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カナリヤ




 アナタにとって一番大切な構成要素を失ったアナタは、アナタなのでしょうか。



 記憶障害なんてものは、思ったよりも簡単に起こるらしい。
自分が想像する「記憶喪失」は、例えばありふれた日常の中、突然の電話で近しい人が事故に遭ったと聞き、慌てて病院に駆けつけて病室のドアを開けると頭に包帯を巻いたその人が「どなたですか?」なんて尋ねたりして、呆然とする自分の横で医者がそっと首を振り「奇跡的に怪我自体は大したことないんですが、事故で頭を強打したらしく、記憶に障害がでています」などと言う、ドラマなんかでよく見る光景。それが記憶喪失だと思っていた。
 けれど実際は、事故なんかに遭わなくても、もっと簡単に障害がでてしまうものだったようだ。
 ベッドから落ちた。ただ、それだけ。
たったそれだけのことで、工藤新一は記憶を失った。
決してベッドが高い位置にあったわけでもない。落下距離はせいぜい五十センチ。そもそも、寝相は恐ろしくいいはずの新一がベッドから落ちたという事自体、俄かには信じ難かったが状況はそれしか考えられなかった。
 朝、いつまでも起きてこない同居人の様子を覗きに行って見ると、ベッドの脇に座りこんで呆然とこちらを見返す新一がいた。
 彼はドアを開けた平次をしばらく凝視した後、真剣な顔をしてこう言った。
「悪いんだけどさ、訊いてもいい?ここ、どこ?」



 最初は性質の悪い冗談だと思った。
けれど、そうではないとわかった時の衝撃は大きかった。
 自分の足元が砂のように崩れ去っていく、そんな感覚。
目の前にいるのは、工藤新一であって工藤新一ではない者。
新一は、自分の名前も両親のことも平次のことも大切な幼馴染みのことも、小学生としての生活を余儀なくされた事件のことも、すべてを忘れてしまっていた。
 それでも、一日ニ日もすれば元に戻るだろうと思っていた。
元に戻って、「…迷惑かけて悪かったな。」と誠意の欠片もない声で言ってくれると思っていた。
 しかし。工藤新一が記憶障害に陥ってから一週間。
相変わらず工藤新一は「工藤新一であってそうでない者」のままだ。
あの工藤新一とは思えない程従順な彼。
甲斐甲斐しく世話を焼く平次に、素直に「ごめん」と言う。
「そんなん、気にせんといてや。覚えとらんかもしれんけどここは工藤の家で、俺は下宿させてもろてる身なんやから。」
そう言って笑う自分が、滑稽だった。



 記憶をどこかに置いてきた工藤新一は、推理をしない。
平次にとって、なにより辛かったのはそれだった。
 今の新一に、あの真実を射抜く眸は、ない。
記憶を失ったからといって、知能が下がったわけでもない。相変わらず新一の頭の回転は素晴らしく良かったし、冷静な洞察力だって健在だった。
 それでも。
今の新一の中では、その頭脳も洞察力も、推理には結びつかないのだ。
 新一が記憶障害に陥ってからは、専ら平次が新一の代わりに警視庁に協力することとなっていた。幸い、難事件という程のものは起こらず、平次が現場に出向かなくとも電話で概要を聞けば解決できた。
「平次って、すごいんだな。」
簡単なアリバイトリックの存在を看破して容疑者を一人に絞り、話を尋くよう伝えて電話を切ると、後ろにいた新一が心底感心したように言った。
 記憶を失くした新一は平次のことを名前で呼ぶ。
たったそれだけのことなのに、呼ばれる度に心臓が痛い。
自分の知る「工藤新一」はいないのだと思い知らされるようで。
「こんなん、すごいうちに入らんわ。ちょっと考えればわかるよって。」
「でもやっぱすげーよ。俺にはさっぱりだ。」
無邪気に言う彼に、平次が焦がれて止まなかった「東の名探偵」の面影は、ない。
 「工藤新一」を語る上で、最も大切なキーワード。それが推理、だったのに。
「そないなこと、言わんといてや。」
 工藤新一の顔で。工藤新一の声で。
工藤新一のすべてを否定するような言葉を紡がないで欲しい。
「平次…?」
思わず口をついた科白に、新一が首を傾げる。
「あ、ああ、すまん。なんでもないんや。ヘンなこと言うて悪かったな。」
慌てて謝り、安心させるように笑顔を向けた。
 彼に言っても、仕方の無いことなのだ。
彼は工藤新一であって工藤新一ではない者。
工藤新一がどんな人間なのか、知る術のない者。
 工藤新一という名前と体を持った、全くの別人だと考えるのが一番だ。
今の新一に「工藤新一」らしい思考や言動、振舞を求めても酷なだけ。
 けれど。
「工藤新一」を求めて止まない想いは、どこに行けばいいのだろう。



