初めて見た時はよく出来た人形なのだと思った。
屋敷の隅の部屋にぽつんと腰掛けたそれは、朱赤の綺麗な衣装を着けた人形なのだと。
額に走る大きな傷痕に、傷物だから表に飾っておかないのだと勝手に思い込んだ。
それが人形なのではなく自分と同じ生きた人であると知ったのは、二度目に見た時。
もっと近くでよく見たくて、こっそり忍び入ったその部屋で、間近に見たそれは確かに呼吸をしていた。しかも綺麗な少女人形かと思っていたら、それは男だったと知って驚いた。
けれど色々話しかけても、彼は何も答えてくれなかった。
それから毎日、彼に会いに来ている。
「オレはさ、ここよりずーっと西の方で生まれたんだ。ここからだとすっげぇ遠いとこ」
答えてくれない彼に、たくさんの話を聞かせる。
「髪の色とかこっちじゃ珍しいだろ?オレの生まれたとこだとしっぽも別に珍しいって程じゃないんだ。…で、道端で飢えかけてたのを拾われて、絹の道を遥々東まで運ばれて売っ払われたんだ」
こちらでは滅多に見ない髪と瞳の色やしっぽの珍しさに、面白いと劇団の座長に買われて以来、一座の看板役者としてあちこちを回っているのだ。人身売買の商品なんて、悲惨な運命を辿ることの方が多いのに、自分は随分幸運だった。座長も劇団の仲間も、皆家族のように暖かい。
「ここじゃシャオイェンて呼ばれてるけど、ホントの名前はジタン。ジ・タ・ン。解る?」
今はもう誰にも呼ばれなくなった名前を告げてみる。今の境遇に不満があるわけではないけれど、異邦人故の寂寥は、常にジタンの中にあった。
「なぁ、ユゥファン」
いつもただじっとジタンの話を聞いているだけの彼の名は、屋敷の小間使いが教えてくれた。
「あのさ、あの…」
ジタンは口篭る。
「オレ…もうすぐ次の土地に行かなきゃならないんだ」
この一ヶ月程の間、この屋敷の主に気に入られて滞在し興行してきたが、そろそろ次の土地へと赴かねばならない。
「だからその…。ユゥファンに笑って欲しい…て、いや、なんでもない!ゴメン!」
ジタンは慌てて立ち上がると、脱兎の如くその場から駆け出した。
その後姿を、彼が少しだけ緩めた視線で追っていたことなど気づかずに。
彼の名を教えてくれた小間使いは、他にも彼のことをいくつか教えてくれた。
この屋敷の主が、かつて旅した西の土地で出逢った娘との間に生まれたのが彼であること。だから彼の髪の色はこの土地ではそんなに目立たないけれど、瞳の色はジタンと同じようにこちらでは珍しい蒼色なのだ。
主は娘が身篭ったのを知らず彼女を迎えに来ると約束して旅立ってしまったこと。
娘は産後の肥立ちが悪く、彼を産んでまもなく死んでしまったこと。
主が娘を迎えに行った時には、既に彼女はなくなり、産まれた子もどこかに引き取られ行方が分からなくなっていたこと。
主が長年必死に探し、漸く彼を見つけ出して引き取ったこと。けれどその時には既に彼は殆ど話さないし笑いもしなくなっていたこと。
「笑って欲しい、なんて恥ずかしいよなぁ」
女の子に言うのならともかく、とジタンは頭を抱える。それでも気になって仕方ないのだ。もしかしたら、彼にも西の方の血が流れていると知ったから余計なのかもしれない。果てしなく長い絹の道をずっとずっと太陽の沈む方向へと向かっていった先にある、遥か遥か遠い故郷の地。ジタン、と口々に自分の名を呼ぶ友達。あんまり昔のことで、もう朧げにしか思い出せない懐かしい場所。西の土地で生まれ、長い間消息不明だったという彼ならば、自分のことをシャオイェンではなくジタンと呼ぶことが出来るのではないかと、期待しているのかもしれない。
「それだけじゃ、ないけどさ」
庭の砂利を爪先で蹴れば、カラカラと音を立てて小石が転がっていく。
