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A Day In The Life -31th.-

 
 
 
 キングサイズのベッドの上で、オスカーはぼうっと天井を見上げていた。
とっくに正午を過ぎている。買い出しに行くなり、どこかで食べるなりしないといけないと思いつつ、動く気になれない。空腹も感じなかった。まる二日近く、まともな食べ物を口に入れていないというのに。
 何やってるんだ、俺は。
自分の情けない姿に呆れたように笑ってみるが、それも虚しいだけだ。
機械的に朝起きて、顔を洗い、服を着替え。けれどそれ以上は何もする気になれずベッドに寝転がっていた。
 アリオスは、アンジェリークとどうなったのだろうか。
そんなことを考え、頭を振った。考えなくとも答えは決まりきっているではないか。
アリオスの隣りに立って幸せそうに笑うアンジェリークを思い浮かべ、自嘲的な笑みを浮かべる。
 今だけだ。こんな風に、何もできずに立ち止まっているのは、今だけだから。
もう少し時間が経てば、またいつも通りの生活に戻れるはず。アリオスがいなくても、ストーカーは撃退できるし、何でも屋は健在だ。料理にだって凝るだろう。一人分だけの料理は作り甲斐がないが、多めに作って、セイランあたりをまた招待してもいい。競う相手もいないから、これからは毎日このベッドで気持ちよく眠れるはずだ。
「今だけ、だ・・・」
そう呟いて目を閉じる。眠気は皆無だったが、眠ってしまいたかった。
そうすれば、知らないうちに時計の針は進んでくれるから。
 
 
 
 アリオスは静かに寝室のドアを開けると、ベッドの上で眠る人影を見つけて思わずほっと息を吐いた。リビングもダイニングも、一昨日自分が出て行ったときからまるで使われた跡がなかったので、オスカーもこの部屋を出て行ったのかもしれないと思ったのだ。
 起こさないようにそっとベッドサイドに立つと、眠るオスカーの顔を見下ろす。
 寝顔を見るのは久しぶりな気がした。
まるで、人形のような寝顔だ。無機質でただ呼吸しているだけの仮面のような。
こんな表情は初めて見た。オスカーの隣りで、彼の寝顔を見たことは何度もあったが、もっと、柔らかい表情をしていたと思う。初めて見た時は、眸を閉じるだけでこうも印象が変わるのかと驚いたほどだ。
 オマエ、ここしばらくずっと、こんなカオして眠ってたのか。
すべてを遮断するような、そんな表情で。安らぎとは程遠い眠り。
 アリオスはそっと、手を伸ばしてオスカーの髪に触れた。
浅い眠りだったのだろう、その感触にオスカーの眸がゆっくりと開けられる。
「・・・!!」
ゆっくり開けられた眸はそのまま見開かれた。瞬時に上半身が飛び起きたその反射神経はさすが、と言えるだろう。
「よう」
「・・・アリオス」
「呆けた面すんなよな」
「お前、なんで・・・ああ、荷物取りに来たのか」
納得したように言うオスカーにアリオスの眸が眇められる。
「なんで荷物が必要なんだ?」
「なんでって、お前、出て行くんだろ?」
オスカーは、わけがわからない、という風に訊き返した。
「出て行くなんて言った覚えはねぇんだがな」
「何言って・・・。お嬢ちゃんはどうしたんだ」
困惑しながらそう言うと、オスカーはベッドから立ち上がり、アリオスの脇をすり抜けようとした。今の位置ではあまりに間近で、胸が痛い。
「逃げるなよ」
 そのオスカーの腕を、アリオスは掴んだ。距離を開けさせるわけにはいかない。すぐ近くで見つめて、どんな視線の揺らぎも些細な表情の変化も見逃すわけにいかないのだ。
「逃げるってなんだ」
 何を言っているんだ、と苦笑しようとするオスカーを、アリオスは半ば怒ったような眼で見た。
「笑いたくもないのに、笑うなよ」
その言葉にオスカーが一瞬、眸を見開く。
「離せよ」
腕を振り払おうとするオスカーと、掴んだ手にますます力を込めて決して離そうとしないアリオス。至近距離で視線がぶつかり合った。
「・・・離せ」
さりげなくゆっくりと、視線を外しながらオスカーは言った。
 まるで、凍ったような声。冷たく固めて、溶けることを拒むような。
だがアリオスは、怯まない。凍りついているというのなら、余計この手は離せない。抱き締めて暖めて、溶かしたいのだ、オスカーの心を。
「オレは、オマエの本心が聴きたいんだよ、オスカー」
「本心だって言っただろう」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「だったら、今この距離で、オレを見つめて言ってくれ」
「・・・っ!」
「オマエが心から思ってるなら、出て行けって、アイツのとこへ行けって、言えよ」
 それを聴くまで、この手は離さない。
アリオスが強い意志を込めて告げると、オスカーは抵抗を止めて俯いた。
「・・・今更」
俯いて、落ちてくる前髪で表情を隠したまま、ポツリと呟く。
「今更、なんだって言うんだ・・・」
「オスカー・・」
「お前は彼女が大事で、彼女もお前が好きで。それで、いいじゃないか・・・」
 オスカーの脳裏に、幸せそうに笑ったアンジェリークとその彼女を愛しそうに見ていたアリオスの姿が浮かぶ。その間に割ってはいるような惨めな役は御免だった。
「一昨日、オマエが帰ってくる前に、アンジェとは別れの挨拶を済ましたぜ」
「なっ・・・」
予測外の言葉に、オスカーは顔をあげた。
「アンジェの中に、オレは別の女の面影を追ってた。それを、アイツは気づいてたよ。だから自分じゃダメなんだって言われちまった」
苦笑しながらアリオスはそう告げる。
 エリスが、そして、アンジェリークが言っていた。
自分には、過去の想い出ごと抱き締めてくれる人でないとダメなのだと。
それはまさしく、オスカーのことではなかったか。
 アンジェリークを庇って事故に遭ったとき、薄れゆく意識の中で呼んだのはオスカーの名前だったのだと、アリオスは確信している。
 一昨日の明け方、気づいたのだ。様々なことを思い出し、そうして、いつの間にか「オスカーだったらこうしていただろう、そうすれば、自分はこうするだろう」と考えている自分に。
 エリスやアンジェリークは、護ってやりたいと思った。オスカーには、護ってやりたいとは思わない。ただ、隣りでいつでも、背を預けて預けられるような、そんな位置にいてやりたいと思う。どこかピンと張り詰めた糸のようなところがある男だから、すぐにその糸を補強してやれる位置にいたい。護る、というよりも、支えてやりたいのだ。
「だから、オレのことも、アンジェのことも、関係ない。ただ、オマエの心がどうしたいのかを聴かせてくれ」
 オマエが本当に終わりにしたいってんなら、無理は言わねぇよ。
苦い笑みを残したまま、アリオスがそう言うと、オスカーは掴まれていない、自由な方の手で自らの顔を覆った。
「終わりに、したいのか?」
そのオスカーの表情を、アリオスは覗き込むように訊く。
「離せよ・・・。痛い」
アリオスの視線から逃れるように、オスカーが言った。
「答えを聴くまでは離してやらねぇよ」
「お前、勝手すぎる」
「そうか」
「俺のこと、見ようともしなかったじゃないか」
「そうだな・・・」
「・・・なんだよ、お前らしくない」
「悪かったな」
そこだけ少し憮然と答える。らしくなかろうが、構わない。オスカーから嘘のない言葉を引き出す為なのだから。
「もっと言えよ。今まで、黙ってたこと全部だ。オレのこと気遣って、言わずに溜めてた言葉全部、オレに教えろ」
 訊きたいことがあるなら、全部答えてやる。
そのセリフに、オスカーがアリオスを見た。
「・・・無理するなよ」
こんな時にまで、自分を気遣うオスカーが可笑しくて、愛しくて、少しだけ哀しくて、アリオスは小さく笑う。
「オマエ、たまには人の言葉を素直に受け取れ」
「もう、疲れたんだ、俺は」
オスカーはそう言った。
「お前が夢に魘されるたびに、適当な理由考えて起こすのも、何にも気にしてない顔するのも。俺は、そんなに出来た人間じゃない」
「ああ」
ひどく穏やかにアリオスは頷く。
 それでいいのだ。出来ていなくていい。素直な心を見せて欲しかった。
今度は自分が受け止めてやるから。
「まだ、あるだろ?」
アリオスは静かに促した。
 今までに見たことがないほど静かなアリオスの表情を見て、訊きたいことがあるなら答えるという言葉は本気なのだと、オスカーは悟る。
「・・・エリスって、誰なんだ」
暫くの逡巡のあと、ようやく、オスカーはその問いを口にした。
訊きたくて、けれど訊くことの出来なかった問い。
「・・・死んだ女だ」
どう言おうか躊躇し、結局アリオスは最も端的な言葉を選んだ。
 アリオスの生家であるアルヴィース家はリトアニアの旧貴族階級に属する家で、エリスは使用人としてアリオスの前に現れた。虚飾に塗れた家に育ち、ほとんど人間不信に近い状態に陥っていたアリオスにとって、彼女は愛を教えてくれた少女だった。アリオスに生きている意味を感じさせてくれた。
 だが、彼女はある日突然、自ら命を断った。
アルヴィース家の当主であった叔父が酔いに任せて彼女に乱暴を働いたのだと、アリオスは後から知る。
 そして、エリスを護ってやれなかった、そのことが、アリオスの傷になった。
「もう、十年近く前の話だがな・・・」
 今でも、後悔は残る。
「お嬢ちゃんは・・・彼女に似てたんだな」
「ああ」
軽く頷いてみせた。
 そうして、他には?と視線で促す。
「お前にとって、俺は一体何だったんだ。・・・っ!」
問いを口にした途端、掴まれた腕に更に力が込められて、オスカーは思わず小さく呻いた。
「過去形にするな」
不機嫌な声でそう告げられる。
「アリオス・・・」
「何だったも何もねぇよ。離したくない」
「・・・!」
アリオスが、こうもはっきりと口にするのは初めてではないだろうか。
出逢ってからの記憶を探ってみても、こんなに明確に言われたことはない。
「オマエの隣りが一番いいんだ。同じテンポで歩けるのはオマエだけだからな」
オスカーだけが、前を行くのでも後につくのでもなく、隣りを歩けるのだと、アリオスはそう告げる。
 だがオスカーは落ち着かないといった様子で視線を彷徨わせた。
「お嬢ちゃんだって、きっと・・」
「どうしてそこまでアンジェにこだわる?」
 アンジェリークのことはもう終わったのだ。アリオスも、そして何よりアンジェリークも納得してのこと。にも関わらずどうしてオスカーがそこまで彼女を気にするのか、アリオスにはわからない。
「名前・・・」
「名前?」
「だってお前、彼女に名前教えたじゃないか。ほんとの名前教えるくらい、お嬢ちゃんのこと大切に思ってるんだろう?」
 オスカーが、終わりにしようと心を決めたのは、アリオスが彼女に本当の名前を教えたと知ったからだ。それほどまでに大切に思っているのなら、もう自分の居場所はないと思ったからだ。
 その言葉に、アリオスはわざと笑った。オスカーが感じたほど、重い意味はないのだと告げる為に。
「バーカ、それこそが、オレがアイツにエリスを重ねてた証拠じゃねえか」
 アンジェリークがあまりにエリスと重なるから、だから、もう一度呼んで欲しくなったのだ。昔、エリスに呼ばれたように。
「それに・・・。オレのフルネーム、知ってるのはオマエだけだぜ?」
 レヴィアス・ラグナ・アルヴィース。それがアリオスの本当の名前。
アンジェリークにも教えていない、ミドルネーム。このロンドンで、知っているのはただ一人、オスカーだけだ。
「他に訊きたいことは?もっと、オレに文句があるんなら、言ってくれ」
笑いを収めると、アリオスは真剣な眼差しで訊ねる。
それに対してオスカーは未だ視線を逸らしたまま、言葉を捜すように言い募った。
「お前は家事は全然だし」
「ああ」
「人が手間隙かけた作ったメシに、美味いの一言も言わないどころか、食える味なら何でもいいとか失礼極まりないこと言うし」
「そりゃ、まあ・・・・・・悪かった」
「買い出しだって結局俺になってるし」
「・・・努力は、してるぞ、一応」
「・・・。」
「他にないなら、もう一度訊くぜ。こっちを見ろ」
有無を言わせない強い口調で、アリオスはオスカーの視線を向けさせた。
「オマエは、終わりにしたいのか?オスカー」
オスカーはじっと、自分を覗き込む色違いの眸を見つめる。
 傷つけあって、ボロボロになるような事態は避けたいと思っていた。誰かが犠牲を払って済むのなら、その役割は自分が担おうと思った。自分の心を隠して、自分自身さえ誤魔化してみせる、その自信があった。しかし、自分が本心から終わりにすることを望んでいるのかと問われれば。
「・・・したい、わけないだろう!」
オスカーは叫ぶように答える。
 そんなことを、誰が望むというのだろう。自分の中の愛情のベクトルは、未だアリオスの方を向いているというのに。誰が好き好んで離れたいなどと思うというのだ。
 望んでいた答えを得て、アリオスは掴んだままのオスカーの腕を更に強く引き寄せた。
腕を放し、代わりに背中から肩へと腕をまわしてしっかりと抱き締める。
「やっと素直に言ったな」
緋い髪をクシャクシャと掻きまわしてやる。
「うるさい」
気障なセリフを臆面もなく言ってのける男が、珍しく照れていた。
普段と逆のシチュエーションにアリオスは笑い、そうして久しぶりに触れた温もりをもっと感じようと、更に強く抱き締めようとすると。
「腹減った」
色気の欠片もないセリフがオスカーの口をついて出た。
「あのなあ・・・」
あまりと言えばあまりなセリフにアリオスは脱力する。
「仕方ないだろう、この二日間ほとんど食べてないんだ」
 胃袋よりも、心が空っぽになってしまったようで。
 空腹どころか、すべてが麻痺したように何か感じる余裕をなくしてしまっていたから。
「冷蔵庫もカラだしな」
思案するような口調に、アリオスはオスカーを抱き締めたまま、あからさまに嫌そうな顔をした。オスカーには見えていないが。
 普段あれだけレディに対するムード作りに余念がない男は、アリオスに対しては一切そういう概念がないのだ。自ずと、次のオスカーの行動とセリフが予想できてアリオスは溜息をつく。
と、予想通り、オスカーはアリオスの躰を押し戻した。
「よし、行くぞ」
「・・・どこに」
訊きたくなかったが、訊いてみる。
「決まってるだろ、買い出しだ」
 やっぱり・・・。
アリオスは更に深い溜息をついた。ここはベッドサイドだ。なんならこのままベッドに押し倒してやろうかと思わないでもなかったが、だが、ここは大人しくオスカーに従おう。
 ムードの欠片もなかったが、別に嘆くほどのことでもない。
 遠くに感じていた体温が、また元通り一番近いところへと戻ってきた。
 触れたいと思えばすぐに触れられる位置に。
 だから焦る必要はない。時間は、たっぷりあるのだ。
 
