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ひっそりと触れた手に甘い想いを詰め込んで僕たちの足跡は交わることなく離れていく

 
 
 
 穏やかな、穏やかな、感情。
けれど、どこか小さな痛みを伴って。
 改札の向こうにあいつの姿を見つけたとき。
俺の隣りにも、あいつの隣りにも、それぞれの「愛すべき者」がいて。
無邪気に手を振り合っていた。
ゆっくりと改札を抜けて俺の前に立ったあいつに、「よぉ」と挨拶する。
 哀しいくらい、自然に。
今もまだ、胸の奥に燻り続ける何かがあるのに、それでも当たり前のように微笑んでる俺がいた。
 まだ、あの雨の日の記憶は鮮明に残ってるのに…。
 
 
 
 
 
 朝から曇っていた空は、午後になって静かに雨を落とし始めた。
傘を持っていなかった俺たちは、近くの喫茶店に飛び込み、向かい合って座りながら、何故か言葉を発せずにいた。
 いつもだったら。
いつもだったら、先刻解決してきた事件の話や、最近読んだ推理小説の話をしてとりとめもなくはしゃいでいるのに。
俺も服部も、心のどこかで感じていたのかもしれない。
お互いがお互いを想う、気持ちを。
 けれど。
その想いを口に出してはいけないことも、俺たちはわかっていたから。
 自分を待ってくれている大切な人がいる。お互いに。
それはかけがえのない存在。傷つけることなどできない存在。とてもとても大切な…。
でもそれは、今目の前にいる相手に感じるような、激しく切ない想いを感じる相手じゃない。
 言っちゃ、いけない。
 口に出したら、終わりだ。
言ってしまったら、止められなくなる。大切な人を、傷つける。
 服部はコーヒーを飲みながら、窓の外をじっと見ていた。
沈黙を誤魔化すためには、そうするのが一番よかったから。

 いつものように。
いつものように、事件の話をすれば、それでいいはずなのに。でも今、言葉を発しようとしたら、俺はきっと言ってしまう。
 おまえが、好きだって。そう、言ってしまう。
そしてたぶんそれは服部も同じで。
だから俺たちは、向かい合わせに座りながら、窓の外を見て。
口を開くどころか、お互いを見つめることさえ禁忌のようにコーヒーを飲んでいた。
 
 
 なんで、もっと早く出逢えなかったんだろう。
 そうしたら迷わずに言えたのに。
 今まで出逢った誰よりも、刺激のある存在。
 いつでも、未知の世界へ飛び出していけるような、唯一の存在。
 だけど。
 出逢う前に俺たちは。
 もう、それぞれの「安らげる場所」を選んでしまっていた。
 どこまでも、自分を受け入れてくれる存在を、選んでしまっていたんだ。
 
 
 カチャンと、カップを受けとめたソーサーが音をたてて、俺たちの意識を窓の外から逸らした。
ぼんやりと見ていた窓の外の、止みそうにない雨はそれでもだいぶ小降りになっていて。
「…行こか。」
ぽつりと、服部が言った。
 
 
 
 
 
 小雨の降りつづける中、急ぐでもなく俺たちは駅までの道を歩いた。
 言い出してしまいそうな衝動を堪えて。
この雨は、これから俺たちが戻るそれぞれの街にも降ってるんだろうかとぼんやり考えながら、気づけば駅の改札は目の前にあって。
「…。」
ここから、俺たちはそれぞれの街へ戻る。
服部は口を開きかけ…、結局何の言葉も吐き出せないまま俺を見た。
 この沈黙が、痛い。
この沈黙を、「好きだ」という言葉で打ち破りたい衝動が俺の中で渦巻いている。
すべてを捨てて目の前の相手の手を取れたら。
 けど。
結局俺たちは、俺たちを待っていてくれる存在を傷つけることなんかできなくて。
自分でもそうわかっているのに、言葉を告げたがる心は止まってくれなくて。
ちょっとでも気を抜けば、言葉を告げようとする。
 俺の心が、その沈黙に耐えられなくなったその時。
思わず口を開きかけたその瞬間、服部が、今日、初めてじっと俺を見つめて言った。
「…ほな、な。」
 それは、別れの言葉。
俺たちが、俺たち自身の想いに告げる、哀しい言葉。
 ずきずきと胸の奥が痛んで赤い涙を流すけど。
その時の俺には、もう、たった1つの言葉しか、口に出すことを許されてなかった。
 
 精一杯、普通に。
「…ああ。じゃあ、な。」
 
 
 
 
 