初めて見た時には人形だと勘違いしたほど綺麗な顔の彼。けれどそれは人形だと勘違いするほど表情に乏しいことを意味する。部屋でぽつんと腰掛けていた姿がとても寂しそうだと思った。何を話し掛けても答えてくれない彼に、「冷たいヤツ」だと腹を立てたこともあったけれど、それでもやっぱり寂しそうな姿が放っておけなかった。数日して、何も答えてくれない彼が実はそれでも話し掛けるジタンから視線を外さずにいてくれることに気づいたら、腹が立ったことなんて綺麗さっぱり忘れてしまった。ただ、彼に笑ってほしい。
だって、皆ユゥファンのこと大事にしてるんだ。
ジタンは知っている。この屋敷の人たちは彼の父たる屋敷の主から始まって使用人に至るまで皆、彼のことを大切にしている。どうすれば彼が心を開いてくれるのかと真剣に考えている。実際、毎日彼に話し掛け続けるジタンに「お願い」「頑張って」「頼む」と声を掛けてくれた使用人も多かった。彼らの願いは唯一つ、感情を忘れてしまったかのような彼の笑顔が見たい、それだけだ。
オレも、見たい。
それで世界の何が変わるというわけではないけれど、きっと自分と、彼を取り巻く人たちと、そして彼自身から見える世界は変わると思うから。
そうして、彼が今まで見てきた話も聴かせて貰えたらいいのに。
「お、シャオイェン、ここにいたのか」
庭で小石を蹴るジタンの姿を見つけて、劇団の仲間が廊下から声を掛けてきた。
「なんだぁ?…あれ、それ芝居道具だろ。どこ運んでんの?」
仲間が抱えた大きな荷物を不審に思ってそう言った。
「あー、なんか急に明後日出発することになったんだよ。お前も手伝ってくれ」
「明後日!?」
「次のとこの依頼主がさ、日程を三日程早めてくれないかって言ってきたとかなんとか…」
この土地での興行自体は終わっていて、屋敷の主の好意で次の土地での興行までの時間を過ごさせて貰っていただけだから、劇団としては日程が早まることは問題ない。問題があるのは、ジタンの心の内だけで。
「小道具とか衣装は明日荷馬車に積み込むからさ、荷造り、シャオイェンも手伝ってきてくれ」
「あ、ああ、解った…」
返事をしながら思う。移動する日は朝早くに出立するから、彼に会えるのは明日が最後。
彼は、笑ってくれるだろうか。
翌日、ジタンの姿を認めると、彼はほんの僅かに首を傾げた。
ジタンが、彼が身に着けているもの程豪華ではないが、普段のジタンが着ている服よりも数段煌びやかな青い衣装を身に纏っていたからだ。
「結構似合うだろ?劇の衣装なんだ」
座長に頼んで仕舞うのを待ってもらったのだ。ジタンが笑顔を見せない屋敷の主の息子の許へ毎日通っていることを承知している気のいい座長は二つ返事で許可してくれた。
「考えてみたらさ、オレ、ずっとユゥファンのとこ来てたのに、本業、見て貰ってなかったなあって」
だから見て貰おうと思ってさ、とジタンはクルッと一回転してみせる。
「ま、一人だし、道具もないし、音楽もないし、衣装もこれから見せるヤツのじゃないし、だからホントのとは違うけどさ」
でも、真剣にやるから。
そう言って一度俯き、顔を上げたジタンの表情に、彼の眼が微かに瞠られた。そこにいるのは、一人の演者。
背景も、小道具も、効果音も、音楽も何もない部屋の真ん中で、ジタンが右から左へとつつ、と駆ける。その仕草だけで、ああこれは若い娘なのだ、と思わせるジタンの力はさすが劇団の人気役者、と言うべきものだった。
「匆匆地私自離庵門」
若い娘に成り切ったジタンは高い声を作って言う。「私はこっそり尼僧院を抜け出した」と。
彼の視線がじっと自分の一挙手一投足を追うのを感じる。そうだ、そうやって見ていて欲しい。今までで最高の演技を見せるから。
「到江辺覓船隻渡到臨安去把潘郎逐追尋」
まるで舞台に立っているかのように、演じることに没頭していきながら、ジタンは若い尼僧の恋心を表現した。
「来此已是秋江河下」