 これからまた始まる、二人の日常の中に。
 
 
 
 
End.
 
 
 
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A Day In The Life -30th.-




 「・・・わからぬ男だ」
「本当に・・・」
クラヴィスの言葉にリュミエールがしみじみと頷いた。
「オマエら、素直にオレに言えねぇのか」
アリオスが据わった目つきで二人を見る。
 ベイカーストリートのリュミエールの家にアリオスはいた。
「珍しく朝から訪ねていらしたかと思えば、有無を言わさず、二階に上がって眠りに就いてしまうんですから、あなたは」
「ちょっと朝まで飲んでたんでな」
 飲んでいた場所から比較的近かったことと、ここならば昼間でも暗闇が用意されていることもあって、アリオスはここを宿代わりにすることにしたのだ。オスカーと違ってアリオスは別にここを毛嫌いしているわけでもない。リュミエールは相手にしにくいし、クラヴィスも得体が知れなくて多少薄気味悪く感じないでもないが、それも許容範囲のうちに収まる程度だ。
「・・・だからといってここに来るような人ではないと思っていましたが」
「まあな」
アリオスは肩を竦めて頷いた。
 ここならば、罷り間違ってもオスカーに会うことは絶対にないという確信があったからだった。
「くだらぬ・・」
クラヴィスが水晶球を見つめたまま言うのを苦笑して聞き流す。
本当に非科学的だと思うが、この男にはアリオスが何故ここにいるのかわかっているのだろう。
「オスカーと、何かあったのですか」
リュミエールがそう尋ねるのを聞いて、そういえばコイツはオスカーの友人だったんだな、と思い出した。
 オリヴィエといい、リュミエールといい、あの男はなんだかんだ言っても友人に恵まれている。
本人は友人、と言われればムキになって否定するのだろうが。
「あったな・・・。もうすぐ決着つけてやるが」
「そうですか・・」
それ以上深く訊いてこないのはありがたかった。
 アンジェリークと別れの挨拶を済ませたにも関わらず、アリオスがアパルトメントを出たのには理由がある。
 確かめたかったのだ。自分と、彼との距離を。
あの男のポーカーフェイスは、生半可なものではないとアリオスは熟知している。
どんなに心が軋んで悲鳴をあげても、あの男は造作もなく微笑んで見せるから。
 色素の薄い氷のような眸は、奥まで見通せるようでいて、その実すべてを反射する鏡のようなものだ。相手に合わせて自分を見せる。本当の心はその奥に隠したまま。
 だが、そのポーカーフェイスの奥の心が、アリオスにはわかったはずだ。
それを、確かめたかった。まだ自分が、オスカーのその僅かなシグナルを感じ取れるのかどうかを。感じ取れる距離に、自分がいるのかどうかを。
 自分を真正面から見返した氷色の眸は、相変わらず底を見せようとしなかった。
けれど、「まだ間に合う」と言った時の、一瞬の眸の揺れをアリオスは見逃さなかった。
 そう、まだ間に合う。
それはアンジェリークにではなく、オスカーの気持ちに。
自分の気持ちを何も言うことなく、すべてを終わらせようとしているあの男の手を、離すわけにはいかないのだ。
 もしオスカーが、自分に愛想を尽かして離れていくと言うのなら、それは仕方ないと思っている。
この二年間、甘え続けたのはアリオスの方だ。アンジェリークと出逢ってからのこの二週間、彼の方を見ようとしていなかったのは自分。だから、オスカーが自分から離れるというのなら、それを止める権利はないのだと、アリオスは承知している。
 だが、オスカーは何も言っていないのだ、自分の本心を。
終わりにするというのが本心ならばそれでいい。それが、本心ならば。
 何も言わずに離れていけると思うなよ、オスカー。
心の中で呼びかけて、アリオスは軽く唇を噛んだ。
 わざわざ部屋を出てきたのは、オスカーの心を揺さぶる為。
酷なことをしているようだが、そうでもしなければオスカーの限界点を越えることは出来ない。
生半可なことでは崩れない、オスカーの中の壁を越えられるのは自分だけだという自負もある。
 何も訊かないことで、アリオスを受け容れていたオスカーを。
今度は、すべて吐き出させることで受け止めてやりたいと、そう思った。
 そうして、もう一度、自分を受け容れて欲しい。
誰にも話さないと、話すことなど有り得ないと、そう決めていた過去の傷も、オスカーには話そうとアリオスは決意していた。オスカーが、訊きたいと言ってくれたのならば、ではあるが。
「何を考えていらっしゃるのか存じませんが・・・。どうも今夜は出て行くつもりがないようですね」
リュミエールが困ったように笑った。
「明日には帰るぜ。起きてるときには陰気で仕方ねぇが、寝心地だけはいいからな、この部屋」
 何せ真っ暗になる。さりげなくいい酒も揃っている。
「クラヴィスさんにご迷惑を・・・」
「構わぬ・・・」
ぼそっとクラヴィスが言った。静かにしていさえすれば、クラヴィスにとっては部屋に誰かいようといまいとどうでもいいのだろう。
「悪いな」
アリオスが軽くそう言うと、クラヴィスがフッと笑う。
「思ってもいないことを・・・。ふむ、どうやら長らくお前にかかっていた霧は晴れたということか」
 どうやら自分には霧がかかっていたらしい、とアリオスは肩を竦めた。
確かに霧の中を手探りで歩くような日々だったのかもしれない。
 だが、今はもう霧は晴れた。
行くべき方向を見誤ることはない。
その道を、独りで行くのか、隣りに相棒がいるのかは・・。
 オマエが決めることじゃない。
アリオスは自分自身に向かってそう告げた。