 夜中にそっと、新一の部屋を覗いてみる。
ベッドサイドに立っても、新一は起きる素振りを見せない。
 以前なら、こんなことは有り得なかった。
人の気配に敏感な新一は、ベッドサイドに立つ程近づけば、余程体調が悪くない限り、確実に目を覚ましていたはずだ。
 こんな所にも「工藤新一」の不在を感じて胸が痛む。
このベッドで、新一の隣りで、眠ることの方が多かったのに。
「なんで、忘れたん…?」
誰も答えてくれない問い掛け。
答えを知っている唯一の人は、今、この世界のどこにもいない。
「…どこに、行ってしもたん?工藤…。」
こうして、夜中にそっと、眠る彼に向かって答える声のない問い掛けをする自分をどうしようもなく惨めで滑稽で女々しく思うのに、それでも止められない。
 新一の記憶が確実に戻る保障があるのなら、いつまでだって平次は待つだろう。
新一に対する平次の想いは、ちょっとやそっとの時が流れたくらいで屈するような、そんなヤワなものではない。けれど。
 新一の記憶は、戻らない可能性だってあるのだ。
それが、平次の心を弱くさせる。
 このまま、「工藤新一」は消えてしまう、という不安が。



 新一が記憶障害に陥ってから三週間。
一見それまでと変わらない日常が、「工藤新一」不在のまま繰り返されていく。
幸い、大学が長期休暇の真っ最中の為、新一の記憶がないことによるトラブルは起こらずに済んでいる。尤も、この長期休暇が終わるまでに新一の記憶が戻らなければ面倒な事態が起こることは目に見えていたが。
「平次ってさ、なんで探偵になったんだ?」
新一がそんなことを訊いてきたのは、目暮警部の依頼で事件を解決して帰って来た、蒸し暑い夜だった。
 少々難解な殺人事件。さすがに電話で状況を聞いただけではどうしようもなくて、久々に現場へ出向いて推理した。容疑者の話の小さな矛盾に気づいてアリバイを崩し、その他の証言から密室と思われた殺人現場がほんのニ、三分ずつ、ニ度に渡って出入りが可能であったことを立証して見せて犯人の自供に持ち込んだ。
 被害者はつい最近脳梗塞で倒れ、命に別状はなかったものの言語中枢に障害が残ってしまったラジオのDJ。加害者は、その妻。
 彼女は様々な事後処理を済ませたら自首するつもりだったという。
殺害を自供した後、目暮警部に動機を問われた彼女は静かに微笑んでこう言った。
「だって、あの人にはDJが天職だったんですもの。あの人にとって話すことがあの人の存在意義だったの。それを失くしてしまったら、あの人はもう、あの人じゃないでしょう。 唄えなくなったカナリヤは、死んでしまうしか道がないもの。」
 その科白は、平次の胸に深く突き刺さった。
涙を流すこともなく、淡々と、哀しげな微笑を浮かべた彼女が、自分に重なって見えてどうしようもなかった。
 それ以上その場にいることが、彼女を見ることが辛くて、馴染みの刑事たちへの挨拶もそこそこに、平次は逃げるように帰って来たのだった。
 少し蒼冷めた顔で帰って来た平次を見て、何も知らない新一が、探偵というものを余程辛いものなのだと思うのも仕方のないことかもしれない。
「なんで、そんなツラそうにしてまで、探偵なんてやってんの?」
 その質問に平次は瞠目した。
 「工藤新一」だったら、そんなこと、絶対に訊かない。
真実を射抜く眸を持った彼は、何故探偵をしているかなんて疑問は持たない。
 新一も、平次も、探偵だから謎を解いているわけじゃない。
そこに、隠された真実があるから、その真実を見つけているだけだ。
それは、真実を射抜く眸を持った者だけがわかる、真実。
「ははは…。工藤にそないなこと訊かれる日が来るなんて思てへんかったわ。」
乾いた笑いで胸の内の絶望をごまかして、平次は新一の方へ向きなおった。
 新一は、平次をじっと見ていた。
