人がテニスをしているところなどランディも見たことはなかったのだが、二人の身体能力と運動神経がとにかく人間離れして凄い、というよりも凄まじい、という域に達していることは承知していたし、スポーツやゲームでは何をやっても勝負がつかない、と以前オスカーが苦笑していたのを知っていたので、二人ならばきっと、ティムカを満足させられるような試合を繰り広げてくれるだろうと踏んだのだった。
「・・満足頂いて何よりだ・・」
スポーツドリンクをゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ後、まだゼーゼーと整わない息の中、なんとかオスカーが言った。
「ほんと凄いですよ、二人とも。プロのプレイヤーにだって今すぐなれるのに、勿体無いなあ・・・何でも屋だなんて」
 その何でも屋、に依頼しておいてよくも言う。
「・・何でも屋、じゃねぇっつーの」
整わない息の中、それでもアリオスが言うが、どう考えても何でも屋、としか言いようのない依頼でこれだけ真剣に試合しておきながら言っても、全く説得力のないセリフである。
「でも、本当に、こんなにハイレベルな試合を観戦できて感激しています。僕の国は競技人口も少ないテニス後進国ですし、あんな試合、二度と見られるかどうか・・・。ランディも、本当にありがとうございます」
 本国へ戻れば王位を継ぐことが決まっているティムカは、これから先、こんな風に気軽に外へと足を運ぶこともできなくなる。そんな悲哀を感じる言葉にランディが、ティムカの手を力いっぱい握り締めて言い募った。
「お礼なんていいよ。俺たち、友達じゃないか。いつだって、遊びに来てくれていいんだ。お忍びだっていいさ。俺がちゃんと護衛になるからさ!」
「ランディ・・・。ありがとう」
 緑豊かなリージェンツパークで、何故か突然夕日に染まる砂浜がバックに見えるような、そんな青春真っ只中な光景を目の前で繰り広げられて、ベンチに座った二人はスポーツドリンクを持つ手を止めたまま呆然と少年たちを見上げた。
「テニスの試合だって、いつだって、やってくれるよ!」
 勝手に約束するな・・・。
ランディの言葉に二人は思った。
 今回は、もうすぐ自国へ帰るティムカへの同情もあって引き受けてやったが、本来は本気でスポーツの試合を二人でするなど、御免被りたいのだ。理由は簡単、今の状態を見れば明らかだ。
 とにかく、体力を極限まで消耗するまで勝負がつかないのである。
こんなに互角なのもある意味奇跡だろうが、プロのプレイヤーではあるまいし、そこまでしてスポーツをする趣味はない。
 スポーツに限らず、ダーツやビリヤードをしても、勝負はなかなかつかないが、それはあくまで遊びであるし、ここまで体力を消耗することもないからいいのだが。
 今日はアパルトメントに帰ったら、そのまま睡眠をとることになるだろう。食欲すら湧かない。
「次に来た時は、一緒にロッククライミングしよう。楽しいんだ」
「僕にできるでしょうか?」
「大丈夫さ!難しいことなんてないから」
そんな二人の疲れきった様子に構うことなく、相変わらず夕日が背景のドラマは続いていて。
 オスカーとアリオスは、顔を見合わせて溜息をついた。



01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 31.5