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A Day In The Life -29th.-




 その日の天気は晴れだった。
昼前に目を醒ましたアリオスは、寝室を出て、誰もいないリビングを見回した。
 帰ってきやがらねぇつもりか、アイツは。
どさっと壁に凭れて腕を組む。
 三日前に「終わりでいい」と言って出て行ったまま、オスカーは帰ってこない。
否、昨日アリオスが外へ食事に出ているうちに一度帰ってきたようなのだが、着替えるとすぐに出て行ったようだった。
 だが、オスカーが帰ってこないのはアリオスにとってはある意味好都合だった。
一昨日オリヴィエと話してから、一人で考える時間がたっぷり出来たからだ。一昨日、出掛けに会ったアンジェリークのことが気になりはしたが、今は一人で自分の心と向き合う時間が欲しかった。
 この二日ほどの間、この部屋でぼんやりと様々なことを思い出していた。
エリスのこと、アンジェリークのこと、オスカーのこと。時系列など関係なく、連想ゲームのように次から次へと脳裏に浮かんできた。記憶のすべてを引っぱり出すように自らの過去の一つ一つを思い出し、考え。そうして、とある一つの事実に気づいたのは、今日の明け方だった。
 それが、自分の答えなのだと、そう思った。
そう納得して、久しぶりにゆったりとした気持ちで眠り。
先ほどまで、夢を見ていた。
 エリスが笑っていた。
哀しい眸で見ることなく、涙を流すことなく、エリスが微笑んでいた。
 エリス、と呼びかけると彼女は頷き。
 彼女は、アリオス、と自分を呼んだ。
 レヴィアス、ではなく、アリオス、と。
アリオスは、非科学的なものは信じない。だから、その夢も、夢以外の何物でもなく、自らの感情と記憶の産物に過ぎないのだと思う。
 けれど、それでもよかった。
導き出した答えは間違っていないと、そう確信した。
「やらなきゃなんねぇことは、まだあるがな」
自らに言い聞かせるように呟く。
 冷たい水で顔を洗い、冷蔵庫の中にかろうじて残っていたミネラルウォーターを喉に流しこんでから、アリオスはシャツを手に取った。
 着替えを終え、一服しようと煙草に手を伸ばしたその時、ひび割れた音のブザーが鳴り響く。
 突発の依頼人でもない限り、今日この部屋を訪ねてくるのは一人しかいない。
訪問者を予想しながらアリオスがドアを開けると、果たしてそこには予想通りアンジェリークが立っていた。
「おはよう、アリオス」
おはよう、というには随分遅いと時間だったが、そんなことは二人とも気にしていなかった。
アンジェリークの足元には大きめのボストンバッグが置いてある。
「よう」
「今日、帰るから・・」
「・・・ああ。ユーロスターなんだろ?ウォータールーまで送ってくぜ」
言いながら、ボストンバッグを持とうとすると、アンジェリークがそれを止めた。
「ううん、いいの。時間、まだちょっとあるし、レイチェルが、エルンストさんと三人でご飯食べてからって言ってるし」
「そうか・・・」
「だから、お別れ言いに来たの」
「アンジェ・・」
アンジェリークは少しの間俯いていたが、やがて勢いよく顔をあげた。
「私、アリオスのこと好きだった。・・・ううん、今も好き」
緊張の所為か、少し震えているアンジェリークを愛しいと思った。その気持ちに嘘はない。
けれど、今ここでアンジェリークに手を差し伸べてはいけないのだ。それが、アリオスの出した答えだった。
「アンジェ、オレは・・」
「あ、言わなくていいから・・・。知ってたの、あなたが、最初から私を通して別の人見てるって。アリオス、時々すごく遠くを見るように私を見てたから。隣りにいても」
 ふとした会話の途中で、フィルター越しに物を見るように自分を見つめているアリオスに気づいていた。病院で、夢に魘されたアリオスを起こした時、「エリス」と呼ばれたことで確信した。アリオスは、自分の中にエリスという女性の面影を見ているのだと。
「それでもね、いいって思ってたの。私はアリオスが好き、それでいいんだって。でも、きっとそれじゃダメなんだろうなって、どこかでわかってたから。今はいいけど、このままいけばきっといつか、私だけを見て!って、言っちゃうと思う」
 それは人を好きになれば当たり前の感情だ。責められるべきことは何もないのだと、アリオスが言おうとすると、アンジェリークはにっこりと笑った。その大きな眸は潤んでいるが、それでも彼女は笑った。
「エリスさんて人に似てなくても、アリオスが好きになれる人じゃないとダメだと思う。そうじゃないといつか絶対傷つけあうから。私はきっと、アリオスの中の想い出を、消したくなっちゃうから。だから、ダメなの。アリオスの中の想い出ごと、あなたを抱き締めてあげられる人じゃないと。私の手は小さくて、あなたを抱き締めてあげられないから」
 私の手は小さくて、貴方を抱き締めてあげられないけど。
 その眸の美しさに気づいて、抱き締めてくれる人は絶対、どこかにいるから。
アンジェリークの言葉が、またエリスに重なる。アリオスはそっと眸を眇めた。
 エリスも、アンジェリークも。
自分にとって、隣りを歩くのではなく、行くべき方向を照らし示してくれる道標なのかもしれないと思う。隣りを歩くのは・・・。
 アンジェリークはボストンバッグを両手で持った。
「たった二週間だったけど・・・。楽しかった。ありがとう、アリオス」
「・・・ああ。楽しかったぜ、オレも」
「うん。・・・じゃあね。あ、見送らないで。ドア、閉めて」
 見送られるほうが寂しいから。
アンジェリークの言葉にアリオスは軽く頷いた。彼女の言葉に逆らう気はなかった。
「また、来いよ。今度はオレよりもよっぽどオマエの好きそうな場所知ってるヤツをガイドにつけてやるから」
「うん。オスカーさんにもよろしくね。ポトフ、美味しかったって」
「ああ。・・・伝えとく」
 そのセリフの微妙な間には、アンジェリークは気づかなかったようだった。
「じゃあな、アンジェ」
「うん」
 このままではいつまでも話してしまいそうで、けれど、アンジェリークからこれ以上別れの挨拶を言わせるのは酷だろうと、アリオスは自分から話を切り上げる。
最後に、ポン、とアンジェリークの頭を撫でてやって、そうしてアリオスはゆっくりとドアを閉めたのだった。