一瞬、記憶が戻ったのでは?と思うほど、以前の彼とよく似た眼差しで。
「・・・そんなに、『工藤新一』がいい?」
静かに、新一はそう問いかけた。
「工藤…?」
「記憶が戻るかどうかなんてわかんないのに。これから、ずっと『俺』が『工藤新一』かもしれないのに。みんな『俺』を代用品みたいに見る。おまえも、ぱっと見、親切に俺の世話焼いてくれてても、いつだって俺を見る時は『俺』の向こうの『工藤新一』を捜そうとして必死な眼だ。」
 まるで、犯人に推理を披露するかのような。
「工藤新一」の眼で、平次にそう告げる彼の声には、いっそ「工藤新一」に対する憎悪すら隠されていて。冷たく平次の胸を切り裂いた。
「……。」
 何か言葉を返さなければと思って口を開いても、言うべき言葉は平次の中のどこにも見つからない。
その様子に新一は、酷く哀しげに微笑った。
「………。『工藤新一』は、名探偵なんだって、蘭ちゃんが教えてくれたよ。推理となると他の一切が見えなくなる推理バカなんだってさ。『工藤新一』っていうパーソナリティーを語るとき、絶対に必要なキーワードが『推理』なんだろ?」
「…工藤?」
話の流れが読めず、平次はやっとの思いで新一を呼んだ。
「それでさ、彼女、こう言ったんだ。『新一はどうしようもない推理バカだけど、でも新一にとって大事なのは推理することじゃない。不当に隠された真実をきちんと見つけ出してあげることが大切なの。新一は、真実を見つけ出す眸を持った人だから』って。」
 記憶を失った新一に、そう『工藤新一』を語ってみせた幼馴染だという彼女。
話しながら自分を見る彼女の眼はとても遠くて。『工藤新一』の姿を語ることで、自分の中の奥深くに埋もれた『本当の工藤新一』を揺り起こそうとするかのようだった。
「工藤新一は俺なのに、誰も『俺』を見ようとはしないんだ。いつも、『俺』の中の誰かを探してる。」
 それは仕方のないことなのだと、新一にもわかっている。
けれど、記憶を持たない自分もまた、『工藤新一』であることに変わりはないのだ。
周囲が自分の中の『本当の』工藤新一を探そうとすればするほど、『偽物』にされた自分の心は悲鳴をあげる。
 それなのに。
「でもさ、いいんだ、別に。だって、仕方ないよな、ホントのことなんだから。」
先程まで冷たい憎悪を宿していた眸が急に力を失くした。
 自分がどんなに主張したところで、「工藤新一」が記憶喪失に陥り、その結果自分という新たなパーソナリティーが出てきたことは否定しようのない事実。覆しようがない。
「…だけど、俺は。」
 怖いくらい静かな声に平次の体に緊張が走った。
何も言えずにただ黙って見つめていた平次に新一は射抜くような視線を向ける。
「俺は、推理なんて、しない。」
その瞬間、平次は反射的に耳を塞ごうとする自分の手を必死で抑えた。
 それは、まるで死刑宣告のようで。
 何より最も聞きたくない科白だった。
「おまえらの探してる『工藤新一』なんて、どこにもいない。今、『工藤新一』は俺なんだ。『推理』がおまえらの探す『工藤新一』のキーワードなんだとしたら、俺は、絶対にそんなことしない。」
 痛い、と平次は感じた。
それは言葉で、決して直接危害を加えられたわけでもないのに、なのにはっきりと痛みを感じた。
 呼吸さえ止まってしまうと思うほどの痛み。
怒りと哀しみとが縒って心臓を締めつけているように感じるけれど、しかしその怒りと哀しみが、一体誰に対して、何に対してなのかははっきりとしない。平次がわかるのは、ただ、痛みと、真っ直ぐに自分を射抜く新一の眸だけ。
 きつく自分を見つめる新一の視線に耐えられず、平次は階段を駆け上がって自室に逃げ込んだ。
 ……「逃げる」という表現以外に有り得ないほど、新一の眸と科白に平次は追い詰められていた。