 「…元気か?」
「ああ。おまえは?」
「こっちも、別に変わらん。」
「そっか。」
久しぶりに会ったことにはしゃぐ蘭と和葉ちゃんの後を俺たちはゆっくりと歩いた。
 極々ありきたりな、どこにでもありふれた会話。
あの雨の日以来、俺たちが話すことは、事件のことだけだった。たまにする電話はすべて事件がらみで。
東京と大阪で離れているから会うこともなくて。
 事件について話すだけなら、俺たちは当たり前のように饒舌に話せた。
 だから、直接会ったとき、俺たちは普通に話すことができるだろうかと不安だった。
事件を間に挟まずに、俺たちは普通に接することができるんだろうかって。
 でも、ほら。
 こんなにも簡単に。こんなにも自然に。
並んで歩きながら話してる俺たちがいる。
 勿論、最近扱った事件のことも話すけど。でもそれだけじゃなくて。
学校はどうだとか、幼馴染にせがまれて一緒に恋愛モノの映画を見に行ったとか、そんな、他愛も無い話。
 あの雨の日以来、俺たちの間で途絶えていた、そんな普通の会話。
それを今、当たり前のように話してる俺たち。
 なんでだろう。
あの時の切なさは、まだ鮮明に残ってるのにな。
いや、残ってるなんてもんじゃない。まだ胸の奥で小さく燻ってるのに。
どうして、こんなにも自然に俺は話してるんだろう。
 なあ、服部。おまえも、そうなのか?
こうやって、俺と話すその笑顔の裏で、やっぱりおまえもそう思ってるのか?
 だって、あまりにも自然で。自然過ぎて。
俺たちは、あの時捨てるつもりでいた想いを、告げてしまってもいいんじゃないかって。
はしゃぐ彼女たちの手じゃなく、今こうして隣りを歩いてる相手の手を取ってもいいんじゃないかって。
 そう、錯覚してしまいそうになる。
そんなわけ、ないのにな…。
 でも、そんな微かな切なさと一緒に。
やっぱり俺を支配するのは穏やかな気持ち。
あの雨の日も今も、感じるこの切なさは嘘じゃないけど。
だけど、あの雨の日には感じなかった、この穏やかな気持ちも嘘じゃない。
 これが、時間なんだろう。
俺たちがこんなに自然に話すことができるのも、きっと、時間の所為。
 過ぎ去った分だけ。互いに距離を置いた分だけ。
 時間が。
あの時俺たちを支配していた切なさを、許容できるまでにした。
 それは、きっと、自然で、当たり前で。誰にだってあることで。
今こうやって、俺たちの前を歩いてる彼女たちだって。今この瞬間、擦れ違った見知らぬ誰かだって。一生擦れ違うこともなく、俺の知らないところで生きて、俺の知らないところで死んでいく誰かだって。
 痛みも、悲しみも、切なさも、愛しさも、喜びも。
全部、時間に委ねて生きている。
どんなに激しく自分を支配した感情も。時間の流れがいつのまにか、それを想い出に変えてゆく。
 激しかった想いを、哀しいほど、穏やかな想いに変えていく。
………鮮明に残る胸の痛みすら、どこか懐かしく感じるほど。
 結局、あの時、互いの手を取ることを選べなかった……選ばなかった俺たちは、今更あの想いを告げられるような激しさを持っているわけもなかったんだ。
 人を想うことに。想いを告げることに。
 資格なんてものがあるとしたら。
俺たちは、互いに想いを告げる資格を、あの雨の日に、自分から放棄したんだ。
 みんな、すべてを時間に委ねて生きているのなら。
あの時、彼女たちじゃなく、互いの手を取ったって、構わなかったはずなのに。
その一瞬、彼女たちを深く傷つけたとしても、それは時間の流れとともに癒されて、いつか許されるはずだったのに。
 それでも彼女たちを傷つけることを怖がった俺たちには。
 きっと最初から、今の道しかなかったんだと思う。
 
 
 
 「ほなな。」
あの時と同じ、別れの言葉。
「ああ。」
別れの挨拶なんて、それだけで終わってしまう。他に話すことも見つからなくて。
言葉豊かに別れを惜しむ彼女たちを、俺たちはぼんやりと見ていた。
 電車の発車を知らせるベルが鳴り響く。
 これが、永遠の別れなわけじゃない。いつだって、会おうと思えば会えるのに。
何故か、ふ、とあの雨の日の切なさがこみ上げてくる。
 和葉ちゃんが先に電車に乗りこみ、続いて服部が乗りこもうとした瞬間。
衝動的に、俺は服部の手に触れた。
そっと、触れるだけ。蘭にも、和葉ちゃんにも見えていなかっただろう。
 指先が触れた、その一点に。すべてを託して。
服部も、ただ一度だけ、指先でトン、と俺の手に触れ返す。
「じゃあな。」
その言葉とともに、電車の扉が閉まる。
そうして、俺たちは離れていく。
 
 
 
 
 
 ただ1度だけ触れた手。それだけが、俺たちの想いの証。