 まるで、覗き見していたようで気分がよくない。
そう思いながらセイランは自室のドアを開けた。ちょうど、アンジェリークがリフトの昇降ボタンを押したところだった。
「あ・・・、セイランさん」
「無事、別れの儀式は済んだようだね」
 セイランが遅い朝食兼昼食を摂りに行こうと部屋から出ようとしたら、アンジェリークが二つ隣りの部屋のブザーを押したのだ。さすがにセイランも出るに出られず、中途半端にドアを開けかけたまま、アンジェリークの精一杯のセリフを聞く羽目に陥った。
「はい・・。セイランさんにも、相談に乗ってもらってありがとうございました」
「別に、相談に乗った覚えはないんだけどね・・」
 一昨日、アンジェリークの話を聴いてやっただけに過ぎない。特にアドバイスをしたわけでもなく、本当に、ただ彼女が話すのを聴いていただけだった。
「でも、セイランさんに話して・・。聴いて貰っているうちに、落ち着いたから」
「そうだと言うなら、そうなのかもね」
セイランがそう答えると、リフトが着いたことを告げるチャイムが鳴り響く。
「はい。あ、じゃあ、行きますね。下でレイチェルが待ってるし」
相変わらずギシギシと音を立てて開くリフトに乗り込むと、アンジェリークはぺこりと頭を下げた。
「今度来るときは」
「え?」
「今度来る時は、僕の部屋を訪ねて来てもいいよ。もしもキミが芸術に興味を持っているのなら、だけどね」
 リフトの扉が閉まる直前に言われた、なんとも捻くれたセリフに、アンジェリークは笑って頷く。
「はい!」
リフトの扉が完全に閉まり、リフトの上についたランプの灯りが階下へと移っていくのを見ながらセイランは呟いた。
「・・・僕も下へ降りなきゃいけなかったんだっけ」

 オスカーが、アパルトメントに戻ったのは昼過ぎだった。
誰もいないリビングを見て、ほっと溜息をつく。
玄関の鍵もかかっていたし、この部屋にアリオスはいない。
リビングと、隣りの、ここ二、三日使われた形跡のないキッチンダイニングを見回しオスカーは呟いた。
「行ったんだな・・」
「誰が、何処に行ったって?」
 突然後ろから掛けられた声に、オスカーは驚いて振り返る。
「アリオス・・!」
「なんだよ、オレがここにいちゃいけねぇのか?」
リビングの扉に凭れてこちらを見ているのは、紛れもなくアリオスだった。
「お前・・・、お嬢ちゃんは?あの子は今日帰るんだろう?」
「ああ」
「ああって、お前、見送りに行かないのか?まだ間に合うだろ」
 何やってるんだ、とオスカーが半分怒ったように言うのを、アリオスはじっと見つめていた。
「見送らなくていいって、アイツが言ったんだよ」
 別れの挨拶を済ませたことは、わざと告げなかった。
「そんなの、本心じゃないに決まってるだろう。一緒にパリに来て欲しいくらいの気持ちのはずだぞ、あの子は」
「それでいいのかよ」
ユーロスターの時刻表を探し始めたオスカーの動作を遮るように、アリオスが言った。
「なんのことだ」
わかっているのにはぐらかす、それはオスカーの常套手段だ。
「オレが、アンジェの所に行ってもいいのかと訊いてるんだ」
黄金と翡翠の、剣呑と言ってもいいほどの視線がオスカーを射抜く。
それに一瞬魅了されながら、だがオスカーはその視線を真正面から見返した。
 ここで視線を逸らしたら、すべてが崩れてしまうから。
「終わりでいい、と俺は言ったはずだが?」
 自分の口から出るセリフに、心が悲鳴をあげるがそれは聞かない振りをする。
もう、アリオスの隣りは自分のいるべき場所ではないのだ。それを自覚してしまったら、そこにいるのは苦しいだけだ。
「本心、なんだな?」
確認の言葉に、心がきりきりと締め付けられるように痛んだ。
 早く、行ってくれ・・・!
オスカーはそう思う。こんな痛みを隠して笑うのには、もうそろそろ限界が近い。
「何度も言わせるな。・・・行けよ、まだ間に合うんだから」
それでもかろうじて苦笑しながら、その言葉を告げる。
 アリオスは、しばらくオスカーから視線を外さずにいたが、やがてふいっと踵を返した。
「わかったよ。オマエがそう言うんならそれでいいさ。じゃあな」
そして振り返ることなく、アリオスは部屋を出て行き。
オスカーは疲れきったようにソファに躰を預けた。



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A Day In The Life -28th.-




 コヴェントガーデンから二00メートルほど離れた、ラッセルストリートとドルリーレーンがぶつかるあたりに、"the Fruitful Passage"という名のワインバーがある。
繁華街から少し離れている所為でこじんまりとした印象のある店だが、その分隠れ家的な要素が高く、密かに人気のある店だ。
 オスカーが店のドアを開けると、まだ少し早い時間だからか客はおらず、オーナー一人が笑顔で出迎えてくれた。
「どうした、こんな時間から」
「そうだな・・・。ま、いいだろう、たまには」
そのセリフに、オーナーは黙ってカウンターのスツールを指差してオスカーに座るよう促した。オスカーが腰掛けたのを確認すると、窓のブラインドをすべて閉める。
「おいおい、誰も貸切にしたいなんて言ってないぜ?カティス」
どこか一つでも店の窓のブラインドが上がっていて灯りが洩れていれば開店、ブラインドがすべて閉まっていれば閉店、それがこの店のルールだ。
「賑やかな所にいたいって顔じゃないぞ、今のお前さんは」
 カティス、と呼ばれたオーナーはオスカーを指差してそう言った。
「お節介だな、相変わらず」
「そのお節介が恋しいときもあるだろう?」
「さあな」
軽口を叩きながら、すっと目の前にグラスが置かれる。芳醇な香りが鼻腔を擽って、オスカーは目を眇めた。
「いいのか、こんな大物出して」
 カティスが手にしているボトルに書かれた名前はシャトー・オ・ブリオン。フランスボルドー地方の中でもグラーヴ地区で作られる一級赤ワインだ。
「もうそろそろこいつも飲み頃でな。お前さん、こんな日に来るなんて運がいいぞ」
 客の好みのワインをグラスで提供するのがワインバーの基本だが、それとは別に、こうやって飲み頃を迎えたワインを客に振る舞うのがこの店のやり方だった。
 カティス・ゲインズブールという男は、オスカーがロンドンに来て初めて親しくなった人物だ。オスカーよりも七歳年上のカティスは、オスカーがロンドンに来た時には既にここに店を構えていて、ある日通りすがりになんとなくこの店に入って以来付き合いが続いている。
「お前さんは、甘え下手だからな」
自身も芳醇なワインの香りを楽しみながら、カティスが唐突に言った。
「なんだよ、突然」
すべてを見通しているようなセリフはいつものことだ。オスカーが何か言う前から、曖昧な言葉で的確な所を突いてくる。
「逆を言えば甘えさせ上手、と言うのかもしれないが」
「それを言うならあんたの方がよっぽど上手いだろ」
肩を竦め、笑って流そうとしてもカティスには通じない。普段は実年齢よりも大人びた態度を取るオスカーも、カティスにかかると歳相応の様子になってしまう。
「・・・お前さんは、もっと自分を甘やかしてやってもいいんじゃないかってことさ」
「俺は他人に厳しく自分に甘く、レディにはもっと優しく、がポリシーなんだがな」
「その、レディには・・・、はともかくな」
苦笑しながらカティスは二つのグラスにワインを注ぐ。飲み頃を迎えた一級品は、二人だけが飲むことになりそうだった。
「とても、他人に厳しく自分に甘く、だとは思えんのだがね」
「俺が他人といるところなんて見たことないくせによく言うな、あんたも」
呆れたように言うと、カティスはまあな、と笑った。
「褒めてないぞ」
「わかってるさ」
どうもカティス相手だと分が悪い。何を言っても暖簾に腕押し、というのはこういうことを言うのだろうか。
「だがな」
カティスはグラスを回して赤ワインの香りを楽しみながら言った。少し低くなる声のトーン。だが、視線は向けない。こうやってオスカーに何かアドバイスめいたことを言う時、カティスは決してオスカーをじっと見つめたりしない。そうやって、どう受け取るかは自分次第だと、これは単なるお節介なのだと伝えてくれる。
「誰だって、誰かに甘えたいときはある」
「そりゃそうだろうな」
グラスを目の高さに掲げて、色を楽しみながらオスカーは軽く返した。
「そして今、お前さんの目の前には、自分の上を行く甘えさせ上手がいる」
「自分で言うか」
軽く吹き出して言うと、カティスも少し笑った。
「ついでに言うと、俺はお前さんを大切な友人だと思ってるぞ」
「そりゃ、ありがたい」
口許に笑みを残したままそう答えると、オスカーはグラスをカウンターに置く。
「じゃあ、お節介なオーナーに甘えて」
少し俯き加減のその表情は、前髪が眸を隠してしまってカティスからはよく見えなかった。
「なんなりと。ああ、でも今のところ、これ以上いいヤツはないからな」
ワインを指差して言ってやると、オスカーが小さく笑ってみせる。
「ワインはあんたのお薦めでいいから・・・。一晩俺に付き合ってくれ」
「なんだ、いつもと変わらんじゃないか」
「それでいいんだよ」
 帰りたくないのだ、あの部屋に。
明日、アンジェリークはパリへ帰る。アリオスは彼女を見送りに行くだろう。もしかしたら、そのまま帰ってこないかもしれない。それでもよかった。ただ、顔を合わせたくないのだ。アンジェリークと、ウォータールーステーションまで共に行くだろうアリオスを、笑って見送ってやるには自分の心は疲れすぎている。最後の最後でボロを出すような真似だけは絶対に避けたかった。
「それで、いいんだ」
 いつもと変わらない。それが重要なのだと、オスカーはカティスに向かって笑って見せた。