 自室のドアに背を預けて、平次は呆然と宙を見つめていた。
頭の中で考えがまとまらない。
「何逃げとんねん、俺は…。」
あそこで逃げたところで何の解決にもならないと理解できるのに、それでも新一と顔を合わせているのが怖かった。
 これ以上、新一自身の口から「工藤新一」を否定する科白を聞くのが怖かった。
 誰より愛しい相手の顔で、声で。
 愛しいその人自身を否定される。
それがこんなにも、辛いなんて。
「なんや俺、自分が信じられなくなってきよった…。」
辛いだけならよかった。
痛みに耐えれば済むのならそれでよかった。
 けれど。
自分の中に渦巻く感情は、それだけではなくて。
その激しい感情の波に、驚愕し。
 平次はぎゅっと自分を抱き締めた。



 そして同じように。
新一もまた、自室のベッドで仰向けになり、ぼんやりと宙を見つめていた。
「バカバカしい…。」
 あんなこと、言うつもりなんてなかった。
なのに一度口を突いて出てきた言葉は、自分でも止める事ができないほどエスカレートした。
その根底にあるものはただひとつ。
 「工藤新一」への、嫉妬。
傍から見ればきっと、不可解に違いない。自分に嫉妬するなんて。
けれど、記憶というピースを失った自分は、それ以前の自分とは別人格なのだ。
きっと、土台は一緒なのだろうに。思考パターンや物の感じ方だって、そう変わりはないのだろうに。
 それでも。
記憶というたったひとつの。そして、最大のピースを失った自分は、平次の求める「工藤新一」ではないのだ。
 それがこんなにも悔しいなんて。
「…バカバカしい。」
 何故、自分は平次の求める「工藤新一」ではないのだと、気づいてしまったんだろう。
気づかなければ、もっとラクだったのに。
 何も知らないまま、気づかないまま日々を過ごして、いつか、記憶を取り戻し。
この体を、「工藤新一」に返して。
そうして、何も気づかないまま自分は消えていけたなら、こんな想いに煩わされることもなかったのに。
 熱帯夜で、眠りの浅かった真夜中。
 ベッドサイドに立って自分の顔を見つめている平次の気配に目を覚ましてしまった。
 眩しい程明るく笑う彼が、弱々しく頼りなげに眠る自分に問い掛けた言葉を聞いてしまった。
 「…どこに、行ってしもたん?工藤…。」
耳について離れない、その言葉。
「ここ、だよ。平次…。」
そっと、胸を押えた。
ぼんやりと答えを口にしてみても。
 その声は、誰にも届かないまま宙に消えた。



