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あぁもう。全て忘れて眠ってしまいたい。




 その夜エッジが寝床となるドワーフ城の宿に戻ったのは深夜だった。俗に言う午前様、である。
ここ暫く野営が多く、久々に宿に泊まれたのが昨日のこと。初日は久方ぶりのベッドの感触に思う存分惰眠を貪ったが、ずっと街の中にいて戦闘で体力を消費したわけでもなし、2日目となればそこまで寝ることもない。
 折角なんだから美味い酒でも飲まにゃ損ってもんだよな。
小石を蹴りながらエッジはうんうんと頷いた。
 26歳の真っ当な大人として至って健康的な思考に辿り着いている、とエッジは自負していたが、どうやら現在旅を共にしている仲間たちにはそういった思考はないらしく、ローザとリディアは紅茶を供にお喋りに興じていたし、セシルもそれにニコニコと微笑みながら付き合っていた。(女同士のお喋りに気長に付き合える忍耐力を持っているというだけでセシルは尊敬に値する、とエッジは真剣に思った)
もう一人の仲間はと言えば、夕食後さっさと部屋に引き揚げており、エッジは「あんまり遅くなっちゃダメなんだからね!」というリディアにひらひらと手を振って宿を出てきたのだった。
「ちぃっとばかり飲みすぎたかねぇ」
鼻の頭を掻いてエッジは辺りを見回した。シン、と静まり返った城内。最後まで開いていた酒場も閉まった今、僅かな見張り兵の他は誰もいない。リディアの言葉に適当に返事をして出てきたが、最早「あんまり遅くなってない」などとは口が裂けても言えない時間だった。宿に帰った途端仁王立ちのリディアが待ち構えている、ということはないだろうが、明日は朝から一通りの文句は覚悟しておいた方がいいだろう。
「ったく、酒は大人の嗜みだってのになー。お子様は解ってねーからなぁ」
宿の前でボヤきながらエッジはそのまま宿には入らず、建物の裏手を目指した。少し酔いを醒ましてから眠ろうと思ったからだ。敷地内に街を内包する形のドワーフ城の宿の裏手はこの灼熱の地底世界では希少な雑木林のようになっており、奥には小さな泉(正確に言えば温泉)があると昼間宿の主人が話していた。酔い醒ましには丁度いい散歩コースだろう。
 エッジは軽く鼻唄を歌いながら泉目指して歩を進める。忍の習性が身に染み付いている所為か、こんな時でも足音がしない。意識してるわけじゃないんだけどな、と自分でも誇らしさ半分呆れ半分の気持ちになったところで、耳に入り込んで来た、自分の鼻唄以外の音にぴたりと足を止めた。
 聞こえてきたのは水音。それだけであれば何ら不審な点はない。元々エッジは泉を目指して歩いてきたのだから。だが、聞こえてきたのは同じ水音でも「誰かが立てた水音」だった。つまり、この先の泉に先客がいるということだろう。こんな夜中に水遊びなんぞする物好きを見物してやろうと、エッジは気配を殺して慎重に泉に近づいていく。生い茂る枝に隠れるように泉を見遣ったそこにいたのは。
 ・・・泉の妖精さんってヤツ?
一瞬そんなことを考えて、何をメルヘンなこと考えてるんだオレは、とエッジは頭を振った。だが目線は泉から、正確には泉に腰まで浸かって立っている人物から離せないでいる。
 その背の半ば過ぎまで達した真っ直ぐな髪は、煙るような、という表現がよく似合う金色。日の光ではなく月の光を連想させる淡く儚げな美しい色彩だ。その髪がかかる肌は硬質な白。今は温泉に浸かっている所為で仄かに上気していた。白皙、とはこういう肌を指すのかもしれないとエッジは思う。
 男、だよな・・・。
まじまじと見つめてそう確認する。上背から考えると大分線が細いが、それでもその背中から腰にかけての余分な肉のないラインは間違いなく男性のものだ。
 あー、顔見えねぇな・・・。
エッジは内心で舌打ちする。今の位置からだと彼の背中しか見えない。たとえ男であっても、これだけの背中美人ならばそのご尊顔を拝したいと思うのが人の性というものだろう。一瞬考え込んだエッジだが、決断は早かった。
 べっつに女の風呂覗いたわけでもねぇしな。
まさか「きゃー」と叫ばれることもないだろうと、泉に向かって気配も足音も消さずに一歩踏み出した途端、エッジの体感時間は停止する。
 ・・・泉の妖精って冗談じゃなかった・・・か?