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A Day In The Life -27th.-




 ブザーが鳴り響いたのは、午後三時近くのことだった。
明け方まで酒を片手に自問自答を続けていたアリオスだが、知らないうちにソファでそのまま眠ってしまっていたらしい。
 大音量で響き渡るひび割れた音のブザーが止むと、バタン、と玄関の扉が開けられる音がした。無用心だが、鍵をかけずに眠ってしまったのだろう。
 遠慮のない足音の主はすぐにリビングのドアを勢いよく開けて現れた。
「は~い、アリオス。鍵かかってなかったから勝手に入ってきちゃったよ~ん」
目覚めの第一声としては絶対に聞きたくなかった声だった。
「・・・何の用だ、オリヴィエ」
「あら~、こんな時間にお目覚め?優雅なんだか怠惰なんだかわかんない生活送ってるわね、相変わらず」
 オリヴィエは向かいのソファにどさっと腰を下ろすとオーバーアクションで足を組んだ。
「二〇分待ったげるから、シャワー浴びて着替えてらっしゃい。楽しく二人でお食事に出かけるわよ」
 軽い言葉とは裏腹に、その声には剣呑な響きが含まれていた。
 
 
 
 アパルトメントから三分ほどの所にある、ゲイ・ハサーというハンガリー料理のレストランで遅めの昼食を摂ってセイランが自室のある五階に戻ってくると、二つ隣りの部屋の前に一人の少女が佇んでいた。
「何でも屋に用ってわけじゃなさそうだね」
 他人に干渉するのもされるのも嫌いなセイランが彼女に声をかけたのは、彼女があまりにも沈んだ顔で立っていたからだった。
 彼女のことは、二つ隣りの部屋の住人の片割れと一緒にいるところを何度か見掛けたことがある。
だが、数度見掛けたそのすべての時において、彼女はもっと幸せそうな笑みを湛えていた。
「あ、はい・・」
声を掛けられるとは思っていなかったのだろう。驚いたように顔を上げ、彼女は頷いた。
「アリオスに・・。会いに来たんですけど」
「いなかったのかい?」
「いたんですけど・・。出かけるところでした」
 すごく華やかな・・・たぶん男の人だと思うんですけど、その人と一緒に。
そのセリフで、オリヴィエが来ていたのだな、とわかる。セイランはオリヴィエとも顔見知りだった。
「それで、そんな沈んだ顔してたってわけかい?アリオスにだって色々都合もあるだろうに」
「あ、違うんです。一緒に出かけたかったのは本当だけど、それがダメだったからってわけじゃなくて・・」
 上手く言葉にできないらしく、彼女はそう言うと俯いた。
その様子にセイランは溜息をついた。お節介を焼くのは趣味ではないのだが。
「生憎僕は銘柄なんてものに拘る性格じゃなくてね」
「え?」
唐突な言葉に、彼女は首を傾げてセイランを見る。
「高かろうと安かろうと美味しいのならそれでいいのさ」
「えっと・・」
「お茶くらいなら出せるけど?」
 インスタントだから、キミが高級志向だっていうならオススメはしないけれどね。
その言葉に彼女は少し迷ったあと、頷いた。
 
 
 
 「さっきの子が、噂のアンジェちゃんってわけかー」
レスタースクエアステーションのすぐ近くにあるコーク&ボトルというワインバーに腰を落ち着けると、オリヴィエは早々に話を切り出した。
「別に噂にはなってねぇだろうが」
「オスカーに聞いたのよ」
「そういえば、オマエ、アイツと飲んでたんじゃなかったのか?」
昨日、オスカーはそう言っていたはずだ。
「飲んだわよ。だからこーしてワタシがアンタんとこ来たんじゃない。朝まで飲んで、寝床も提供してやったから、あのバカ、まだ眠ってるんじゃないの~?こっちは睡眠不足もいいとこよ、まったく」
 手早く注文を済ますと、オリヴィエはふっと真剣な顔になった。
「で?」
覗き込むようなその視線に、鬱陶しげに髪をかきあげるとアリオスはオリヴィエを見返す。
「何が言いたい」
「アンタはどうするつもりなのかと思ってね」
にやりと笑ってオリヴィエはそう言った。だが、その視線は表情を裏切って鋭い。
「・・・何処まで知ってるんだ、オマエは」
「知らないわよ」
「?」
「アンジェリークって子が現れて、そりゃあ可愛らしくて素直ないい子で、アンタはその子をすごく気に入ってる。アイツが話したのはそれだけよ」
 それだって、随分酔いが回ってからやっと話したんだけどね。
運ばれてきたハムとチーズのパイを食べながらオリヴィエはそう言った。
「どっからそれだけ言葉が出て来るんだってくらい口の減らないヤツだけど・・・。でも、アイツ、自分のことは喋ろうとしないの、知ってるでしょ」
 そうなのだ。オスカーは饒舌でありながら、自身のことはほとんど話さない。それすらも、深く付き合ってみないとわからないほど、彼は巧みに会話の舵を取る。
 だから、オスカーは「終わりにしよう」と言ったことも当然話していないのだ。恐らくは普段と変わらない様子で朝まで飲み明かしたのだろう。
「だったら、オマエはなんでオレのとこに来たんだ、オリヴィエ」
「孤独だったから」
「・・」
「昼過ぎに喉が乾いて目が覚めて、叩き起こしてやろうかと思ってオスカーの様子見たのよ。アイツはまだ眠っててさ。そしたらなんか・・・。上手く言えないんだけどね、すごく孤独に見えたのよ、あのバカが」
 自分の勘の良さには絶対の自信を持っているオリヴィエは、その直感に従って行動することを即座に決めた。オスカーが孤独に見えるということは、その原因はきっとアリオスにある。明け方近くになってオスカーが言った、アリオスが気に入っているという少女が二人の間の楔となっているに違いない。
「オスカーがさ、アンタに惚れたんだって気づいた時ね、そりゃあ驚いたよ、ワタシ。だってアイツの女好きはよぉく知ってたからね。でもね、だからわかったのよ。あの徹底した女好きでプライドの高いアイツが、そういうハードルを越えるほど、アンタのことを好きになったんだって」
「オリヴィエ」
「あのバカ、笑っちゃうけど、結構健気なトコあるからさ。そこまで好きになった相手のこと最優先しちゃうんだよねぇ。女の子のことも優先しちゃうけど」
 あんな態度デカい癖して、実は自分のことは後回しってんだから可笑しいったらありゃしない。
言葉と裏腹に大して可笑しそうでもなくオリヴィエは言い募る。
「アリオス。ワタシはアンタのこと、結構いい飲み友達だと思ってるけどね」
アリオスが無言でオリヴィエを見遣った。
「でも、アンタと知り合う前からあのバカはワタシの悪友なのよ。しかも悔しいことに、結構大事なね」
オリヴィエはワイングラスを回しながら笑う。アリオスから視線を外さずに。
「べっつに、別れるな、なんてバカなこと言わないわよ。アンタがそのアンジェちゃんを選ぶってんならそれでもいいわ。けどね」
そこでグラスを置いて、オリヴィエは静かに告げた。
「アイツだけが犠牲を払うような終わり方だけはやめて」