 明りもつけず真っ暗な部屋の中で、ドアに凭れて座りこんでいた平次は、虚ろな眼をして立ち上がった。
 ふらふらと廊下を歩き、新一の部屋の前で立ち止まる。

「俺は、推理なんて、しない。」
そう言って、「工藤新一」を否定した彼。

「唄えなくなったカナリヤは、死んでしまうしか道がないもの。」
そう言って静かに微笑んだ彼女。

 頭の中で何度も何度もリフレインする、科白。
 「工藤新一」を否定されたとき。
 怒りと哀しみの後に平次を襲ったのは、強烈な殺意だった。
誰よりも何よりも大切な人を、奪った相手。その体の奥深くに「工藤新一」を閉じ込めてしまった者。それが、平次から見た、今の新一だった。
 そんな風に考えることが、いかに理不尽で身勝手なことか、平次にもよくわかっている。否、わかっていた。けれど。
新一が記憶喪失に陥って以来、ずっと心の底に沈殿し続けていた感情が、あの否定の科白で一気に浮上してしまった。
 普段だったら、それでも平次がここまで理不尽な感情に支配されることなどなかったのかもしれない。しかし、昼間解決した事件の犯人の言葉が、ずっと脳裏にたゆたっていた今の平次の理性の歯止めは、意味を成さないほど弛んでいた。
 
 
 推理を。真実を射抜くことを忘れた、否定した新一は、唄えなくなったカナリヤと同じ。
 存在意義を失った者が生きていたところで、一体誰が幸福になれるというのだろう。
 姿に変わりがないだけ、それは本人も、まわりの人間も不幸にする。
 いっそ、消えてしまっていた方が、どんなにかラクだっただろう。
 そうすれば、誰も傷つかなくて済むのだから。
 
 いっそ、消えてしまえば。




 
 ベッドの上に寝転び、そのまま新一は眠ってしまったようだった。静かに寝息をたてるその顔を、じっと見つめる。
 こうしていると、変わらないのに。
「…けど、違う。」
そっと、眠る相手の首に両手をかけた。
少しずつ、少しずつ、両手に力を込めていく。
抵抗のない体を死に至らしめるのは簡単なこと。
 ゆっくりと、けれど確実に力の込められていく手に、眠る新一の表情も少しずつ苦痛を見せ始める。
あまりの息苦しさに新一が目を覚ました時には、きっともう手遅れになっているだろう。
 それで、いい。
それで、工藤新一であってそうでない者は消える。もう、平次や他の人間が自分を見ないことに苛立ち傷つくこともない。周囲の人間が、同じ姿でありながら同じ人物ではない彼を見て哀しみに囚われることも、ない。
 そうして「工藤新一」は、永久に、消えるのだ。
還る器を失って。二度と、平次の前に現れることはない。
あの眸も、声も、体温の低い指先から感じる不思議な暖かさも。
何もかもが幻のように消え失せて、彼のいない世界が平次を包むだろう。
 そう。工藤新一の、いない世界が。
「んく…っ。」
思うように呼吸の出来ない苦しさから、眠ったままの新一が小さく呻き声をあげた。
 瞬間、両手に込められた力が弛む。
はっとして、もう一度両手に力を込めようとし、虚ろだった平次の顔が見る間に歪んだ。
 苦痛を耐えて泣きそうにも見える表情。
そして、平次は新一の首にかけていた両手を力なく外した。
「…できるわけ、ないやないか、工藤。」
新一のいない世界でどうしろというのだ。
「工藤新一」だけが、平次と同じ目線を共有できるのに。
その彼の戻る場所を、奪うことなど、できるわけない。
「工藤…。還ってきて…。」
そっと、眠る新一の肩口に顔を埋めて囁く。
「はよ、思い出してや…。」
 自分が誰なのかを。自分の存在意義を確立する、あの真実を射抜く眸を。
 そして、その目線で見た世界を、唯一共有できる相手のことを。
「おまえ居らんようになったら、俺、めっちゃ寂しゅうて敵わんわ…。」
体を起こし、入ってきたときと同じように静かに部屋のドアを開ける。
廊下に出てドアを閉める直前、ぽつりと言った。
 切実な。偽りなど一点もない、心からの願い。
 
 
「俺を…。独りぼっちにせんといて…。工藤。」


 
 
