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宵待草




「おまえを愛している」
そう言った声が何度も何度もリフレインする。



 自分を鍛え直す為に登った山は、長年人を拒み続けてきた山だから人工の灯りなんてものは勿論なくて、夜の帳が降りてしまえば、余程月の明るい夜でもない限り自分で熾した焚き火を頼りにするしかない。
夜になればモンスターも凶暴化するし、それでも自分の相手になるほどのものではなかったが、暗い視界の中で無駄な危険を冒すこともないから必然的に時間を持て余すことになる。
 毎夜迎えるこの時間が嫌だ。
軍人として短時間の睡眠で最大限の回復を図れるよう訓練されてきたからか、日中これでもかと体を動かして体力は限界のはずなのに、中々眠りに就こうとしてくれない自分の体が恨めしい。
 何もしていないと、思い出してしまう。
 どんなに待っても来ない人のことを考えてしまう。
耳に残るのは「愛している」という囁き。
思い浮かぶのは慈しむように自分を見た眼差し。
 自分を抱き締めて、逃げられないように強く強く抱き締めて、「愛している」と、「私の傍を離れるな」と、そう言ったのは確かに彼だったのに。
彼もまた、洗脳されていたのだという。ならば、あの腕の強さも、熱の篭った声も、すべて気の迷いだったのかもしれない。
他ならぬ彼自身によって洗脳された自分は、洗脳が解けた今もなお、こうして彼を想ってしまうのに。
いやいっそ、ただの気の迷いだったと言われたほうが余程楽に気持ちを切り捨てられる。
こうして想ってしまうのは、期待を打ち消せないからだ。

『おまえには済まないことをした。だが私は本当に…。いや、私が言っていい言葉ではないな。済まない。忘れてくれ』

 最後に言われた言葉が耳の奥に響く。
あんな風に言われて、忘れられるはずなんてない。本当に愛されていたのではないかと期待してしまう自分を止められない。
 彼があの後すぐに踵を返して去ってしまったのだとしても。
 彼が留まると決めたあの場所が、今はもう存在を確認することも叶わぬ程遠く離れてしまったのだとしても。
もう一度だけでもいい。逢いたい。逢って最後に何を言おうとしたのか聞きたい。
 彼は来ない、来るはずがないと頭は解っているのに、心が追いつかない。
そうして、夜毎一人の時間を持て余し、来るはずのない人を待ち続けるやるせなさに押し潰されそうになるのだ。それに必死に抗って、疲れ果てて眠る。その繰り返し。


 焼べた小枝をすべて燃やし尽くして火が消えた。辺りには真っ暗な闇が広がるだけ。



 ほら、今夜は月も出ない。