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A Day In The Life -26th.-




 アンジェリークのことを、護ってやりたいと思う。それは今も変わらない。
けれど、彼女の中にエリスを見ていることを、否定できない。
護ってやりたいと思う、その気持ちが、護ってやれなかったエリスへの想いも引き摺っていることを、アリオスは疾うに自覚している。それでも、彼女に惹かれる気持ちは止められなかった。アンジェリークは、あまりにもエリスに似過ぎていたのだ。
 歯止めのないまま、彼女に惹かれ、時間を過ごし、ますますアンジェリークにエリスの面影が重なり。けれど、アンジェリークとエリスは別人だ。だから誤魔化し続けていた。一体、自分はアンジェリークを見ているのか、エリスを見ているのか。
 だが、本当は。
それ以前に、気づかない振りをしていたことがある。
 自分は、オスカーとの関係をどうしたいのか。
アンジェリークと出逢ってから、オスカーとまともに会話する機会は極端に減った。触れ合うこともない。きちんと顔を見ることも無くなっていた。
 アンジェリークを初めて見た日。そのあまりにエリスとよく似た姿に、酷く狼狽した。記憶の底に沈めたものを突然引き上げられて、居ても立ってもいられなかった。浴びるどころか、浸かる程の酒を飲み、したたかに酔った勢いのまま、オスカーを無理に抱いた。
 黙ってたな、アイツ。
ソファに寝転んで、アリオスはその時のことを思い返す。
 あんな風に無理矢理行為に及んで、それを良しとするような男ではない。元々何をしても拮抗する二人だ。オスカーが本気で抗えば、泥酔状態だったアリオスを跳ね除けることなど造作もなかっただろう。
 だが、オスカーは黙ってアリオスを受け容れた。
到底愛撫とは呼べない乱暴な行為に、苦痛の声を噛み殺しながら、決して「やめろ」とは言わなかった。
翌日には、何でもないような顔していた。きっと、躰は悲鳴をあげていただろうに。
 いつだって、そうだった。
出逢ってから今まで、些細なことで子供の喧嘩じみた言い争いをしたりすることはよくあったが、オスカーとの会話で神経が逆撫でされたことなど皆無だ。アリオスが本当に触れて欲しくないと思っていることは、オスカーは何も訊かずに受け容れてくれていたのだ。アリオスが意識せずにいるうちに、オスカーは触れていいもの、触れてはいけないものを感じ取っていた。あの男はそれをいとも容易くやってのけたから、気づけばそれが自然になっていたのだ。アンジェリークに「魘されていた」と起こされるまで、意識せずにいたほど。
 初めて逢ったとき、オスカーはしばらくアリオスを凝視していた。
色違いの眸を好奇の目で見られることには慣れていたから、オスカーのその凝視にも特に何も思わなかった。珍しいとか、猫のようだとか、そんなことを言われるのだろうと思っていた。だが、彼は暫く黙って見つめていたかと思うと、ふっと笑ってこう言った。
 初めて見たが・・・。綺麗な色だな。
そのセリフに驚いたことを、今でも憶えている。
「何やってるんだ」
取りとめもなく思い返していると、オスカーがリビングのドアに凭れていた。
「・・・別に」
「お嬢ちゃんとどこか行かなくていいのか?」
「なんでだ?」
アリオスはソファから身を起こすと、オスカーを見つめた。
「お嬢ちゃん、明々後日帰るんだろう?」
「ああ、らしいな」
昨日、アンジェリークにそう告げられた。オスカーは恐らくレイチェルあたりに聞いたのだろう。
「だったら、もっと一緒にいたいんじゃないのか?」
 少なくとも、アンジェリークはそう思っているはずだ。
「そうだな」
「なら・・」
「オマエ、それでいいのか?」
オスカーをじっと見つめてアリオスは言った。
 彼女と一緒にいたい、そう思う気持ちはアリオスの中にもある。
けれど、今は考えなくてはならないのだ。
 自分はアンジェリークを見ているのか、エリスを見ているのか。
そして、自分が本当に心から欲しているのは誰なのかを。
 アンジェリークを庇ってエスカレーターを転げ落ちたあの時、途切れていく意識の中で思い描いたのは誰だったのか。誰の名を呼んだのか。
「それでいいって?」
オスカーは意味がわからない、というように首を傾げた。
「そのままの意味だ」
アリオスが、アンジェリークと共にいるということの意味。アンジェリークを選ぶということの意味。
「お前、お嬢ちゃんのこと大切に思ってるんだろう?」
オスカーがまるでからかうように微かに笑った。
「・・・」
「可愛らしいし、素直だし、正直お前みたいなひねくれ者には勿体無いくらいだと思うけどな。お嬢ちゃんもお前のことを好きなようだし。あの子、お前のことを話すとき、そりゃあ幸せそうに笑うんだぜ?ったく、俺が口説きたいくらいだ」
 俺の方がよっぽどいい男なのにな。
肩を竦め、オスカーは一気にまくし立てる。
「一昨日だって、庇われた所為で責任も感じてたんだろうが、お前の目が醒めるまでついていたいって、目の下に隈作ってまで言うんだ。お前がのうのうと寝てた所為だぞ」
「オスカー」
言葉を遮るように、アリオスは名を呼んだ。
だが、オスカーはそれを無視して続ける。
「なんなら、パリまで行ったらどうだ?どこにでもストーカーはいるだろうからな。ロンドンだけじゃなく、パリのレディたちにも安心を届けるってのはいいかもしれないぜ。お嬢ちゃんもお前といつでも会えるほうが喜ぶだろう」
「オスカー」
「ああ、悪い。オリヴィエと飲む約束をしてるんだ。夕飯作ってないから、お嬢ちゃんを誘ってどこか食べに行くんだな。なんならお嬢ちゃんの手料理をご馳走して貰うって手もあるが」
「オスカー!」
 キッチンは勝手に使ってくれ。たぶん今夜は帰らないから。
そう言いながらリビングを出て行こうとするオスカーを、強い口調で呼び止めると、オスカーは振り返ってアリオスを見た。
「なあアリオス。終わり、でいいじゃないか」
さらりとした口調だった。まるで、世間話をするかのような。こちらを見つめてそう告げるオスカーの口許には笑みさえ浮かんでいる。
「詳しくは知らないが、お前は昔何か大切なものを失って、今その穴を埋めてくれる何かを見つけたんだ。彼女はそういう存在なんだろう?だったら、迷わず彼女の手を取ればいいんだ。この二年間は・・・そうだな、ちょっとした暇潰しだな」
 自分とのことは、独りでいるには長すぎる時間を埋める為の暇潰しだったのだと、オスカーはそう言い切って見せる。
「だから、気にするなよ。お前らしくもない」
「オスカー・・・」
「時間に遅れちまう・・。じゃ、な」
 笑みを浮かべたまま頷いて見せると、オスカーはリビングのドアを閉めた。
「・・・」
一人残されたリビングで、アリオスは、閉じられたドアをただじっと見つめていた。



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A Day In The Life -25th.-




 いつも夢は幸せな風景から始まる。
大切なものに出逢えたと、愛しいものが出来たと、その歓びに溢れていた頃の風景。
 レヴィアス、と夢の中で振り返った少女が呼んだ。
その面差しは、驚くほどアンジェリークに似ている。
屈託なく笑う彼女の名前は、エリス。記憶の奥底に沈めたはずの名前。
 あの頃は、彼女の名前を呼ぶと、とても穏やかな気持ちになれた。
 彼女に名前を呼ばれると、生まれてきたことを感謝できた。
愛情の希薄な環境に育った自分に、愛しい、という想いを、彼女が教えてくれた。
エリスは時には強引なほど強い意志で以て自分の心に真正面から入り込み、快活に笑い、そして、いつだって優しかった。
 貴方の眸が大好きよ。だってほら、こんなに綺麗な色をしてる。
奇異の目で見られていた色違いの眸を、「好きだ」と言ったのは彼女が初めてだった。
 呪われた眸だと思っていた。すべての不幸の元凶のようにさえ感じていた。
その色を、綺麗だと言った彼女。その言葉で、どれだけ視界が開けただろう。
エリスの言葉はいつも、胸に刺さった無数の杭を一本一本抜くように、心の中に染みていった。
 貴方は言葉が不器用ね。
 それにすぐに照れて誤魔化すから、冷たい人みたいに見えるわね。
 だけど私は知ってるわ。貴方が優しい人だって。
 貴方の手が暖かいって、私は知ってるわ。
 世界中で他に誰も気づかなくても、私は知ってるってこと、忘れないでね。
 でもきっと、他の誰かも気づいてくれるから。貴方の眸がこんなに綺麗だってこと。
 私の手は小さくて、貴方を抱き締めてあげられないけど。
 その眸の美しさに気づいて、抱き締めてくれる人は絶対、どこかにいるから。
彼女を抱き締めて、そうして生きていくのだと思っていた。
孤独な日々は終わりを告げ、二人で歩むのだと思った。
 けれど、すぐにその風景は一転する。
浮かぶのは、哀しそうな眸の彼女。
じっとこちらを見るその眸から、一粒の涙が零れ落ちた。
 ゴメンね、と唇の動きが語りかける。
手を伸ばしても、触れられない。深く暗い溝が二人の間に横たわっている。
 レヴィアス、と呼ぶ声はもう聴こえない。
 エリス、と呼ぶ声はもう、届かない。
ただ、哀しげな彼女の眸がじっとこちらを見つめているだけだ。
 どんなに時間が経っても。
 どんなに忘れようとしても。

 「・・リオス!アリオス!」
 揺り起こす手と、何度も呼ばれる名前。
深く暗い記憶の海に沈んでいた意識が急激に覚醒する。
目を開けて、飛び込んできたのは・・・。
「エリス・・・」
「アリオス?」
「あ・・いや、アンジェか。寝てたのか、オレは」
「うん・・。大丈夫?魘されてたけど」
その言葉が、妙に心に引っ掛かる。
 精密検査の結果、脳に異常は見られずアリオスは退院を許可された。昨夜一度アパルトメントに戻ったアンジェリークが、今朝また訪れたのだった。
「ねえ、アリオス」
アンジェリークが幾分強張った表情で話し掛ける。
「なんだ?」
「あのね・・エリスさんて、誰?」
「・・・っ!」
「あ、あの、魘されて、呼んでたから・・・。どんな夢だったのか、よければ教えて欲しいなって、思っただけなの・・」
「・・・すまねぇ」
 それは、教えられない、という意味の謝罪。
アンジェリークは慌てたように手を振り、それを遮った。
「あ、いいの。話したくないなら。ただちょっと気になっただけだし」
 ほんとに、気にしないで。
そう言ってアンジェリークは退院の手続きしてくるね、と病室を出て行く。
それを見送って、アリオスは溜息をつくと髪をクシャクシャとかき回した。
神経がささくれ立っているような、そんな僅かな苛立ちを感じる。
 アンジェリークの言葉が妙に引っ掛かったのは何故なのか。
そう考えて、アリオスは一つの事実に思い当たった。
 夢を見て、「魘されていた」と起こされたのも、夢の内容を訊かれたのも、初めてだったのだ。
 何でもない他人でも、目の前で魘されていたら、その夢の内容が気になるのは当たり前だ。それが、ある程度以上の好意を感じている相手だったら尚更だろう。
アンジェリークの言葉は尤もで、「魘されていた」と起こすのも当たり前だと思う。
当たり前だと思うのに、心はざわざわと苛立つ。
 今までも何度も夢は見た。一人の時は飛び起きたりもした。
けれど、この二年の間、一人で飛び起きたことも、「魘されていた」と起こされたこともなかった。
 オスカーが、何も訊かず、そ知らぬ顔で起こしてくれていたから。
一度や二度ではない。何度も目の前で悪夢に魘される自分を見ていて、気に、ならないはずがなかったのに。
それでも、オスカーは気にしているという素振りは絶対に見せなかった。
そうしてくれることに、自覚しながら甘えていた。オスカーならば、訊かずに放っておいてくれると、そう思って。
 それは、どんなに難しいことだったのだろう。
今更ながら、考える。
 エリスを失って夢を見るようになった。それからはずっと独りだった。誰かの前で眠ったりすることなどなかったのだ、オスカーと出逢うまで。アリオスが夢に魘される、その場に居合わせたことがあるのは、オスカーだけだった。だから、比較しようもなかったのだ。今こうやって、アンジェリークに言われるまで。
 何も訊かずにいるということが、どれほど難しいのかを。