 
 平次の足音が、自室へ消えると、それまで新一の部屋に響いていた静かな寝息がぴたりと止まった。
眠っていたはずの新一が目蓋を開く。
「平次のばーか…。」
少し痛みの残る首を摩りながら呟く。
 いっそ、殺してくれればよかったのに。
 そうすれば、全部奪って逝けたのに。
 平次から、「工藤新一」を。そして、「工藤新一」から、平次を。
「…平次のばーか。」
もう一度、同じ言葉を呟いて、寝返りを打つ。
「…ほんとに、バカだよ…。」
誰が、とも何が、とも言わず、新一は目蓋を閉じた。




 
 翌朝。
いつまで経っても新一は起きて来なかった。
昨日あんなことがあったばかりでは顔を合わせづらいのはお互い様だが、時計の針が昼を指し示す頃になっても、姿を見せない新一を心配して平次が部屋を覗いてみると、そこには誰もいない。だいぶ前に起きだしていたようだった。
外に行ったのかと思って玄関を見てみるが、靴は全部揃っていて、そういうわけでもないらしい。
 なんとなく胸騒ぎがして家の中をあちこち捜してみても、新一の気配はどこにもなかった。
「どこ行きよったんや、工藤のヤツ…。」
どこか捜し忘れている場所はないかと、この家の間取り図を頭に思い浮かべる。
そうして一箇所だけ捜していない場所を見つけた。
 2階の廊下の突き当たり。一見戸棚のような扉の先にある細い階段を昇ったところにある、屋根裏部屋。
「遅かったな、平次。」
案の定、新一は屋根裏部屋にいた。
その様子に平次は眉を顰める。
「そないなとこに座っとったら危ないで。」
古くなった脚立の途中に座る新一にそう言うと、新一は静かに笑って首を振った。
「いいんだよ。」
 何かが違う、と平次の中で警鐘が鳴る。
新一は、何かしようとしている。けれど、何をしようとしているのか見当がつかない。
「平次があんまり寂しがるから、さ。返してあげようと思って。」
まるで悪戯でも仕掛けているような。そんな無邪気な笑顔で新一はそう言った。
「工藤…?」
「ホントはさ、返すつもりなんて全然なかったんだけどな。」
そっと、自分の首を摩りながら言う新一に、平次はその言葉の意味を覚る。
「工藤、目ぇ覚ましとったんやな…?」
「殺してくれても、よかったのに。」
穏やかな笑顔でそう言って、新一は立ちあがった。
 古びた脚立はそれだけの振動でも不安定に揺れる。
「でも、おまえにこの体を殺せるわけもなかったよな。」
言いながら、脚立を登る。
 以前は書庫で使われていたというその脚立は、平次の肩くらいの高さがあって、その分不安定だ。更に古くなっている分その不安定に拍車がかかっている。
「工藤、何する気や?」
「だから、俺が自分で壊そうかとも思った。でも、平次はすごく寂しそうだしさ。」
平次の問いに答える気はないらしい。
その間にも、新一は一段一段ゆっくり脚立に足をかけ、一番上の段に腰掛けた。
「どうしようかと考えて、賭けてみようって決めたんだ。「工藤新一」諸共この体が壊れるか、俺が消えるかどっちかだと思うけど。一応、俺は返すつもりではいるよ。そうならなくても、許してくれよな。」
「工藤、止めとき。」
 静止の言葉を投げ掛けて、古びた脚立に必要以上の振動を与えないようそっと歩を進めた平次が、脚立の傍まで行って新一を見上げた瞬間、新一は平次の肩をぐっと引き寄せた。
 そうして、腰掛けたまま、上半身を屈めて平次に口づける。
「…っ!?」
 何が起こったかわからず呆けた平次を離すと、新一は脚立の上に勢いよく立ちあがった。
「バイバイ。俺も、平次のこと好きだったよ。きっと、『工藤新一』とおんなじくらいに。」
「工藤っ!」
 ぐらぐらと揺れる脚立を止めようと、平次が手を伸ばした瞬間。
脚立の止め具が外れて一気に崩れる。と、同時に上に立っていた新一の体も投げ出された。
「くどぉっ!」
 受け身を取る気のない体は重く鈍い音をたてて床に転がった。
慌てて抱き起こすと、打ち身くらいで特に大きな外傷は見当たらないものの、計画通りにとでも言うべきなのか、頭を打って意識を失ったらしかった。
「ホンマに…記憶なくしても無茶しよるなぁ…。そんなトコはなぁんも変わっとらんのやな、工藤…。」
 意識のない体をぎゅっと抱き締める。
「アホやなぁ…。俺かて、『工藤新一』の次くらいには、好きやったで?」
 ちょお、1位と2位の差は大きかったのは事実やけどな。そんなことを呟いて、平次は笑った。
こんな無茶なことをした『新一』を。そんな無茶なことをさせる程追い詰められていた自分を。
そして誰より、記憶喪失なんてバカなことをして自分たちをこんなに苦しくさせた『工藤』を。