エッジは呆然と自身に問いかけた。そう思ってしまう程、エッジの気配に瞬時に振り返った相手は美しかったのだ。
 すっと通った鼻筋や薄く形のいい口許から眼に淡い影を作る睫に至るまで繊細に造形されたそれは、深夜の泉に腰まで浸かっているそのシチュエーションも相まって、まるでこの世の者とは思えない。
呆然と見つめていると、相手のブルーグレイの眸が訝しげに眇められる。
 こんな色の眼見たことねぇよ。
エッジは無意識にゴクッと唾を飲み込んだ。夜明け前の一瞬の空の色に僅かな靄をかけたような微妙な色合いの眸は今まで出会ったことのない色だ。蒼いのとも違う。その彩が彼を余計に神秘的に見せている。
 視線をずらせないでいると、怪訝そうな顔をした相手が口を開いた。
「・・・王子様?」
 ・・・・・・・・・ちょっと待て。
耳に届いた声に、止まっていたエッジの思考は一気にめまぐるしく動き出す。
 今、確かに耳慣れた声がした。しかもなんだかとても癪に障る声だったような気がする。ついでに人のことを小馬鹿にしたような呼び方をされた気もする。そんな呼び方をする人物は、エッジの記憶の中に唯一人しかいない・・・。
「カッ、カカカカッ、カ、カイン~ッ!?」
深夜の泉にエッジの絶叫が響き渡った。
呼ばれた相手は隠そうともせず溜息を吐くと、呆れ顔でエッジを窘める。
「煩い。時間くらい弁えたらどうだ、馬鹿王子」
「馬鹿王子言うな!喧嘩売ってんのかテメェは!」
「だから時間を弁えて静かにしろと言っている。話聞けよ」
やれやれと髪をかきあげる仕草すら優美で目を奪われそうになるのに腹が立つ。
「そーゆーオマエは何やってんだよ、こんなとこで」
「目が醒めたんでな。汗を流そうかと」
「わざわざこんなとこまで来て?」
「だから時間を弁えろと言っただろう。こんな夜中に宿の浴場なんて使ったら音が響く」
話しているとどう考えてもいつもの腹が立つ竜騎士なのに、ともすれば見惚れてしまいそうになるのが心底悔しい。
 しっかりしろ、オレ!
ガシガシと頭を掻き毟りながらエッジが自分を叱咤していると、そんなことには頓着した様子の欠片もないカインから声が掛かった。
「ところで王子様」
「だから王子様言うの止めろって言ってるだろうが。エッジだ、エッジ!」
「まあ、馬鹿王子でもアホエッジでも構いやしないが」
「馬鹿もアホも余計だ!」
「はいはい。・・・で、あんたはいつまで人の裸を見ているつもりなんだ?」
 王子様に男の裸を眺める趣味があるとは知らなかったな、と言いながら手が届く枝にかけてあったタオルを手に取ったカインが泉から上がろうとしているのに気づいて、エッジは慌ててそれを止める。
「わーっ!待て待て待て待てっ」
 ・・・って、なんでこんな慌ててんだ、オレ?
男同士で裸を見た・見られたなんて精々笑い話にしかならない。実際、「女の風呂を覗いたわけでもない」と堂々とこの場に出てきたのはエッジ自身であるし、見られた側であるカインにも別段気にしている様子はない。にも拘らず思わず取ってしまった自分の行動に疑問を感じて一瞬動きを止めたエッジは、目の前のカインをもう一度まじまじと見た。
 綺麗に浮き出た鎖骨のラインから、しなやかな筋肉のついた膨らみのない胸を通って細い腰まで視線を下げて、「あー、なんでこんなに白いんだよコノヤロー」と半ば八つ当たり気味に考えた後、ここから出てくるということは当然、今は夜の泉に隠れて見えない下半身が見えるということだと思い当たり・・・。
「やっぱダメだ・・・!」
 何がダメなんだか説明しろと言われてもできないが、とにかく駄目なものは駄目だ。
踵を返してエッジは一目散に駆け出す。自分がどんなに突飛な行動をしているかなんて気にしていられない。
「・・・王子様の考えることはさっぱり解らん」
後に残された首を傾げるカインの呟きはエッジの耳には当然届かなかった。



 何やってんだよ、オレは。
勢いのまま雑木林を駆け抜け宿で割り当てられた自室に戻ったエッジは、部屋の扉を閉めた途端頭を抱えてしゃがみこんだ。宿の部屋数に余裕があって一人部屋を割り当てられていて心底よかったと思う。
 さすがにカインも驚いているだろう。明日顔を合わせたらフォローを入れなければ、と冷静に思考を巡らす一方で、脳裏に浮かぶのはあの、この世の者とは思えない美しい姿。
 し、心臓が痛ぇ・・・。
思わずぎゅっと左胸を押さえて深呼吸する。けれど激しい動悸は一向に治まりそうにない。この動悸が泉からの全力疾走故だったら気が楽なのに、忍者として鍛えた自分の心臓がそんなにヤワではないことは自分自身がよく知っていた。
「あぁもう」
言いながらエッジはベッドにドサッと倒れこむ。
 明日起き上がれないほどの二日酔いでもいい。リディアに一通りどころか三通りほどの文句を言われてもいいから。脳裏に焼きついて離れない姿も煩過ぎる心臓も、なんだか火照っている気がする頬も何もかも酒の所為にして。
 全て忘れて眠ってしまいたい。
心の底からそう思った。