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A Day In The Life -24th.-




 アリオスが事故に遭って病院に運ばれたと、オスカーが連絡を受けたのは翌朝のことだった。
 昨夜は、久しぶりにクラブやパブを梯子して朝まで飲んでいたのだ。
日が完全に昇ってからアパルトメントに帰り、シャワーを浴びてすっきりしたところで、ブザーが鳴り響き。
ドアを開けた途端、「何処行ってたんですか!」とレイチェルに怒鳴られた。
 話を聞いた時にはオスカーも一瞬蒼白になったが、命に関わるようなことはもちろん、目立った外傷もないと聞いて安心する。
「アンジェがついてるんですけど」というレイチェルの言葉に、ちくっと針が刺さったように胸が痛んだが、それはもう諦めてしまった。アンジェリークを庇ったというのだから、彼女が離れるわけがないのだ。
 大した怪我もないというし、いっそのこと、自分が行かなくてもいいのではないかと思いもしたが、入院となれば雑多な手続きも必要だ。フランスからの旅行者に過ぎないアンジェリークにその処理は無理だろうから。そう自分を納得させてオスカーは病院に足を向けた。
 病院に着くと、途端に重くなる足取りを自覚する。
病室にはアリオスがいて、そしてその傍らにアンジェリークがいるだろう。
 自分は、そこに割ってはいる部外者なのだろうと容易に想像がついた。
わざわざそんな状況の中に足を踏み入れて平気でいられるほど、図太い神経は持ち合わせていない。足が重くなって当然だった。
 それでも、一歩ずつ病室は近づき。
「お嬢ちゃん」
こうやって、何気ない風を装っている自分がいる。
「オスカーさん・・・。よかった、連絡ついたんですね」
振り返ったアンジェリークがほっとしたように言った。
 アリオスは、眠っているようだった。
「すまなかったな。・・・で?どうなんだ、そのバカの様子は」
 まったく、お嬢ちゃんを助けるなら、着地まで決めて見せろってのに。
おどけてそう言うと、アンジェリークがふふ、と笑う。
「外傷はちょっとした打撲とかすり傷程度で・・。ただ、頭を打ってるから、目が醒めたら精密検査をすることになるって。それで問題なければ明日にでも退院できるそうです」
そう言うアンジェリークの目の下に、うっすらと隈ができているの見て取って、オスカーは彼女に休むよう薦めた。
「お嬢ちゃん、ほとんど寝てないんだろう?俺が代わるから、帰って休んだほうがいい」
しかし、彼女は首を振った。
「アリオスの傍についていたいんです・・・。お願いします」
真摯にオスカーを見つめる眸には、一途な気持ちが溢れていて、それがひどく羨ましく思える。
 こんな風に、素直に想いを表現したことなどあっただろうか。
それだけで、彼女と自分の差を思い知る。
「そうか・・・。じゃあ、こいつのことはお嬢ちゃんに任せて、俺は手続きして帰ることにしよう。一応、NHSに入ってるからな」
 NHSとは"National Health Service"の略で、イギリスの健康保険制度だ。これに加入しているかどうかで、入院費や検査費も雲泥の差がつく。
「あ、それなら確認はして貰いました」
「え?」
「ここに運ばれたとき、NHSに入ってるかって訊かれたんです。わからないって言ったら、名前と住所で検索して確認するからって言われて・・」
「名前って言っても・・」
国家の保険制度に加入する以上、本名で登録されている。アリオスの名前では確認が取れるはずがない。
「レヴィアス、ですよね」
 一瞬、呼吸が止まった。
アンジェリークに気づかれる前に、ゆっくりと息を吐き出す。
 アリオスが、彼女にその名前を教えた。そのことが示す事実。
このロンドンで、アリオスの本当の名前を知っていたのはただ一人、オスカーだけだったのだ。つい先日までは。
 引導を、渡されたかな、とオスカーはぼんやりと思った。
アリオスの中で、アンジェリークはそこまでの存在になったのだ。もう、アリオスの隣り、という位置は譲るべきなのかもしれない。気づかない振りをしてそこにしがみついても虚しいだけだ。
 元々、同性、という特異な関係だ。長く続くわけがなかったのだと思う。生まれ持った性癖で同性しか愛せない、というのならともかく、二人とも本来はノーマルな性癖の持ち主だ。戻るべきところへ戻ったのだと、そう思えばいい。
「オスカーさん?」
急に黙り込んだオスカーをアンジェリークが不思議そうに見る。
「いや・・・。アリオスは、君のことをとても・・・大切に思ってるんだな」
わざわざ確認するようにアンジェリークに告げたのは、自分に言い聞かせる為だった。
「そうでしょうか・・・?」
不安そうな彼女に、微笑んで頷いてやる。
 不思議と、彼女に対する嫉妬めいた感情はなかった。
勝負になりようがないと、最初から知っていたから。
「ああ。じゃなきゃ、そいつが本当の名前を教えるわけがない」
 出逢って、ほんの一週間ちょっとで、本当の名を教えられたアンジェリーク。
自分がその名を知ったのは、出逢いから半年近く経ってからのこと。それも、偶然だった。
それだけで、アリオスの中で占める比重がわかるではないか。
 お前は、失くした何かを埋めてくれるものを、見つけたんだな。
アンジェリークの頭越し、目を醒ます気配のない男を見つめて、オスカーは胸の中でそう語り掛けた。



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A Day In The Life -23th.-




 襲い掛かってくる敵を正確な射撃で次々に倒していくと、"Congratulation!!"の文字が浮かび上がってくる。ゴーグルを外すと、見物客から拍手が起こった。
「アリオス、凄い!」
銃型のコントローラーを置くと、横でアンジェリークが嬉しそうに言った。
「ランキングトップよ。全然ミスしないんだもの」
 ここはピカデリーサーカスのすぐ近くにあるファンランドというアミューズメントパークである。パーク、というよりもセンター、と言う方がいいのかもしれない。トロカデロというビルの三階から七階を占める巨大ゲームセンターだった。
 アリオスはヴァーチャルシューティングゲームをプレイしていたのだ。
アリオスはゲームというものにあまり興味はない。同じゲーム、というならカードやビリヤード、ダーツといった駆け引きの要素のあるゲームの方が好きだったが、アンジェリークがここに行って見たい、という気持ちは理解できるので、素直に連れてきてやったのだった。十代の少女にとって、これほど規模の大きいアミューズメントパークはやはり魅力的なのだろう。
 興味はない、と言っても、プレイさせればアリオスは大抵のゲームはなんなくクリアした。今のように、得点ランキングのトップになることも珍しくない。
「腹減ったな」
並んで歩きながら、アリオスがぼそっと言った。
「そうね。もうそろそろ夕飯の時間ね・・」
同じビルの中に、飲食店も多く入っているので食べる場所には困らない。
「一昨日の。ポトフ、美味しかったね」
「ああ・・。アイツはあれが趣味みたいなもんだからな。こないだのアレだって、昼前からずっとキッチンにいたんだぜ?信じらんねぇヤツ」
「でも、凄く美味しかったじゃない。あんなに美味しいポトフ、私初めて食べたもの。どこかのシェフが作ったって言われたって、みんな信じるわ」
リフトで飲食店フロアに移動しながら、そんな会話をする。
「でも凄いな、私なんてお菓子作りは得意だけど、料理はまだ全然・・・。アリオスには絶対食べさせられないな」
「別に食える味なら何でもいいんだがな、オレは。」
 オスカーの料理への凝り方はアリオスにとって完全に理解の範疇を越えている。
それで一体、何度不毛な言い争いをしたことだろう。尤も、料理ほどではないにしても、オスカーはファブリックやリネンにも拘っていたから、そんな小さな言い争いはしょっちゅうだった。
 けれど最近は、そんな会話もあまり交わしていない。
どちらかがいる時はどちらかが出かけている。一日全く会わないということはなかったが、一緒にいる時間は極端に減った。偶然なのか故意なのか。恐らくは故意なのだろうと、アリオスにもわかっている。
 そういえば、最近はまともに顔を見た記憶がない。
鮮烈な印象を残す、色素の薄い眸を真正面から見つめたのはいつが最後だっただろう。
「ダメよ、そんなこと言っちゃ。アリオスは、言葉がぶっきらぼうなんだわ。本当は優しいのに」
 あなたは、言葉が不器用すぎね。本当は優しいのに。
ふとした瞬間に、目の前のアンジェリークに、懐かしい面影が重なる。
「エリス・・・」
「え?」
思わず呟いた名前は、アンジェリークにははっきりとは届かなかったようだった。
「いや、なんでもねぇよ」
「ならいいけど・・」
 何故こんなにも似ているのだろう。
まるで、過去を知っているのではないかと疑いたくなるほど、アンジェリークは時々アリオスにとってひどく懐かしいセリフを口にした。
そうして、アリオスの心の中にするりと入ってくるのだ。
「・・・レヴィアス」
「レヴィ、アス?」
「ああ」
「その名前が、どうかしたの?」
「オレの名前だ」
「え・・・」
 目的のフロアでリフトを降りながら、アンジェリークが首を傾げる。
「レヴィアスってのが、オレのホントの名前なんだよ。戸籍上、アリオスって名前のヤツはどこにもいない」
アリオスという名は、ロンドンに来た時に名乗った、いわば通称だった。
「レヴィアス・・」
 その響きが、信じられない程懐かしかった。
 あなたが好きよ、レヴィアス。
かつて自分にそう言った女と、同じ響きで呼ぶ声。
「どっちの名前で呼べば・・?」
「アリオス、でかまわねぇよ。ただ、教えたかっただけだ」
「うん。ありがとう、教えてくれて」
アンジェリークが嬉しそうに笑った。大切なことを教えて貰ったと。
その表情が、ますます記憶と重なってアリオスは目を眇めた。