 
 自分と殆ど体格の違わない、意識のない体を運ぶのはかなりの苦労を要したが、それでもなんとか新一の体をベッドに横たえると、ベッドサイドに椅子を引っ張ってきて座り、新一の顔を眺めた。
「はよ、起きや。」
 もしかしたら目覚めてもまだ、記憶を失ったままの可能性だって勿論承知していたけれど。
 それでも、自分は、「平次に返す」と笑って言ってくれた彼を信じる。
彼が「返す」と言った以上、きっと、新一は還ってくる。
「はよ起きんと、これから毎朝レーズンパンにしてまうぞ?」
「…そんなことしてみろ。この家追い出すからな。」
 目を閉じたまま、返された声。
「工藤?」
覗きこんだ平次の前で、すっと新一が目蓋を上げた。そして、帰還の挨拶を告げる。
「よぉ、服部。」
三週間ぶりに、新一の声で、苗字を呼ばれた。
「ほんまに、工藤なんやな?」
「バーロォ、ったりめーだろーが。」
あまりに嬉しくて、何を言っていいのかわからなくなる。
どうしようもなくて、何も言わずに抱きついた。
「服部ぃ、こっちは全身打撲の怪我人なんだ。ちったぁ遠慮しろ。」
「…もう、戻ってこないかと思うた。」
「悪かったな、迷惑かけて。」
 少しも悪かったなんて思っていなさそうな口調があまりに新一らしくて笑った。
「もう、ええわ。」
 こうやって、思い出してくれたのだから、それでいい。
 独りぼっちにならずに済んだのだから、それで充分だ。
「あ、せやけど、ひとつ、訊きたかってん。」
「んー?なんだよ?」
「工藤、おまえ、なんでベッドから落ちたりしたん?」
「あー、それか・・・。」
 気難しい顔をして宙を睨んだあと、新一は照れくさそうに白状した。
「らしくねーんだけどよ。夢見たんだ。」
「夢?」
「そ。おまえと俺が、遠くに引き離される夢。で、飛び起きちまってさ。慌ててたんだな。ベッドから降りようとしたトコでシーツに足引っ掛けたんだ。」
「アホやなあ。」
「るせー。」
なんとなく、離れ難くてじゃれ合っていると電話のベルが鳴り響く。
しばらく無視してみるが、ベルが鳴り止む気配は一向にない。
「ったく、なんだってんだよ…。」
仕方なく平次が電話に出ると、聞き慣れた目暮警部の声がした。
手短に話を済ませて電話を切ると、平次は新一に向かって今切ったばかりの電話を振って見せる。
「目暮警部はんからや。密室殺人やって。どうする?全身打撲で調子悪いんなら、俺一人で行って来ても別に構へんけど?」
 その科白に全身打撲の怪我人のはずの新一が、勢いよく起きあがった。
「バーロ。俺が行かなくてどーするってんだよ。」
 予想通りの反応に平次は声を立てて笑った。
「ホンマ、それでこそ工藤や。」


 
 唄を忘れたカナリヤを、殺してしまってはなんにもならない。
いつかカナリヤは、自分の唄を思い出すから。

 
 
 推理するその表情。真実を射抜く眸。それこそがアナタがアナタたる所以。