秋江、という名のこの作品は、若い尼僧と年老いた船頭のユーモラスな掛け合いの物語だ。恋しい男を追いかけてきた尼僧と、彼女を乗せる飄々とした船頭の遣り取りだけで話が進む比較的短い作品で、一人芝居で彼に見せるには丁度いいだろうと選んだものだった。
「喂、艄翁!」
やがてジタンはくるりと体の向きを変え、腰を軽く曲げてゆったり動く。見る者の眼に、ジタンの姿は若い娘から老齢の男へと変わった。ゆらゆらと揺れるような動きは、老人が船を漕いでいるからだ。
「哪裏在喊我啦?」
しわがれた声で大きくのんびりと問い掛ける。そこでジタンは再びくるりと体の向きを変え、まるで飛び跳ねるように体を上下に揺らして娘の逸る気持ちを表現した。高い声で船頭へと呼び掛ける。
「快快打舟来呀!」
ここでまた船頭となって呼び掛けに答える為向きを変えたところで、ジタンの動きが止まった。
あ…。
次に言うべき科白も忘れ、ただ呆然と目の前に映る光景に見入ってしまう。そのジタンの様子に、彼も首を傾げている。
「?続きは…?」
初めて聞く声。そして、初めて見る、笑顔。
切れ長の眼を緩ませ、形のいい口許は軽く綻び、彼は確かに笑っていた。
「あ、ああ、えっと」
慌ててジタンは演技に戻る。演じながら、けれど心臓が早鐘のように煩くて自分で口にしている科白も耳に入ってこない。
凄く、綺麗に笑うんだなぁ…。
人形のように整った顔立ちの彼だから、勿論微笑めばさぞや綺麗だろうとは思っていたけれど、実際に初めて見たその笑顔は想像していたものより遥かに綺麗で、うっかりするとぼうっといつまでも眺めてしまいそうだった。最後まで演じ切れた自分を褒めてやりたいくらいだ。
演じ終えたジタンに待っていたのは、たった一人の観客の、静かな拍手。
「面白かった。凄いんだな…ジタンは」
その時の気持ちを、なんと表現したらいいのだろう。
懐かしい、もう長く呼ばれることのなかった本当の名前。彼ならば呼べるかもしれない、と淡い期待を抱いていたそれを、彼は当たり前のように呼んでくれた。初めて聴く、落ち着いた声で。
「ちゃんと…オレの話、聴いててくれたんだ」
「…ああ」
「ずっと、応えてくれないなんて、ひでぇよ」
「…すまない」
泣き声混じりなのは仕方ない、とジタンは鼻を啜りながら軽く彼を睨む。彼は困ったように視線を逸らした。
「でも、いいや。やっと話してくれたし。ユゥファンが笑ってくれたらそれでいいや」
そして懐かしい名を呼んでくれた、それだけで全てが報われたと思える。
「ユゥファン、じゃない」
「え?」
ジタンが戸惑えば、彼はまた微かに頬を緩めてあの綺麗な笑顔を見せてくれた。
「スコール、が俺の本当の名だ。オマエと同じように、西ではそう呼ばれていた」
「スコール…」
口に出して呟いてみる。何度も何度も。
「あまり…連呼しないでくれ」
「え?あ、ゴメン!」
恥ずかしそうに俯く彼に、ついつい自分が呪文のように彼の名を連呼していたことに気づいて慌てて謝った。
スコール。
それでも心の中で何度も繰り返す。
「なあ、スコール」
身を乗り出し、ぎゅっとスコールの手を握った。初めて握ったその手は、ジタンよりも大きい。
「オレ…明日、次のとこ行くけど、でもまた絶対来るから。半年後か、一年後か判らないけど、絶対来るから、その時はオレにもスコールの話聴かせてくれよ」
生まれた土地のこと、育った土地のこと、周りにいた人たちのこと、見てきたこと、聞いてきたこと、思ったこと。
スコールのことを、たくさん教えて欲しい。
「…解った」
少し冷たい彼の手が、ジタンの手を握り返してくれた。
「約束な!」
ぎゅっと握った手をぶんぶんと振る。
次に会うときには、たくさんの話を聴こう。もっとたくさんの話をしよう。もっとたくさん笑って、もっとたくさん彼の笑顔を見よう。
そして。
そしていつか、一緒にあの絹の道を西へと歩こう。遥か遥か遠い故郷の地を、彼と一緒に見に行こう。