 エスカレーターの前で、どのレストランにしようかと、アンジェリークが話していた時だった。
階下からエスカレーターで上がってきた家族連れと擦れ違い様、はしゃいで駆け出した子供がアンジェリークの足にぶつかった。
「きゃっ!」
突然足元に衝撃を受けたアンジェリークの躰が、あろうことか無人の下りエスカレーターの方向に倒れる。
「おいっ!」
腕を掴んで引き戻そうにも、アンジェリークの躰は既に半分以上投げ出されていて叶わない。咄嗟にアリオスは、自分の躰ごとエスカレーターに乗り出し、アンジェリークの躰を抱え込んだ。
アミューズメントビルの長く幅の広いエスカレーターでは、途中で引っ掛かって止まることもなく、二人の躰は一気に階下まで転がり落ちた。
「アリオス!!」
ドスン、と平らな床に投げ出されたのを感じて、抱え込まれた腕から抜け出したアンジェリークが、アリオスを見て蒼白になって叫ぶ。
「しっかりして!アリオス!」
 頭を打ったのか、朦朧とする意識の中、遠くで誰かが呼んでいる気がした。
アンジェリークは無事だったのだと、それだけを思うと、急激に視界がブラックアウトしていく。
 暗闇に沈んでいく視界の中で、脳裏に浮かんだのは誰だったのか。
 音にならない声で、名前を呼んだ相手は誰だったのか。
それを認識しないまま、アリオスの意識は途切れた。



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A Day In The Life -22th.-




 トッテナムコートロードはロンドン大学が面していることもあり、ここに通う学生や職員が多く行き交う通りだ。
 オスカーはその通りを、ロンドン大学に向かって歩いていた。偶々、知り合いに行き会ったついでである。
「なんでオメーも来るんだよ」
「面白いからに決まってるだろう」
「オレは見世物じゃねぇっ!」
「ムキになるなよ、坊や」
「坊やじゃねぇっつってんだろ」
「そうやって脹れっ面するから坊やなんだろ」
 オスカーの隣りを歩いているのは、ゼフェル・レンという少年だ。ルヴァのところに下宿しているので、オスカーとも顔見知りだった。まだ十七歳だが、飛び級でロンドン大学の電子工学カレッジに通っている、らしい。
らしい、というのは、彼があまり勤勉とは言い難い学生だからだ。講義を受けているよりも研究室にいることのほうが多い。
 そのゼフェルとオスカーが一緒に歩いているのは、先刻、アパルトメントに向かおうとするゼフェルと行き会ったからだった。
ゼフェルの目的の人物が入れ違いで大学に向かったことを知っていたオスカーがそれを教えてやると、ゼフェルはオスカーを捕まえて真剣な顔で訊いた。
「女の機嫌を直すにはどうしたらいい?」と言われた時には、ゼフェルには悪いが吹き出しそうになったものだ。
 ゼフェルが会いに行こうとしていたアパルトメントに住む人物、とはレイチェルである。
優秀な従兄に劣らず才媛である彼女は、やはり飛び級でゼフェルと同じ電子工学カレッジに通う学生なのだった。
 昨日、研究の工程に関することで些細な言い争いをしたのだという。そういえば、昨夜はレイチェルが研究室に呼び出されたと言っていたな、とオスカーは思い出した。てっきりエルンストの世話焼きで行ったのかと思っていたのだが。昨夜のことを思うと、ずるずると思考が深みに嵌って行きそうで、オスカーは意識的に思考をシャットアウトした。
「あいつのやり方だとまわりくどいんだよ。だからそう言っただけなのによ」
「そりゃ、研究過程を記録する為なんだろ。どうせお前はそういうものに見向きもしないからな。お嬢ちゃんの言うとおりだぜ。お前、研究はきちっと記録して発表しなきゃ認められないんだってわかってるのか?」
「わーってるよ、そんくらい!」
「じゃあ、彼女の言い分も尤もだってわかるだろうが」
「・・・あー、わかったよ。だからって、あんな怒ることねぇだろーによ」
 女ってのはどーしてああ面倒くせぇんだよ、と言いながらもバツの悪そうな表情のゼフェルが可笑しい。
「そんなんじゃ、お嬢ちゃんに厭きられるぞ。あの子みたいな美人で才媛なら、すぐに他の男が名乗りを挙げるだろうからな」
大学の門をくぐって、遺伝子研究室の方へと足を向けながら、核心をついてみる。
「お前、お嬢ちゃんのことが好きなんだろう?」
 反応は顕著だった。
「ばっ、バカなこと言ってんじゃねーよっ!なんっっっで、オレがあんなのを!」
「どうでもいいが、エライ注目集めてるぞ」
 通りすがりの学生たちが、急に大声を張り上げたゼフェルを何事かと見ている。
笑いを噛み殺しながらそう指摘してやると、不貞腐れたように横を向いた。
「怒るなよ、坊や」
「うるせー。笑ってんじゃねーよ」
「わかったわかった」
「ったく、バカにしやがって」
 そうではない。
どちらかといえば、羨ましいのだ。
 こんな風に、感情を素直に表に出せたらどんなにかラクだっただろう、と。
きっと、収拾もつかないほどの大喧嘩になるか、一気に壊れてしまうかどちらかだと思うが、それでも、今のように一歩ずつ断崖に向かって歩いていくような生活に比べればマシだったのかもしれない。
 もう、後戻りは出来ないけれど。

 「これは珍しい御仁だ」
遺伝子研究室を訪ねると、研究棟の前で白衣姿の二人の人物と出会った。
「ちょっとこいつの付き添いでな」
「誰も、んなもん頼んでねえっつーの」
「そっちこそ珍しいじゃないか、研究室の外にいるなんて。なあ、ロキシー」
「いやあ、この研究バカを無理矢理連れ出して遅い昼食を摂ってきたところさ」
白衣のうちの一人、ロキシーと呼ばれた研究員はおどけた様子で言った。
「ゼフェルさん・・・電子工学研究室にいたんじゃなかったんですか」
そしてもう一人が、レイチェルの困った従兄、エルンストだった。
「なんだよ、オレが外行ってちゃいけねぇのかよ」
「いえ、そんなことはないのですが・・」
エルンストが眼鏡の位置を直しながら言い淀む。
「じゃあ擦れ違いだねぇ」
ロキシーが顎に手を当てて呟いた。神妙そうな顔をしているが、その口許が笑っていることにオスカーは気づいた。
「なんだよ」
ゼフェルが苛々したように訊くと、ロキシーがにっこり笑う。
「レイチェル嬢がね、電子工学研究室に行くってさっきね。なんでもゼフェル君に用があるとかなんとか言ってたと思うんだが・・」
 完全に擦れ違いだねぇ。でも、走っていけば間に合うかもねぇ。
オスカーから見ても、このロキシーという男は研究員などという肩書きが詐欺に見えるほど食えない男だった。
「なっ・・・!」
 早く言えよ、そーゆーことはっ!
怒るように言い捨てて、ゼフェルが全力で走り出す。
「頑張れよ、少年」
とりあえず、オスカーは後姿に声をかけてやった。
「一体何が・・・?」
状況を把握できていないのはエルンストだけである。
「お前も、もうそろそろしっかり者の従妹に頼らず生活できるようにならなきゃな」
エルンストの肩にポン、と手を乗せてオスカーが忠告してやった。
「な・・・」
「いやぁ、レイチェル嬢のことだから、まとめて面倒見てくれるかもしれないぞ」
「一体、なんのことですか・・・?」
 研究以外のことにはとにかく疎い男が、わけがわからず二人の男を交互に見比べていた。



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